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もう、セリフも立ち居振る舞いも、完璧に覚えた。
そんな練習、いらないと思っていたのに。熱心なクラスメートに、朝、昼休み、バイトに出掛ける前のわずかな時間を、強制的に練習時間にあてられて。文化祭前の三日間以外は、バイトを休むことだけは絶対に出来ないと言い張ったせいで、朝は七時半に登校することまで義務付けられる始末。担任までもが熱を入れて、ちょこちょこ様子を見にくるので、準備の遅れなどというものは存在しなかった。
模擬店とは違い、観客にチケットを売るわけではないので。確実に面白くさせて、善意の募金が材料費を上回らなければならない。それに加えて打ち上げが出来る位の上乗せも求めているのだ。そんな事まで狙っているので練習、準備に余念がないのは当然だとも言える。
「じゃあ、市村さん、僕は観に行けないけど頑張ってね」
「はい」
「大丈夫ですよ! 私達がばっちり写真撮ってきますから」
「ああ、そうだったね。君と佐藤兄弟が行くなら、その辺心配ないか」
明日からは文化祭の準備に放課後を使わなければいけないので。しばらくバイトを休むことになる。課長がさも残念そうな顔で、そう言うので。横から声を投げた真里に、彼は嬉しそうに反応する。これ以上いたら、からかわれてしまう、と悟り。早々に頭を下げた。
「じゃあ、お先に失礼します。お疲れ様でした」
「お疲れさん」
「ふふ。京ちゃん、土曜にね」
着替えて、更衣室を出ると。
激しい雨の音が耳に入る。夕方からぽつぽつ降り出していたのだが、まさか帰る時になってこんなに激しさを増すとは思いもしなかった。学校からここに来る時に使っていた折りたたみ傘よりも、ロッカーの中の置き傘を使った方が良さそうだと判断して。引き返して普通サイズの、クリーム色のそれを取り出した。
「・・・今帰りか? 何してんだ」
裏口が見える廊下の角まで来て。バチバチと水の叩きつけるような音に交じり、そんな声が聞こえる。自分に向けられた声だと思い、相手は誰だろうと、もう一歩を踏み出すと。スーツを着た後姿が二つ。
「いや、車まで走ろうか、それともロッカーに傘取りに戻ろうか考えてて」
答えた声は、裏口の小さな屋根の下から。問いかけたのは裏口の一歩手前の廊下から。後ろにいたゴウが、外にいた佐山の横に並んで空を見上げる。
「すっげーな。ってかお前、どこか寄るなら傘は要るだろ」
「ですね。って何で知ってるんですか?」
「お前なー・・・さっき奥の廊下で電話してただろ。おれ、トイレにいたんだって。丸聞こえ。相手の甘い声までちらちら聞こえたけど?」
なんとなく、会話の内容的に、彼らに近付き難くなっていく気がして。そのまま動けずに、早く終わらないかな、とぼんやり白っぽい外の雨を眺めた。
「一夜限りのアバンチュール、ってか。まあ、おれも人のこと言えないけど?」
「・・・なんか棘がありますね。確かに彼女ではないですよ。昔なじみ、っていうか。こっちに帰ってきて、久しぶりなんですよ」
何の話だろうと、良く判っていなかったのだけれど。
今の二人の言葉で全てを把握して。
「俺も聖人君子じゃないですから。ゴウさんだってそうでしょ?」
「まあな。でも気をつけろよ。しっかり釘差しておかないと、女はつけあがるぞ。自分だけが特別だと思い込む。お前、もうここで落ち着くんだろ? 何かあったら面倒だぞ」
「ええ、分かってます」
にこりと笑ったその横顔に、何かが音を立てて崩れ落ちた気がした。
頭では、理解できる。
そういうパートナーは、特別な人間でなくても男性は平気なのだと。
耳鳴りがして、今聞いた事は夢なんだと思いたかった。
心臓を締めつける痛みになど気付きたくもなかった。
気付いたところで何か変わるか、と。
彼の眼中には、自分など入り込む余地すらないと分かりきっているのに。
「じゃあ傘持ってきます」
笑顔のまま、半身をひねった彼と目が合った。ぼんやり廊下に突っ立っていた事を、今更嘆いても仕方ない。
「・・・京ちゃん。もしかして、今の、」
「そういうのって、良くないと思う」
佐山につられて後ろを振り返ったゴウが、驚き顔で口を開く。それが終わらない内に、女性を軽んじているだろう彼らに怒りをぶつけた。
「お前、今の聞いてたのか? 盗み聞きは良くないぞ」
苦笑して冗談ぽく。軽く流そうとする佐山にさらに怒りが募る。
「帰ろうとしたら二人がそこ塞いでたから。盗み聞きじゃありませんよ」
笑みを返す事なんてできない。
静かに告げると二人の表情は真顔になる。
「そういうの、女の子が傷つくだけです。馬鹿にしてる」
「・・・あのな、聞かれてたのはまあ仕方ないけど。誤解するなよ。女の子だって、それ目的で近付いてくるのもいるんだよ。世の中には。お前が思ってるような、無理やりとかそういうんじゃないから。お互い合意の上なんだよ、楽しめればいいだけ」
子供に言い聞かせるように。ゆっくり言葉を紡いで。何でもない事のようにそう話す彼は、とても遠い所にいる気がする。
「じゃあ、相手の子が佐山さんの事、本気で好きだったらどうするの? 佐山さんが遊びだって分かってて、それを我慢してたら? 相手を傷つけてる事になるんじゃないですか?」
「そうかもな。だけどそれは相手の勝手だろ? まあ、俺がそれに気付いたら、付き合えるかどうか考えるけど?」
何でそうやって平気な顔で答えられるのだろう。
それだけ大人な彼に、もう何を言えばいいのか判らなくなる。
「そんなもんだって、特定の相手がいなきゃな。お前だってゴウさんと出掛けたりしてただろ? それと同じ」
「何で? 違うよ。水族館行ったり、ご飯食べに連れて行ったりしてもらうのとは違うよ。全然違う!」
遊びに行っただけ。食事をしただけ。その後は何もないのだから。明らかに違うのに。そう主張した声は、自分でもびっくりするほど怒りを孕んでいた。
「・・・怒るなよ。何でそうやって突っかかるんだ?」
返された言葉には、苛立ちが含まれていて。
悔しくて見返した顔は、静かな怒りをまとっていた。怖い、と思いたくないのに、頭がその言葉を選び出す。同じ人間なのに、しかも相手の方が道徳的におかしいと言える状況なのに。背筋が凍る。
「お前からしたら、俺はふしだらに見える? 思ってたのと違ったか? 別に紳士でも何でもないんだよ。抱きたければ抱く。相手がいいって言ってるんだからな。それのどこが悪い?」
「おい・・・」
矢継ぎ早に出されたその言葉に、ゴウが躊躇いがちに声を出す。
「悪くないけど・・・でも・・・嫌だよ」
合意の上だ。確かに悪くない。けれども誉められたものでもない。
「佐山さんがそういう事するのは嫌だ」
「嫌だって言われてもな・・・何だよ、その思い込みは」
苛立ちを消して、肩をすくめてみせる彼は。この上なく腹立たしい。
「思い込みじゃないよ! 好きなんだもん、しょうがないじゃん!!」
「何それ・・・?」
「だから好きなの!! 嫌だと思うのはどうしようもないの!!」
ぽかんとした、ゴウの顔が目に入った。
怒りに任せて言ったその気持ちは、先程、知ったものだけど。
それは本物なのだから。
「・・・お前、俺を大人だと思ってるだろ?」
「うん・・・?」
少しもうろたえずに。頬も赤らめずに。そう問いかける佐山の眉がひそめられていて。
「大人に憧れてるだけだよ、お前は。ドラマとか小説とか、そういう大人の恋人との付き合いに憧れてるだけ。恋に恋してるとか、そういうやつ」
「違っ、」
「じゃあ、俺のどこが好きか言ってみろよ」
「・・・・・・そんなの分かんないよ」
佐山のどこが好きかなんて、今さっき好きだと気付いたばかりで、列挙することができない。彼が他の女性とベッドを共にするのだと知って、それがたまらなく嫌だった、胸が痛かった、行ってほしくないと思った、自分を見てほしいと思った、それで気付いたのだから。
「ほらな。ただ漠然としてるだけだろ? それは本気の恋じゃないって」
腹が立つ。この期に及んで苦笑なんかしてみせる彼に腹が立つ。
こんなにはっきりしているのに。
仕事では見せない顔を、屈託無く笑うその顔を見せてくれると嬉しいのだと、はっきり判ったのに。
「何で!? 本気とか、憧れとか、どっちかなんて、そんなの私が一番良く分かってる。馬鹿にしないでよ。子供扱いなんかしないで! 何にもなかったみたいにそうやって流さないで!!」
「じゃあ、言うけど。俺はお前をそういう対象に見れない」
静かに放たれるその言葉は、予想していたものだ。
「お前と付き合う俺のメリットは何? 高校生なんだから、門限やらあるだろ。手出したって犯罪まがいに睨まれるのは、俺だ。将来がどうとか責任も持ちたくない」
低いその声に、浮かんでいた怒りもかき消される。
「・・・もういい。分かった」
「分かったなら、いいよ。お前、歩いて帰るならゴウさんに送ってもらえ」
優しげな声で何気なく言われた。彼にとっては何てことなかった。自分に告白されるのなんて、一大事でも何でもない。
「この中帰ったら、風邪引くぞ」
顔を上げて、目が合う。その向こうにゴウの困惑した顔。
「そうだな。京ちゃん、行こう。送るから。おいで」
「じゃあな。お疲れ」
そう言って廊下へと歩く彼に、すれ違いざまに肩をたたかれて。もう一度目が合ったけれど、すぐに逸らされた。
泣いてすがったりなんてしない。
悔し紛れに、嫌がらせなんてできない。
悲鳴をあげる心に、せめて文化祭の自分の役目が無事に終わるまで頑張って、と言い聞かせて。一部始終を傍観していたゴウの、何とも言えない表情に、急いで笑顔をつくってみせた。




