16
「ねぇ・・・京ちゃん」
文化祭前日。外は気持ちのいい秋晴れ。
今日は一日、授業が休みで。生徒、教師共に文化祭の準備に駆け回る。
「京ちゃん、ってば」
一心不乱にスプーンでひとすくいずつ、クッキーのタネを鉄板に落としていたら。隣で同じ作業をしていた緋天が、何とも言えない顔でこちらを見ていた。
「・・・あの、ね?」
「うん?」
「言いたくないならいいよ? でも、いつでもいいから言ってね?」
「・・・・・・うん。ごめん」
何も言ってない。
一昨日、佐山を好きだと気付いた事も、勢い任せにそれを口にしてあっさり振られた事も。一言も口に出していないのに、緋天はこの、体の内側を這い回る暗い負のオーラに、いつのまにか気付いていた。
「京ちゃんは謝ることないんだよ」
いつだか自分が口にしたその言葉が、緋天の口から飛び出した。そっと隣を伺うと、泣き出したいのをこらえるような表情。
「やだ、緋天がそんな顔しないでよ。・・・そうだな、明日を無事に乗り切ったら私の役目は終わりだから。そしたら、付き合ってよ。ね?」
「うん・・・。分かった。無理、しないでね」
「・・・平気」
それで言葉を切って、手を動かす。甘い香りが充満する調理室の中で、部の売り物となるお菓子を大量に作るのは、今年で二回目だ。去年は確か、一年上の先輩二人と、緋天と。ずっと話をしながら、笑いの絶えない中で同じ作業をしていた。今年は静かにそれを進める。
「市村さん」
緋天と二人、黙々と働いていた所に、入り口の方から声が掛かった。振り返って確かめると、そこにはクラス委員の姿。
「リハーサル三十分早まったから、今から体育館行ってくれる?」
「え!?」
心の声を実際に出したのは緋天の方だった。大量にあるクッキーのタネをオーブンの予熱が終わるまでに準備をしていたいところなのだ。ここで自分がいなくなったら、緋天は残りを一人でやらなければいけなくなる。それは可能だとしても、予熱時間が終わって、すぐに入れる事は不可能になるだろう。売り物だから、ベストな状態で仕上げる事が求められるのに。
「ごめん!! 今、ちょっとダメだ。そっちは急いでる?」
「うん、ちょっと今すぐ走って行って欲しいくらい。ウチが遅らせると後も困るんだ、スケジュール詰まってるから」
笑顔で無理な事を口走る、その小憎らしい顔を殴ってやりたい。不安、と顔に書いてある緋天に目を走らせて、どうしたものかと逡巡する。
「あー、市村。オレがそっち移ってやるよ」
二つ前の調理台で、マドレーヌを作っていた大石が口を挟んだ。チャンスとばかりに満面笑顔で緋天を見て頷いてみせている。向こうの班は、今現在三人で取り掛かっているから、人数的にはいいのだけれど。
「あー、ダメ! あんた均一に生地落とせないでしょ!!」
他にも没理由があるのだが、それはあえて口にしない。
残りの二人はまだ一年生で、今作らせている物以外は手をつける事を許されていないし、他の班はそれぞれの作業で手一杯だ。
笑顔で様子を伺っていた委員長に目が移る。緋天を狙う同じ男でも、この際、こちらの方が格段に上を行くと判断して。
「木下! あんたはリハーサルいなくてもいいでしょ? 私を呼びに来るぐらいなら暇してるんじゃないの? あとで様子を確認するだけでいいなら、ここ、代わって。そうじゃないと動けない」
「え!?」
先程と同じ声を発して緋天が驚いた顔をする。それを見て、彼も驚きと迷いの表情を浮かべた。
「あんたがダメなら大石がやる事になるの。あんただって予定が狂うのは困るでしょ?それが嫌なら自分で防いで」
言葉の端に、違うニュアンスを含ませた。頭のいい彼ならとっくに理解しているだろう。大石の気持ちも、この状況も。
「緋天、木下は器用だし大丈夫と思うよ。大石に任せるより、奴にやらせた方が、先生も絶対怒らないって」
「・・・うん。そうかも」
申し訳なさそうに小声で呟いて。緋天が木下を見る。
「オッケー、分かった。僕でいいなら」
緋天の視線に決定打を見出したのか。彼が笑顔のまま調理室内に入る。
「緋天、ごめん。あとよろしく」
急いでエプロンを外して、木下の頭にかぶせる。にっこりしながらエプロンのひもを結ぶ彼と、ほっとした顔でそれを見る緋天を最後に目に入れて。慌しく体育館へと足を進めた。
「ちょっと! 佐山、どういう事!? 行けなくなった、って」
時計の針が三時をまわり。
休憩用のお茶を配りにきた真里が、周囲が雑談を始めたのを見計らって怒り口調で口を開いた。明日の京子の高校の文化祭に行けなくなりそうだ、と伝えた相手は沙紀なのに。詳細を確かめにやってきたのは真里だった。
「いや、ちょっと行けるかどうか分からない状況なんですよ、今」
それは嘘ではない。
昨日、急に舞い込んできた仕事を明日中に終わらせなければいけなくて。まだ京子と顔を会わせづらいと思ってしまう自分には、好都合な話で。それを理由に行くのを辞めようと考えていた。
「あのね、京ちゃんはそういうの嫌がるよ。行く、って言っといてドタキャンするとは何事よ? 京ちゃんの晴れ舞台より、何を優先させたのか、言ってみなさいよ」
彼女の足は動いていないのに。後ろに下がらなければ押されるのではないかと、そんな迫力には絶対に逆らえなかった。
「明日中に上げなきゃいけない仕事が、急に出てきたんですよ」
「あ、そ。それじゃ仕方ないわね」
何とか理由を口にすると、彼女は意外にもあっさり引き下がる。
「けど若様の評判も、これでガタ落ちだね。は、いい気味だわ」
ふふん、と鼻で笑ってから。真里は踵を返そうとする。そうした彼女の冗談まじりの言葉は、これまで幾度も耳にしたのだが。今日はそれが、数日前から消すことのできない苛立ちを、掘り起こしてしまった。
「俺は若様でもなんでもないですよ。ただの男です」
先輩に口答えなど、しかも誰もが一目置いているこの先輩に。苛立ちまぎれに嫌味な空気のまま。いくら冗談返しでも、するべきではなかった。
「あんた、この前から何イラついてんの? 顔が笑ってても、心が笑ってないんだけど。自分で気付いてる?」
眉根を寄せて、まっすぐ自分を見て。思いがけず、少し口調を和らげた彼女の視線が痛かった。
「お前、今日残業すれば間に合うだろうが。ドタキャンする前に努力する事を考えろよ」
答える言葉が見つからない内に、隣からのんびりした声が掛かる。コーヒーのカップを持ったまま、こちらを見上げる平岡の目には、全てを見透かされているような気がして。
「・・・そうなの?」
彼の言葉に目を丸くして。そしてその目に嬉しそうな光が見えた。平岡から頼まれた仕事だ、彼が出来上がり時間を予測するのは当たり前の事だ。その言葉通り、今日残業すれば。何とか午前中には仕上がって、当初の予定通りに、そこで明日の仕事を終える事ができそうだった。
「・・・ええ。何とか」
「そういう事は早く言いなさいよ! 平岡さんが教えてくれなかったら、あっさり信じてたわ。ったく。手がいるならあたし手伝うから。何としても間に合わせるのよ。約束破りは最低男の証なんだからね」
言い放って彼女は颯爽と去っていく。ふ、と隣から平岡の笑い声が聞こえてきた。
「聡! 幸成!! はい、集合」
入り口付近で冗談を言い合っていた、聡と幸成に真里が声を掛ける。
「佐山が明日中の急ぎの仕事もらったの。今日残業しなきゃ、明日遊びに行けなくなるから、あたしらで手伝うわよ。確実に、完璧に、間に合うように終わらせるんだから」
「え!? マジで?」
驚いた顔で聡がこちらに目を向けた。
「お前、早く言えよ! 京ちゃんショー、観に行けなくなるじゃん」
「だから、手伝うの。お解り?」
「へーい。あ、佐山、お前五時から、アポ入ってるよ!? 何でこんな時に打ち合わせ入れるんだよ。ちっ。おれら先にそれやっといてやるよ」
「それ、平岡さんから回ってきたやつ? 平岡さん、佐山のに手ぇ出しますよ? いいっすか?」
「おう。明日中に上げてくれればいいよ」
「よっし。これで完璧。みんなで行って、バッチリ決めるのよ。この面子で闊歩できるわ。それで、京ちゃんのクラスメートから嬌声を頂くのよ」
「・・・すみません。お願いします」
もう後には引けない状況になってしまった。先輩が三人も残業に付き合ってくれるというのに、それをやり遂げないわけにはいかない。
「任せとけって」
「なあ、ユッキー、お前、明日着て行くもの決めた? おれ、おにゅーのスーツで行くぜ。真里さんも?」
「なかなかいい心がけね。あたしは、この前プレゼンで着たスーツよ。あれ、イケてたでしょ?」
「ああ、いいっすね。キャリアウーマンって感じで。オレ、ネクタイ迷ってんですけど」
「え、どのスーツで行くの?」
「ダークグレーの細身のやつと。シャツが淡い小豆色。そんで、ネクタイがー、犬の絵が入ってる紺か、白い十字が入ってる焦げ茶」
「「白の十字!」」
「あ、やっぱそっち?」
楽しそうに明日の服装について話す三人を横目に。
結局行く事になって良かったのか、それともまだ行かない事を望んでいるのか、どちらか判らなくなり、溜息がこぼれ落ちた。
「楽しそうだな」
くすり、と隣の平岡がまた笑いを漏らして。
今の溜息も聞こえていたはずなのに、明らかに自分に向けた言葉の真意は何なのだろう。
表面的には真里達の会話を指してるように聞こえるのだが。
だから、この先輩は苦手なのだ。
「んー、あたしはね、『開かない扉は壊せばいい、誰もがそれを望んでいた』ってところが好き」
「盛り上がり部分だからね。あそこから綺麗な音でハモリだすし」
「うん。すごくあの部分好き。男子のパートがいいよね、支えてる感じでなんかドキドキ感が増すって言うか」
「あはは。そんなに? ちょっと練習してみる?・・・『いつまでも動けない振りはもうやめよう』」
調理室に戻ると、焼きあがったお菓子を袋詰めしながら、木下と緋天が仲良く、明日の本番で歌う曲について話していた。彼が嬉しそうに緋天を誘って男子パートを歌いだす。目で彼女に歌うように促した。
「え・・・、『この足が痛むのは、傷付く事を恐れているから』」
緋天が戸惑い、遠慮がちな声を木下のしっかりした声にのせた。
「「この荷が肩にくいこむのは、未知の重責を何としてでも避けようとするから」」
二人の声が重なり合い、調理室の喧騒は半減した。歌う事に集中を始めた澄んだ緋天の声と、彼女と旋律を奏でる事を喜ぶ木下の伸びやかな声が、周りの注目を静かに集める。
「「何を求めているか。欲しい物は己で手に入れる。それを忘れた訳ではあるまいに。開かない扉は壊せばいい、誰もがそれを望んでいた」」
ラッピングの袋を持つ、彼らの手は止まっていた。周りも完全に作業の手を休めている。そのハーモニーに、毎日その歌の練習を聞いているはずの自分も、自然と惹きつけられた。
「「裸足でまろび出る、立派な衣装は売ってしまった、それでも貴女が許すならば、この灰色の我が身を献上致そう。いや、嘘はいけない。お前を手に入れたかった、その涙をこの手で拭わせてくれ。そして笑顔を見せてくれればそれでいい」」
微笑を浮かべる緋天と木下の声が溶け合う。目で合図し合って、タイミングを合わせて。二人の口がもう一度開いた。
「「それが至上の宝となろう、私だけの至上の宝」」
余韻を残した室内に、大きな拍手が鳴り響く。
「いいもの聞かせてもらったわ。明日の劇が楽しみ」
緋天に声をかけようとして、奥の準備室から顧問が出てきて2人を褒め称えた。他の部員も嬉しそうに二人を見ている。
「先生聞いてたんですか・・・あー、恥ずかしい・・・」
赤く頬を染めた緋天が、目線を泳がす。
「うまかったわよー。ね、大石君」
「あ、ああ。すげー、びっくりした。鳥肌立ったかも」
笑みを浮かべながらも、内心悔しいのがありありと見える。
「ただいま。木下ありがとう。教室で奈美達待ってるよ」
「無事に終わった?」
彼らに近付いて声をかけた。木下は表情を変えずに笑みのまま問い返す。
「うん、だいたいね」
「了解。んじゃ僕は戻るよ」
エプロンを取った彼は先程と逆に、こちらの首にそれをかける。
「木下君、ありがとう。助かったわー」
調理台の上に山積みされたラッピング済みの袋を目にして、先生は礼を述べる。作業を順調に進めたどころか、少し先に進んでいたらしい。大石が手伝っていたら、ふざけるばかりでこれ程進んでいなかっただろう。
「じゃあね、緋天さん。六時から音楽室だよ」
「うん。ありがとう。あとでね」
大石に聞こえるように、緋天の名前を呼んで。可愛らしく手を振る彼女に、満面の笑みで軽く手を振り去っていく。
「京ちゃん、見てー。こんなに進んだよ」
「うん、上出来。やっぱり奴に任せて正解だったわ。六時までには全部終わりそう」
「あ、やっぱり京ちゃん、ソロで歌う事になったの?」
「うん・・・歌の練習も出るよ。皆とタイミング合わせる練習もいるからね。その後、最終調整で、もう一回通しでやる事になった」
「結局京ちゃんも忙しくなっちゃったね・・・大丈夫?」
笑みを消して真顔になった緋天が、目をのぞきこんできた。
「ん、忙しくしてた方がいいみたい」
「そっか」
再び喧騒が戻った室内で、また黙々と作業をこなす事にする。黙っていてくれる緋天がありがたかった。口を開けば全てを吐き出して、泣き喚き、そしてぼろぼろの状態で自分の役目を無責任にも放り出してしまいそうになるから。
あと一日。
明日が終われば、少しは楽になれるだろうか。




