赤朱演舞
[5 赤朱演舞]
伍馬。
それは五行と断罪になぞられ名付けられたと推測される。
だが、あの方は伍馬は業魔であると言った。
それはそうだろう。
世の在り方に逆らい、生まれた世なのだから。
波状に広がり、世界を呑み込むことで彼女の願いは成就されたのだ。
それが業でなくしてなんだと言うのだろう。
魔が満たす世界はそれに相応しい呼び名だと言えた。
そう、これは諦めきれない剛毅が引き起こした、人の咎。
だから、誰も私を責めることは出来ない。
それが神だとしても。
いや、神だからこそ。
この世界の基盤を創造しせしめた神だからこそ。
気分が優れない。
この状態を作り出したのは三つの要因。
体制を固め、衝撃を最小限に留めても、全身を強かに打ちつけたこと。
次に担がれた時に掛かる自分の体重の負荷。
これがお腹一点に集中した為にかなり苦しい想いをした。
最後にその負荷を最大限に発揮する上下のシェイク。
運ばれている以上、この上下運動はどうしようもなく、鼎の気力を削ぎに削いでいた。
腹に内出血の痣が出来ていることだろう。
(…き、気持ち悪い。
…お腹痛い。
…早く下ろして)
猿轡をされていては、赤凪に催促の言葉を伝えることができない。
縛られていては、抗議の行動すら起こせない。
今の鼎には、安全な場所へたどり着くまで荷物として運ばれるしかなかった。
端から見れば、誘拐されている状態にしか見えないだろう。
「おい、降ろすぞ。
立てよ」
念願の言葉が、鼎の耳に届く。
思いっきり肯首し、早く降ろしてと急かす。
降ろされると、赤凪は縄を噛み切り、鼎から猿轡を外す。
「顔が青いな。
大丈夫か?」
もう二度と聞くことが無いと考えていた声。
失う怯えが霧散し、湧き上がる安堵と歓喜が駆け巡っていた。
青い顔は赤味を帯びて、鼎の頬を染めていく。
制御を離れた体は衝動となり、赤凪に飛び付いていた。
「赤凪さん、赤凪さん、赤凪さん!!!」
鼎は赤凪の首元に腕を回し、存在を確かめる。
暖かく鋼鉄のじみた胸板が、鼎の胸に触れる。
心音が五月蝿く鳴り響き、意識を埋没させていく。
鼎は何も考えられないでいた。
と言うより、赤凪の内にいる安心感が思考を止めさせていた。
ただ、触れられる。
その行為がどれほど尊いものかを実感していた。
「落ち着けよ。
て、あんな事の後じゃ仕方ねえか」
赤凪は落ち着かせようと、機能している左手で鼎の髪を撫ぜる。
(これじゃ、昼と立場が反対だな)
守られる立場から守る立場に。
鼎の髪に触れながら、赤凪は優しく賺していく。
(失敗したな。
これじゃ未練が残る…)
内に生じた感情。
鼎を置いていき、危険に晒した罪悪感。
それと守る者のいる優越感による存在意義。
些細な事柄だが、死の世界に旅立つには枷となる。
人はそれを未練と呼ぶ。
(…もう少し頑張ってみるか。
せめて自分の存在を明かすまでは)
赤凪は生きる覚悟を決める。
それは願いなどに縛られていない、自分の意思で。
鼎の嗚咽がなりを潜め、赤凪の首に回されていた腕が外されていく。
「赤凪さん、もう大丈夫です」
鼻をグズらせ、袖で顔を擦っている鼎。
「なに顔隠してんだ?
隠すほどのものでもないだろうが」
鼎の中で、亀裂の走る音が聞こた。
「…どういう意味ですか?」
袖の下に顔を隠したまま、鼎は冷たい声音に転じていた。
「涙で濡れていようが、青っ洟を垂れていようが、並以下な面がそれ以下にはならないといっている」
鼎の中で、亀裂から何か欠けるような音が聞こえた。
顔から袖を離し、鼎が吼える。
「どうせ、私は並以下ですよ!
美人でもないし、綺麗でもないし、可愛くありませんよ!!!」
「可愛いとは想うぞ」
虚をつく言葉。
「えっ!」
「小動物みたいで」
割れた。
最後の持ち上げて落とす攻撃は、見事に自尊心を砕いた。
「赤凪さん!」
怒りで顔を染め上げる鼎に、赤凪は微笑を溢す。
「それでいい。
怒鳴っている方がお前らしい」
「…慰めてませんね、それ」
取りあえず、赤凪の目的はわかったが釈然としない。
赤凪の予定通りに事が進んだことに腹が立ってくる。
先ほどまでの感動の対面は、何処へいったのだろうかと。
「…あの、赤凪さん」
「帰るか」
赤凪が鼎を拒絶した理由。
それを聞こうとするが、赤凪にそれは遮られる。
(…帰る。
帰るってことは、帰ってきてくれるんだ!)
こうなると理由など微々たる問題だった。
気にならないと言えば嘘になるが、そこに触れ、又離れてしまうかもしれない恐怖の方があった。
「はい!」
でも、不安の拭いきれない鼎は躊躇しながらも、覚悟を決め赤凪の左手を握る。
想像していた手と違い、ゴツゴツとして硬い掌だった。
何度も皮が破け、そして順応を繰り返し硬く、硬くなった掌。
「ん、どうした」
「帰りましょう、一緒に」
鼎は吐き出すようにそう告げると、胸の中が軽くなる。
そして有無も言わさずに、新宮寺に向かい歩き出す。
引きずっても持ち帰るような、そんな勢いで。
異変に気が付いたのは玄関がものの見事に叩き壊されたいたことによる、視認だった。
スライド式のドアが奥へと打ち倒されており、見る影もないほどに破壊し尽くされていた。
「……なにこれ」
ポツリと鼎が漏らした。
蹂躙された母屋を前に呆然となる。
大災害を乗り越えた母屋が破壊の爪に引き裂かれ、無残に屍を晒している。
屍と称してやるのは行き過ぎだが、生活空間としては機能を失われた姿だった。
機能を留めているのは大黒柱のみ。
つまり、この母屋は立っている、其れだけ物と成り下がっていた。
「これを実行した者は居ないようだな」
赤凪は気配を探り、半径十メートル以内に生物の息吹は感じられなかった。
(毒島だ。
全員が出払っている間に、家捜しをしたんだ。
木霊の書を奪いに)
当然あるはずの無い物は見つからず、根底から覆すかのような家捜しが行われたのだろう。
強盗も真っ青な荒らしっぷりだ。
玄関からの帰宅は断念し、縁側の方に回る。
…戸がハンマー見たいなもので打ち壊されたような形跡がある。
そこから見える内部は悲嘆するしかなかった。箪笥の棚は全て取り払われて、中身は散乱して居間を埋めていた。破かれた着物、読み散らかされた文、原型が理解出来ないくらいに壊れた小物たち。
「これは又、夜風が沁みる風通しの良い状態に変わってしまったな」
人事みたいに感想を漏らす赤凪。
…人事だが。
鼎は放心しそうだったので、頬を軽く叩き活を入れる。
…赤凪に叩かれた箇所を打ってしまい、予想以の痛みがする。
「馬鹿だろう、お前」
痛みで蹲っていた鼎をみて、赤凪が空かさずにつっこむ。
鼎は心も打たれた気分になった。
「破片が散乱している。
足の裏を切るから履物を履いたまま上がれよ」
縁側から進入を試みようとする鼎に、赤凪は注意事項を促しておく。
鼎は土足で上がる抵抗感を持ちながらも、赤凪の言葉に従う。
足の踏み場もない荒れ様。
踏み出す度に何か踏み壊す音が響く。
バランスを保ちながら居間の中心まで進む。
どんなに目を凝らしても現状が変化するでも無い。
此処は思い出を埋葬する墓場だった。
「そう言えばお前ら、何で狙われているんだ?」
隣まで寄ってきた赤凪が疑問をぶつける。
(あれ、言ってなかったけ?)
記憶を遡ってみる。
……検索完了。
該当する会話はされた覚えがありません、と結果がでる。
「後で話します」
簡潔に返事をし、鼎は残骸の群れの上を移動していく。
廊下に出ると阻むものは少なくなり、歩くのに支障をきたさない程度の散らかり方をしていた。
見るのも怖いが、鼎は二階に向かうことにする。
ただでさえ軋み、破滅の足音をさせる階段の音量が増していた。
流石に階段に障害物はなく、スムーズに登ることが出来た。
が、その先はゴミ捨て場だった。
(これじゃ、うさたんの安否は期待するだけ無駄だな)
八歳の時にお小遣いを貯めに貯めて買った、苦心の一品だったのにと、鼎は内で愚痴る。
大きく、抱き心地が中々でお気に入り。
八歳の頃には同じくらいの大きさのウサギのヌイグルミを友達に見立てて、色々なことを話していたものだった。
鼎は歩を進め、手前の自分の部屋を覗く。
…落胆のため息がでた。
諦めてはいたが、実際目にするとショックは否めないでいた。
耳が片方や破かれ、お腹と頭の真ん中から刃物で切り裂かれた痕があった。
(此処まで調べる必要があるの!)
無残な姿に返られていたウサギのうさたん。
あんまりと言えばあんまりな仕打ちに憤慨し震える。
その鼎を余所に、赤凪は廊下の先に張られていた結界が消えていることが気に掛かっていた。
昨日の内に調べることのできなかった場所。
それが口を開けている。
(だが、荒らされた後ではな。
資料がどれほど残っているか)
赤凪は鼎を置いて、元結界があった先へ進む。
破壊された襖を潜ると、予想通りの光景が広がっていた。
「書物の類は何も無しか。
持ち去られた、って感じか」
在るのは布団と机のみ。
後は空き巣が持ち逃げたした状況だった。
「赤凪さん、そっちはどうですか?」
「ある意味で被害の少ない部屋だぞ。
反対のことも言えるが」
要領の得ない説明に鼎はバタバタと此方に遣ってくる。
「…納得です」
本に埋もれ、整理さえ断念していた部屋が一番綺麗になっているとは、皮肉としか思えない。
赤凪の肌に、ピリピリとする感覚がした。
それは窓辺から流れ込んでくる不穏な空気。
とても懐かしく、それでいて嫌悪感抱かずにはいられないそんな空気。
瘴気と呼ばれるものが。
「まさか!」
赤凪は窓辺に駆け寄り、瘴気の発生している場所を探す。
(この感覚、あれが此処にあるのか!)
嫌悪感の正体は近親嫌悪。
これは間違いなく自分と酷似する存在。
瘴気は母屋の裏手から立ち昇っていた。
赤凪は躊躇もなく二階の窓から身を乗り出し、そのまま落ちていく。
段差を軽く降りたように着地すると、裏手に向かい走る。
「ちょっ、しゃ、しゃなさん!」
上からなにやら声がするが、赤凪はそれどころではなかった。
裏手に周ると、打ち壊された扉がそこにもあった。
どうやら蔵らしく、そこから瘴気が噴出していた。
まるで冥界に続く洞穴の如く。
臆する事無く蔵に足を踏み入れ、瘴気の先を探る。
中はこれまた殆どが持ち出されていて、伽藍洞だった。
蔵の右端に梯子が備え付けられており、地下へと潜れるようになっていた。
(これは吹き溜まりだな。
一寸した地獄だ。
先に警告しておくか)
まともな人間が此処に入り込んだら、瘴気に充てられて身動きすら取れなくなる。
鼎に注意を促しておかないと、大変なことに成りかねない。
「赤凪さん!
何処ですか!」
(ほら、来た)
早速危惧が的中しそうだった。
赤凪は急ぎ蔵から出ると、鼎を捕まえることにする。
声の方角を見ると、そこに鼎が表から周ってきていた。
「止まれ!
そのまま動くな!」
「へぇ?」
「いいから、そこに居ろ」
理由も知らぬまま、赤凪の言われた通りに渋々と止まる。
赤凪は近くまで駆け寄る。
「お前、抗の行を行ったことがあるか?」
「抗の行ですか?
あはははは」
鼎の乾いた笑いが答えとなっていた。
修行をサボること十四年。
そんな鼎が、意思力開放抵抗術の修練に手を付けているはずが無い。
普通に符を行使するのも怪しいというのが現状なのだから、当然と言えば当然だろう。
抗の行を慣行していれば、多少の瘴気や殺気などから精神を保護することが可能となる。
「なら、此処で待ってろ。
あの蔵から瘴気が噴出している」
「瘴気って、…お父さん、何を造ってたんだろう」
「造っていた?」
「あそこは父が工房として使っている蔵なんです。
術具の生成は父の得意分野ですから」
(あれは違う。
あの一品は凪穂が手掛けたものだ。
この感覚、間違えるはずがねえ)
「取り合えず、待ってろ。
いいな」
念を押し、赤凪は蔵に戻っていく。
蒸せるような瘴気の只中に入ると、梯子に手をかけ下りていく。
ほんの十段程の梯子を降り終えると、割と広い空間があった。
だが、そこは背丈が五十センチほどで三つ目を称え、獲物を刈り取るために備え付けた牙と爪を持ち、緑色の皮膚に覆われた化け物が点在していた。
これらは山に住まう魑魅と呼ばれるもので、吹き溜まった瘴気を乗せられ幽世から漏れ出し、具現化を果たした化け物たちだった。
それが地下を埋め尽くしていた。
(現世に憧れるか、縛られものたちよ。
だが、此処はお前たちの世界ではない)
宛ら地獄絵図の箱庭だった。
床に原型は人の形であったであろう者たちが、幾らか転がっていた。
魑魅が現世に舞い出でた祝いをするかのように、その肉を喰らい、血を啜り上げていた。
(瘴気に充てられ、動きを奪われたところを襲われたか)
魑魅が生の匂いを嗅ぎつけ、死体から赤凪に矛先を変える。
未だ声まで具現化出来ていないのか、醜い大口から空気の洩れる音すらさせていない。
一体の能力は大したことないが、この狭い空間で小型の化け物を相手するのは骨が折れる。
しかも、数が丁度指で数えれるほど居た。
(十体ね。
足りないな、後五十匹は用意してくれないと相手にならない)
瘴気に交じり合い、赤凪の殺気が狭い空間を占拠する。
具現化し損ねていた魑魅はそれだけで現世の楔を失い消え失せる。
残り八匹。
恐らく、一番血肉を味わったであろう魑魅が、人を裂く快感に覚え、それに溺れ赤凪へと飛び掛ってくる。
が、そこには赤凪の姿は無く、空中で後ろから頭部を掴まれる。
パシャ。
軽い破裂音と共に魑魅の頭は粉々に弾ける。
水風船が破裂し、緑色の液体が飛び散り赤凪を染める。
その横から次なる魔が襲い掛かる。
握りつぶしたく拳を開き、手刀とする。
機敏な動きを見せる魑魅だが、赤凪の方が間合いが長いため攻撃の筋を見切っている地点で勝機は有り得ない。
正面に向き合い、手刀を落とす。
魑魅の爪は赤凪の肉に触れることも無く、顔面から股間にかけて肉を削ぎ取った痕がつく。
そこから体液を噴出しながら、手刀の勢いで床に叩きつけられ、ゴム鞠のように転がっていく。
魑魅は知能の片鱗を見せ、赤凪を残り六匹が囲んでいく。
後方から飛び掛り、右後ろ、左前、左後ろ、右前、正面の順番で波状攻撃に転じてくる。
「つまんないよ、お前ら」
そう言い捨てると、振り返り、一歩前に進みと最初の獲物の腕を掴み、ハンマーの如く振り回す。
迫り過ぎていた魑魅三匹は魑魅ハンマーに横から強打され、残りは飛び込んだ勢いを殺せず赤凪に爪を見舞おうとする。
だが、ハンマーにされて絶命寸前の魑魅を盾とした赤凪がそれを迎え撃つ。
正面と右前の魑魅が魑魅を貫いた瞬間、綺麗な円を描いた回し蹴りが魑魅三匹を纏めて横へと薙ぎ払う。
足に直接触れた魑魅の脇腹に甲がめり込み、反吐を撒き散らしながら残り二匹を巻き込み、壁に衝突する。
パンッ。
その衝撃に奥にいた一匹が皮と骨を残し、体液を壁にぶちまける。
浴衣の裾が蹴り潰した魑魅の体液で汚れていた。
最早身動きの取れるものは、この地下に赤凪以外居なくなっていた。
一命を取りとめ、生き長らえた魑魅も痙攣を起こし、起き上がる気配は無い。
戦場で止めは刺しておかねばいつ寝首を掛かれるかわからない。
痙攣している魑魅に近づき、一つ一つ頭を踏み潰していく。
ピシャ、ピシャと四度ばかり液体の飛び散る音がすると、辺りは静けさにだけが留まった。
「さて、又、有象無象と湧き出す前に瘴気を止めるか」
赤凪はぼやき、瘴気の発生している奥の間へと進む。
そこには力を秘めていたであろう、煌びやかな装飾された玉が四点あった。
その内一つに罅が生じており、四つを繋ぐ糸が断ち切られていた。
(封印か。
それでお前が感じられなかったのか)
そこに一振りの刀が鞘に納まっていた。
鯉口から瘴気を無尽蔵に噴出していた。
「なにを苛立っているんだ。
俺はここに居るぞ」
それに応え、瘴気が薄まっていく。
「…難儀なものだな、縁というのも。
三百年の刻を得ても巡り会うか、赤凪穂よ」
赤凪の生まれは、裏御三家を担う高坂家だった。
その高坂家を絶縁される前に持ち出した、霊剣穿罫。
いつしか戦場を駆けずり回る内に、人の念を宿し妖刀と相成った。
それは、赤凪の手に収まっている時のみ穏やかな顔を見せ、戦場では血を啜る凶剣として赤凪の傍らに必ずあった。
鬼退治の命を朝廷から受けた際に、凪穂がそれを火にくべ、鬼斬り刀赤凪穂へと昇華させた。
契約の印として己の髪も火にくべて。
「こんな所で燻っているのは不服か、半身よ。
なら、俺と共に来い」
鞘を掴み取る。
それが合図となり、瘴気の噴出が止まる。
その直後に髄を蝕むような感覚が全身に駆け上る。
(なぁっ、これはあぁ!!!)
相反する二つのものが体の内で鬩ぎ合い、駆け上がってくると同時に神経系がズタズタに引き裂かれていく感じが迸る。
一つは自己を形成する紡ぎ、一つは歴史を語る紡ぎ。
その両者が鬩ぎ合いの果てに胸を穿つ。
(なんだ、これじゃあまるで夢と同じ!)
何処にも穿ったものは無く、それが行われた証として胸の辺りに直径三十センチ位の痣と、皮膚が裂けてもいないのに浴衣をべっとり濡らす血が付着していた。
(何故、何故死なぬ!
…止めろ、止めろ、止めろぉ!)
頭の中を聞き覚えの無い声がこだまする。
「誰だ!
どういう意味だ!」
赤凪の叫びが地下に反響し、不協和音を作り出す。
胸を押さえ込み、気ふれそうな意識を奮い立たせ、維持する。
(凪穂、それでいいのか?
そんなことをすれば、お前は)
今度は万爺の声が脳裏に響く。
こんな当惑に満ちた万爺の声は聞いたことが無い。
(赤凪。
又、巡り会えるよ、私達。
だから…)
最後は凪穂の声。
そこで崩壊を促す衝動は幕を下ろした。
気が付けば、赤凪は赤凪穂を杖代わりにし、何とか上体を支えていた。
「はあ、はあ、はあ…」
絶え絶えの呼吸が正常値に戻っていく。
冷静に成りきれない思考が一つの違和感を見つけ出す。
(俺、右手で体を支えている)
魑魅との戦闘の時も動かせず、片手で行っていた。
その右腕だが、陥没した肘が通常の配置の戻っており、動かすのに支障が無い上に痛みすらなかった。
(疑問が多すぎる。
何から考えたら良いんだ…)
赤凪は最早、驚く気にもなれない。
三百年後の世界。
死んでいる筈の自分。
無くなっている記憶。
明かに人の限界を陵駕した肉体。
ここまで来ると、暫くは感情が麻痺して多少のことでは動じなくなるだろう。
(これで一つ露呈したな。
この体は昔の体ではない)
だが、全く別ものかと聞かれれば、それも否定される。
一つは暗示についてだ。
赤凪の使用している身体能力高上の暗示は、精神だけでなく肉体暗示もされている為に、器が変わってしまえば、その暗示は使用不能となる。
もう一つは邪眼についてだ。
本来、悪霊や降魔、魑魅魍魎から日本を影から守る裏御三家に生まれる者は、受け継がれし血により浄眼を授かることが多い。
だが、赤凪は反転していた。
生まれながらにして邪眼を有していたのだ。
特殊なもので、これも器が違えば持ちえていないだろう。
罪が見えるのはこれのお陰なのだから、間違いなく邪眼をこの体は持っている。
余談だが、赤凪は忌み子として一族から除け者され、時には命さえ狙われる中で育った。
特に実の父と兄には毒を盛られたり、夜中に暗殺を仕掛けてくる等と、尋常ではない環境で生き延びてきたのだった。
濡れた胸に手をやる。
エンブリオに裂かれた傷も無くなっていた。
(胸の風穴か…。
紡がれようとしているのか、記憶が)
凪穂の講釈が思い出される。
{木の力の本質は紡ぐ。
なら、人に例えていうなら、記憶になるんだろうね。
積み重ね、育み、受け継ぐ。
これらを総合し人格が形成される。
だから、それを紡ぐことこそ記憶なの}
そう凪穂は語った。
(…この時代に紡がれたものとは)
曖昧な現状が、あり得ない凪穂の言葉を否定できなくなっていた。
(…巡り会おうか。
本当にそんなことが出来るのか)
余りに突拍子もない想像を振り払い、赤凪は鼎が待つ地上に這い上がっていく。
「あ、赤凪さん、てっ、なんですか、その姿は!」
頭から被った緑色の体液。
胸には血の跡。
それらが交じり合い異様な変色をしていた。
それに体液は異臭を放ち、長いこと嗅げば頭痛すら起こしそうな悪臭を放っていた。
「怪我、そう怪我はないんですか!」
問われても、なんと答えていいか赤凪は逡巡した。
「…ああ、治しておいたから平気だ」
当たり障りがなく、可能な返答を返しておく。
「…給湯器ぐらい生きているだろうから、取り合えずお風呂にでも入って下さい」
流石に風呂場まで瓦礫にしたということは無いだろうと想い、鼎は提案する。
「風呂か…、そうだな、戴こうか」
赤凪は頷くと、風呂場に近い玄関口に向かい歩き出す。
「ところで、その刀は?」
鼎は、何処かで見た覚えのある柄模様をした刀に注目していた。
「こいつが瘴気を吐き出していた妖刀、赤凪穂だ。
お前の記憶の中にもあるだろう、俺が握っていた刀だ」
鼎は納得したと同時に疑問も浮かぶ。
「何でお父さんの工房にそれが?」
「それは俺の台詞だ」
(あの男、やはり油断ならないな)
能面のように此方を見据えて感情を写さない瞳。
あれは、世界に絶望した者の眼だった。
(解る。
あれは俺の視界と同じ昏闇を彷徨い、灯火すら讃えていない伽藍洞な瞳だ)
赤凪は不機嫌に顔を歪めながらも、哀れに想う。
能面は所詮、素顔を覆い隠す仮面だと言うことを。
赤凪は赤凪穂を眺め、ふっと息を吐く。
月明かりが照らし出す地上を確認し、今を噛み締めていた。
配線盤は無事だったのが幸いし、暗闇に埋没しなくてすんでいた。
給湯器も作動音をさせ、今しがたお湯を張り終えたところ。
鼎は赤凪がひとっ風呂浸かっている間に、浴衣を文字通り掘り出していた。
邪魔になりそうな瓦礫は庭先に放り出し、居間の一画に畳に二畳分の広さを確保した。
黒一色で統一された浴衣が綻びもなく見つかった。
(…お父さん、大丈夫なのかな)
浴衣を見、昨日から帰宅していない父の安否を気遣う。
基本的にマイナス思考の鼎の脳裏には、最悪の事態がグルグルとリフレインしていた。
その想像の引き金となるのは、二階で引き裂かれていたヌイグルミの姿だ。
(…そんなこと無いよね)
浴衣を胸に抱き、在るはずの無い温もりを感じようとする。
…少し埃臭い。
埋まっていたのだから仕方ないとため息を付き、浴衣を叩く。
「そろそろ、出てくるだろうから、持っていこ」
更衣場に浴衣を運んでいく。
今では室内を靴で移動するのに抵抗を感じなくなっていた。
「赤凪さん、着替えを持ってきましたよ」
そう言いながら不用意にドアを開けてしまう。
…真っ白け。
二度目の裸の鑑賞ながら、思考は停止してしまう。
未だ風呂場にいて、更衣場に居ないと思い込んでいたために起こった事故。
鍛え抜かれ、脂肪の片鱗すら無い肉体。
白く決め細やか肌には傷らしきものは無く、視線を釘付けにする。
濡れた黒髪が妙に色っぽく、心臓が高鳴っていく。
(…はっ!)
「…キィヤァァァー!」
鼎は鼓膜を突き破りそうな悲鳴を叩きつけた挙句、赤凪へ浴衣を投げつける。
下半身に視線がいく前にその場から逃げ出していく。
「あ、あのな、悲鳴を挙げたいのは、こっちだっていうに」
残された赤凪の呟きを聞く者はいなかった。
「御免なさい、御免なさい、御免なさい!」
ひたすらに頭を下げる鼎。
「ああ、わかった、わかったから、頭上げろ」
どうもこの娘に、赤凪はペースを乱されていた。
痛いところを突かれ、突拍子もない行動や発言に驚かされ、その上無垢ときている。
どす黒い環境で育った赤凪にして見れば、純白の木綿のような存在に思えた。
(愚直とも言えるが)
僅か二畳のスペースに二人腰降ろし、互いに向かい合う。
掘り出した時計に拠ると、現在午後九時を回った所だった。
「さて、情報整理だ。
俺に現状が理解を把握してない。
どういった事情で家捜しが行われたのか分かっていない」
「ああ、そうですね。
それを説明するには、三百年の間の出来事を知ってもらう必要があります」
「何で又」
「それは、私達の一族がこの国を牛耳っているからです」
「新宮司がか」
意外な話だった。
朝廷の生き盾として抹するが宿命の新宮司が、国の上にいるとは想いもしなかのだ。
「はい。
正確には新宮司、現当主、新宮司 静姫がです」
(静だとっ!
……まさかな)
「約三百年前に鬼を引き連れた静姫は、帝を殺害し、この国の頂点に君臨しました」
「なっ、三百年前だと!
じゃあ何か、静かって言うのは、三百年前に生きていた、あの静か!」
「えっ、知ってるんですか!」
「そんな馬鹿な。
…あいつは俺が殺した筈だ」
殺した。
シンプルで且つ、凶暴性が露である言葉。
平然とこれを口にするだけ者はいるが、簡単に実行できる者が口にするのとでは恐怖の度合いが全く違った。
それが、真実だとわかる分に。
「殺したって、なら人違いでは?」
引きつる声に注意しながら、鼎は感情を表に出さないように努力する。
「あの時代、新宮司に静なる者は一人しか居なかった。
仮によそ者だとしても、新宮司の名を語るのは利益が無さ過ぎる。
新宮司は供物だからな」
「あっ、そうですね。
あの頃の新宮司は人柱になるのが定めでしたから」
「わざわざ、新宮司の名を語る意味が無い。
とすれば、それは新宮司の者と考えるのが妥当。
…なら、本人かもしれない」
「でも、殺したって」
「影武者だったのかもしれない」
「凄い人だったんですか?」
「凡庸な人間さ。
あいつは凪穂の腹違いの姉で、当主の座を狙い、凪穂を亡き者にせんと策略を巡らせていた。
当主だけは血の連なりを絶やさない為に、人柱から除外されるからな。
それに鬼を使役するということは、五行の一画を極めるということだ。
あいつにその才が無い。
そんな事の出来るたまじゃない」
赤凪は忌々しく吐き捨てる。
どれだけ、静と言う人物に憎悪を感じているかが伺えるほどに。
「命欲しさに、暗殺を企てる奴だ。
器が知れている」
「なら、偽者ですかね」
「其の方が信憑性があるな。
だが、三百年前と言うのが気に掛かる。
金の行を収め、肉体の老化を沈静化させれば理論上可能だが…。
それを可能にするとは、どれ程の力の持ち主なんだ」
「…あのう、因みに静姫の使役する鬼は三匹なんですけど」
「なっ、馬鹿な!
それこそ不可能だ!
陰璽星瀾は大地の五行だ!
それを三体も使役するなど、人の業ではない!」
「だから、静姫は五行を極めし者と言われています」
「五行を極めただと。
…あの静がか」
「でも赤凪さん、本人で無い可能性の方が大きいのでは?」
「まあ、そうだが」
「あ、でもそうすると、何で新宮司と名乗ったんでしょうか?」
「分からん。
すまん、だいぶ話が逸れたな。
で、どうして狙われているんだ?」
「実は、お父さんがその静姫の要求を呑まなくて。
…命知らずにも」
「…要求?」
「お父さんが書いた木霊の書というものを寄越せと」
「木霊か。
で、それで敵対した訳か」
「お父さんには何か考えがあるんです、…きっと」
その無為の親子の信頼関係に、赤凪は微笑を浮かべる。
(俺とは豪い違いだな)
産みの親に蔑まされ、非人道的な扱いを受けた記憶しか赤凪には持ち合わせていなかった。
兄弟も又嫉みをぶちまけ、降り注ぐかのような暴力を振るい続けた。
忌み子、畜生、真逆子と呼ばれ、名を呼んでくれる者は誰もいなかった。
凶祓いの家系に凶者が生まれたのだ。
血の繋がりで殺されなかっただけ、ましだった。
(凪穂以外に信頼できる者なんていなかったな、俺は)
赤凪と凪穂。
同じ境遇に位置した二人が心を通わせたのは、必然と言えた。
「で、その親父殿はどうしたんだ。
昨日から姿が見えないが」
赤凪は意識をしないで、皮肉を含んだ言葉をこぼしていた。
「……」
鼎は黙り込み、俯く。
…失敗した。
状況が状況だけに、洒落にならない皮肉になってしまっていたからだ。
考えれば、こんな状況で娘をほったらかしするのは、意図的か、せざるに得ない状態に晒されているかだ。
「…大丈夫ですよ。
お父さん強いし、狡猾だし。
だから、帰ってきますよ、今日にでも」
何の確証も無い、脆い言葉。
羅列にしかならないその言葉は、不安に満ちた水槽に恐怖を注ぎ込みあふれ出しそうな感じだった。
「…探すか?」
それは、余り意識して人に優しくした覚えの無い赤凪の精一杯の言葉だった。
「えっ」
「探せばいい」
繰り返し、述べる。
「どうやって」
「お前を探したのと同じ方法だ。
追身符により場所を特定する」
「探せる…」
鼎はその言葉を噛み締め、少し青ざめていた顔色が戻っていく。
「だが、最悪の事態と状況は想定していろ」
赤凪は冷たく、現実的な項目をあげる。
覚悟は決めておけと、その視線が語っていた。
鼎は唾を嚥下し、喉の渇きを潤す。
だが、乾ききった喉にはその程度の水分はまるで意味がなかった。
「…最悪の事態、状況」
「事態は言うまでもあるまい。
状況の方は、捕まっていると仮定される。
だから、敵の本陣に赴くことになり、歓迎を受けることになるだろう。
…簡潔に言おう。
戦になる。
血の海が広がるのは火を見るより明らかだ。
お前は此処に残れ。
足手まといだ。
それに、見たくないだろう、骸の山は」
赤凪は軽く赤凪穂を上げて見せる。
それが飾り物ではなく、実用的な人殺しの道具だと認識させる為に。
実際、赤凪穂は歴史において万人の生き血を啜った、れっきとした妖刀だった。
元が鉄ながら、赤き刀身に染め上がっているのはそれが所以である。
「お前は此処の雑木林に隠れてろ。
朝方には戻る」
これが赤凪がかけて遣れる最高の優しさだった。
だが、
「…着いていきます」
鼎は俯き加減だった顔を上げ、意志を強く漲らせる瞳を向けてくる。
「…お前、人の話を聞いていたのか?」
「…ここにいても、狙われている私が危険な事には変わりないと想うんです。
なら、足手まといでも、連れて行った方が安心できると思いますよ」
「…あのな…、はあ」
これは梃でも動きそうに無い。
置いていけば、何を仕出かすか分かったものではないと思案する。
「…覚悟はあるか。
悲鳴を上げず、歩を緩めず、屍の道を行く覚悟が。
無ければ、何も言わずに此処に残れ」
これが条件だと付け加え、鼎の返事を待つ。
これが赤凪の譲歩だった。
「………」
鼎は瞼を閉じ、真剣に考えを巡らしていた。
「分かりません」
それが鼎の答えだった。
「なら」
残れと続ける前に、鼎が言葉を紡ぐ。
「でも、此処で行かなかった後悔をします。
…我慢しきれない悲鳴が喉を突くかもしれません。
余りの震えに足が竦み、踏み出せないかもしれません。
それでも行かないで、朝を迎えるよりはましです。
覚悟はあります。
ただ、それにそぐわない結果に成るかもしれません。
努力はしますから、連れて行って下さい!」
(たく、この娘は)
覚悟があると、口から出任せの軽い言葉を吐けば、鼎を気絶させていこうと考えていた。
(何処までも馬鹿正直なんだか)
「…俺の負けだ、連れて行ってやる」
「赤凪さん!
ありがとうございます!」
「…感謝は皆で戻れてからで良い」
無事と付けない辺りが、戦を楽観視していない赤凪の性格だろう。
「なら、準備は念入りに済ませておこう。
俺は符の何枚か作成しておく。
腹ごしらえを頼む。
昼抜きでそろそろ堪えてきたところだ」
結局、エンブリオの事件で昼を食べ損なった。
どうも、赤凪は三食しっかりと食べる事が出来ないらしい。
「腹がすいては戦は出来ないですね。
分かりました!
食べる物を探してきます!」
確か昨日買い込んでおいた食糧がある筈と、瓦礫を踏み越え台所へと鼎が消えていく。
(さて、俺も符に成りそうな物でも探すかな)
その時、部屋の隅に固められた文の束が目に入る。
鼎がこの二畳のスペースを作り出すときに集めたものだろう。
(大事な物か。
…使う訳にはいかないか)
赤凪は上の紙を手に取り、内容を走り読みする。
{静様の容態は日に日に悪化するばかり。
このままでは、失われるのも時間の問題かもしれません。
こんな事を言って困らせるのも憚られますが、木霊の書の完成をお願いします。
私ではお助け出来ない。
貴方だけが頼りです。
どうか、あの方をお救い下さい。
瑚之恵より}
(静が病魔に犯されている?
失う?
木霊…。
何か引っかかる。
まるで…)
「赤凪さん、好き嫌いはありますか?」
台所から顔を出した鼎が訪ねていた。
赤凪は思考が中断され、文を慌てて背中に隠し平然を装う。
(てっ、何を焦ってんだ、俺は)
「別に無い。
選り好みするほど、裕福な生き方していない」
「わかりました。
直ぐに、持っていきますね」
「あっ、待て!
ちょっといいか」
顔を引っ込めようとした鼎を呼びとめる。
「はい?」
「この文は遣ったらまずいか?」
態々かき集めてあるのだから、分かりきったことなのを聞いてしまう自分が恥ずかしかった。
まだ燻っていた焦りが、そうさせたのだろう。
「それは駄目です。
お母さんの形見みたいなものですから。
紙が必要なら私の部屋の机に残ってましたよ。
後、墨もありましたから、それを使ってください。
…下着は漁らないでくださいよ」
悪戯っぽく笑う鼎。
「……」
(虐めか、これは)
赤凪は仕返しを受けている気がして、憮然とした表情になる。
「返事は」
「はい、そんなことは致しません」
「宜しい。
じゃあ、お互い準備しましょうね」
(はあ、俺っていったい)
いつも平行線な関係に、ため息と苦笑をする。
(俺の方が立場的に下なんだろうな)
勝てないなとぼやき、鼎の部屋へと道具を取りにいくのだった。
準備は整った。
腹も膨れ、装備も揃った。
符も何枚か作成し、戦力の増強は成った。
腰に差した赤凪穂が主力武器となる。
刃渡りだけで参尺もあり、野太刀と呼ばれる毛抜形と同じ使用で、柄の部分が刀身と一体化されて反り返っていた。
赤凪の体格からして、大振りな代物に感じる。
だが、違和感は無く、在るべき場所に収まったピースのようにも見える。
境内の下に降りると、そこは夜が支配する時刻。
仄暗く、夜行性の野鳥の鳴き声が静けさに充満し、ピンとした空間にこだましていた。
コンクリートの道先は闇に閉ざされており、先を見据えることも出来ない。
壁と闇が人を遮り、箱に閉じ込められたような錯覚すら覚える。
山沿いにある新宮寺は周りにはこれといった外灯も無く、隣にいるはずの存在すら希薄に感じてしまう。
「赤凪さん、居ますよね」
鼎は馬鹿なことを口走ったと思いながら、隣に手を伸ばすと赤凪の着物の裾に指が触れる。
「何だ、怖いなら残ってもいいんだぞ」
「行きますよ!
怖いけど」
最後は小声で洩らす。
この辺りを唯一照らす月も、今は叢雲に覆われ赤凪達に光は降り注いではくれない。
赤凪は水を得た魚のように、意気揚々と闇を纏っていた。
其のまま溶け込んでしまいそうに想えるほどに。
「さて、例のものを」
赤凪に用意しろと言われた父の品を渡す。
嵩張らず、風に乗るもの。
それが赤凪の出した品の内容だった。
で、鼎が用意したのは髪の毛だった。
「中々的確なものを選んだな」
赤凪の口から、お褒めの言葉が述べられた。
髪の毛を符の裾に結わえる。
「…あの、一つ質問してもいいですか」
「なんだ」
「私を探すときもその符を遣ったと言ってましたけど、私に繋がる縁はどうやって確保したんですか?」
あの時遣われた追身符は葉を符に見立て、血で式を綴ったものだった。
本来、木の性質を生かすための紙であり、血を混ぜ込んだ墨で描かれるもの。
代用品としては申し分が無かった。
ただ、この符は人との繋がり、つまり縁を媒介とし、相手のいる場所まで導いていく代物なのだ。
だから、今回は仁と繋がる縁として、本人の髪の毛が用意したのだ。
「…繋がってないか、俺らの縁」
「えっ?」
「お前の親父は兎も角、俺とお前は其れなりの縁で結ばれているだろうが。
だから、念を込めるだけでお前の元に符は飛んでいく。
それだけだ」
(つまり、私と赤凪さんは最早他人ではないと…、うひゃあ!)
鼎は想像が別方向に行ってしまい赤面してしまう。
嬉しいやら恥ずかしいやらで、頭が熱膨張しそうだった。
夜でよかったと、今日初めて闇に感謝した。
「何を赤らめているんだ?
変なやつだな」
「……」
どうやら、この暗がりでも赤凪の目には色彩すらハッキリと映し出しているようだ。
鼎は黙する事しか出来なくなり、虚空に眼を逸らすのだった。
「準備万端、怠りなしと…。
さて、行くか。
追!」
深淵なる底を照らす光が生まれ、赤凪の上肢から白き羽は飛び立った。
鼎は煌々とした面持ちで神秘的な光景に見とれていると、肩に手をかけられ、膝下に腕を通されていた。
「なっあ、なにするんですか!!」
「ああ、五月蝿い!
黙ってろ!」
抱き抱えられ、戸惑う鼎に赤凪は怒鳴り返してくる。
「俺の符は力加減というものが存在しない。
場にある龍脈の強弱で飛ぶ速度が決まる。
お前の足では追いつけない速度になることもあるだろう。
故に俺が運ぶ」
符はいきなり猛スピードでアスファルトの上から密林へ疾走していく。
「えっ、ちょっと、何処にいくの!」
「しかも、最短距離しか進路をとらないから、始末が悪い。
捕まってろ!」
そこから鼎の記憶はとんでいた。
それほどスリリングに満ちた体験だったとだけは覚えていた。
夜風を切り裂く疾風と悲鳴が山々に響き渡った。
何で俺がこんな講義せにゃならんのだ。
…たく、あ、分かったよ、遣るよ。
遣ればいいんだろ。
第二回、符術講座を開催する。
ちゃんと聞けよ。
今回は属性についてらしい。
五行には木、火、土、金、水の属性が存在する。
其々に意味があり、効能はそこから来ている。
木は紡ぎを司る。
今回使われた追身符などは、この木の模式が扱われている。
物にも、者にも、存在に滞在する繋がりが必ずある。
そこら辺を遣った術は木の五行に拠って行える。
例えばだ、肉体構造に精通した者が術を行使すれば、切断された指ですら繋ぐことが出来る。
基本的に有機物にしか効果は無く、使いどころは割りと狭まり、汎用性は低い。
火は動を司る。
何でも西洋の科学とか言うものでは、原子運動とやらが活発化すると熱を生み出し、低下しより停止に近い状態になると冷たくなるそうだ。
そう言った動きを制御することにより、発火させたり、冷却させたりと重宝する。
火なのに冷とはこれいかにって感じだがな。
土は御を司る。
主に無機物に対して有効で、物理的な制御力を得る事が出来る。
操遠符等の操る術はこの土の力を扱う。
金は変化を司る。
これが一番難解な術式と行使方法が要求される。
治療によく適応される為、汎用性は高い。
極めれば細胞の対応年数すら変化させ、不死に見劣りしない躯に造り替えることも可能と言われている。
後、浄化や解除などの法も金に属する。
水は流れを司る。
滞るものは濁り、腐敗していく。
故に、この力は命そのものと言っても過言ではないかもしれない。
流れは操り風を吹かせたり、水流を巻き起こしたり出来る。
こんな感じだ。
これだけ聞けば符術は万能に想えるが、所詮は人の五行。
遣いすぎれば命に関わる。
程々にしておくことをお勧めする。
まあ、俺に忠告できるのはこれくらいのもんだ。
後は好き勝手に遣ってくれ。
[解説者、赤凪]
目眩がする。
乗り物酔いのキツく、グルグルと目が回っている。
落下は十メートルぐらいの高さから、上昇は一機に三階建ての建物まで。
速度は時速六十キロは堅いのではないだろうか、人間が持続して出せる速度ではなかった。
下手なジェットコースターより濃密な体感だった。
漸く地に足を着いたときには三半規管は正常に働いて無く、壁に凭れ掛かる形で身の安定を保っていた。
(…生きた心地がしないよぅ)
迫り来る壁。
一瞬で移り変わってしまう景色。
全身に叩きつけられる大気の層。
それら諸々が鼎の精神の根底から気力を奪っていた。
(この先大丈夫かな、私)
これから見るであろう光景は、鼎の心にしこりを残すだろう。
それに耐えうる精神力は、到着までに削ぎ落ちていた。
「…これは又、天を突きそうな建物だな」
鼎の隣に、視界を覆い尽くす巨大な建物を呆然と見上げる赤凪がいた。
三十階建ての高層ビル。
その高部窓に張り付いている白き符が、米粒のように輝いていた。
見たことも無い大きさの建築物に赤凪は、はあぁと感嘆の声をあげた。
建造物の側面は清潔な白色で、高さは権力の象徴であるかのように周りにある建物のはるか上まで聳え立っていた。
これが支配者の居城であるかを誇示しているようだった。
実質、支配者の繋がりを持つ者の棲み処なのだから、間違ってはいないと言えた。
「…毒島コーポレイション。
そんな気はしたんだけど…」
門構に備え付けられている看板を見て、鼎は呟く。
新宮司の経済力の一角を賄っている、毒島コーポ。
毒島は新宮司の末端になったばかりの新参者ながら、優れた商業力で組織を駆け上がる出世株の一人だった。
何より毒島が術者で無いにも関らず、これほどの地位を手に入れられたのは、鋭い着眼を持ち合わせていたからだろう。
それにより一代で会社を立ち上げ、世界の中枢まで登り詰めたのだ。
その毒島が静姫の遣いとして、仁の元を訪れたのは偶然なのだろうか。
「あの箱はなんだ。
此方を見つめているが」
赤凪が指差す方角を見ると、確かに箱が設置されていた。
只、それにはレンズと送信用のケーブル付けられていた。
「あっ」
迂闊にもこんな敵地の眼前で会話していた鼎は、自分のマヌケさに目眩がした。
監視カメラの前でノウノウとしていたのだ。
「…お迎えが来たような」
黒服の男たちが自動ドアを潜り、赤凪たちの前に立ち塞がろうとした。
囲みが完成する前に赤凪が地を蹴る。
微かに反応した者達も居たが、殆どが構えることも、対処することも出来ないでいた。
それ程までに赤凪の身体能力は、現代人の基本値を遥かに超えていた。
人は経験を積むことで、新たな実力を手にする。
これは格闘技や剣術などにあたる。
そして基本能力は鍛え上げることにより、破壊力と速さを磨く。
これが身体能力となる。
同じ経験を持つ者同士が闘うとき、片方が二倍の身体能力を持っていた場合、実力は二倍にはならない。
少しでも身体能力が上回っているだけでも、歴然の差となり、経験が同じなら尚更、勝率は圧倒的数字を叩き出すだろう。
その上で凶器となる武器の選択、相手を不利な状況に追い込む戦術、そしてそれらを使いこなす柔軟な思考。
これらを総合すれば、赤凪と黒服の戦力対比は300:1という程の差が出てくる。
ここまで差が有れば赤凪にとって黒服は烏合の衆でしかない。
駆け寄る赤凪に反応できた者は懐から凶器を取り出そうとするが、鞘ごと振るった赤凪の一太刀に薙ぎ払われ、隣にいた者たちを巻き込み跳ね飛んでいく。
自動ドアから湧き出てくるもの達達は、それを見て動きが凍りつく。
(…戦場で動きを止めるとは)
戦場で動きをことは殺してくれと言っているのと同じ。
黒服達の隙を使い、赤凪は赤凪穂を持ち、刃を鞘から開放する。
まるで手の一部みたいに刀が馴染む。
約三メートルのリーチを手に入れた赤凪は、未だ動きを凍らせている軍勢に正面から脅しの一撃を見舞う。
擦れあうような摩擦音が生じる。
片腕で振るわれた斬撃は地を薙ぎ、コンクリートの床に切れ目を入れた。
素早く二撃、三撃、四撃を加えると床が捲れあがり、空中に三角柱の塊が斬撃の勢いで浮き上がっていた。
重さを持ちえた物体が空中に跳ねたような感じではなく、発泡スチロールがフワリと浮いたような感じで。
赤凪が三角柱に蹴りを加えると、自動ドア目掛けてコンクリートの柱は飛来した。
「ひっいいいいっ!」
横幅四メートルはありそうなコンクリート柱がガラスを砕きながら、数人の黒服を下敷きにした。
「やれやれ」
軽く飛び、石柱の上に着地する。
「「「ギヤヤヤアァァァ!!!」」」
下からもがき苦しむ声がするが、無慈悲にその上で跳躍する。
悶絶し、何人かの意識が途絶える。
「覚悟しろっ!」
何やら叫びながら、此方に筒を向けてくる者がいる。
(馬鹿が。
普通、合図して攻撃をする、素人か)
赤凪は短筒を矛先から身を逸らし、ガラスの破片を拾い投げ放つ。
銃弾が数本の髪を千切り飛ばす代わりに、男の手元のガラスが刺さり短筒を落とした。
距離は十メートル。
刀を裏返すと、一歩で間合いを詰め、首筋に壊れ物を扱うような軽い斬撃を打ち込む。
打ち込まれた男は白目を剥き、そのまま地に伏せる。
(…可能かもしれないな。
鼎に赤い道を歩ませずに済むかもしれない)
それは殺さずに、場を治めるということに他ならない。
それがどれだけ自分に負担を掛けるか承知の上で赤凪は覚悟を決める。
(鼎を歩かすには残酷過ぎる道だ。
なら、遣ってやろう!)
赤凪は殺さずを誓う。
それに反論するかのように、赤凪穂が仄かに振るえる。
(血を欲するか、この妖刀め!
だが、今回はお預けだ!)
振るえが収まり、又体の一部に戻っていく。
その間に、通路の先で銃口を構えた男たちが此方に標準を構え終えていた。
「撃ってえっ!」
リーダーらしき男の合図により、一斉射撃が開始される。
銃声次ぐ銃声。
室内な為、ヘルツが乱反射し鼓膜に凶暴な振動が叩き込まれる。
広いホールだからこそ鼓膜の破損まで至らなかったが、これが密閉空間なら鼓膜は破れていただろう。
それ程、屋内での銃声は凶悪な音を響かせるのだ。
その圧倒的な銃声が、横から聞える筈の足音を掻き消していた。
突然脚に力が入らなくなり、次々に床に倒れ付す黒服たち。
本人達も状況を把握しきれずに、崩れた体を起こそうとするが足から反応が返ってこないでいた。
恐る恐るにそれぞれが、反応を失った足に目をやる。
「ひっひいいいい!」
そこで脳が状況を認識をしてしまい、激痛が各自を襲う。
アキレス腱と膝の裏側にある神経。
それを血管を避けるように切断されていたのだ。
膝裏には手首と同じく、大動脈と大静脈があり、それが切られていたらこの者達は致死量の出血で死に至っていただろう。
だが正確無比に、可能な限りに血管を避け肉体と脳を繋ぐ腱だけを切ったのだ。
動かない者が相手でも、果たしてこのような行為が出来る人間がいるだろか。
医者も脱帽な解体術だ。
神業と呼ぶに相応しい。
長年人殺しに専念していた日々が、赤凪に肉体構造を把握させていたのだ。
効率よく殺す方法を導き出す為に。
神経を切断したのだ。
その痛みは尋常なものではない。
殆どの者が武器を投げ、激痛を発する両足を抱え込む。
誰も、赤凪の高速なる動きを捉えることが出来なかったのだ。
「赤凪さん!」
鼎の遅い悲鳴が響いたのは、赤凪が事を終えた後だった。
銃弾の雨は虚空を通過するだけで、本来の目標は悠然と後ろで配線という神経をを斬っていたのだ。
無力化にする為、黒服達の鳩尾辺りに蹴りを入れ、意識を刈り取っていく。
最後の一人の意識を奪い取ると、赤凪はガラスの破片が散乱している入り口に戻り、鼎を手招きする。
「上に行くぞ」
短く用件だけ伝えると踵を返し、赤凪は二階に続く階段へと進んでいく。
「あの、こっちを使った方が」
階段に向かう赤凪に対して、鼎は小声で提案をする。
「ん」
振り返ると、壁を指している鼎がいた。
「何もないぞ。
虚言は控えておけよ」
「違います!
あれはエレベーターと言って、上に運んでくれる機械です」
「きかい?
…壁がか?」
この世界の常識が抜け落ちている赤凪に一つ一つ説明するのは、物事の起源からの説明を要する。
これは階段を自力で三十階を登るのに匹敵する。
精神的に。
「いいです。
階段で行きましょう」
翌々考えれば、待ち伏せされている可能性がある以上エレベーターは格好の的だと鼎は考え直した。
自分から捕まえてくださいと言っているのと同じようなものだ。
「鼎、そこの壁に引っ付いて隠れてろ」
階段から駆け下りてくる複数の音が聞えてくる。
赤凪は素早く階段を駆け上がると、敵と直線状に並ぶように構えておく。
怖いのは不意にくる対処しきれない攻撃。
なら、初めから自分を曝け出し、攻撃の道筋を把握しておけばそれは解決できる。
しかも赤凪の動きは、瞬間なら亜音速に近い。
これなら攻撃の方角さえ理解しておけば、難なく銃弾を躱すことができた。
(気配が止まった?
これは九字護身法!)
足音が消え、替わりに赤凪の聴覚が四階辺りから聞えてくる禊祓詞を聞きとった。
「臨、兵、斗、者、皆・・」
(やばい!
隔離される!)
赤凪の速度を持ってしても、ここまで紡がれた禊祓詞を阻止するには距離が開いていた。
二階と四階では距離がありすぎた。
(なら、術の媒体と成りうる物が近くにある筈!)
肉弾戦で敵わぬと知るや、直ぐに術戦に持ち込んだ辺り、一筋縄ではいかないようだった。
赤凪は感覚の精度を上げる。
「陣、烈・・」
九字の内、七つが完成した。
(あった!)
清浄なる気配が周囲四箇所から発せられていた。
その一つに赤凪は赤凪穂を投げつける。
「在、前」
九字護身法が成る、…が何も起きない。
赤凪穂に刺し貫かれた風景画の後ろから人の型を模した木彫りが現れ、真っ二つに成って階段を転げ落ちていく。
「破られたか!」
四階からする声。
赤凪は赤凪穂を回収し鞘にしまうと、疾風の如く四階まで駆け上る。
その間に符を一枚取り出し、印を結び出す。
右の手を剣に象り、左の手を鞘に象る。
腰にをき右手を抜きて、四縦五横に切る。
一臨、二兵、三闘{斗}、四者、五皆、六陣、七裂{烈}、八在、九前の順に。
手刀で縦、横、縦と九回切り、最後に気合を込めて切り落とす。
「戯封言禁!」
術士が視界に入ると、符を高らかに掲げ発動語を唱える。
「…!」
空気の振るえや音は存在したが、場から声が失せた。
それに伴い、術士達は声を切り口にする術を封じられたことになる。
本来、魔の者の戯言やまやかしを封じる為の符術だが、こういった使い方を赤凪は好んで使う。
さすれば、肉弾戦に持ち込めからだ。
術を封じられた者はうろたえることなく構えを取り、懐から短刀を抜き出す。
落ち着いた対処に、赤凪は胸の内で感嘆する。
だからと言って術者が、赤凪の動きを捉えることは出来ない。
四人の術者は、先番に二人が階段を滑るような滑らかな動きで赤凪に凶刃を振り翳す。
赤凪は鞘ごと腰から抜くと、凶刃が迫る前に先駆けする二人の鳩尾に、突きを叩き込む。
目にもとまらない突きは、二人の精神を奪い取る。
が、その上から波状攻撃の第二陣が繰り出されていた。
だが、赤凪は何事も無いように緩やかに足を下げ、半身で突きの構えを取る。
この行動を見た術者は驚愕した。
余りに自然な動きでありながら、それは恐ろしいほど早く、自分たちが空中で静止してしまった錯覚に襲われていた。
波状の隙のない筈の連携が、隙だれけであるかのように。
突きは又も正確に鳩尾にめり込み、残り二人の術者は赤凪の横から階段を転がり落ちていく。
悲鳴すら戯封言禁に禁じられ、痙攣するだけで伏していた。
(なっ!
下に気配が移動しているだと!)
一階に向かって移動している気配の群れに、赤凪に焦りが生まれる。
(下には鼎が!)
発動している符を破り捨て、大声を張り上げながら下へと駆け下りる。
「鼎っ!
上に昇って来いっ!」
「はい?
何か言いましたか?」
言われた通りに壁に張り付いている鼎。
一階と四階では声は届いても、内容まで伝わっていない。
(失敗した!
えれべーたーとかいうやつか!
鼎の話をしっかりと聞くべきだった!)
迂闊、油断、無知。
どれも当て嵌まらない。
もし、このミスを招きだしたとすれば、それは激変し過ぎた時代に放り出されたことによるものだった。
(間に合えっ!)
赤凪は体を傾け、全力で階段を滑り降りていく。
「赤凪さん!
どうしたんですか!」
未だ律儀に壁に引っ付き、隠れている鼎。
その時、チンという機械音が聞える。
「へっ?」
鼎の抜けた声がホールに響く。
それに伴い黒服の団体がエレベーターから沸いて出てくる。
「ひゃあぁ!」
鼎は悲鳴をあげ、階段へと逃げ出す。
「女の方だ!
殺すな、捕らえろ!」
黒服達は逃げ出した鼎を捕まえるべく、行動を開始する。
女の子と体を動かす事を生業としているものとでは、身体能力差は歴然。
あった距離はあっさりと縮まっていく。
「来ないで!」
鼎の願いは通じず、手首をガッチリとつかまれてしまった。
「大人しくゴオアッ!!!」
鼎を掴んだ男の顎を、掌底がきれいに打ち上げる。
つかまれていた手から力が抜け、男はフラフラと後退していく。
「女性の扱いは、デリケートにお願いしたいものですね」
今度は顎を押さえている男のがら空きの顔面に、ストレートの拳が絵に描いたように決まる。
鼎は呆然と救いの主を見詰める。
「大丈夫ですか、カナエさん。
遅ればせながら護衛に戻らせてもらいます」
「エンブリオさん!」
美術品の様に完成された美しさと、人間味溢れる表情を兼ね備えた男が悠然と鼎の庇う位置に佇んでいた。
「おっと、お喋りは後回しの方が良いみたいですね。
…殺すなよ、デミタス」
「あいよ」
やる気のない返答が、何処からともなく帰ってくる。
「えっ、誰か居るんですか?」
鼎は周りを見渡すが、誰も居ない。
声はすれど姿は見えずというやつだった。
黒服達が前触れもなく倒れていく。
「安心してください、私の仕事仲間です」
「鼎っ!」
赤凪は階段を途中から飛び降り、鼎の前に着地する。
「しゃ、赤凪さん!」
「…えんぶりお、貴様が何故いる」
赤凪は敵意剥き出し、エンブリオに問い質す。
「仕事です。
本来はこちらが目的でね。
それより、話はこの状況を抜け出してからにしませんか?」
雰囲気が一変し、赤凪とエンブリオ両名は鼎を抱え横に跳ぶ。
その瞬間、元居た場所を銃跡が穿たれた。
「馬鹿者が!
娘に当たったらどうするつもりだ!」
叱咤が響いた。
(…鼎への危害は禁止されている?)
赤凪の胸に安堵と疑問が過ぎる。
「えんぶりお、鼎を頼む」
それだけ言い残すと、姿を見せない襲撃者とは反対の方角から切り崩しにかかる。
十数名の黒服が全員を悶絶させるのに、一分と掛からなかった。
最後の一人、鼎への攻撃を叱咤した指揮官の男だけが、惨状の只中に取り残されていた。
「…質問がある。
拷問には自信がある。
早めに吐いた方が身のためとだけ言っておこう」
「誰が喋るものか!」
プロとしての誇りがそうさせるのか、はたまた只の強がりか。
赤凪にとってどちらでも良いことだった。
「あの娘の父親、仁なる人物はお前たちの手の内か?」
後ろに控えている鼎に視線を送りながら、世間話でもするように話す。
「…だ・れ・が…」
ガチガチと歯を打ち鳴らし、男は後ずさりしていた。
変貌していく雰囲気がジワジワと恐怖の警報を打ち鳴らしていた。
男は何度か戦場を駆けたことも、幾人の者を亡き者にしたこともある。
それこそ自分の命をも道具にし、感情を押し殺し機械のように殺しに勤しような経歴を持っていた。
それが彼のこの仕事に身を置く自信であり、生き残る為の武器でもあった。
だが、目の前の男が吐き出す気配はどうだろう。
置き忘れてきた恐怖を呼び覚ましていく。
「もう一度聞こう。
仁と言う者はお前たちが捕らえているのか」
近代戦闘に慣れ親しんだ彼は知らなかったのだ。
間近で感じる殺気が、狂気に深淵に漂う濁りの塊であることを。
そして赤凪が発している雰囲気は、飢えた獣の群れの中に無防備に放り出されたのと変わらない絶望感を沸き立たす。
彼の積み重ねた自信が脆く儚く、そしてどれほど醜いものかを認識した。
「は・いぃ・・。
さん・じゅっかい・に・・かん禁・・して・・・・います」
「そうか、眠ってろ」
無意識に白状した男の首に、手刀が落ちた。
男は昏倒し、場に戦の音はなくなった。
「必要な情報は聞き出せたようですね」
「…お前、未だ居たのか。
消えて良いぞ」
「しゃ、赤凪さん!
そんなこと言わなくても!」
冷たくエンブリオに言い払う赤凪に対し、鼎は抗議をする。
「いいんですよ、カナエさん。
カナエさんが無事でいてくれれば」
「……」
赤凪は二の句が告げられないでいた。
鼎を守る為に死を否定したのに、その目的を危うく果たせなくなるところだった。
しかもそれを救ったのが、よりのもよって鼎の安全より罪人を狩ることに優先したエンブリオと来たものだ。
それを知っているからこそ、この厭味な切り替えしは効果的に機能していた。
「やな男だな、貴様は」
「初めて言われましたよ」
苦笑しつつ、エンブリオは虚空を一瞥する。
「デミタス、いつまで隠れているんですか」
「いやあ、ショウタイフメイのカタガきでイこうかと」
「馬鹿なことを言ってないで、出てきなさい。
じゃないと、このナイト殿に八つ裂きにされますよ」
「ないと?」
「ナ、ナイトとだなんて!」
二者二様の反応を示す。
赤凪は意味が解らず、眉を八の字に。
鼎は顔を朱に染め、あたふたしている。
エンブリオの視線の先の柱の影から、黒いコートに身を包んだ男が足音も無く表れる。
最初に目に付くのは、刳り貫かれた跡を残している片目。
男は隻眼だった。
「クックックッ。
これまた、カワイらしいおヒメサマで。
では、ワタシもそのキシのヒトリさせてモラってヨロシイでしょうか?」
騎士というより、暗殺者。
しかも何処かたどたどしい日本語が怪しさを強調していた。
「デミタス、からかうのは止めておけ」
「イヤイヤ、オレはホンキだぜ。
なんせ、カタブツのおマエがホめたジョセイだ。
おニイさんはオンナにキョウミがないのかとシンパイしていたのだよ。
ヨかった、キミがノーマルで」
「…笑えんぞ」
エンブリオの絶対零度を思わす、冷たい声音が響いた。
「ジョ、ジョウダンだよ。
…たく、からかいがいのあるヤツだな」
デミタスと呼ばれた男は、わざと聞える程度のの小声で後半部分を口にする。
「娯楽を興じたいなら此処いろ。
俺の邪魔をしなければ、命は助けてやる」
赤凪は漫才を繰り広げる二人に呆れ、敵味方の判断を下す為に脅しをかける。
「ナニ、こちらのヨユウのないおニイさんは?」
赤凪は痛いところをつかれ、沈黙してしまう。
自分でも何を焦っているのか分らずに、がむしゃらに事を進めることしか出来なくなっていた。
そこには余裕はなく、無様な結果だけが存在していた。
「ズボシか。
なら、オちツいてコトにノゾみな。
センジョウでマモるモノがイるなら」
「…」
「…シニンはゼロ。
これが、コタえかい?」
「えっ!」
鼎は倒れている黒服達を見る。
痙攣したり身動き一つしない状態だが、どれも致命傷になりそうな怪我を負ってなかった。
酷くても腱を断たれ、再起不能がいいところだった。
死を散乱する筈の場に、その影は在りはしなかった。
「どうして…」
「おヒメサマ、アンタのタメだよ。
このオトコはヒツヨウサイテイゲンのコウイで、バをオサメるつもりでいたんだ。
ダレもスきコノんでアカいウミはワタりたくはないだろう?
そんなキヅカいが、このオトコにタンリョクとヨユウをウバった」
見透かした物言いに、赤凪の奥底にどす黒い感情が沸きあがってくる。
「わ、私は」
「鼎は黙ってろ。
これは俺の問題だ」
赤凪の押し殺しているが声が、余計に鼎の心情を荒だたせる。
「ほざくのは勝手だが、憶測で物事を口にすると取り返しのつかないことになるぞ」
「ヤカマしいこのクチでもフウじるかい?
それはコウテイってことだろ」
「…本当に喧しい口だ」
赤凪は本能の命じるままに赤凪穂に手が掛かる。
が、その上に細い指が掛かる。
「…駄目です。
私は歩きますから、だから赤凪さん、こんな理由で抜かないでください」
その指にはまるで力の篭っておらず、震えていた。
(…俺は何をしようとしている。
これでは本末転倒ではないか)
「なるほど、こいつはジョウダマだ。
エンブリオがキにカけるワケだ。
そしておマエさんがそんなムボウなコウイをジッコウしているかがワカったよ」
愉快なものを見たと言わんばかりに、暗殺者は笑い出す。
「ムクだが、ユウキとケンメイさをモちアわしたおジョウさん。
このデミタス、シバラくアナタのツユハラいになりましょう」
デミタスと名乗った男は方膝を床に付き、鼎に頭を垂れる。
「えっ、えっ、あ、あのう」
何事もなかったように立ち上がる。
「とイうワケで、ヨロしくたのむは、カナエちゃん。
そして、ムッツリニイちゃん」
その後、デミタスは豪快な笑い声を上げる。
「…なんなんだ、この男は」
赤凪は、いつの間にか相手のペースに乗せられ、感情を揺り動かされていた自分があほらしく思えてきた。
「…こう言う男です。
喧嘩するだけ、損ですよ」
横に移動してきたエンブリオが、赤凪に声をかける。
(…やな奴の多い時代だな)
内で舌打ちし、戸惑っている鼎の元へと歩み寄っていくのだった。




