3. エースをねらえよ!
体育館には、既に万全のコンディションのお蛾夫人が待ち構えていた。
コートの外からは、大勢いるギャラリーの視線が注がれている。
「お待たせしてすみません」
「構わなくてよ」
私はコートに立って、お蛾夫人を見つめた。
太もも、ただその一点だけを、ひたすらに。
「お蛾夫人、始めましょう」
「ウォーミングアップはなさらないの?」
「さっき十分にしました」
あれだけ体を動かしたのだから、必要もないだろう。
「行きますわよ」
彼女の双眸から、むき出しにされた熱い闘志が見て取れた。ならば私も、その本気に応えなければならない。
お蛾夫人は、シャトルを宙に放ち、ラケットを思い切り振った。
「ハアッ!!」
お蛾夫人の放ったシャトルを、目が追う。
右。右に打ち込まれる。
体でシャトルを受け止めるべく、私は右側に走り込む。
だが、その瞬間、シャトルは目を疑うような動きを見せた──!
ビュオンッ。
風を切る音とともに、シャトルは急速に軌道を変えた。
そして、右側に打ち込まれる筈だったそれは、空中で曲がり、地面に落ちたのだった。
「馬鹿な……っ!」
物理的法則を無視した、あの動き。
一体あれは──!?
「ふふ、思い知ったようね! お蛾夫人のやたらと曲がるサーブの力を!」
ギャラリーの最前列に立つ、NASA副会長の西園寺が高らかに笑う。
あれが、やたらと曲がるサーブ……!
「このくらいで驚いているようではまだまだね、加亜天さん……いえ、布子! さあ! 行きますわよ!」
お蛾夫人は、私の名を叫び、再びラケットを構えた。
「ハアッ!!」
シャトルは左に……いや、右かもしれない。
私はシャトルの軌道とは反対の右側に駆けた。
しかし、お蛾夫人の放ったシャトルは、またもや驚くべき光景を繰り広げた──!
シュオンッ。
先程まで確かにあったシャトルは、音を立てて姿をくらませた。
「消えた……!?」
愕然とする私に、お蛾夫人は不敵に微笑んだ。
「いいえ──あなたの背後よ」
その言葉に、慌てて後ろを振り返った。
足元には、消えた筈のシャトル。
「これは、どういうこと……!?」
うろたえる私を見て、西園寺は再び高笑いした。
「おほほほ! これがお蛾夫人の、曲がる上に速いサーブよ! 軌道を変える上、速さのあまり消えたと錯覚するのですわ! おほほほ!」
やたらと曲がるサーブの上位技……それが曲がる上に速いサーブ……!
なんてことなの!
「その程度のバドミントン力で、蒼井様に近付こうだなんて浅ましくてよ!」
西園寺は私にきつい言葉を浴びせた。
悔しい。そしてそれ以上に……恐ろしさを覚えた。
「ハアッ!!」
お蛾夫人がサーブを打つ。
だが私は恐怖に呑まれ、縛られたように動けなかった。
「布子! 何をやっているの!」
お蛾夫人の叱咤の声を聞きながら、私は怯えていた。
このままでは負けてしまう。負けることが……怖い。
自分がこんなにも臆病者だったことを、今初めて知った。
「負けを恐れるのはおやめなさい。 それよりも力を出さないまま終ることを恐れるべきよ!」
どこかで聞いたような台詞。
私は著作権の存在を思い出し、またも恐怖に震えた。
ああ、恐ろしい……!
そんなときだった。
私の前に、一筋の光が差し込んだのは──。
「──やれやれ。見ていられないな」
そう言うとともにコートに入り込んできたのは、まさかのあの人であった。
「宝塚! ……先輩!」
私がその名を呼ぶと、彼は眩しそうな顔をした。
え? ウインク?
「さずかに加亜天さん一人では勝つのは至難の業だ。助っ人として僕も入ろう」
「召喚する、ということね?」
お蛾夫人の言葉に、宝塚先輩は頷いた。
どういうこと……?
私の表情に気付いた彼は、簡単な説明をする。
「プレイヤーの力量に差が開きすぎた場合、助っ人を『召喚する』ことができるのさ。君は僕を召喚する、そうしなければ勝てない」
お蛾夫人に勝つには、それしかない。
私は宝塚先輩の召喚を決めた。
「召喚のときにはこの台詞を言うんだ。言ってくれるね?」
「はい……わかりました」
私は、息を整えて、教えられた台詞を口にした。
「……私のターン、手札より宝塚翼を召喚!」
宝塚先輩が私の隣に立つ。そのことで、今までにない力強さを感じる自分がいた。
予想外の展開にギャラリーもざわつく。
「宝塚様がお蛾夫人と対決するなんて……!」
「この試合、一体どうなるの!?」
周囲の騒ぎをものともせず、お蛾夫人は宝塚先輩を睨むように見つめていた。
「まさか、かつて『副キャプテン翼』と呼ばれたあなたが、こんな形で戦場に再び立つなんて、考えもしなかったわ」
「僕もだよ」
二人はにやりと口角を上げてみせた。
「召喚のルールは簡単だ。助っ人プレイヤーである僕が、ラリーでサーブが決まるのを阻止する。僕がひたすら返すから、君は、いけると思ったら、そのカーテンでシャトルを受け止めるんだ」
「はい……!」
私はこの闘いに勝ってみせる。絶対に!
「ハアッ!!」
お蛾夫人がサーブを打つ。
そのとき、隣に立つ宝塚先輩の異変に気が付いた。
「あの決めポーズは……っ」
「まさか」
「見える……彼の後ろに、大階段が見えるッ!」
「間違いない。あれは伝説の──」
彼の周りを渦巻く風。
打たれたシャトルは、その風に巻き込まれ、宝塚先輩の元に舞い降りる。
「──宝塚ゾーン!!」
驚きと感動が、ギャラリーを駆け巡る。
「宝塚ゾーン……決めポーズにより、フィールド内に入ったシャトルを何やかんやで引き寄せる技……! 再びこの目で見れるなんて!」
西園寺は興奮しきった様子ながら、わかりやすく冷静に解説してくれる。
私たちが瞬いている間に、宝塚先輩は見事にサーブを決めた。
……ラリーじゃないの?
そんな疑問を抱いた私だったが、お蛾夫人も観衆も、特に気に留めていないようだった。
もう、ルールなど無きに等しい。これが……バドミントン!
「ブランクがあるのにも関わらず、その精度の高さ、さすがね」
お蛾夫人も舌を巻いた。
副キャプテン翼と呼ばれただけある。
「でも……あたくしには勝てなくてよ」
そして彼女は5球目を放った。
先輩は宝塚ゾーンで返すが、お蛾夫人はそれを上回る。
なんと、お蛾夫人が、5人、10人と増え、コートを埋め尽くしたのだ──!
「お蛾夫人の姿が、増えた……!?」
混乱の声が聞こえる。
「あれは……かつて存在した忍術・分身の術を、バドミントン用に進化させた、羽根分身の術! こんな間近で見れる日が来るなんて!」
西園寺や観衆だけではない。
プレイヤーとしてその技を目の当たりにした私達も、驚かずにはいられなかった。
お蛾夫人のサーブが決まった。
お蛾夫人。なんて強さなの。
あまりの凄まじさに、感嘆の吐息が漏れてしまうほど。
「さすが、バドミントンの女王だね」
宝塚先輩も彼女の実力を称えた。
人は、圧倒的な強さに出くわしたとき、己の内にある畏怖の感情と純粋な闘争心がせめぎ合う。
私達は、今まさにそれだった。
「彼女はまだ全力を出し切っていない。──ここからが本番だ」
残されたチャンスは、あと5回。
本当の戦いが、始まろうとしていた。