第07話 見られている気がする
イメージ曲 https://youtu.be/lBXCNkNqKzU
全18話 19時公開
一度できたことは、二度目のほうが難しかった。
最初の外出は、ほとんど勢いだった。五つ隣まで行って、駅のトイレで着替えて、改札を抜けて、ただ少し歩いた。それだけで胸がいっぱいで、細かいことまで考える余裕がなかった。
けれど、一度外の光の下へ出てしまうと、次は何を怖がればいいのかが前よりよくわかってしまう。
土曜日の朝、ぼくはまた手さげ袋の中身を並べた。水色のワンピース、白い靴下、クリーム色のカーディガン、黒い靴。前と同じなのに、二度目だと思うだけで、服のひとつひとつが少し違って見える。着ればどんなふうになるかを、もう知っているからだった。
家を出るときの嘘は、この前より短くした。
図書館、とだけ言って、余計なことは足さない。足さないようにしたつもりなのに、靴を履く手が少し遅くなって、結局それがいちばん不自然だったかもしれない。母は何も言わなかった。父も新聞から顔を上げなかった。ただ、その何もなさの中を抜けて玄関を出るまでが、前より少しだけ長かった。
五つ目の駅までの道は、もう一度目ほど遠くはなかった。
切符を買う手つきも、ホームの立ち位置も、この前と同じだ。駅のトイレの表示も、前に見つけた場所をそのままたどれる。だから少し楽になるのかと思っていた。けれど実際には逆だった。どこで息が詰まるのかを知っているぶん、その場所へ近づくたびに身体が先に固くなる。
鍵をかける。袋を床に置く。Tシャツを脱ぐ。靴下を引き上げる。ワンピースを頭からかぶる。カーディガンを羽織る。黒い靴のベルトを留める。
前より少しだけ速くできた。
それなのに、鏡の前に立ったとたん、胸の奥は前より騒がしかった。慣れたというより、逃げられなくなった感じに近い。家の鏡の前ではなく、駅のトイレの鏡に映っている。そのことだけで、服の見え方まで少し硬くなる。
改札を出て、駅前のロータリーを渡る。
前に歩いた道を、今度はもう少しだけ先まで行ってみるつもりだった。雑貨屋の角を曲がって、その先の通りへ入る。道幅は少し狭くなって、パン屋の匂いのかわりに、揚げものの油みたいな匂いがした。小さな薬局、クリーニング屋、赤い看板のたこ焼き屋。そのどれもが、この前よりはっきり見える。
見えるようになったぶん、人の目も増えた気がした。
向こうから高校生の女の子が二人歩いてくる。片方が何か言って、もう片方が声を上げて笑う。その笑い声が耳に入った瞬間、ぼくは反射みたいに肩をすくめた。もちろん、ぼくのこととは限らない。たぶん違う。二人はそのまま通り過ぎていく。香水みたいな甘い匂いだけが少し遅れて残る。
それでも、頬のあたりが熱くなる。
さっきの笑いは、ぼくに向けられたものじゃない。頭ではそう思えるのに、身体のほうはもう信じてくれない。ワンピースの裾を押さえたくなって、でもそんなことをしたら余計に変だと思い直して、指先だけがカーディガンの端をつまむ。
雑貨屋の前で立ち止まる。
ガラスに、店の中のマグカップや小さい箱と一緒に、自分の姿が薄く重なった。ほんの一瞬だけだ。水色の裾。白い靴下。黒い靴。そこにクリーム色がかぶさっている。前より少し、まとまって見えた。
悪くない、と思う。
そう思った直後、胸の奥がひっくり返る。
何を当たり前みたいに見てるんだろう。そう見えているのは自分だけかもしれないのに。通りを歩いている人たちの目には、変な子どもにしか見えていないかもしれないのに。自分で自分を少しでもよく見ようとしたことが、急に恥ずかしくなる。
ぼくはガラスから目をそらして、そのまま駅のほうへ戻った。
二度目の外出は、それで終わった。
帰りの電車では窓を見なかった。映るとわかっていたからだ。ひざの上の手さげ袋だけを見て、止まる駅の名前だけ数えていた。五つ目、四つ目、みっつ。もとの町へ近づくたび、助かるような、何かを置いてきたような気持ちになる。
それでも数日後、ぼくはまた同じ服を袋に入れていた。
やめる、という言葉は頭の中で何度か形になった。けれど実際には、一度も机の前から動かなかった。ワンピースを畳み、靴下をそろえ、靴のベルトを指で確かめているうちに、次の土曜日が来る。
三度目は、少しだけ場所を変えた。
五つ隣の駅までは同じで、そこから前とは反対側の通りへ出る。駅前に小さな本屋があるのは、前々回の帰りに気づいていた。その少し先には、外にメニューの立て看板を出したカフェもあった。白い字で書かれたコーヒーの値段や、丸いケーキの絵が、道の端でじっとしている。
本屋なら入れるかもしれない、と思った。
服を見る店じゃない。ただの本屋だ。だれが入ってもおかしくない。そう言い聞かせながら、店先のガラスの前まで行く。文庫本の平積み、雑誌の表紙、子ども向けのドリル。そのあいだに、また自分の姿が映る。
今度は、悪くない、より先に、別の言葉が浮かんだ。
かわいい、と思った。
声には出ない。ただ胸の中でそう形になっただけなのに、その一語は思っていたよりずっと重かった。
水色の裾が、今日はきれいに落ちている。白い靴下も、足首のあたりで変にたるんでいない。黒い靴のつやのない感じも、子どもっぽすぎずに見える。髪は短いままだし、顔だって変わっていない。それでも、ガラスの中の自分は、この前よりずっと「途中で止まっていない」ように見えた。
そのことが、うれしかった。
次の瞬間、ぼくは顔をそらした。
胸の奥が急に落ち着かなくなる。ガラスの中の自分を、これ以上見ていたくない。見ていたら、ほんとうにそう思い込んでしまいそうだった。
ぼくは本屋の扉に伸ばしかけた手を引っこめた。
そのとき、カフェの前にいた若い母親が、ベビーカーを少しこちらへ寄せた。通り道を空けただけかもしれない。店に入りやすいように避けただけかもしれない。なのに、ぼくは一瞬で「避けられた」と思ってしまう。
心臓が早くなる。
何でもない動きのひとつひとつに、自分で勝手に意味をつけてしまう。笑い声も、視線も、道をあける手つきも。どこまでが本当で、どこからが自分の考えすぎなのか、もうよくわからない。
カフェの立て看板の前で、ぼくは少しだけ立ち尽くした。
入ってみたい、と思う。
窓際の席に座って、コップの水に手をつけながら、外を歩く人をぼんやり見てみたい。そういう、ごく普通のことをしてみたい。ワンピースを着て外へ出ることができたなら、その先も少しずつできるようになるのかもしれないと、どこかで思っていた。
けれど、扉の向こうには店員がいる。席がある。注文の声がある。立っているだけで済まない時間がある。
ぼくは結局、メニューの字を上から二つ読むだけ読んで、その場を離れた。
帰りの電車は、少し空いていた。
窓ぎわの席に座ると、ガラスに自分の横顔がうっすら映る。昼間の光の下で見たときより、輪郭があいまいだった。外の景色と重なって、頬の線も、髪の端も、全部少しぼやける。ぼくはその曖昧な顔を見た。
満足しているようにも見えた。
泣きそうにも見えた。
三度目まで来ても、本屋には入れなかった。カフェの扉にも触れなかった。笑い声ひとつで肩が固くなって、ガラスに映った自分にひとこと思っただけで、すぐそのことがこわくなる。
それでも、もう家の鏡の前だけには戻れなかった。
電車が揺れるたび、裾がひざの上で少しだけ動く。その小さな揺れを見ていると、今日の失敗も、うれしかった一瞬も、どちらも同じ服の中に入っている気がした。外へ出ることは、思っていたより楽じゃない。けれど、しんどいだけでもなかった。
窓の向こうの景色が暗くなりはじめる。
ぼくはひざの上で、カーディガンの端をそっとならした。
次は、もう少しだけ長く立っていたいと思った。
そのとき、ホームを歩く人の列の中に、見覚えのあるような背中がまぎった。
紺のランドセル。少しだけ外へはねた髪。歩き方まで似て見えて、ぼくは息を止める。
気のせいかもしれない。ぜんぜん違う子かもしれない。
それでも、電車の窓に映った自分の肩が、小さく固くなるのがわかった。




