第5話:絶望の底と、崩れ落ちる盤面
各国の首脳が集う中立都市の会議場。
重厚な円卓を囲むのは、ヴァルモント王国の新国王ジュリアン、グラン・アルスター公国の当主レオンハルト大公、そしてアスタリア大商会代表シェリィ・ヴァルモント。
そこへ、漆黒の外套を翻し、圧倒的な威圧感とともに現れたガリア帝国第8代皇帝カール・グスタフは、重々しく言い放った。
「……余が求めるのは、アスタリアの熱資源および採掘権の過半だ。帝国の安定と臣民の生活のため、この条件は譲らん」
直後、会議場の重々しい扉が勢いよく開かれ、顔を蒼白にした使者が雪崩れ込んできた。
「き、急報! ガリア帝国第一軍団長コンラート将軍率いる……じゅ、十万の大軍が、ヴァルモント王国およびアルスター大公領の国境付近へ完全布陣を完了! いつでも進軍可能な態勢に入りました!!」
ざわめき、大パニックに陥る会議場。狼狽する一同に対し、カール皇帝は冷徹な眼光を向け、堂々と不敵に言い放つ。
「……騒ぐな。国同士の交渉とは戦と同義であろう。余はこのまま戦端を開いてもよいと思うが……お嬢さんはどう思う?」
ハッタリでも威圧でもない。目の前の男は、本気でこの場から戦争を始める覚悟を持っている。
だが、当事者であるシェリィ・ヴァルモントは動じず、前世のアナリスト知識に基づいて冷ややかに口を開いた。
「ふふ……十万の大軍、圧弯ですわね。ですが、その軍勢の補給線は我が『南国バイパス』を通っておりますの。進軍を開始した瞬間、そのラインを遮断し、兵糧と燃料を途絶させますわ」
シェリィは勝気を込めて自説(王手)を突きつけた。
……しかし、カール皇帝の反応は、彼女の予想とはまったく異なるものだった。
「――ほう。『南国バイパス』か」
カール皇帝は一切の手札を見せることなく、ただ口元に冷酷な薄笑いを浮かべ、哀れむように一言呟いた。
「シェリィ・ヴァルモント。お前は優れた分析官だが……『現場の戦争』を分かっておらん」
「……なっ?」
その揺るぎない余裕の笑みを目にした瞬間――シェリィの脳内に激痛のような閃光が走った。
(なにかが、おかしい……! なぜカール皇帝は一切動揺しないの……!?)
前世の知識と手元のデータが、猛スピードで組み替わっていく。ガリア帝国の体制。皇帝カールの脇を固める二人の兄――長兄コンラート、そして補給要塞の総督である次兄マクシミリアン。
(しまっ……!? 補給のプロであるマクシミリアンが、私に押さえられるような生半可なルート一本に十万の命運を預けるはずがないわ! 私が気づけた脆弱性に、あの男が気づかないはずがない……! 私が遮断したと思い込んでいたバイパスは……最初から誘導された『見せ餌』!?)
自分の「見落とし」と「過信」に思い至り、シェリィの顔から一気に血の気が引いていく。
自国領内の山脈や地下要塞を経由した二重の補給線――生身の軍事ロジックを読み切れず、机上の計算だけで王手をかけた気になっていた己の浅はかさ。
そこへ、カール皇帝の低く重々しい声が、追撃のように叩きつけられた。
「――それに、シェリィ・ヴァルモント。我が軍が、十万のみだと思うか?」
「っ……!?」
「国境のコンラート率いる第一軍団は、単なる先遣の前衛に過ぎん。交渉が決裂すれば、余の手元にある第二・第三軍団を含めた全軍勢が雪崩れ込む。我が第一軍団は、お前が供給を止めたところで一歩も止まらん。……この条件が飲めぬなら、今この瞬間からアスタリアとヴァルモントを踏み潰す」
カール皇帝の背後に見えたのは、ハッタリでも威圧でもない。
次兄マクシミリアンによる完璧な二重補給線と、無数の兵卒が踏み鳴らす「圧倒的な現実の絶望」だった。
(私の……ミスだわ。私の浅はかな計算のせいで……っ!)
脳内で組み上がるデータが、破滅の数値を示して激しく鳴り響く。
前世を含め、アナリストとして積み上げてきた完璧なプライドが、音を立てて粉々に砕け散っていく。
「シェリィ殿……!? なにか言ってくれ! 帝国軍は止まらないのか!?」
「そんな……『補給を止めれば勝てる』とおっしゃっていたではないか!」
同盟国の首脳や使者たちが、シェリィの青ざめた顔色を見て絶望し、次々と悲鳴を上げた。
一致団結していたはずの会議場が、シェリィの一つのミスによって一瞬で泥舟のように崩壊していく。
「あ……くっ……」
指先が激しく震え、呼吸が浅くなる。
心臓の鼓動が耳元でうるさく打ち鳴らされ、碧眼の視界が歪んでいく。
(私のミスで……アスタリアを、みんなを破滅に追い込む……!?)
底知れない恐怖と敗北感が、シェリィの全身を冷たく冷やしていく。
隣に立つレオンハルトが案じて背中に手を添えてくれるが、その温もりすら感じられないほど、シェリィの意識は「完全なる敗北の底」へと落ちていた。
そこへ、カール皇帝の冷酷な宣告が追い打ちをかけるように響く。
「……勝負はついたな、お嬢さん」
カール皇帝は玉座から立ち上がり、冷たい琥珀色の瞳で、崩れ落ちそうなシェリィを見下ろした。
「お前の描いた甘い盤面は崩壊した。……選択肢は二つだ。今この場でアスタリアの全資源と権利を余に明け渡すか。それとも……明日、我が軍勢によってお前の愛する街が灰燼と帰すのを見るか。……息があるうちに選べ」
返答の猶予すら与えられない、完全なる詰み(チェックメイト)。
誇りも、ロジックも、未来も全てを奪われ、シェリィ・ヴァルモントは人生で最も深く、暗い「絶望の底」へと突き落とされたのだった――。




