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目が覚めると、体がだるく、おなじみの背中や腰の痛みに眉をしかめた。
隣に寝ているとばかり思っていた彼は見当たらず、とりあえず、服を身につける。窓の外は、もう暗くなり始めていた。
リビングに出て、いい匂いが鼻をくすぐる。
ぺたぺたと裸足でフローリングの上を歩く。
「起きたか? お湯、張ったから。入ってこいよ」
カウンターの向こうで、小鍋に豆腐を入れていた彼が、背を向けたままそう口を開いた。
「・・・ごめん、疲れてるのに」
自分が作りかけていた夕飯の続きを、寝ている間に彼が引き継いでいたらしい。近付くと、もう後は揚げるだけのコロッケが皿に乗っているのが見えた。
「・・・良く分かったね、コロッケ作るつもりだって」
「まぁな。俺の好きなものだしな」
手を止めた彼が振り向いて、唇に軽くキスを落とす。
「疲れた?」
「んー。体、痛い」
「久しぶりだったからな。出張行ってる間になってくれりゃ、いいものを」
「こればっかりは、どうしようもないです」
「お前、明日も休みだろ?」
「そうだけど・・・」
にやりと笑う彼から、思わず後ずさる。
「まだ止める気ないから。二週間分の俺の苦しみを味わうがいい」
「何でそんな元気なの!? もう歳じゃん、腰にくるでしょ」
「甘いな。お前、俺が何の為にジムに行ってると思ってんの」
「やー、最低! 変態」
「はいはい。変態で結構。いいから、温まってこい。筋、伸ばせよ」
爽やかな顔で答えて、彼は背を押す。
「もう。あーあ、蒼羽さんは絶対そういう事言わないと思う」
悔し紛れに、蒼羽の名前を出した。それに亮祐は首をひねる。
「いや、それはないな。絶対似たようなもんだって、男なら。お前、後で緋天ちゃんに聞いてみろ。さっきの話からしたら、そいつ絶対緋天ちゃんのこと、どっかに連れ込んでるだろ」
「えぇ? そうかなぁ・・・」
王様な感じはしたけれど、そういう事が彼に関しては、想像できない。
「そうだって。どんなにかっこよくても男は男」
「んー・・・」
「ほら、早くしないと先に食べるぞ。それとも一緒に入って欲しいとか」
「や、遠慮する」
食べるぞ、が。どちらに対して言ったものなのか。
バスルームに向かいながら、怖くて聞けやしない、とひとり呟いて。
次に緋天に会ったら問い詰めてみよう、とそう思った。
「お腹いっぱいだ、食べ過ぎた。動けない」
リビングのソファに座る京子が苦しそうにうめく。
「お前なぁ・・・俺のせいか?」
「そうだよ。なんか悔しいよね、自分より彼氏の方が料理上手いって」
「普通だろ。独り暮らし歴、五年だぞ。上手くもなるって」
眉をひそめる彼女の髪を撫でる。遠慮なく、こちらにもたれてくる所をみると、どうやら京子も少しは寂しく思っていてくれたらしい。
「あ、そうだ。これ見て。写真」
ローテーブルの上に置かれていたデジカメを手に取って、彼女が満面笑顔でそれを手渡してくる。
バックが夜の闇で。
ディスプレイの真ん中に写るのは、淡い光に照らされた髪の長い少女。白い肌に、つややかな黒髪。ほんの少し微笑んでいるような、はにかんでいるような。
「えっ!? これ、緋天ちゃん?」
「そうだよ。どう? 可愛いでしょ?」
記憶に残る、ショートカットの彼女とは、髪型が違うせいなのだろうか、雰囲気がまるで違っているように見えた。顔のパーツは良く見れば同じなのだ。大人しそうな所も、変わっていない。ふんわりしていて、けれども男の何かをくすぐる。京子の言う、人間の庇護精神をかきたてられる、と言うのが一番ぴったりくるだろう。
「・・・びっくりした。女の子って髪型ひとつでほんとに変わるよな」
「それでー、これが蒼羽さん」
京子が横から差し出した携帯を覗くと、これまた闇に浮かぶ、男の顔。どこのモデルだと思うほど、均整のとれた顔と近寄りがたい空気をまとう。
「これは・・・すごいな」
すごいという言葉しか浮かんでこなくて。同じ男なのに、思わずまじまじと見てしまう程の美青年ぶりだった。
「ふふ。この顔で緋天に甘々なんだよ、蒼羽さん」
得意げな顔で京子はそう言う。本当に彼女の事に関すると、京子はいつも夢中になる。少しはその情熱を別の事に向けてくれればいいのに。
もう一度、その髪を撫でて顔を覗く。
「何だかんだ言って三年、いや、もう四年か。すごいな、最高記録だ」
「そうだねー・・・こんな続くと思わなかった」
くすりと笑って肩をすくめる京子が、言おうとする事を先回りした。これだけ長く付き合ったのは彼女が初めてだ。
「あのさ、緋天が昨日ね」
「また緋天ちゃんかよ」
「いいから。蒼羽さんが、いつも優しいんだって。それでね、その優しさを当たり前だと思って、いつの間にかそれを待ってるだけなのが怖い、って言ってた。もし自分が当然のように蒼羽さんに何かやらせてて、ある日蒼羽さんがそれに嫌気がさすのが怖いって」
「ああ・・・。何かそういう所があれなんだよな、緋天ちゃんが緋天ちゃんたる所以っていうか。お前があの子を好きな理由。だろ?」
どんなに濃い色の中にいても、染まりきる事がない。
「そうそう。で、聞いてた私達は、うんそうだね、って確かに思ったんだけど。今イチその状況が分かんなくて。例えば何、って聞いたの」
嬉しそうに頷いて、京子は言葉を続ける。
「そしたら。帰り、車で送ってくれたりとか、荷物を持ってくれる、とか、靴を履かせてくれるとか。そういう事なんだよ」
「・・・おい、そりゃ、その彼氏が好きでやってる事だろ」
「うん。だってさ、緋天を迎えにきた蒼羽さんが。植え込みの所に座ってた緋天をね、こう、引っ張り上げたの。腰に手、回して優しくね。その顔とか仕草見てたら、ああこれは緋天の事可愛くてたまらないんだな、って思ったよ」
「それを緋天ちゃんは慣れたらダメだと思ってる訳か」
「うん、だけどあれを見たら。それはないと思った。蒼羽さんが緋天に嫌気がさすとは思えない。むしろもっと甘くなるだけな気がするよ」
「・・・まあ、相手が緋天ちゃんじゃそうなるかもな」
「でしょ。でもちょっとドキっとしたのも事実なんだよね、私は。さっき起きた時に亮祐さんがご飯作ってたじゃん。あの時、ああこれか、って。これに慣れて調子に乗ったらダメだと思った。ちょっと背中が怖かったもん。疲れてるのに俺がやるのかよ、みたいな」
たまらず唇を塞ぐ。
秋が来たら、四年だ。
四年も京子を繋ぎとめている事ができたのは、一体何の奇跡だろう。
「あのな。だいたいお前をそうさせたのは俺だろ。それで後の為に寝かせておいたのも俺なの。料理するのは好きだし、別になんてことないんだよ。全部、俺の為。分かった?」
「うん。分かってるけど。・・・でも調子乗ってたら言ってよ」
頷いて、顔をしかめる京子にもう一度軽く口付ける。
「はいはい。分かったなら、俺の為にベッドに行って下さい」
立ち上がって彼女を抱き上げリビングを横切る。視界に放ったままにしておいたトランクが目に入った。その中身を思い出す。
「そういや、東京駅で土産買ってきた。明日食おうな」
彼女が中身は何かと目で問い返す。
「京子の好きなもの」
「え、何?」
嬉しそうに目を輝かせる彼女を見て、笑いがこぼれた。
「鳩サブレ」
言った途端にふき出してしまう。
京子も声を上げて笑い、それにつられてこちらも笑い、お互いが相手につられ、笑い続けるという悪循環。ベッドの上で馬鹿みたいに笑いころげながら、この奇跡がいつまでも続けばいい、とそう願った。




