15
助手席の彼女は、フロントガラスを通した外の雨を見ている。その顔が曇っていないかと、わざわざ覗くのも怖くて。下を向いてない事だけ、横目で確認して車を発車させた。
「・・・見事に振られたな」
正直、口を出す間もなく、見ている事しかできない自分が滑稽だった。彼女が佐山を好きだと言うのも、それをあっさり撥ね返した彼も。両方が自分を驚かせたのだが。それよりも、自分は京子を手に入れようとしていた人間なのに、ぼんやり事の成り行きを見守っていただけで。嫉妬のような感情よりも、ああやられたな、と思う気持ちが大きく。どこかでそれを予想していた自分がいた事に気付いた。
「そうですね・・・。初めて人に告白したのに、秒速で振られました」
半ば独り言のようにつぶやいたそれに、一拍おいて京子が言葉を返した。彼女にあてた言葉ではないのに。
「違う、おれの事だよ。おれ、京ちゃんのこと、狙ってたんだけど」
事実を述べると、乾いた笑い声が耳に届いた。
「またまた。いいですよ、そんな気遣わなくても」
白くけぶる車外の景色は、カーラジオの音さえも別世界のものだと感じさせた。京子は笑みを浮かべているのだろうが、それは本物ではないと容易に想像がつく。
「本当だって。まあ確かにそんな本気じゃなかったけど、気に入ってたのは本当。おれ、あいつに牽制かけて・・・」
答えている内に、ある考えが頭に浮かぶ。
「もしかしたら・・・おれが佐山にそういう事言ってたから、あいつ遠慮してたのかもな・・・やたらきつかった。普段あんな風に言わないだろ」
ああやって、苛々としている姿も初めて見た気がする。左の京子は首を振っていた。
「もういいよ。佐山さんがダメって言うんだから。・・・ゴウさん、私バイト辞めたくないです。それだけは絶対したくないから。この事、誰にも言わないで下さい。ゴウさんも忘れてくれると有難いんですけど・・・」
暗い車内で、必死な声が聞こえてきた。
「俺はいいけど・・・京ちゃんはそれでいいの?」
佐山と何もなかったように仕事の会話ができるのか。彼が他の女を抱いていても、独り心を痛めているだけでいいのか。
「いいんですってば。はい、この話おしまい。もう忘れて下さい」
「・・・わかった」
強い口調の彼女の傷を、わざわざ掘り返す度胸も、それを受け止めるだけの余裕も自分には無く。黙って運転に集中する道を選んだ。
「ねぇ、あたし何かした?」
「何かって・・・何?」
薄暗い室内に、香水と、ぬるくなった空気の匂いが漂う。
肩の横にある頭から、そんな声が聞こえた。
「こっちが聞いてんの。なんか今日亮祐、おかしいよ」
「・・・疲れてんだよ。二、三日前まで忙しかったから」
自分でも驚くほど投げやりな声が出て。
「なんかね、自分勝手だし。まあ、たまには強引でもいいけど」
彼女の言う通り、自分本位に抱いた。頭を空にしたかった。
「心ここにあらず、って感じ。何かあったの?」
腕に擦り寄る彼女が、何故か疎ましく感じる。
泣いてはいなかった。
むしろずっと怒り口調で、終始一貫、強気な態度だったように思う。
けれども最後に目が合った時に見せた、彼女の表情に。思わず目を逸らしてしまったのは、見たこともない悲しい色をそこに湛えていたから。
あの後、ゴウの車でまっすぐ家に帰ったのだろうか。それとも彼は京子を慰める為に、その本領を発揮したのだろうか。
「なぁ、俺のどこがいいの?」
「何いきなり?」
「いいから。どこがいいわけ?」
「顔。体。あと、一応優しく扱ってくれるところ。今日は違ったけど」
即答した彼女には悪いが、それは少しも自分の心を揺さぶらなかった。判らない、と言われた方が、逆にいつまでも脳に焼き付いている。
「ねえ、ほんとにどうしたの?」
細い指が腕を這って。訳もなく苛ついて。
「悪い、帰るわ」
体を起こして、散らばった服を探す。
「何それ?・・・ひどくない、その態度」
背中に尖った声がささった。
「ごめん、送れない」
独りになりたかった。居心地のいい、自分の部屋で眠りにつきたい。乱暴に服を身に着けて、後ろを振り返る。
「・・・あたし、泊まって帰るよ。せっかくだから」
苦笑した彼女が枕を腕に抱いて、身を起こしていた。細い肩にかかる、緩いウェーブが目に入る。
「落ち着いたら、連絡しなよ」
「ああ」
何となく、苛立ちが少し緩和されて。それでもこの場から外に出たいと思ってしまう。
「じゃあな」
言い置いて、部屋を出た。
考えたくない。それなのに、彼女の言い放った言葉や、自分が言い返した時の彼女の反応や、そして最後に見たあの目が。
何の罰ゲームだと、笑ってしまうぐらいに、気を抜けば延々と頭の中を駆け巡る。えげつない言葉で、彼女を傷つけただろうか。ゴウが途中で止めようとしたけれど、正直に言えば引くだろうと見計らって言葉を重ねたつもりだ。あそこできれいごとを口にしても、彼女は理解しなかっただろう。真面目に好きだと言われて、ああやって拒否するのは、思い起こせば初めてのことではないだろうか。
彼女は真面目だったか。
多分、真面目だ。冗談なら、あそこまで感情をぶつけてこないだろう。けれども、自分とゴウが、分別ある大人が眉をしかめるような会話をしていて、しかも実際にそれをしようとする自分に。ただ単に女性として腹が立った、そして勢いまかせに好きだと口にした、幻想を砕いた張本人に。
そうなんだと思う。そうでなければ説明がつかない。
今まで少しもそんな素振りは見せていなかったのだから。
彼女の性格からして、好きな相手には積極的にアピールするはずだ。それなのに、交わす言葉は冗談と、仕事の用件。それに伴う動作には、微塵も女の武器を振り翳すようなこともなく。笑顔が効果的だと分かって、にっこりと笑うことはあったが、それは他の人間に対しても同じだった。
相手は高校生だ。
鳩が怖いと叫ぶ子供だというのに。
一体どうしろと言うのだ。馬鹿にするな、子供扱いするなと言われても、自分にとっては仕事場の、ちょっとした笑顔の源でしかないのに。恋愛感情なんてぶつけて欲しくなかった。同じ職場で気まずくなるだけにすぎない。次に会った時、どう接すればいい。
気がつくと、ホテルの地下駐車場から機械的に車を運転し、外を走っていた。相変わらず、雨脚は弱まる気配がなく、街の灯りが白っぽい闇に浮かんで見える。肌寒く、早く暖かいシャワーを浴びたい気分にさせられる。それとも、この苛々を治められるものなら、一晩中、この外の雨に身を置いてやってもいいなどと、馬鹿げた思いもわきあがる。
こんなおかしな感覚に侵されるのは、一体何年ぶりだろう。
彼女が泣き喚かなくて、良かった。
涙を見るのは嫌だから。




