底辺社畜の異世界召喚〜ハズレ職【労働者】の烙印
冷たい石の感触が、頬に伝わってきた。
「……っ」
ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのはシャンデリアの眩い光と、荘厳な大理石の柱だった。鼻を突くのは、嗅ぎ慣れない甘い香の匂い。
どう見ても、日本の風景ではない。
(……なんだ、ここは?)
ほんの数分前まで、俺——結城湊は、深夜の都内を歩いていたはずだ。
勤めているブラック企業で三日連続の徹夜作業を終え、泥のように重い体を引きずって帰路についていた。駅へ向かう暗い路地裏。ふと足元が発光したかと思うと、幾何学模様の光の陣が俺を包み込み、そして——気づけば、この見知らぬ空間に倒れ伏していた。
「おお、目覚めたか。迷える魂よ」
頭上から降ってきた重々しい声に、俺は体を起こす。
そこは、ファンタジー映画に出てくるような王座の間だった。豪奢な玉座には、王冠を被った初老の男がふんぞり返っている。周囲には、全身を銀色の鎧で包んだ騎士たちがズラリと並んでいた。
状況が飲み込めない。だが、俺の視線は王ではなく、その傍らに立つ『若者たち』に釘付けになった。
煌びやかな装備に身を包んだ、十数人の男女。
その顔には見覚えがあった。
「……嘘だろ」
思わず声が漏れた。
間違いない。彼らは、俺が高校生の時に『神隠し』に遭って集団行方不明になった、かつてのクラスメイトたちだったからだ。
「よう、湊。久しぶりだな。ずいぶんと老けたじゃねえか。……まあ、お前だけそっちの世界に置いてけぼりにされてから、もう7年も経ってるんだもんなァ?」
集団の先頭に立つ、豪奢な白い外套を羽織り、腰に美しい聖剣を帯びた男が、下劣な笑みを浮かべて見下ろしてきた。
堂島翔。
かつて、俺を執拗にいじめていた主犯格。警察の必死の捜査でも行方が分からなかった彼らは、どうやらこの異世界に召喚されていたらしい。
堂島のその姿からは、昔の面影以上に、他者を踏みにじることを当然とする絶対的な自信と傲慢さが滲み出ていた。
「堂島……お前ら、ここで何を……」
「言葉を慎め、下民が!」
隣にいた騎士が、怒声と共に俺の背中を容赦なく蹴りつけた。床に突っ伏し、むせる俺を見て、堂島をはじめとする元クラスメイトたちが嘲笑する。
「やめとけよ騎士団長。こいつは俺の昔の『おもちゃ』なんだ。——王様、こいつも俺たちと同じようにステータス鑑定をしてやってくれ。7年遅れで来たノロマが、どれだけ笑える能力を持ってるか見たい」
堂島の言葉に、王は恭しく頷いた。どうやら、この国において堂島たちは王族と同等、あるいはそれ以上の権力を持っているらしい。
(……最悪だ)
過酷な社畜生活で研ぎ澄まされた危険察知能力が、激しく警鐘を鳴らしていた。
圧倒的な力関係。理由もわからない召喚。そして、俺を明確に見下しているかつての加害者たち。
神官のような男が進み出て、俺の胸に水晶玉を押し当てた。
水晶が淡く光り、空中に文字が浮かび上がる。
「鑑定……完了しました。こ、これは……」
神官の顔が、驚愕から一転して蔑みの色に変わる。
「報告しろ」
「は、はい。結城湊の職業は……【労働者】。この世界で過去に確認されたことのない未知の職業ですが、基礎ステータスは一般の農民の半分以下。戦闘系スキルは一切なし。さらに、レベル上限は『50』で打ち止めと出ました!」
その瞬間、王座の間に爆笑が響き渡った。
「ぎゃははははっ! 労働者!? なんだそのゴミみたいな職業は!」
堂島が腹を抱えて笑い転げる。
「俺たち『勇者』や『賢者』のレベル上限は500だぞ? しかも戦闘力ゼロって……お前、向こうの世界でいい年して底辺の労働やってたのが、魂にまで染み付いてんじゃねえの!?」
元クラスメイトたちも口々に俺を嘲笑する。
「最弱じゃん」
「また私たちのお世話係でもやらせる?」
「足手まといだし要らないでしょ。視界に入るのも不愉快」
王は不快そうに顔を顰め、吐き捨てるように言った。
「なんたる無駄な召喚だ。神聖なる魔力を大量に消費して呼び出したのが、このような戦う力すら持たぬゴミクズとは……。騎士よ、その者を別室へ連れて行け。目障りだ」
両脇を屈強な騎士に抱えられ、俺は無理やり引きずられていく。抵抗する力など、今の俺にはなかった。
◆ ◆ ◆
連行されたのは、窓一つない薄暗く狭い石室だった。
「大人しくしていろ。後で食事が運ばれてくる」
騎士はそう吐き捨てて、外から重厚な扉に鍵をかけた。
冷たい床に座り込み、俺は現状を整理する。
異常な世界に飛ばされ、頼る者はなく、絶対的な力を持つ敵に命を握られている状況。普通の人間なら絶望して泣き叫んでもおかしくない。
だが、俺の心は妙に冷え切っていた。
(理不尽な命令を押し付けられて、死ぬ直前まで働かされる地獄には慣れてる……。まずは生き残る方法を考えるんだ)
数時間後、扉が開き、みすぼらしい身なりをした下働きらしき男が、盆に乗せた食事を運んできた。
「あの……お食事、です」
男は俺と目を合わせず、震える手で盆を置き、逃げるように去っていった。
盆の上には、不自然なほど豪華な肉料理と、湯気を立てる赤いスープが置かれていた。
俺はじっとそれを見つめた。
(……おかしい。ゴミと罵った奴に、こんな立派な飯を出すか?)
極限の労働環境で得た教訓がある。『理由のない厚遇の裏には、必ず命に関わる罠がある』だ。
俺はスープの匂いを嗅いだ。微かに、香草の匂いに紛れて、鉄錆のような不快な臭いがする。
確信した。これは毒だ。
彼らは無能と判断した人間を生かしておくつもりなどない。最初から口封じのために処分するつもりだったのだ。
「……ふざけんな」
俺はステータス画面を念じ、【労働者】の初期スキルを確認した。
【採掘Lv1】【運搬Lv1】【土木Lv1】
その中の【運搬】に意識を集中する。本来は重い荷物を運びやすくするだけの底辺スキルだ。だが、俺はスープの液体そのものを『荷物』と定義し、石室の隅にある鉄格子の外の排水溝へと、触れることなく直接『運搬(移動)』させた。
肉料理は袖口に隠す。
そして、空になった食器の前に倒れ込み、苦悶の表情を作って口から泡を吹く演技をした。
十分後。
「おい、例のゴミは死んだか?」
「ええ、猛毒を仕込みましたから。これでまた一人、魔力抽出の『素材』が手に入りますね」
騎士たちの下衆な笑い声と共に、扉が開けられた。
(素材……? こいつら、人を殺して魔力とやらを奪う気か!)
騎士が死体を確認しようと屈み込んだ瞬間。
俺は隠し持っていた肉料理の骨(太く鋭い獣の骨)を握りしめ、跳ね起きると同時に騎士の眼球へ全力で突き立てた。
「ぎゃあああああああっ!?」
「な、貴様ぁッ!」
血飛沫が舞う。もう一人の騎士が剣を抜くより早く、俺は開いた扉から外へと駆け出した。
「逃げたぞ! あのハズレを殺せ!!」
怒号が城の廊下に響き渡る。
◆ ◆ ◆
見知らぬ城の入り組んだ通路を、俺は必死に走った。
背後からは重装甲の騎士たちが迫ってくる。だが、所詮ここは敵地。逃げ道など用意されていなかった。
「そこまでだ、ネズミ野郎」
廊下を抜けた先、城の裏手に広がる広大なバルコニー。
俺の目の前に立ち塞がったのは、堂島だった。手には、光り輝く聖剣が握られている。
「堂島……っ!」
「騎士団の連中もだらしないなァ。たかがレベル1のゴミを逃がすなんてよ。——まあいい、俺が直々に引導を渡してやる」
堂島が一歩踏み出す。その顔には、羽虫を潰すような嗜虐の笑みが浮かんでいた。
バルコニーの背後は、城の敷地内にぽっかりと口を開けた、底の見えない巨大な縦穴だった。
覗き込めば、漆黒の闇の奥底から、名状しがたい魔物たちの悍ましい咆哮が聞こえてくる。
「あんな毒なんかで楽に死ねると思うなよ。お前は一生、俺たちの踏み台だ。その穴の底で、魔物に生きたまま喰われて消えろ!」
堂島の強烈な蹴りが、俺の鳩尾に深々と突き刺さった。
「ぐはっ……!?」
呼吸が止まる。衝撃で体が宙に浮き、バルコニーの欄干を越える。
視界が反転し、漆黒の奈落へと落下していく。
遠ざかる上空で、堂島たちが腹を抱えて笑っているのが見えた。
(……堂島。そして城にいた奴ら。絶対に許さねえ……!)
風が耳元で轟音を立てる。
絶望的な死への落下。
だが、俺の瞳から光は失われていなかった。
(俺は……死なない。どんな手を使っても、泥水をすすってでも生き延びて、あいつらを全員……地獄に引きずり落としてやる!!)
理不尽への激しい怒りを胸に抱きながら。
俺は光の届かない闇の深淵へと、呑み込まれていった。




