第百五十一話 ケントの真実
ケントによる拳圧を利用した攻めは続いていた。
「くっ、この、いい加減に――」
衝撃は的確に彼女の身体を捉え、攻撃に転じさせる間も与えない。
だが、ここで、キッ、と吸血鬼はケントを睨めつけ、翼の片側を折りたたむようにして閉じ前面をガード、ケントの拳圧はこれによりブロックされ。
「しなさい!」
再び翼を広げ弾けたように飛び、そのまま滑降、ケントの脇から数メートルほど離れた先にある巨木に高速で突っ込み、かと思えば幹を蹴りつけ翼を広げ、横からケントへと迫る。
「死になさい! 飛翼疾風刃!」
刃化した翼に飛行の勢いを乗せ、必殺の一撃がケントに迫った。真横からの高速飛行による攻撃。
ケントには反応できない――そう思ったのであろうが、ふと吸血鬼の視界から彼が消えた。
「え?」
間の抜けた声で目をパチクリさせる。だが、背中に感じた気配がその危機感を煽った。
「まさか上!」
「……正解だ」
飛行しながら見上げる吸血鬼。ケントは彼女の真上にいた。翼による攻撃を読み、タイミングを合わせて地面を蹴り空中に逃れていたのである。
見上げた女の顔は、これまでの見下したようなものではなく、これから降りかかる恐怖に引きつったものと変わり果てていた。
既に勢いがついてしまったこの状況では、振り下ろされる拳を躱す術がない。
恐怖に歪んだその顔に、今ケントの拳が迫る。刹那の轟音、飛び交う土塊と石塊、地面が拉げ、ドスン! とまるで巨大な鉄球が地面に落下したかのような衝撃音と、広がるクレーター。
その余波で、森がざわめく。圧倒的な破壊力。
だがしかし――吸血鬼は潰れるのではなく横に飛んでいき、しかも意識があるのかすぐさま体勢を立て直し、着地。
そのまま勢いに任せて後ろに流され、車輪で引きずったような跡だけが残された。
「はぁ、はぁ……」
顎を拭い、肩で息をする吸血鬼の女。灼熱のような長い髪はすっかり乱れ、おでこには水分を含んだ髪がぺったりと張り付いている。
冷たい汗による影響だ。直前まで感じていたであろう恐怖心、さらに拳によって目の前に広がった痕跡。それが殊更怖気を誘っているのかもしれない。
ここまでの戦いを見守っていた、カコ、チユ、リョウもすっかり言葉をなくしてしまっている。
だが、バーバラの表情には、ケントへの疑念がにじみ出ている。
「――ケント、あんたまさか……」
バーバラは何かをいいかけたが、攻撃後、片膝をついた状態で動きを止めていたケントが立ち上がり。
「……今のは外したが、次は当てる。怪我を負いたくないなら、とっととこの場を立ち去るんだな」
吸血鬼へ身体を向け、そう忠告した。
それを見ていたバーバラが、やっぱり……と一つ呟き――
「外した、ですって?」
それを聞いていた女吸血鬼は、目を丸くさせ疑問の言葉を吐き出す。
真剣な顔で女を見ているケントだが――相手が、あ、と声を上げ、ニマァ~と不敵な笑みを浮かべた。
「なるほど、良くわかったわ」
そして、事もあろうに吸血鬼の女は無警戒にスタスタとケントへと近づいていった。
それを見ていた三人が驚く。バーバラ以外の三人だ。だが、バーバラの表情は曇っていた。
「……どういうつもりだ?」
構えを取ったまま、すぐ目の前まで迫った女に問う。腕を伸ばせば余裕で拳が届く距離に女は立ち尽くしていた。
「見ての通りよ。そこまでいうなら貴方の拳とやらを、受けてあげようと思って」
吊り上がり気味の目尻を下げ、どこか挑発するように、誘うように、女は言った。
今感じられるのは明確な殺意ではない、媚びたような牝の顔からも、それは明らかだった。
「ちょ! 流石にケントくんを舐め過ぎだよ!」
リョウが唸るように言った。あれだけの威力を誇るパンチを見ていながら、何故そこまで自信が持てるのかと怪訝な様子。
「いや、このままじゃまずい! カコ! あたしに付与魔法をかけてくれ!」
「え? え?」
「早く!」
バーバラが急かし、カコが詠唱を開始した。苛立つバーバラの視界には二人のやり取りが映り続けており。
「ほら、いつでもいいわよ。顔でもこの大きな胸でも、なんならアソコでも、好きなところを殴るといいわ」
口元に腕を持っていき、ペロリと指先を舐め、もう片方の腕では胸を押し上げ谷間を強調し、女は言う。至極扇情的な挑発。
まさに吸血鬼といった異形の魅力。つまり、それだけ真剣味が感じられないとも言えるだろう。
リョウの言うように、あまりに舐めた態度であるが――
「……うぐぅ」
しかし、肝心のケントは短い唸り声を上げただけで、パンチを繰り出す様子が見えない。
あまりにミエミエの挑発に、警戒しているのだろうか? とリョウあたりは思ったであろうが、そうでないことは吸血鬼とバーバラだけが承知していた。
「はは、アハハハハッ! まさかと思ったけどやっぱりねぇ。貴方、さては、女を殴れないわね?」
見破ったと言わんばかりに笑い飛ばす吸血鬼。
一旦は恐怖に支配されていた瞳は、相手を見下すような強気なものへと戻っていた。
「……クッ」
ケントは短く唸る。だが、それだけだ。拳を放つ様子は見えず、女の言っていることが正しいことを暗に認めてしまっていた。
「そっちがこないなら――今度は私のターンよ! 一方的なね!」
吸血鬼の爪が、左右から交互にケントの腕を抉った。
ガードをしているとは言え、鋭利な爪をまともにうけては当然傷もつく。
「あ~っはっは! 楽しいねぇ!」
上下左右と高速で振るわれる斬撃に、ケントは手も足も出ない。出来ることと言えばガードを固めるぐらいだ。
「全く、情けないったらないね! 今時女を殴れないなんて、こんな男がいるなんて逆に貴重よ! でも、そのおかげで折角のパンチも宝の持ち腐れさ! 本当愚か者だわ! 女を殴らないことが、美徳だとでも思っているのかい?」
馬鹿にし、嘲笑い、侮蔑する。だが、そこまでされてもケントは手を出すことがなかった。
いや、出せなかった。そう、この女吸血鬼の言うとおり、ケントは女に手を出すことが出来ない。
だが、それは例えばフェミニストを気取っているなど、そういった理由からではなく、彼の過去に起因していた。
ケントがシノブにだけはチラリと話していたこと。それは父親は酒浸りで、そしてある日突然好きな女が出来たと出ていったという話。
だが、これにはまだ話していない事実もある。それは、ケントの父親は、酒だけではなく女にも、そう彼の母親にも平気で暴力を振るう屑であったという事。
ケントがまだ小学生だった頃に出ていった父親ではあるが、それでもその記憶は今でも彼の心に根を張り残り続けている。
酒がないと判れば怒鳴り殴り、食事が少しでも気に入らなければ殴り、浮気したことに少しでも触れれば殴っていた。
その度にケントは母親を虐めるなと、暴力をやめろと立ち向かったりもしたが無駄であった。父は容赦なくケントを殴り、何度も骨を折られたものだ。内臓だって破裂したことがある。
だが、それもある日を境に終わりをつげた。碌でもない父親がいつも通り母を罵り、殴りかかろうとした時、ケントが庇うように前に立ち、反撃した。
思えばあの時見せた構えは、ボクシングの試合をテレビで目にし、見よう見まねで覚えたものであった。
もしかしたらその時からケントの夢は自然と決まっていたのかもしれないが、その時に見せた一発のパンチ、それを見たときだけ父親の表情が変わっていた。
「――やはり……の血を……だけあるか」
記憶は曖昧だが、直後碌でもない父親はケントに向けて何かを呟き、かと思えばそこから先の記憶は飛んでいた。
気がついた時、ケントは病院にいた。どうやら父親に殴られ完全に意識を失い、病院に搬送されたらしかった。
目覚めてすぐ抱きついてきた母親を覚えている。顔が真っ赤に腫れ上がったその顔も――
その直後だった、母から女を作ったと書き置きし、父親が出ていった事を知らされたのは。
尤も二人共気絶し、状況があまりに酷かった為、警察さえもやってくる騒ぎとなり――事情を知った警察によって父親は捜索されたわけだが、それから完全に消息を断ってしまっている。
どちらにせよ、ケントに残ったのは、母親が父親に暴力を振るわれ続けたという現実、そして助けられなかった自分の弱さ。
ケントがボクシングを始めたのも、その時の記憶が残っていたからなのかもしれない。
そして同時に、もう一つケントの中で生まれたのは、女を殴る男は最低だという感情。
故に、ケントは女に手は出さない。いや、出せない。今の吸血鬼戦にしても、割り切ろうと拳を握りしめたケントだが、どうしても最低な父親に殴られていた母が想起され、結局ダメージにならない程度の拳圧で押し戻す程度の事しかできなかった。
そしてだからこそ今も――
「アハハハハッ! これはいいわ~本当、とんだ木偶の坊だねぇ!」
吸血鬼の攻撃を、受け続けている――




