第11話 パブロフのオキシトシン・ハグ実験
side 夜神夕子
有名な、それこそ私でも知っているような昔の偉い人の言葉たる『無知の知』というわけではないけれど。
私には、自分が同じ年齢の他の人よりも知らない物事が多い人間であるという自覚がありますわ。
だって……前世で日本にいた頃から、学校に通っていた頃から、周りの会話の中にはいつも『自分の知らない言葉』が溢れていたから。
最近の流行の話であったり、近所のお店の話であったり、昨日のアニメや映画の話であったり、お勉強の話であったり。
まあ、それを簡単に言ってしまえば『会話の話題が合う人が周りにいなかった』ということになるのかもしれませんけど……よく考えてみると、私の場合はそれ以前でしたわね。
だって、昔『親がテストの模範解答を先生から買って丸暗記させてくる』ということを当たり前のことだと思ってクラスで洩らしてしまってから皆に距離を取られてしまって友達というものができなかったので、好んで会話してくれるような人がそもそもいなかったのですもの。
けれど、直接の会話はなくとも他人の会話というのは漏れ聞こえてくるもので。
それが積み重なれば、自分が『よく世の中の物事を知らない側の人間』であることくらいはなんとなくわかるわけで。
なので、いつも熱心に学習ゲームの攻略に取り組んでいて、しかもそれで稼いだペリカンコインを勉強の本などを注文するのにも使っているというマインさんから私の知らない言葉を教えてもらえるというのも、それに『日本人の自分の方が無知だなんてありえない』なんて反応はしませんわ。
ただ……
「『オキシトシン・ハグ』……それが、この状況と関係ありますの?」
「うん、これからやる実験のメイン理論だからね!」
今日はシックスさん、トマルさんと一緒にお墓参りに行った翌日。
ここはマインさんの寮部屋……という名の、簡易実験室。
生活スペースと理科室のような実験スペースが隣接した個性的なお部屋。
お友達の部屋に招かれるなんて初めてでドキドキでしたけど、そこが実験室を兼ねていて、しかも自分が『実験台』になるとなれば、さらにその下準備で既に予想もしなかった状況に置かれているとなればそれはまた別のお話で。
いえ、別に解剖されかけているとか、そういうわけではありませんけども……
「まず、基本理論としては『オキシトシン・ハグ』……簡単に言っちゃえば、『人の脳は誰かと抱きしめ合うだけで幸福感を司る物質を分泌する』って現象を夕子の脳で実証してみたいの。それから、さらに『パブロフの犬』を利用して一定条件と幸福感の紐付けに……」
「あの、そういう理論はよくわかりませんけれど……その実験のためには、私はこんな『子供』にならなければいけませんの?」
そう……『子供』ですの。
もっと言えば『幼児』ですの。
いえ、元々自分が『大人』だなんて思ってはいませんけど、今の私の肉体年齢はおそらく五歳前後の幼稚園児くらい。
マインさんの部屋に入っていきなり何の説明もなしに食べさせられたお菓子を食べた途端に身体が縮み始めて、あっという間にこうなってしまいましたわ。
「確かに、昨日のお墓参りから帰って来てから、『休日の予定がないなら実験に付き合ってほしい』と言われて特に用事がなかったので来たのですけど……まさか、それで自分が幼児にされるとは思っていませんでしたわ。というか、なんですのこれ。マインさん、そういう能力とかありましたの?」
私の知る限りではマインさんは転生者とかではないはずですけれど。
「あ、身体が縮んだのはアト……『匿名希望の転生者Aさん』に作ってもらったマカロンの効果だよ。夕方には元に戻るはずだから安心して」
「いえ、元に戻る保証があるのは確かに安心ですけども……それ以前に、どうして子供に?」
「その説明のために実験の理論を説明した方がいいと思って……」
「マインー、今回の目的は実験でもあるけどそれ以上に夕子がちゃんと休めるように『休み方』を教えることだから実践に入った方がいいんじゃない?」
「あー……確かに、蓬の言う通りかも。理論を理解するので手一杯になって肝心のやり方が頭に入らないっていうのもよくないし。じゃあ、とにかく始めてみよっか。はい、これ」
そう言って渡されたのは、今の私にとってはほぼ等身大とも言えるサイズの巨大なクマのヌイグルミと、容量が大きめの香水の瓶。
「まあ、実験内容を簡単に言っちゃえば、夕子にはこれからその香水付きのヌイグルミを抱きしめながら、今日一日、私たちにハグされまくってもらいます」
「……はい?」
「理論上はこれで『パブロフの犬』と同じ条件が成立して、夕子はその香水を付けたクッションとか抱き枕を『ぎゅっ』てするだけで『オキシトシン・ハグ』と同じ幸福感が得られるはずなの」
「『幸福感が得られるはず』って……そんなに簡単に『幸せ』になれるものなんですの?」
「まあ、常習化すれば慣れで文字通りの『気休め』くらいに落ち着く可能性が高いけどね……とりあえず、『推定過労死』の夕子に早急に必要なのは『癒し』の概念を知ることと、それを手軽に再現できるスイッチなのかなと思って。これが成功すれば最低限、『休みの日はヌイグルミ抱いてベッドでゴロゴロするのが日課』くらいまで進歩できるはずだし」
「私が現状から『進歩』して至る先がその時間の無駄遣いの極みのような状態なんですの? というか、それ以前に『推定過労死』というのはさすがに……」
確かにそうなのかもしれませんけども。
なんだかそう表現されるのは『死ぬほど休み下手』みたいに言われてる感じがして微妙な気分になりますわ。
「ほら、そんな顔しないで、幸福感を受け入れにくくなるような精神状態だと効果が落ちちゃうから」
「……はい、そうですわね。ご厚意としてちゃんと受け取らないといけませんわね」
「うん、よろしい。で、実験の話に戻るけど、オキシトシン・ハグで一時的な癒し効果は出せても常に誰かとハグできる状態でいるのは難しいでしょ? だから、こうやって香水の匂いをつけたヌイグルミを抱いてもらいながらオキシトシン・ハグして、『癒しのパブロフ効果』を染み付かせるの。あ、ちなみに今のサイズにも合う服は用意してあるから着替えてね。パブロフ効果に余計な要素は入れたくないから」
「とりあえず、私もぶかぶかの服のままなのは動きにくいので着替えはありがたいのですけども……『子供化』は、その余計な要素にならないんですの?」
「あー、それはー……ほら、ヌイグルミを抱いた夕子にさらにハグする都合で夕子の身体が小さい方がやりやすいかなっていうのと、夕子が若返った状態でやった方が擬似的な過去改変みたいになって深層心理まで効果が届きやすいかなって。あとほら! この本にも子供がヌイグルミとかを抱きしめるのもオキシトシン・ハグの効果を無意識に求めてのものって説が書いてあるし、夕子とヌイグルミのサイズ感が近くなる方が効果もありそうだし!」
そうやって、日本語の心理学の本を手にしてまくし立てるように力説するパジャマ姿のマインさん。
これは、実験としての理論は嘘ではないにしても、『幼い姿にした私を抱き枕にしてみたい』という意図も多分に含まれていると見ましたわ。
まあ、確かに十代後半の女同士で抱き合うよりは絵面は大分マシですし構いませんけども。
「それに……ゲームとかもあるからこれで楽しい記憶とも紐付けできれば効果がさらに上がると思うけど、身体が大きいと膝の上に座ってハグ維持したままプレイとかできないし」
「本当にずっとハグされっぱなしになるんですのね……」
私の寮部屋と同じ作りながら内装が大きく違う部屋の中を見れば、奥のスペースにあるのは日本で見るようなテレビゲームのセット。
基礎教養の授業で使っているタッチパネルにも驚きましたけど、まさか個人でこんなものを持っている人がこの世界にいるとは思いませんでしたわ。
「マインは日本オタクなところあるから、ペリカンコイン貯めまくってこういうの買い集めてるの」
「昔はテロリストだったからこの街に入れなかったし裏組織の伝手でもこういうのを手に入れるのも難しかったけど、今は大人組に頼めば堂々とこういう買い物できるからね! ピークドット最高!」
「マインのすごいところはこのゲームとか本とかをちゃんと理解できるようにって日本語までマスターしちゃったところだよね……私とねねさんがどれだけ質問攻めにされたことか」
ちなみに、部屋にいるのは部屋の主であるマインさんと、私を部屋まで呼びに来てからそのまま一緒にこの部屋へ入ってきてくつろいでいる蓬さん。
それから……
「マインー、もう爆弾ゲーム始めていい?」
「チーム分けのためのくじ作りましたー!」
……ニドラさんとダミーさん。
二人は私が来る前から部屋にいて遊びの準備を進めていましたわ。
なんというか、我が物顔過ぎて最初見た時には相部屋なのかと思いましたけど、私たちの寮部屋はみんなそれぞれ一人一室の個室らしいので、お二人は単に頻繁に遊びに来ているだけみたいですわ。
「ボードゲームは部室でやれるけどテレビゲームはマインの部屋で遊ぶ時にしかやれないからね」
「はわわっ、ニドラちゃん正直過ぎですよ……あ、ちなみに私は異世界の本を読みたくて……」
「別にいいけど私が買ったやつなんだから、レンタル料金代わりにちゃんと実験にも協力してよね。パブロフの発動条件を緩めるためにオキシトシン・ハグのパターンにも幅を持たせたくて人数集めたんだし」
「「はーい」」
ちなみに、ニドラさんとダミーさん、それに蓬さんも既にパジャマ姿。
時間は早いはずですが、これが『パジャマパーティー』というものなのか、私の着替えも含めて全員パジャマですわ。
「ほら、夕子も着替えて。ニドラが勝手にゲーム始めちゃう前に実験入っちゃお」
「わ、わかりましたわ……ちょっと更衣室をお借りしますわね」
さすがに皆さんの目の前で着替えるのは恥ずかしいので、寮部屋についている個室のお風呂場の入り口にある更衣室でぶかぶかの服を脱いで用意されていた服に着替えてみる。
サイズは……ちょっと大きめですわね。
下着もかなり緩め……というか伸縮性ですし、もしこのまま元の身体に戻ってもそのまま着ていられるようにという配慮なのでしょうね。
まあ、パジャマというのは元から余裕のあっても困らないタイプの衣服なので問題はありませんわ。
「随分と……懐かしい気がしますわね……」
洗面台の鏡を覗き込むと、その向こう側に『幼い私』がいて。
その『幼い私』は、私が鏡を見つめているのと同じように私を見つめ返していて。
私にもこんな頃があったなと……そう思いながら、脱いだ服を畳んでおいて、更衣室からリビングへ。
すると……
「着替え終わったね。なら、まずは……よっと」
「蓬さん!?」
「落ち着いて。制御できるようにはなって来てても守護者出ちゃったら私じゃないと危ないから、ちょっと慣らしてから始めよ」
背後からいきなり抱き上げられて、そのままハグされる。
本当に幼稚園児にそうするみたいに……身体が小さくなってしまった分だけ包みこまれるような感覚が強い。
「確かになんだか心がポカポカするような、悪くない感じがしますわね、これが『オキシトシン・ハグ』……」
「そこまでの即効性があるならプラシーボの影響もあるかもしれないけどね。まあ、ともかく気持ちいいなら第一段階は成功かな。あとこれからは、そういうのはもっとシンプルに『癒される』って言えばいいんだよ。はい、ちゃんとこれも持って。それで、私もぎゅー」
蓬さんに抱き上げられている私にヌイグルミを手渡しながら、正面から蓬さんと抱き合うようにして私を挟み込むマインさん。
眼帯とマスクで表情は分かりにくいながら、その口からは吐息が漏れて……
「ほわぁ、なんか……いいね、夕子の抱き心地、これはちょっと予想以上の実験結果かも」
ヌイグルミを抱きしめながら、丸ごと一つの塊のように扱われる私。
マインさんの体温と感触に私も心地良いものを感じていると……
「そんなに気持ちいいの? じゃ、ボクもちょっと……あ、なんかいい感じ……」
「じゃ、じゃあ私も……はわぁ、なんだかこっちも癒されますねぇ」
「ちょっと皆さん、おしくらまんじゅうみたいになってますわ!」
四人同時ハグはさすがにちょっと包囲された感じになってしまいますわ。
これはこれで気持ちよくはありますけども!
何かに目覚めてしまいそうですけども!
「ふぅ……じゃあこの感じで夕子をハグしながらローテしていこっか。とりあえず、一人につき十五分くらいで一時間で一周ってことで」
「「「異論なし!」」」
……それからというもの。
私は、本当にローテーションの交代の時以外はしっかりとハグの状態を維持されたままヌイグルミを抱きしめるマスコットのように扱われることになりましたわ。
パーティーの中心は、主にゲームとお菓子。
私も、抱き枕にされながら膝の上でコントローラーを操作したり、お菓子をあーんと口へ運ばれたり。
そこまでは良かったのですが……時刻は昼を過ぎた頃。
ダミーさんが自身の創作の参考に買ったという、とっておきのお菓子を開けて皆で食べたあたりで……
「ニドラ、そろそろ私の番でしょ〜……離しなさいよぉ〜」
「やらぁ、もうちょっとだけぇ〜」
雲行きが怪しくなってきたというか……私も、なんだか頭がふわふわし始めてるというか。
独特な匂いのするお菓子でしたけど、もしかしてこれって……
「夕子だってさぁ、わたしに抱かれるのが一番気持ちいいに決まってるでしょぉ?」
「あははっ、蓬のそれは意味が違ってくるやつぅ……今日のは健全なやつだからぁ」
「みなさん、ちょっと、なにか、へんな、なにかぁ……」
妙な空気の中での取り合い。
ローテーションの流れを無視した抱き寄せ合い。
マインさんと蓬さんが私を両脇から引っ張り合い始めたところで……
「はわわぁ……師匠ぉ……さらにちっちゃく……」
「だ、ダミーさん、倒れきゃあっ!」
正面から、ダミーさんのお胸が視界いっぱいに広がってきて、その重量感に三人まとめてベッドへ押し倒されましたわ。
さらに、そこで……
「『アダルトモード』! とりゃ〜!」
「あ、ちょっ、待ってくださいま……ふぎゅっ」
突如としていつも見る姿よりも背丈が高く豊満な大人の女性の姿に変わるニドラさん。
大人としても大きな体格で、ダミーさんの背中から私たち三人の後ろまで手を回してひとまとめにしての抱擁。
もはや、これはもはやハグというよりもベッドの上で揉みくちゃになっているだけと言ったほうが正しい有り様。
そうしていると心臓が早くなって、熱くなってきて、なんだか余計に頭がクラクラしてきて……
「う……うっ……うわぁああんっ!」
「はっ、夕子!?」
小さく縮んだ身体を使って四人の身体の隙間を抜け出して、クッションを抱えたまま部屋の外へ逃げる。
自分でもなんで逃げてるのかよくわからないまま寮の廊下を走る。
そして……
「な、何があったっすか!? わっ、子供!?」
『ドレスを着た赤毛のお姉さん』とぶつかった。
抱きとめられた感触があんまりにも優しくて、思わず涙が溢れてしまう。
「わたくし、どうしたらいいかわからなくて、みんなもなにかおかしくて」
「よ、よしよーし、よくわかんないけど大丈夫っすよー」
「ぐすっ……」
「というかその、おかしくなったって……もしかして、赤い箱の方のチョコレート、みんなで食べちゃったっぽいっすかねー? 寮のポストで美森教官が注文した大人用のやつと取り違っちゃったらしいんすけど……」
頭を撫でてくれる手の感触。
涙と一緒に言葉がこぼれた。
「うぇぇん……おばあちゃぁん……」
「お、おばあちゃんっすか!? ジブン、この歳でおばあちゃん扱いなんすか!?」




