第20話:『温かな食卓と、未来への航路』
1
魔導過負荷の嵐が完全に去り、ラードン領主館の広大な執務室兼サロンには、静けさと温かな陽光が戻っていた。
巨大なマホガニーのデスクに向かうのは、過負荷を克服し神域の力を手にしたシェリィ。
彼女は100%完全に手中に収めた魔力と、得意の『構造最適化』をフル駆動させ、羊皮紙と魔導端末へ恐ろしい速度でペンを走らせていた。
処理しているのは、北方から押し寄せた異常魔素のデータ解析、被害を受けたラードン塞塞の最適補強設計案、そして明日控えたガリア帝国との本格貿易折衝に向けた多角的なコスト試算書——本来ならば師団規模の文官が数日間かけて行う作業量を、シェリィはたった一人で、しかも完璧な正確さで裁いていた。
そのデスクから少し離れた高級ソファー席。
最高級の紅茶を嗜みながら、シェリィの作業ぶりをじっと見つめているのは——ヴァルモント王国が誇る至高の5人であった。
「……フン。ラードン塞塞の向こう3年分の防衛コスト試算と補強設計を、わずか一刻足らずで終わらせおったか。我が娘ながら……恐ろしい手際だ」
ヴァルモント公爵が感心と呆れの混ざった深い息を吐く。
「あら、あなた。シェリィのあの美しい指先の動きをご覧なさいな。無駄が一切ありませんわ。……私の娘ですもの、当然ですけれど」
マーガレット公爵夫人が誇らしげに胸を張り、目元を優しく和ませる。
「ハハハ! ヴァルモント、お前が若い頃に軍略書と格闘して『頭が割れる!』と叫んでいたのとは大違いだな!」
アーサー前国王が豪快に髭を撫でて笑うと、エレノア前王妃がフッと微笑みを添えた。
「ふふ、けれどあまり根詰めすぎて、またお体が冷えてしまわないか心配ですわね」
5人の溢れんばかりの親バカな感嘆と、あまりにも温かい情愛の視線。
前世のプロフェッショナルとして完璧に集中していたシェリィだったが、背後からひしひしと伝わる熱い視線とダダ漏れの褒め言葉に、ついにハッと手を止めた。
ぽっと頬を桜色に染め、ペンを握ったまま小さく肩をすくめて振り向く。
「あの……皆様? 集中して作業しておりますので、そのように温かい目で見つめられますと……少々照れてしまって手が止まってしまいますわ」
「「「「「……!」」」」」
「それに、わたくしの手際が良いのは……皆様からいただいた最高のマスターキーと、温かい教えがあるからですのよ?」
恥ずかしそうに、けれど愛らしく小首をかしげて微笑むシェリィ。
そのあまりの可愛らしさに、百戦錬磨の5人は一瞬でノックアウトされ、「うむ!」「なんて愛らしいのかしら!」「さすがワシらの姪だ!」と親バカぶりに拍車がかかるのだった。
2
その賑やかなやり取りを少し離れた席から優しく見守っていた大后陛下は、静かに杯を傾けながら、心の中でシェリィへと思いを馳せていた。
(……見事な手際です、シェリィ)
大后陛下の蒼い瞳の奥で、常人には決して視認できない極小の幾何学陣がひそかに揺らめいていた。
実は、100%の封印解除と同時に、大后陛下はある一つの『絶対魔術』を起動させていた。
それは——ヴァルモント王都を覆う大規模守護魔法の展開と同時に、シェリィ個人の精神と肉体を極秘裏に護り続ける『神域位相の絶対不可侵結界』。
「相殺」を得意とするアーサーや、「解析」に長けたマーガレットですら決して感知できない、さらに高次元の波動領域(位相)で編まれた二重の防護陣。
(神に近い『三指』の領域へ足を踏み入れたあなたには、これから世界の理不尽や目に見えぬ脅威が押し寄せましょう。……けれど、心配はいりません。私がこの命ある限り、王都と……あなたという至宝を、高次元の影から護り続けますわ)
祖母として、そして世界の頂点に立つ術者としての、誰にも知られぬ密やかな誓い。
「さあ、シェリィ。作業はそれくらいにして、13年ぶりの『家族の晩餐』といたしましょう」
大后陛下の優しい呼びかけに、シェリィは「はい、お祖母様!」と元気に返事をしてデスクを離れた。
3
夜を迎え、ラードン館のプライベート・ダイニングには、ほかでは決して見られない夢のような食卓が広がっていた。
暖炉の火がパチパチと温かく爆ぜ、最高級の料理とワインが並ぶ。
「さあシェリィ、この温かなスープをお召し上がりになって」
エレノアが優しくスープ皿を差し出せば、父ヴァルモントが割り込む。
「いや、まずはこの肉だ。頭を使ったあとはタンパク質をとらねば力が出ん」
「あなた、シェリィにそんな厚切りのローストビーフを押し付けないでくださる? 最初は消化の良い白身魚ですわ」
マーガレットが呆れたように夫を制し、アーサーが豪快に笑う。
「ハハハ! ワシの秘蔵のヴィンテージワイン……は、まだシェリィには早いか! ハーブティーを淹れてやろう!」
次々と自分の皿に料理を取り分けられそうになり、シェリィはフッと温かな笑みを漏らした。
「ふふ……皆様、そんなにお気遣いいただかなくても、わたくしのお腹は一つしかございませんわ。ですが……本当に美味しいです」
13年間、お互いを想い合いながらも遠ざけ合っていた空白の時。
それが今、一口ごとに、一言の会話ごとに、温かく満たされていく。
4
食後の紅茶を嗜む頃、話題は自然と「明日からの未来」へと移っていった。
「さて、シェリィ。先ほどまとめてくれたデータをもとに、明日はいよいよガリア皇帝カールとの本格的な通商交渉(ガリア折衝)だな」
アーサーの問いかけに、シェリィは引き締まった表情で頷く。
「はい、アーサーおじ様。ガリアの豊富な北方鉱物資源と、我がアスタリア魔法経済特区の『新魔導物流網』を連携させれば、両国に莫大な構造利益をもたらす協定が結べますわ。ガリア側にも断る理由はございません」
「フン、カールもお前の『三指』の覚醒に完全に呑まれていたからな。弱腰で来られては交渉の歯ごたえがなかろう」
父ヴァルモントが不敵に笑う。
そこへ、大后陛下が静かに杯を置き、場を静寂で包んだ。
「ガリアとの折衝も見事になし遂げるでしょう。……ですがシェリィ、先ほど話した『南方の異変』……『南海の結界崩壊』の兆候について、常に頭の片隅に留めておきなさい」
マーガレットが真剣な表情で尋ねる。
「お祖母様……南方の貿易港で相次いでいる魔導船の失踪事件、あれと関係がございますの?」
「ええ。単なる自然災害でも海賊の仕業でもありません。世界の均衡が、南から崩れ始めています。……ですが、いまのシェリィの知恵と、ヴァルモントの絆があれば、どのような嵐も乗り越えられましょう」
シェリィは胸元に飾られた五つのマスターキーにそっと手を触れ、青磁色の瞳に力強い光を宿した。
「はい、お祖母様。ガリアとの経済協定を成功させ、アスタリア特区の経済圏を南洋へも広げますわ。そして……南で苦しむ人々を救い、異変の正体を必ず突き止めて見せます!」
5
宴が終わり、夜が深まったラードン館のテラス。
静かな夜風に当たりながら夜空を見上げるシェリィのもとへ、二つの温かな気配が歩み寄ってきた。
父ヴァルモントが黙ってシェリィの肩に重厚で温かな上着をかけ、母マーガレットが優しくその手を握りしめる。
「……寒くないか、シェリィ」
「お父様、お母様……」
月光に照らされる中、父と母はどこまでも愛おしそうに娘の顔を見つめた。
「13年間……よくぞ立派に、美しく育ってくれた。お前は我がヴァルモントの、いや……この世界の至高の宝だ」
「愛していますわ、シェリィ。これからはもう、あなたを一人で悩ませたりいたしません」
シェリィは両親の手をぎゅっと握り返し、心からの笑顔を咲かせた。
「わたくしも……お父様とお母様が、世界で一番大好きですわ」
確かな家族の愛、そして100%完全制御の神域の力を手にしたシェリィ・ヴァルモント。
明日始まるガリア帝国との経済戦争、そしてその先に待つ世界規模の嵐に向けて、彼女は強く、優しく、夜空へ向けて微笑むのだった。




