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幻影投影

[7 幻影投影 (げんえいとうえい)]


常に概要は不安定にある。

事実、これはどちらかが消えるまで付き纏う問題。

それも、もう直ぐに終わる。

放って置いても自然消滅を辿るしか残っていない。

あの者に今更抗うこと等、出来ようはずがない。

只、哀れに、只、静かに、只、儚く、降る刻に身を委ねれば済んだ事柄だった。

互いに否定し合い、存在理由を削りあう。

無益な日常。

だが、これなくして覚醒の日を迎えることはなかった。

殺し合いの日々が創り上げていく感情が、崩壊を堰きとめていたのは間違いはあるまい。

喩えそれが、原型からかけ離れていようとも。

初めはほんの小さなズレ。

しかし、小さな尺度の差は年月の積み重ねにより、目的地から大きく反れていった。

それは本当に長い、長い年月。

過ぎ行く四季を愛でることなく、者と物の区別すら薄れ、只、反れた一つの想いだけが今日(こんにち)に禍々と残った。

純白な烈愛と漆黒の憎悪。

求めてやまない、認識を許す者。

静寂だった。

否、微かに流れる水の音だけが鼓膜を燻る。

鏡に向かい合い、少女は生まれて初めて自分に化粧を施す。

必要なのは赤い口紅。

これまではそんなものは塗る気にも成らなかったが、今夜は特別だ。

だが、肝心の赤の顔料の持ち合わせがなかった。

今しがた気分に見合う口紅を入手した。

口紅にするには水分が多く、塗った先から口端を伝い零れ落ちる。

身に着けている白金の衣に赤斑点が模様として(したた)められていく。

何度か上塗りを繰り返していると、色が定着し、恍惚と鏡に魅入る。

零れた口端を拭い、部屋の隅に積み重なる残骸を一瞥する。

口紅を調達する際に引き裂いた肉片の山が水分を吐き出し続ける。

それが水音の源だった。

(にくたい)が破れ、留めることの出来なくなった血液が下位へ下位へと流れていく、そんな自然の律動。

それは引力に引かれた当然事柄で、延々と螺旋を繰り返す定理。

より、大きなものに引かれ軌道を描く質量と呼ばれる定義。

原子から宇宙空間における惑星軌道までがこれに従っている。

…所詮は意思とは関係はない、誰かが定めたもの。

だが、それ故に誰もが従い続けねばならない束縛の輪廻。

そして、人もより大きな想いに惹かれ、軌道上を延々と彷徨う質量に過ぎないと。

なら、それに乗るのも一興。

運命とは称するのとは違う。

これは定めだ。

明確で抜け出せない、生きるものの業。

不快な面持ちで、要らなくなった化粧箱(にくかい)を眺める。

袋から流れ続ける定義が理解していても不愉快としか映らない。

…あ、そうか。

壊していいのかを私は聞きたいのだ、あの人に。

古から繰り返すこの律動を。

そして、想いをくれたあの人を、律動の元を壊したい。

(…貴女が遣るの?

それは面白い申し出だけど、出る幕はないわ。

それにね、私は彼方が嫌いなの。

だから、私が先に壊してあげる。

一度殺された人間の方が、その権利を持ち合わせているとは想わない?

だから、あの玩具はあげないわ。

貴女を消す最後の鍵ですもの。)

少女は煌々と微笑むと、符を一枚化粧箱に抛る。

誘導されるように肉塊に張り付くと、舞いぶれもなく天を突く勢いで炎が吹き上がる。

そして、炎は化粧箱だけを消し炭に換えるとあっさりとその姿を隠す。

「さあ、会いに行きましょう。

…赤凪」

そして少女は月明かりが毀れる戸をゆっくりと開け放つのだった。




信じられない光景だった。

一枚に紙から森林が形成されたのだ。

視界一面の緑がその現実を突きつけてくる。

「うそ…」

これが鼎が何とか吐き出せた言葉だった。

無情に突き殺された幻獣も、直ぐに新たな新芽に覆われ血の跡すら視認できない。

(これ、符術なの?

…在りえない。

術式も言霊も作動していない符術なんて。

それに紙から樹を蘇生させるなんて。

…これじゃ、まるで)

神。

超越者の名が頭を過ぎる。

「逃げられたか。

流石に一筋縄ではいかないな」

「…赤凪さん?」

雰囲気が今までと違っていた。

平気に見せていても、張り詰めた糸のような感じが拭えなかった、危うい赤凪はそこにはいなかった。

鼎の微妙な発音を聞き取った赤凪は、バツが悪そうに聞き返してくる。

「赤凪に見えないか?」

本来なら俺に見えないかと言いそうなところを、赤凪と言ってくる。

「…姿は」

赤凪は敏感な娘だと苦笑し、こんな感覚もあるのだなと訳の分らない事を口ずさんだ。

「…俺は俺だ。

只、同居人が共に歩むようになっただけだ」

赤凪はそう伝えると、エンブリオが硬直から開放された方角に歩き出す。

エンブリオは両手を床に付き、大きく肩で息をしていた。

「…いつまで其処にいる気だ。

それとも、夜風吹かれているほうがいいのか」

赤凪はエンブリオの横をすり抜け、増殖した木によって破壊されたガラス窓に向かい、挑発的な台詞を投げかける。

「…不敵ですか。

なるほど、これが陰陽の木の鍵。

獣では手が余りますね」

二十九階の外から普通に会話を楽しむテラングィードの声がする。

「空を制してない私では、串刺されるか転落するところでしたよ」

窓下から黒い革靴が競りあがってくる。

そのまま、順にテラングィードの体が逆さのまま浮上してくる。

危険を察したてテラングィードは外へと身を躍らせ、壁に指を立て壁に張り付いていたのだ。

指を弾き、その勢いだけでフロアへと舞い戻ってくる。

「正直、ここまでとは。

…出直す必要がありますね。

毒島さん、済みませんが契約は破棄させて貰います」

通る声が毒島の隠れている階段まで届く。

「なっ、なにをいっとるか!」

毒島は慌てて姿を見せる。

「このままでは頂く予定だったモノとは釣り合いが取れそうにありませんから」

「貴様!

研究を放棄するというのか!」

「やはり身分相応か。

…本気で貴様等に仕えると思っていたのか?」

テラングィードの完全に侮蔑した視線が毒島を貫く。

「貴様の集めた研究資料は既に回収済み。

つまり、貴方の価値等最早ありはしなかったのだよ」

「まさか、それが狙いでワシに近づいたのか!」

「金、地位? そんなものが本当に私に必要だと想っていたとは、成り上がり者の考えそうなことだ。私が望むのは神の領域。そしてこの場に期待したのは見極め。…貴方の鑑定眼は誇っても良いでしょう。これなら門は開く。喩え開かなくとも器に潅がれた美酒は領域まで引き上げてくれることでしょう」

歓喜に震えるテラングィード。

己の描き出す未来に陶酔し、打ち震えていた。

それに反して毒島は蒼白になっていく。

「プレゼントです。

下種な貴方に命令されて少々ストレスが溜まってしまいましが、ここは堪えてあげましょう。

命乞いはそこの者たちにするといい」

「ま、待ってくれ!」

「これ以上、その濁声を私に掛けるな。

前言を撤回しますよ」

「ひっ、ひいいい」

凶悪な眼光を脅え、毒島は上階段へ逃げ去ってしまう。

「…それでは、これで私も失礼しましょう」

テラングィードは映画の一場面のような華麗な礼をする。

「待って、テラングィードォ!!」

エンブリオの叫びがフロアにこだまする。

張り巡らされた木々の間を潜り抜け、必死の形相でテラングィードに喰らい付こうとする。

「…次が最後です。

カンフル剤、楽しみにしてなさい。

我がマシュカーゼの血族よ」

そう告げると、窓枠から脚を外し重力の赴くままに落ちていく。

「待てぇぇ!!」

テラングィードに着いて落ちていきそうなエンブリオの道を、赤凪が塞ぐ。

「どけぇ!!」

青剣を出現させ、斬り掛かりそうな殺気立ったエンブリオに、日常会話をするような落ち着いた声で赤凪が話しかけてくる。

「俺は退いてもいいが、後ろで仁王立ちしてる奴が退かないとそうも行かない」

「…あ」

赤凪のその発言に、エンブリオは急速に激動が冷やされていく。

赤凪の後ろには両腕を広げ、割れたガラスの代わりをしている少女が立ち塞がっていた。

「退いてくれ!

アイツを、テラングィードを野放しにしては置けないんだ!」

「冷静さを欠き、実力差が歴然の相手を追うと?

自殺志願なら、俺達の居ないところでしてくれ」

「…貴方に何が判る」

エンブリオが苦悶に満ちた呻きを洩らす。

「千差万別な心情など、俺に分かるはずもない」

冷淡に告げ、そして道をあける。

「もう告げることはない。

後は、好きにしろ」

現状は極めて優しくない。

道を開けられたからといって、少女が遮っているには変わらず、そして頭に昇っていた血は落ち、冷静に判断を思惟できるほどに落ち着いてしまっていた。

これで、追うと判断を下ほど、エンブリオは愚か者になれなかった。

慄然と構えている赤凪に苛立ち、その後方に立ち塞がっている鼎に疼きを覚える。

(どうして私はこんなにも弱いんだ!)

純粋な力だけでなく、あらゆる面において打ちのめされた。

己を矜持できず、残されたものは蔑むことしか出来ない自分のみ。

(私は無力だ)

エンブリオは俯き、膝を折る。

「エンブリオ」

いつも支えてくれた声がする。

仲間、ライバル、そして兄弟として傍で励まし、歩んでくれた者の声すら今は重荷に想える。

(私は貴方から奪ったのに、目的を果たすどころか、怯え、佇むことしか成せなかった)

近づく足音が、エンブリオには無性に責める荒波に感じた。

「…いつまでそうしてるつもりだ」

デミタスはエンブリオの胸倉を掴むと、乱暴に引き上げ、立たせる。

「それでもキサマはエンブリオ マシュカーゼか!!」

足の裏が浮くほどの力を加え、近くにあった樹に押し付ける。

「ふざけるな!

オレからカちトったものはそんなちんけなものか!

そのウエ、ミっともないスガタをサラしやがって!」

エンブリオにはその言葉に反論する力はなった。

ただ打ちのめされるのみ。

曝け出してはならない筈だった。

どんなに苦境に立たされ、どん底を這いずろうとも、デミタスの前だけは。

それが最低限の盟約でもあったにも関わらず。

(なのに私はそれすら守れないほどに弱い)

「デミタスさん!」

「ガイヤはダマってろ!」

鼎は焦って止めに入ろうとしたが、デミタスの一喝で脚が竦んでしまう。

「…チガうだろ。

おマエはそんなちっぽけなオトコじゃない。

だから、オレはタクしたんだ。シツボウをさせるなよ」

悲痛な台詞だった。

感情押し殺し、淡々と紡がれた言葉はエンブリオの奥に深く突き刺さる。

光を失った瞳を見るに耐えなくなったデミタスは、エンブリオを樹に叩き付けるとエレベーターに足を向ける。

「ワルいが、オレはテラングィードをオわせてモラう」

それだけ告げると、エンブリオを置き去りにし、姿を消すのだった。

「鼎、ほっておけ。

奴も言ったが、これはあいつ等の問題だ。

俺達が口を挟むべきではない」

エンブリオに駆け寄ろうとする鼎を征し、首を横に振る。

「…でも」

「時間が必要な時もある。

…静かにしてやれ」

そう言われると、鼎は二の句が告げられなくなる。

「俺達は本来の目的を果たすぞ。

あの豚を追うぞ」

(豚?

…ああ、毒島か)

小太りした体型をした毒島を豚と赤凪は称した。

鼎は納得すると思わず笑ってしまう。

「赤凪さん、怪我は」

「あんなのは治った。

それより行くぞ」

血反吐を吐くほどの大怪我を、あんなものと言って退ける赤凪。

(いつの間に符を使ったんだろう?)

ジャングルと化した階層を抜けながら、鼎は毅然とした赤凪に目をやる。

(何だか別人みたい)

何所か大人びた部分は前からあったが、明らかに根本な部分が違う気がした。

見え隠れしていた脆さが跡形もなく消え去り、この上なく雄雄しく見える。

(どうしちゃったんだろう、赤凪さん)

横顔を覗き見るだけで心音が高鳴ってくる。

人として、一皮も二皮も剥けたという感じがした。

(もう、私はこんな時に何を考えてるの!)

鼎は赤凪に見惚れそうになり、注意力が散漫して足を蔓に取られる。

「うきゃあ」

鼎は鼻面を、樹の幹に強かにぶつけてしまう。

骨には異常はなさそうだが、涙目に成るほどの痛い。

両手で鼻を押さえ、蹲る。

上方から呆れた視線を感じる。

「……なにしてんだか、馬~鹿っ」

(…前言撤回、この人は子供のままだ)

恨めしそうにおどろおどろした視線を投げかけるが、逆に嘆息まで付かれてしまう。

このままでは哀れみまでかけられそうなので、赤くなった鼻柱を擦りながら起き上がる。

唐突に大きく心臓が跳ねる。

ドクンッ。

早鐘の如く脈拍が上昇し、全身の毛穴が全開していく。

ドクンッ。

毛細血管が悲鳴をあげながら、激流と化した血流を器に維持している。

ドクンッ。

そして悟る、これは根源が揺るがされているのだと。

ドクンッ。

空気がざわめき、周囲を支配していく。

ドクンッ。

草木が沈黙し、主を静かに迎える。

ドクンッ。

そして悟る、これは根源に最も近しものだと。

唇が乾き、呼吸の間隔が次第に短くなっていく。

「…鼎、大丈夫か」

「は、はい。

…これっていったい」

殺気に似た息苦しさ。

だが、それよりも逆らいがたい欲求が込み上げてくる。

細胞の一つ一つが侵食されて、体の政権すら危うくなりそうな支配力が辺りに充満する。

精神以外は総てこの支配力に引っ張れていく。

塩基により構成された遺伝子が刻を得、原作からかけ離れていなければ、総ての存在はこれに従う他ならないだろう。

そう、これは群体の中核を成す脳なるもの(オリジナル)。

この脳なるもの(オリジナル)に近しものが支配するのは世界。

「…上か。

行けるか?」

鼎とは違い息すら乱れていない赤凪。

鼎は、はいと返事する。

途中で赤凪穂を回収すると、そのまま階段へと駆けていく。




一歩、一歩踏み出す毎に重圧は増していき、心臓が暴れ狂う。

(大丈夫、気を確りと持てば肉体は付いてくる)

私は、(こう)の行を応用した。

自分の体に幼子を宥めるように接する。

(平気だよ、大丈夫だよ)

そうすると自然と落ち着いてきた。

「鼎、無事でしたか」

「へっ、お父さん?」

三十階に到達の際、横手から懐かしい声がする。

「それは私の台詞だよ。

無事…って訳でもないか」

拷問と言うほどではないが、顔には青痰や裂傷、瞼は幾分か腫れ膨らんでいた。

よく見れば、手足首に縄で擦り剥がれた皮が痛々しかった。

「ちょっと油断しました。

お陰でこの様です。

脱獄するにもテラングィードがいて身動きも取れないし、助かりましたよ」

たははと笑えるあたり、無事な部類に入る怪我しかしていないようだった。

「それよりこの領域、…大丈夫ですか?」

「領域?

この感覚のこと」

「はい。

…来てますよ、混沌の巫女が」

(えっ、てっことはまさか!)

「静か」

横から尋ねてくる赤凪さんに、お父さんは首肯し答えた。




仁が頷くのを見届けると、赤凪は走り出していた。

仁の首肯を確認したあたり、赤凪の理性は飛んではいない。

駆け出した理由は他にあった。

感情に任せての行動ではなく、海へと流れ込む川と同じく自然な行動だった。

(より大きなものに引かれ、統合するか。

これはあるべき場所に流れているということか。)

羅刹と混じり合ってから、赤凪の思惟が複雑になってきていた。

星の営みを理解により手に入れた知識により、どうも思考が混雑化していた。

(…単純こそ、最良か。

不便なものだな、思量が深いというのも)

赤凪は知識の棚から、該当する項目を引き出す。

(単純にいけば、これは太極なる一。

だが、それは両義されたことにより失われた根源。

正確には違ったな。

あれは確かに存在するが…。

実者(じつぶつ)を拝むまで何とも言えんな)

連なる階段が尽き、赤凪の眼前に鉄の扉が阻む。

(静、彷徨っているなら引導を渡してやろう)

ノブに手をやる。

…だが、開かない。

(何故だ!

横にずれないぞ)

因みにこの扉に鍵などかかってはいない。

只、赤凪が押して開ける扉を知らないだけの話だった。

追い付いた鼎が、半眼でその光景を眺めている。

「赤凪さん、まさか横に引っ張ってるんじゃないでしょうね?」

「…違うのか?」

不安そうに尋ねてくる赤凪。

(やっぱり、勘違いだね。

赤凪さんは、赤凪さんだわ)

「…今掴んでいつところを捻ってから、押してください」

説明の通りにすると、あっさりと開かれる扉。

そこに広がるは信じがたい光景だった。

光の柱が霄壤を貫き、一人の人物を空の領域に誘っている。

神秘的な様。

世界そのものが光の柱の中に佇むものを讃え、敬っているかのようだ。

そう、天と地が付き従い、かの者は狭間をゆく。

「…馬・鹿・な」

上肢の届かぬ領域。

「……凪穂」

愛しき者の似姿。

遥かなる高みから、一人の少女が見下ろしている。

足場などない空の狭間を悠然と歩む。

…見違える筈が無い。

太めで凛々しい眉に鋭利な目元。

滑らかで何処までも澄んだ漆黒の髪。

何度も触れ、抱いた細い体。

…だが、わかった。

あれは形を模したもので中身が別のモノであると。

結ばれた唇は冷笑を湛え、あの溢れんばかりの温かみはまったく伺えない。

「凪穂ぉぉぉ!」

理解していながらも、赤凪は虚空を進む少女に向かい叫んでいた。




その声は芯に届いた。

何年ぶりだろう。染み渡る言葉は。

(間違いないな、この男が赤凪だな)

浸透していく声音は、混濁した奥底の蓋の隙間を開ける。

ドロドロとした怨念が渦巻く憎悪のみがグツグツと煮えたぎる釜の蓋を。

(…これ程とはな、貴様の想いは。

だが、渡しはせぬ。

これは私の獲物だ)

両手足が疼きだす。

塞がれた穴が、再び口を開けドクドクと体液を垂れ流しているかのようだった。

それこそが、この男が仇である証。

打ち震える歓喜に衣を被せ、久々に味わう生の実感に酔いしれるのだった。




(えっ、凪穂さんって、あれ)

鼎は混乱していた。

屋上に通ずる扉の向こう側に待ち受けていた者に。

そう、あの美貌は簡単に忘れることなどできようはずもない。

赤凪の記憶の断片ながら、焼きついて離れない凛とした外見。

「あれが我らの一族の長にして、混沌なる世を作り出した張本人、静様だ」

耳元で囁く父の言葉が、余計に混乱の渦を大きくする。

(静様って、でも、赤凪さんは凪穂って、どうなってるの!?)




恐怖とは寒く、凍えるものではなく、ねっとりと絡みつき心と言う無防備な割れ物を絶えず圧壊させようとするだと知った。

自分が物となり、掌で玩ばれいつでも壊せると暗示させられているようだった。

「し、静姫様。

お、お助けください!」

毒島は耐え切れなくなっていた。

声を出さず、ひたすらにこの状況が去るのを待つことは敵わなかのだ。

毒島は藁をも縋る想いで懇願をする。

それは追跡者から逃れる為なのか、それとも目の前の絶対者に対してなのか。

本人にそれを判断する理性は残されていなかった。

少女は物音に反応するかのように、無機質な瞳を音の方に向ける。

虚ろで、人を映すことのない瞳。

毒島は悟った。

あの瞳には、物と者の区別等つけれないことに。

毒島は止めることの叶わなくなった振る歯を、ガチガチと合わせる。

「ひぃ、ひぃぃぃぃ、もう、消えかけているのかぁぁ!」

その物音が感に障ったのか、切れ長い目元を更に細くし、睨みつける。

「五月蝿いな、消えろ」

(これ程までに状況が進行していたとは!!)

毒島は、自分の思い描いた図を遥かに超えて進行している事態に、絶望するしかなかった。




虚空に手を翳すと、一枚の符が現臨する。

朱雀天衝(すざくてんしょう)

符は舞い上がり爆発を起こす。

爆発は炎の塊を生み出し、一つの形状へと姿を整える。

瞬間、夜を眠りから覚ます閃光が生まれ、昼へと変貌した。

太陽を彷彿させる赤き光が闇夜を掻き消し、形状を持った灼熱は命を得る。

巨大な鳥。

雄雄しく輝く翼を羽ばたかせ、見るものを圧倒する存在感。

四聖獣が一角、南の守護神をモチーフとされた神々しき火の鳥、朱雀降臨す。

「…ま、さか」

喉の渇きが枯れた声を発せさせる。

「赤凪君、下がってください。

結界を張ります」

危険を感じた仁は筆ペンコンクリートに叩きつける。

ペンは砕け、中身のインクが床に広がる。

インクは意思を持つかのように、蠢き、陣を張り巡らす。

赤凪はその陣の中に退避すると、

「隔、結、離、界」

床に手を付き、四つの発動音を発する。

仏道修行の為、障害が無きよう一定区域を俗世から切り離した場所。

それを結界と言う。

つまるところ、隔離こそ結界の本質といえよう。

その意味を載せた発動体はより強固で、遮断した狭間を形成する。

仁の張った結界は四層に別れ、それぞれが俗世から隔離した高等な術だった。

其れほどのことをしなければ防げないと踏んだのだ。

「来ます」

緊迫した声音で告げる、聖獣の行進。

毒島は己を総動員させ、力が入らぬ足を引きずりながら、備え付けておいた脱出ようのヘリへと、必死の形相で向かう。

だが無常にも、天からの聖火は屋上という地上を薙ぎ払うべく舞い降りてくる。

「ヒィィィィィィィィ!!!!!」

これが一代で富を築き、己の欲望を具現化させそうと虚構を組み上げた男の最期の叫びだった。

鼎は呆然とその光景を眺めていた。

天から不浄なるものを焼き尽くすために舞い降りた聖鳥は、あらゆるものを気化させ天空へと返していく。

黒光りしていた強固そうなヘリも飴細工の如く溶け出していき、固体から液体、そして気体へとなり、視界から姿を消していた。

屋上の半分がバターを熱したようになり、辺りはマグマの海と化す。

結界内は熱すら遮断し、完全なる孤立した空間を形成していたお陰で窒息死という項目をなくしてくれていた。

(これが静姫)

毒島が燃え尽きる瞬間を目の当たりにしても、余りに一瞬のことで人の死を認識することも無かった。

圧倒する暴力。

否、暴力などと過少してはならないだろう。

これは最早武力、または軍事力の類の力だ。

それを個人が所有する。

これが支配者を冠する者、混沌の巫女、新宮司 静。

ヘリが蒸発して消え、屋上に残されたのは結界に守られた三人のみとなっていた。

静は焼却作業を終えた朱雀に手を翳す。

朱雀はそれに従い、天空へと還っていき、虚空で四散した。




春の先の夜は冬の匂いをまだ留めており、灼熱地獄と化した屋上を急速に冷やしていった。

「…結界が二つも跳びましたか。

直撃なら間違いなく蒸発死してましたね」

淡々と事実を告げる父の言葉。

今だ二つの結界で外界から切り離されていなければ、圧倒的な熱量が肌を焼き、意識を奪い去るだろう。

「あれが静だと」

呻き声の赤凪さん。

(でも、あれは凪穂さんだ)

熱により歪む大気の向こう側に、覇者の輪郭がぼやけて見て取れる。

混乱する頭を整理しようと、一つ一つの情報を整理していく。

(赤凪さんは三百年前に静という、凪穂さんの義理の姉を手にかけている。

だけど、静なる人物は、これまた三百年前に世界の在り方変えた混沌の巫女として、歴史に姿を現した。

…確か赤凪さんは、静に五行を極める器は持ち合わせていないと言っていた。

なら、あれは凪穂さん?

でも、どうして静なんて名を偽ったんだろう?)

結局のところ情報が少な過ぎた。

これでは混乱に拍車かけたみたいだった。

夜風がようやく屋上に侵入し始めた頃、父の結界も効力を失い、夏に似た蒸せた空気が喉を突くのだった。




「貴様が赤凪か」

その台詞が赤凪の鼓膜を震わせる。

(この声、間違いなく凪穂の声だ)

肩から静に振るえが込み上げてくる。

歓喜と戸惑いが交じり合い、マーブル模様に心情を掻き混ぜていく。

そして知らぬ間に、頬伝うものがあった。

(…わかっている。

流されず、俯瞰であれ)

もう一人の自分にそう語りかけ、赤凪は臨戦態勢に移行させていく。

「…静なのか、お前が」

ニュアンスがずれた二つの会話。

「ああ、その通りだ。

忘れたとは言わせん。

両手足の腱を切断し、掌、足の甲に楔を打ち込んだ貴様の所業。

少量の出血を絶えずさせ、意識が途絶えようとすれば傷を抉って呼び戻し、呼吸困難に陥って苦しむわらわを、その壊れた瞳で狂わせ続けられたことを」

覚えている。

義務的に躯を生成することしか持ち合わせていなかった自己が、憎しみに溺れ、殺意の元に躯に貶めたのは初めての女。

自分の意思で邪眼を用いて魂をズタズタに引き裂いたのも、静以外に行ったことはない。

「覚えているか、貴様に穿たれたこの穴を」

陽炎の彼方を除き見るようにぼやける視界の中、赤凪は確かに静と名乗る者の掌に塞がれた大きな傷跡を見た。

「だが、そんな事はどうでも良いことだ。

只、わらわが成したいことは、御主の屍を凪穂の前に晒すこと」

「!!」

「そうすれば奴も満足して逝けるだろうな」

「凪穂は、凪穂は生きているのか!」

俯瞰にあろうとしても、静の台詞は赤凪の心を揺さぶり、赤凪に客観性を失わす。

「…御主がそのようなことをぬかすか。

哀れよのう、凪穂も」

侮蔑を込めた憎しみの眼差しが赤凪を貫く。

(…凪穂が哀れ、どう言うことだ)

「ふっ、何をほざく、死に切れぬ亡者が」

赤凪の口を付いて出てくる、羅刹の言葉。

まだ、完全に統合されていない為、赤凪が放心している今、羅刹が表に表れる。

「…これはこれは、鬼風情が咆えよるわ。

そんな不完全な衝動しか持ち合わせていない粗悪品めが。

人に尻尾を振りよってからに」

敏感に赤凪の内に宿るもう一つの魂に気づき、不快に顔を歪める。

「不愉快だ。

わらわが手を下すまでもあるまい。

否掌鬼参れ」

雄叫びが世界を震わす。

そう思わす程の激震が大気を振動し、馬鹿でかい叫びを運んでくる。

「ゴオオオオオオオオオオオオオォォ!!」

否、これは大地が震えているのだ。

咆哮に呼応し、コンクリートジャングルに押し込められた大地が怒りに震え、地上を打ち据えている。

「土の陰璽(いんじ)か!」

「そうだ。

貴様と違い衝動の赴くまま、生きとし生けるものに破壊と殺戮を成すもの。

陰璽星瀾(いんじせいらん)だ」

月明かりに影が刺す。

それは五体が揃っているために人に近い形態をしていた。

だが、それは余りに巨体だった。

巨人と称するしか、明確な表現方がないほどに。

四メートルを越す身長。

四肢は異常に発達して丸太と変わらない。

皮膚は分厚く、刃物など弾き返しそうなほど張り詰めていた。

(放心しているのは、仕舞いぞ。

…これ以上ウダウダしているならその躯、貰い受けるぞ)

「わかってる!

死んでは真相に辿り着けないからな」

赤凪は素早く鼎を抱き抱えると、目を配らせる。

「しゃ、赤凪さん!」

「口を塞いでろ。

今度こそ噛み切るぞ」

そう告げると、虚空に向かい走り出す。

それに習い、仁も後に続く。

「!!!」

次の瞬間、赤凪は高層ビルの屋上から身を躍らせていた。

(ひぃぃぃぃ!)

吸い込まれそうな漆黒を湛える闇に、身を躍らせる。

浮遊感に全身が覆われると、重力に従い落ちていく。

景色が見る見るうちに遠ざかり、迫ってくる。

(落ちる、落ちる、落ちる、落ちる!!!)

鼎は、脳の認識可能領域を軽く突破し、最早光の粒子しか網膜は映し出していなかった。

光粒子は形を作り上げ、懐かしき情景を上映し始める。

(これって走馬灯じゃないの!!!)

肉体も精神も理解しているのだ。

このまま落下が継続されれば、間違いなく安楽死できるということを。

恐怖に引きつった瞼は硬直し、閉じることさえできなくなっていた。

次第に加速する景色がゆっくりと流れ出し、脳の処理率が向上していく。

(い、いやあああ!)

本で読んだ通りの現象が自分に起こっていることに、死と完全に向き合っていることがまぎれも無い事実だと立証していた。

「少し衝撃がくるぞ」

淡々と告げる赤凪は落下途中で、ビルの側面を蹴りつける。

赤凪の蹴りはハンマーでも打ちつけたように壁を凹ませた。

縦の落下から横の動きに突然修正さら、内臓が急速な揺れを感知し酔いが生じる。

区間が二十メートル以上も離れている隣のビルの屋上に何事もなく着地を決める赤凪。

着地の衝撃は更に酔いを悪化させる。

「…は、は、はははは、い、生きてるよ」

鼎は乾いた笑いでしか今の気持ちを表せなかった。

二十階建てくらいの近辺に隣接していたビルの屋上にいた。

「まったく、危険が迫ってるとはいえ、そんな逃れ方をしたのでは鼎も生きた心地はしないでしょうに」

声に釣られ上方に目を配らせると父は綿になったかのように、ゆらりと風に遊ばれながら下降してきていた。

その右手には輝く符が握られていた。

「たく、呑気に構えてるとあの建物見たいに、粉砕されるぞ」

地鳴りかと思っていた轟音はよく聴けば、上の方から響いてきていた。

「あ、あああぁぁ!」

先程まで居たと思われる高層ビルが上層部から破片を撒き散らしていた。

爆弾が投下されたような爆発音が響き、上から三階分の階層が破壊され崩れ落ちていた。

「あっ、エンブリオさんが!」

二十九階に立ち尽くしていたエンブリオ。

その階層も今は瓦礫の只中に消えていた。

「…悪いが他人の心配をしている余裕はないぞ」

降り注いでくる瓦礫を見据えながら、赤凪は鼎を下ろす。

「仁だったか、鼎と避難していろ」

鼎を仁の方に押し、赤凪は全身を使い赤凪穂を抜き放つ。

「赤凪さん、まさか闘う気ですか!?」

信じられなかった。

あれ程の武力をまざまざと見せ付けられながら、それに立ち向かおうとする男が。

「逃がしてくれる様子でもないしな。

それに、俺らが、たかだか破壊衝動に身を委ねるだけの無骨な獣に負けるとでも」

その威風堂々と歩む背中は何人にも止められぬ威圧感に満ち満ちていた。

鼎は、動悸が耳鳴りを起こすほどに煩く感じていた。

それは最早、好意と呼べるものでは収まらないほどに加速していった。




(無骨な獣か、言ってくれるわ。

まだ、融合をはてしていない我らでは手が余るぞ)

「本気でほざいているのか」

(…ふっ、貴様が勝算無しに立ち向かう痴れ者なら、このような状況にはなっていなかったな)

「…正直、負ける気がしない。

これ程、心強く想えるとはな、お前の存在が」

(妙な感覚よのう。

好かろう、貴様が想うままに歩むがよい!

我らの眼前を阻むべきものは総て)

「「蹴散らしてやる!!」」

キッと爆煙を巻き上げる上層を睨みつける。

その中から獲物を付け狙う野獣の瞳が此方を射抜いていた。

「相手が悪すぎるぜ!

俺は鬼殺しだ!」




ビルの倒壊は深刻なものに成っていた。

否掌鬼が引き起こしている小刻みな大地の揺れと、地にビルを杭に喩え打ち据えたかのような衝撃が毒島コーポレイションの中枢を担う柱の耐久値を凌駕しようとしていた。

「これは崩れますね。

鼎、こっちに来なさい。

言われた通りに避難しますよ」

仁は鼎の腕を掴む。

「…でも」

口ごもる鼎に、現実を突きつける仁の言葉が刺さる。

「貴女では足手まといです。

…同じ(てつ)を踏む気ですか?」

過ぎる二つの出来事。

足掻けば足掻くほどに泥沼にはまり込み、大切な者を危機に貶めた。

左袖を赤く染め、焦燥に駆られながら戦をする羽目になった仁。

忠告を聞かず、身勝手な行動が元で重症を赤凪に負わせてしまった。

「…ごめんなさい」

鼎は、言葉と共に零れ落ちそうになる涙を、唇を噛むことで堪える。

(馬鹿だ私!

自分の力量なんて高が知れてるのに、何も出来ないヒヨッコの癖に、人を助けようだなんて自惚れて!)

後悔の念に苛まれる。

一時の感情に身を任せ、取り返しの付かない事態になる寸前だった。

鼎の肩にそっと手が添えられる。

「…かな」

「駄目だよ」

鼎の開口した唇から液体が滴る。

口内に溜まった鉄の味をさせる液体を嚥下し、世界を蝕む気配の只中で、拒否する。

「お願い、お父さん。

優しくしないで。

…逃げたくないから」

労わりの心遣いに甘える訳にはいかない。

繰り返された己の弱さと決別すべく、鼎は父親の当たり前な優しさを否定した。

降り注いでくる土砂に降られながら、鼎はその先にいるであろう力有る者を見上げる。

(私は約束したんだ、傍にいるって!)

だから、鼎は強くなりたいと願う。

そして、ありたいと願う。

茨の道しか歩めない赤凪の隣に寄り添う為に。

(だから、今の私は側に要れない)

爪がくい込むほどに拳を握り締め、最良の選択を口にする。

「お父さん、行こう!」

負けるとでもと、不敵な笑みを浮かべ立ち向かっていった赤凪。

その言葉を信じたい。

…待つこと、それが課せられた試練だと想った。

(手の届かないところで運命が廻る。

結果がどうなるにしろ、私には手を伸ばすことおろか、見ることもできない。

私には与えられる終末しか手にすることはできない。

…悔しいか、情けないか、無様か!

忘れない!

介入することができなくても、先が、道が創られていく現実を。

…私は私である為に強くなりたい!)

鼎は決意固め、その場を離れる。

それを複雑な表情で見つめていた仁も後に続くのだった。




鼎が去った直ぐに火蓋は切って落とされる。

毒島コーポレイションの外装に亀裂が走り、殆どの窓が砕けていく。

(来る!)

爆煙から巨体が躍り出てくる。

赤凪はそれを確認しながら、自分の域と相手の域の判断を下す。

(似たり拠ったりか。

…慣れていない分、此方が不利)

素早く周囲を見回し、戦地を選びだす。

思考し終えると、屋上から足を外し空中に身を委ねる。

直後、巨体が降り注ぎ、鉄球が落ちたと想わせる衝撃が二十階建てのビルを襲う。

重力に引かれながら、ビルの内部を確認する。

窓が次々に砕け、内部は埃を充満させていく。

(床を突き抜けているのか!

何たる力業だ)

肌にピリピリとした感覚が迸る。

危険を察した赤凪は、赤凪穂の壁に差込み落下速度を落とす。

ギシギシと赤凪穂の悲鳴がして、赤凪の体は十二階の辺りで宙吊りとなる。

ドゴゴゴゴッッッ!!!

ダムの決壊のような勢いで十階の壁が粉砕される。

粉砕された壁の大穴から否掌鬼が飛び出す。

大穴から亀裂が横に走る。

「…折れるか」

それを見据えながら、刀から伝わる振動がある事実をも伝えてくる。

否掌鬼はその巨体に似合わず、俊敏な動きで隣接した建物を使い、下降していく。

(…乗るか。

このまま巻き込まれても利点はないか)

赤凪は壁から刀を抜き、ひと蹴りして助走をつけて最短距離で否掌鬼を追う。

落下していく中、上層から物凄い音がしてくる。

否掌鬼が飛び出てきた階からポッキリとビルが折れていく。

半分近く、その階の支柱をなぎ倒しながら出てきた否掌鬼が齎した現象。

上部の重さを支えられなくなったビルは、赤凪が居る方向に折れ曲がり、そして、今折れた。

二十階建てのビルが半ばから折れ、崩壊寸前の毒島コーポレイションにドミノ倒しの要領でぶつかる。

こうして、この辺り一帯を支配していた権力の象徴は、本当の力の前に滅びていくのだった。

崩壊の最中、赤凪は着地を決めると、己の定めた戦地に向かい疾走を開始する。

瓦礫の雨が降り注でくるが、赤凪に当たることはなかった。

それほどに赤凪の動きは速く、的確だった。

全身に目でも付いているのではと勘ぐるほどに。

その背後を肉達磨が追いかけてくる。

あれほどの体当たりを繰り返したのにも係わらず、全くの無傷だった。

赤凪は毒島コーポレイションの終焉を見ることなく、その場を離れる。

鼎のことが少し気に掛かったが、仁が側に要る以上心配はしていなかった。

逃げるのに徹していれば、喩え相手が静だろうと逃亡が出来ると践んでいた。

仁の実力は、恐らくテラングィードに匹敵する。

(だから気に掛かるのだが)

二つの気配が赤凪を捕らえている。

後方から土砂を巻き上げながら追いかけてくる否掌鬼と、天からあらゆるものを見下ろす支配者の気配が。

(流石に二人同時に来られるのは拙いな)

だが、赤凪はそれで良いと思案する。

自分に総てが向けられれば、それだけ鼎の安全が確保される。

だから、敢えて敵が追跡できる速度で移動をしていく。

コンクリートジャングルを縫うように走り抜ける。

だが、けして敵の視界から消えなによう、緩急を付けず緩やかに走る。

身体に漲る力。

元の赤凪と比べて、比較にならないほどに身体能力が上昇している。

暗示を掛けた時と同じか、それ以上で立ち回れる。

持て余す感があるが、意外に当たり前のように認識している自分に感嘆する。

(驚くこともなかろう。

我とお前は二人で一人。

そう、あの刻を境に肉体組織まで統合されたのだ。

分解と構築。

恐らく、繋がった我らを一つのものと認識し、構成し直してしまったのだろう。

陰陽、否なるが似ている。

故にお前は高坂であり、陰璽星瀾でもある)

わざと羅刹は説明に、赤凪の捨てた名を持ち出す。

赤凪は素直にそれを受け入れることが出来た。

記憶を挿げ替えられただけの偽者と蔑んでいたが、それも払拭された。

間違いなく、赤凪は赤凪だった。

長年に及んで刻まれた消せぬ傷跡。

それを失って降り立ったこの時代で、己を己と証明する事柄など何もなかった。

あるのは、不安だけを掻き立てる曖昧な記録(伝承)と穴だらけの記憶のみ。

今なら迷うことなく言える。

自分は凪穂と共に生きた赤凪であり、破壊衝動と母の願いを成就するために、京の都を火の海にした羅刹であると。

羅刹と刺し違えるために、龍脈の流れを内に取り込んだ。

それは人の五行が耐えられるものではなかった。

木は砕かれ意識が薄れていき、火は消え去り肉体から熱が失せていく。

土は流され身体を保っていることができなくなり、金は純度を下げ細胞が生まれなくなる。

最期に水が滞り、赤凪の命は風前の灯となる。

水溜りである自分は、海である星では飲み込まれ一部となるしかなかった。

覚悟はあった。

それ以外に、有りもしない勝算を導き出す方法は有り得なかった。

結果、龍脈の流れに押し負けた二人は広い意思体の海に統合され、自我を失っていくしかなかった。

龍脈は星の五行といっても過言ではない。

それに分散してしまった赤凪と羅刹が統合できたのには理由があった。

普通なら間違いなく、強大な流れに飲み込まれた意識は、再び元の意識に戻ることは限りなく零に近い。

水に溶けた絵の具が戻らないように。

だが、赤凪と羅刹は繋がりの意味を持つ、大五行を継承していたために、分散されながらも末端部まで繋がりが切れることがなかった。

長い年をかけ、掻き集められた断片は赤凪を母体とし、羅刹を組み込む形で新生さられた。

それが今の赤凪であった。

(ああ、そうだな。

…そしてそれを行ったのは凪穂以外考えられない。

鍵は静が握っている!)

皮膚に迫る圧迫感が生まれる。

赤凪は振り返り、赤凪穂で何かを縦に断つ。

紙にハサミを通すかのように自動車がフロントから綺麗に裂けていく。

飛び散った油が衣服と身体を汚し、瓦礫と成り下がった物体はそのまま転がっていく。

一拍おいて爆音と熱風が背後からしてくる。

足を止めた赤凪の前に立ちはだかる否掌鬼。

赤凪の定めた戦場まで目と鼻の先まで来ていた。

息づく芽吹きが青々と茂り、赤凪の訪れを待ち侘びる。

夜風が赤凪の頬を拭い、それに伴い後ろの森林がざわめく。

その歌声こそ、赤凪を迎える合唱に他ならない。

(判っている。

…迷惑を掛けるぞ)

木々のざわめきに対し詫びを胸中でし、鋭い眼光を否掌鬼に叩きつける。

「…飼い犬がどちらか教えてやろう、否掌鬼よ」

いつの間にか伸びた犬歯を剥き出しにし、肉食獣を彷彿とさせる笑みを赤凪は浮かべるのだった。




逃げ惑う赤凪を天空からあざ笑う。

愉快で(はらわた)が捩れそうだ。

(愉快?

…愉快、愉快、愉快か!

そうか、これが楽しいというものか!)

記憶から呼び覚ます。

あの男が背中を向け逃げ惑う場面など一度としてなかった。

(これがあの赤凪か!

あの忌まわしき男か!

なんと臆病で腑抜けたことか!

凪穂、この程度の男を待っていたのだ。

惨めじゃのう)

嘲りが胸内をいっぱいに満たす。

だが一秒たりとも、その惨めな男から目が離せないでいた。

ジクジクと痛みを訴える手と足の甲。

否掌鬼が路上に転がっていた乗用車を掴み取り、石ころでも投げる感覚で、赤凪の足を止めるべく投げ放つ。

それを然も当然に切り分け、真っ二つになった乗用車は赤凪をすり抜けて爆発する。

ゾクッ!

全身を駆け抜ける悪寒。

赤凪の(まなこ)に宿るものを垣間見た瞬間に、嗚咽を漏らしそうなほどに気分が冴えなくなった。

(覚えている、覚えているぞ!

獲物を狩る獣の瞳!

その眼が我を貶め、狂気の世界に誘った!

…赤凪だ、赤凪だ、こやつこそ、紛れもなく赤凪じゃ!)

狂喜が迸る。

埋められなかった胸の穴にピッタリと嵌りこみ、蓋が開きだす。

グツグツと煮えたぎる復讐を煮えたぎらす釜戸。

(まだそのような世迷言に振り回されていたのか!)

赤凪の後方に広がる仄暗い緑が視界に過ぎった時、忌々しい声が脳髄に直接語りかけるように聞えてくる。

「きさまぁぁぁ!

我を邪魔するか、このくたばり損ないがあぁぁ!」

緑が踊り、深き青がざわめきながら鼓膜を刺激する。

(最早、遅いのか。

其れほどまでに失ってしまっていたのか?)

大地に芽吹き見ることにより網膜から脳にダイレクトに送り込まれてくる語りは、嘆き悲しみに満ち満ちていた。

静はそれに反発し、怒りを露にして大地に吼える。

「黙れぇ、(ばん)

…そうか、貴様、余命幾許もないのか。

己が罪を今更償うとでも言うのか、愚かな」

弱弱しき声音に気づき、静の心頭が冷めていく。

(愚かなのは承知だ。

(だいち)をも欺き、凪穂に手を貸したときからこうなるのは判っておった。

だが、それは望んだ結末ではない!)

「我と同じく、失われたお主に何が出来る?

一刻経つごとに、貴様は存在そのものが失せておるわ」

(構わぬ!

どうせ、赤凪が降り立った時、消えると思っておった灯火(いのち)じゃ、惜しくなどない)

「ほう、弟子には甘いのう」

(赤凪も凪穂も、過酷過ぎる道を歩いた。

責めて、この時代ではと願っておった)

「浅はかな。

まさか、大地の精がそのような戯言をぬかすとはな。

…ならば、何故手など貸した!

貴様が教えさえしなければ、道は途切れていた筈だ!

世迷言を吹き込み、貴様が地獄に続く道を指し示したのだ!

こうなるのは目に見えていた!

それを貴様がわからなかった訳がなかろうが!

苦しみが長引くこともなかったのだ!」

(…済まぬと思っている。

じゃから)

「黙れぇ!

最早、聞く耳など持たぬ!

そうか、その大木が貴様の遷つり木か。

貴様に残された力では遷ることは叶うまい。

引導を渡してくれるわ!」

(…最期じゃ。

お前が失ったものを取り戻しておくれ)

視神経から流れ込んでくる万の力が、脳髄を揺さぶる。

暖かだが、何処までも後悔と嘆きに彩られた力が。

「フゥゥゥゥゥッッッ。

・き、さま、の、、思い、、、通、、りに、、なって、た、・・・たまるものか!!!」

網膜から脳に繋がる視神経の回路を、木の繋がりを堰きとめる。

耳障りな木々のざわめきを金の変化で鼓膜硬質化させ振るえを止め、耳を塞ぐ。

万が施していた流れが断ち切られる。

もう万の苛立つ声も、忌まわしき青も見ることはない。

「消えろぉぉぉ!」

天空より舞い降りた符を掴み取ると、巨木に投げる。

それは見る見るうちに膨れ上がり白き獣に姿を変える。

白虎降誕(びゃっここうたん)!」

全長五メートルを超える獣。

鮮明な白き毛に覆われ、熊をも一噛みで食い殺しそうな大口と鋭い牙。

鋼鉄をも易々と引き裂けるであろう爪に、総ての獣が縮みあがりそうな眼光。

それらを持ち合わせた獣の王が、静の命により万の宿り樹に襲い掛かる。

(…赤凪、凪穂、済まない)

そして巨木は地上に降り立った白虎の凶悪な爪の前に引き裂かれ、万の声は虚空に散る。

「これで邪魔者はっ、くっ、うううがっ、くそっ!」

満足気に笑みを浮かべようとして、静の表情が苦痛に歪む。

「こんな時に発作が、…まさか、くっ、万めがぁ!」

脳裏に幾つも過ぎる記憶の断片。

それは不要と切り捨てた、いや、忘れぬ為に捨てざるを負えなかった記憶。

「そうか、これが貴様の償いかぁ!

だが、こんなものでは無駄に終わるわぁ!

そう、これを望んだのは他でもない凪穂なのだからなぁ!」

万の宿っていた巨木が無残に白虎に踏みにじられるのを睨みつけながら、割れそうな頭痛に耐え叫ぶ。

「否掌鬼!

四肢をもぎ取り、その男を我が前に連れて参れ!」

命令だけ下すと、静は符を構える。

符が青白く発光すると、大気中の水分が符に目掛けて集まり、巨大な蛇を思わす形体へと形をとっていく。

青龍現臨(せいりゅうげんりん)

その応えるかのように水のうねりが咆哮をあげ、水の竜が天空を覆い尽くす程の雄雄しき姿を形成する。

静はその背に身を預けると、心得たように青龍は主の塒へと飛行していく。




否掌鬼の拳は大地を削り、土砂を巻き上げる。

一撃一撃が必殺の威力を秘めており、迂闊な行動は即、死に繋がる。

だが、赤凪にはそれらの攻撃がまるでスローモーションのように捕らえることができた。

(全身の細胞一つ一つにまで根が張っているみたいだ。

(からだ)で制御できない部分は存在しない)

冷静に自分の中の変革に対処していく。

陰璽星瀾の身体能力と、全身に張り巡らされた木の力が身体を一つの細胞のように繋ぎ合わせていた。

その為に脳からの命令がタイムラグを無くし身体に伝えられていた。

赤凪は否掌鬼の猛攻をかわしつつ、着実に己のフィールドに引き込んでいく。

そして森林地帯に足を踏み入れた瞬間、とても懐かしい感覚に包まれる。

(!?

万爺か!)

姿を晦ましていた万の気配が、この森林全体を覆い尽くしていた。

その事に気を捕られ、僅かな隙が生まれる。

否掌鬼はこれを見逃さず、大地に手を突き入れる。

小刻みに震えていた地はそれに伴い、激震する。

否掌鬼の掌を突き入れた箇所から土が波を打ち出し、赤凪に押し寄せてくる。

まさに土砂の津波だった。

(この物量に飲み込まれれば、土砂の重みでと勢いで圧迫死は免れないか。

なら)

赤凪は全力で下がり、木々の合間に身を置く。

(万爺のことは後回しだ。

頼む、同胞達よ)

それに応え木々急成長を遂げ、赤凪を覆い頑強な防波堤を築き上げる。

だが、その程度でこの土砂の大津波を凌ぐことなど出来るはずが無かった。

赤凪を囲った木の防波堤を打ち崩し飲み込んでいった。

(赤凪穂は鬼を絶つ刀。

その本質は五行そのものを絶つことにある。

繋がりを断ち、活性化を沈静し、形を失わせ、成長を停止させ、命の流れを遮る。

それが陰璽星瀾たる衝動に立ち向かうべく生まれし刀。

故、この本質を見極める邪眼と赤凪穂の前を持ち合わせし我に()れぬもの無し!)

土砂の一角が硬質物を刳り貫いたかのように、四角い穴を開ける。

その中を悠々と赤凪が否掌鬼の現前に歩んでいく。

その瞳は金色(こんじき)の輝きを宿し、世界の在りようを見据えていた。

闇でもなく、光でもなく、只静かに在るがまま受け入れる、金色(混沌)の瞳。

その時、天空に雄雄しき獣が生み出されこの地帯の中核に位置するであろう大木を切り裂こうと踊りかかっていく。

(…赤凪、凪穂、済まない)

森のざわめきに乗って万の謝罪の言葉が赤凪に届く。

「万爺!?」

そして森林から万の気配が完全に消滅する。

「なっ、なんだよ!

洒落にならぬぞ!」

依り代が破壊され、万がそこに留まれなくなったのではなく、明らかに命の火が消えた絶望的な感覚だった。

(馬鹿者が!

戦場で呆然と佇む奴がおるか!

俯瞰であれ、これが鉄則だろうが!)

「悪い、確かめたいことがある。

まだ、残っている、あれはそういう風に定められているのだから」

(勝手にしろ!

…万、それがお前の恩師の名か。

だが、相手は陰璽星瀾ぞ。

簡単に切り抜けられるものではない)

羅刹の言い分は最もだった。

「行けるさ。

俺だけなら無理だが、お前がいる」

力強く言い切る赤凪。

それは信じているものだけが持ちえる確信に満ちていた。

(なら、不完全なままいるのは止めておけ。

感応しろ、同調しろ、統合せよ。

個と個ではなく、個であり全であれ。

そうすれば、(ぜん)の前に立ちふさがるものは居なくなる。

我を己が者とせよ)

(…個で無くなるのだぞ)

(否。

自我が確かに統合されれば、それは最早己では無いかもしれない。

だが、その本質が失われるのではなく、そこに息づくのだ。

…つくづく甘い男だな、貴様は。

目的を果たす手段として活用すれば良いものを、優しさだけでは目的は果たせぬぞ)

(隠し事をするだけ無駄だったか)

主格である赤凪は、羅刹を取り込むことができた。

だが、あくまで個として羅刹を生かすことにした赤凪は、一つの体に二つの精神といった危険な状態のままでいた。

統合されていない意思で同時にことを起こし、それが相反するものなら肉体は耐え切れずに崩壊の一途を辿ったやもしれぬのにだ。

(そうだ。

不完全ながら我らは繋がっておるのだからな)

(…)

(…当初、それを弱さだと想い、願いの赴くままに破壊を繰り返していた。

強さは奪い勝ち取るものだと。

だが、結局のところワシはお主に敗れた。

あらゆる面において上回っていたワシがだ。

許すことも無く、憎しみのみで心を埋め尽くし、貶めることばかりを思考していた。

認めることが怖かったのだ。

それを認めれば、ワシの存在自体を否定しかねなかったからだ。

…救いようなに馬鹿者だな。

正直、救われた。

時間は無い。早くするがよい)

(しかし)

(約束は果たせよ。

(だいち)(てん)を見て周ると。

我はお主と共にあるのだから)

「羅刹、感謝する」

(それはワシの台詞だ。

…感謝)

初めて口にする他者に対する感謝を言葉にする。

二人の思いと言葉が重なり合い、赤凪を主格とした人格が再構築されていく。

こうして本当の意味で二人は歩む道が一つとなったのだった。




恐れと慄き。

頭の中を真っ白にしてしまいそうなほどの戦闘意欲が、それらを塗り潰していく。

今まで合間見えてきたどんな猛者よりも、現前している者は強い。

混沌(金色)を称える瞳に臆しながらも、湧き上がる破壊衝動は底知れず育っていく。

烙印を押され、拘束され、自分をも押し殺してきた日々を幾年月刻んできただろう。

己の不甲斐無さにどれ程業を濁したことだろう。

だが、これも巡り合わせか。

この者は恐らく、最も大一に近きもの。

陰陽の理を抱きながらも矛盾に引き裂かれず、己が道を歩める者。

…クッ、クックククッ。

相手にとって不足は無い。

此の侭朽ち果てる運命ならば、檻に囲まれし範囲で欲望を満たすのみ。

知らず知らずに、溢れる狂喜が凶悪な笑みを表情に描く。

猛者は静に何かを口にする。

内容は聞き取れなかったが、それを機に雰囲気がガラリと変質していく。

「否掌鬼!

四肢をもぎ取り、その男を我が前に連れて参れ!」

何と愚かしい命令か。

この男を眼前にしてそのような暴言が吐けるとは。

上空より下りし命に、我は逆らえない。

そう逆らえないのだ。

「御意に」

返答を待たずに主は空に水を凝縮し、龍を模る。

末に恐ろしい方だ。

四方の守護神、仮初とはいえ操ることができるとは。

依り代を模するだけでも人には適わぬはずが、降臨までさせることができるとは。

それ程のお方が何故にわからぬのだろうか。

この者は主よりも、混沌(原始)に近いということを。

我如きでは役不足だということが。

だが、それは理によるもの。

根本が破壊の一点に収縮された我ら陰璽星瀾が、こと戦に遅れをとるわけにはいかない。

どうせ命が果たされることは無い。

ならば、我の快楽を満たさせて貰おう。

「…我が名は警醒(けいせい)

貴様の命貰い受ける」

(だいち)より与えられし真なる名を明かし、警醒は己を誇示するべく戦いに挑むのだった。




警醒。

世人に警告を与え、迷いから醒まさす。

そんな名を与えられし者、陰璽星瀾。

それが意味するものは、恐らく星の警告なのだろう。

「…警醒か、良い名だな。

お前には勿体無い」

覚者の意識が覚醒していく。

肉に一片までが完全な支配下に置かれ、(にくたい)(せいしん)が満たされていく。

「母より受けし名を愚弄するかぁ!」

「名を愚弄だと。

勘違いをするな。

俺が貶したのは貴様だ、否掌鬼よ」

覚者は警醒ではなく、静の犬である否掌鬼と言う名をわざと遣う。

「貴様がその名に相応しいか思案してみるがいい。

誇りを失い、生に執着した貴様には否掌鬼で十分だ」

金色の眼光が否掌鬼を射抜く。

「きぃ、きさまぁぁぁ!!!」

「命に背けば命が無いか。

刻印に縛られ、母の願いを吐き違えた貴様にはお似合いだな」

容赦のなく辛辣な言葉を投げかける。

「なら、己として掛かってくるがよい。

否掌鬼では無く、母より受けたまりし名に相応しい警醒として!」

「!!」

警醒は心頭に冷水を浴びせ掛けられたかのように、衝動が熱を失っていく。

「それとも幾許も無き命、否掌鬼として過ごすのか」

「…貴様は」

「即決しろ。

俺には時間が無い」

選ぶまでもない。

答えなど初めから決まっているのだから。

「…母なる大地の命により、人なるものに試練を課す。

我は土の意志、警醒。

いざ尋常に」

「ああ、受けて立とう」

「勝負ぅ!」




赤凪穂と警醒のリーチ長さはほぼ同等、つまりお互いの必殺の間合いも必然的に同じとなる。

赤凪は刀を鞘に収め居合いの型を取る。

本来居合いとは敵の不意打ちに対処すべく生まれた抜刀術に他ならない。

なら敵前で臨戦態勢でありながら、このように刀を納め、抜刀することに意味などあるはずが無い。

それに赤凪穂は普通の刀に比べ、異様な長さを誇る。

抜くという行為に対しても全身を遣い、抜刀を行わねばならないのだ。

態々居合いにする意味が果たしてあるのだろうか?

赤凪は捻転し、全身をバネのようにして力を溜めていく。

上半身が半回転するような恐ろしいまでの捻転だ。

鋭い眼光だけは相手を見据え、体中を軋ませながら深く深く溜めていく。

地に足を根付かせ、腰を落とし然と構えながら。

赤凪が居合いの構えを選んだのはイメージの問題だった。

相手は曲がりなりにも陰璽星瀾。

生半可な攻撃では皮膚にかすり傷一つ付けることも適わないだろう。

必ず全身を遣わねば抜けない刀。

抜く際に、腰の回転と両腕を引き離すようにして胸筋の反動を利用にして赤凪穂は引き抜かれる。

こうした過程を必要とするので判るとおり、抜く行為自体が全身運動を利用しなければならない。

如何に速く抜刀できるかが生死を分ける居合い(ふいうち)なら、尚更無駄なく引き抜けるかが問題となる。

それをそつ無くこなして赤凪にとって、居合いの型こそ最速に刀を振るえる構えとなっていたのだ。

イメージ的に最も信頼でき、且つ全身を連動させ加速を促せるのが抜刀術と言う訳だ。

二の撃など思考から排除し、己が眼を、己が四肢を、己が技能に絶対の自信を持つ。

高まっていく緊張感。

その中まるで清水の如く澄みやかで、心静に波紋が浮かぶのを赤凪は待つ。

その姿は大地に凛と立つ、大木を想わす。

ジリジリと警醒が摺り足で間合いを詰めてくる。

後数センチのところで停止し、互いに相手の瞳から目を逸らさない。

カタッ。

何処かで物音がし、二人の瞳孔が膨れ上がる。

警醒はその豪腕を力任せに赤凪に突き出していく。

その先は拳ではなく、手刀にし、僅かな距離と貫通力を得る。

何より突きは抜刀に比べプロセスが少ない。

赤凪はその光景を他人事のように俯瞰に観察していた。

迫り来る手刀は間違いなく赤凪を貫き、死に至らしめることの出来る威力を秘めていた。

赤凪が観察していたものは表向きなものではなく、本質的な流れを追っていた。

(其処かぁ!)

警醒の突きが半ばまで放たれた時、赤凪の抜刀が開始される。

鞘の鍔を滑走路とし、加速を促す。

野太刀独特の歪曲した刀身が鞘をから放たれ、腰、胸、肩、腕の順に連動して警醒の突き出してくる凶器に向かい、神速の抜き身の刃がぶつかっていく。

警醒は勝利を確信した。

正面からぶつかれば、ダイヤモンドに匹敵する硬度を誇る手刀は間違いなく刀を圧し折り、そのままこの男の胸を貫くと。

刀が手刀に触れた。

そこに音は無かった。

衝突が齎す衝撃も存在しない。

あるのは裂かれていく警醒の丸太のような腕だった。

驚愕が脳裏を占める。

肉が裂かれているはずなのに、そんな生生しさも伝わってこない。

そして痛みも。

呆然と己が腕に刃が通っていくのを見ているだけ。

赤凪の邪眼、いや、今は両極眼と言うべきだろう。

その瞳が捉えているもの、それは五行の相克。

肉体を動かす五行の循環、輪廻を正確に読み取り、流れの隙間を縫うように切れ目を入れ、五行其のものを切り裂いていたのだ。

裂いていく赤凪穂は土の力を絶つ。

裂かれた部位から肉体の崩壊が始まっていく。

細胞が外郭を失い中身を留めておくことできなくなる。

肉は肉で無くなり、血は血で無くなる。

現世には器なくして現存できないように創られている。

その器の外郭を固めている土の力が失せ、警醒の肉は現世に留めれなくなっていく。

両者共に全力を振り絞った一撃である為に、警醒にこの崩壊の刃をかわすことなど出来なかった。

刃は腕を分断していき、その先にある心臓をも引き裂いた。

赤凪穂が振り抜かれた。

警醒の右腕は腐り堕ち、胸の中は伽藍洞になっていた。

そして再開した血の流れが伽藍洞の胸から溢れ出していく。

(負けたのか、我は)

何故か敗北感よりも、満足感が満ちていた。

(我は否掌鬼ではなく、警醒として母に帰れるのだな)

「…名は、何という」

目前に迫る死を前に解放者に問う。

「赤凪だ。

それ以上でも、それ以下でもない。

俺の只一つの名だ」

「…そうか…」

(なんと強き者か。

我もそう在りたかったものだ)

「警醒、覚えておこう」

(!

…何処まで皮肉男よ)

知れぬ内に満面の笑みが顔に付いていた。

生まれてから此の方、こんな清清しい笑みを浮かべたことは無かった。

それだけにこの戦に意味はあったのだろう。

己が名と共に死ねるのだから。

口に付きかけた言葉を飲み込む。

(これで良い。

この男とは敵同士なのだからな)

土の力はどんどんと失せていき、肉体の崩壊は全身に及んでいく。

ゴフゥ。吐血が口内を溢れ、意識が朦朧としてくる。

「・しゃ・・・な・・」

刀を納めた赤凪は、崩壊に蝕まれていく警醒を静に見守っていた。

「お・・ぼえ・・てお・・く・・・」

絶え絶えにそう告げると、大地に伏していく。

それっきり、警醒が身動きをすることは二度となかった。




(警醒、さらばだ)

赤凪は警醒に背を向け、万の気配のしていた方向に疾走する。

(刻を獲られ過ぎた。

最早一刻の猶予も無い)

一陣の風が吹き、木々達の囁きが聞える。

(そうか、この先か)

囁きが導くままに、赤凪は万の居た場所を目指して走る。

警醒の生み出した土砂の波を被りながらも、逞しく聳える大樹達の間を駆け抜けると、見るも無残に割かれた大木が六つ、横たわっていた。

「…ばんじぃ」

この樹から生命の息吹は感じられない。

そして万の気配も。

(残っているのか、万爺。

この時代に俺を生かした理由)

そっと横たわっている幹を手で触れる。

(あった。

未だ、残っている)

赤凪はこの樹己の五行、木の力を注ぎ込み、残留思念を繋ぎ合わせていく。

それは万の願いを形作っていく。

そして壊れた蓄音機のように、千切れた思念を赤凪は読み取っていく。

(・・し・あ・・せ・・・・・なれ・・・。

わ・・が・・こ・・よ)

「…馬鹿が、死ぬ寸前まで人のことばかり気にしやがって。

何が幸せになれだ、誰が我が子だ、この耄碌(もうろく)爺が」

悪態を付きながら、赤凪は押し寄せてくる感情に流されないように強く拳を握る。

それでも、頬を濡らす雫まで止められないでいた。

「こ・・の・も・う・・ろく、じじ・いが」

悪態は次第に嗚咽となり、森林に響き渡る。

闇が白んでいき、朝焼けが月を滲ませていく。

それを見守るのは逞しき大樹達だけだった。




新鮮な空気が肺に注がれ、鬱勃とした気持ちを溶かしていってくれる。

万爺が残した言葉を胸に刻み込む。

感傷に浸り塞ぎ込むと、又鼎が心配してくるだろう。

戻るまでに切り替える必要がある。

新宮寺に差し掛かると、そこに男が立っていた。

血糊の着いた衣服をそのままに、どうやら俺の帰還を待っていたらしい。

「赤凪君、無事でなによりです」

どうも、この男の言葉は社交辞令にしか聞えない。

完全に言霊を押さえ、話しているからかもしれないが。

「君のお陰で鼎を無事に連れてくることが出来ました。

感謝します」

「顔に付いた血ぐらい拭った方がいいぞ。

鼎が心配する」

腫れて上に瞼が切れ、割と酷い顔がそこにあった。

「これは失礼」

左手袖で軽く顔を拭う。

そして、右手を差し出し、握手を求めてくる。

俺は左手を差し出し、相手を見据えた。

俺は利き手で、親愛の行為をこの男とするつもりはない。

意図が伝わるように、露骨に態度で示す。

仁は苦笑し、渋々左手で握手を交わす。

(!?

…この違和感は)

「赤凪さん!」

違和感の正体を考える暇もなく、鼎が此方に全速力で駆けてくるのが見えた。

居間から漂ってくる匂いが胃袋を刺激してくる。

「さあ、朝餉でも頂きましょう、赤凪君」

仁に促され、母屋に向かって歩みだす。

釈然としないものがあったが、戦いに明け暮れた体は食の欲から抜け出すことは難しいようだ。

俺は走ってくる鼎に

「ただいま」

とだけ言っておき、居間に並んでいるであろう、味わったこともない料理ぐらいは楽しみにしておく。

(万爺、凪穂にも伝えるからな)

あらゆる不完全な情報のピース。

伝承、陰璽星瀾、凪穂、万、静。

そしてこの時代に降り立った自分。

先見の利かない現状。

(確かなことは俺が此処に居る。

それだけだな)

それが全てを繋ぐ鍵になる確信があった。

そして幾つかの門は開け放たれて来た。

刻を刻むことに迷いは無かった。

真実への道は歩む決意と共に、空腹を訴える腹が鳴り響くのだった。

前半戦終了です。

後半分、お付き合い下さい。

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