信念膠着
[4 信念膠着 (しんねんこうちゃく)]
燦燦と降り注ぐ日差しが、瞼の上から淡い光を眼球に送ってくる。
背中がだるい。
ちゃぶ台にうつ伏せに臥していたのだから、曲がった背中がだるいのは仕方ないことだった。
(そうか、私、居間で寝ちゃたんだ)
覚醒していく意識。
父が心配で、居間で帰りを待っていたのだ。
寝間着に半纏を羽織った格好。
その姿で居間で写本作業をしていた筈なのだが、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
肩に僅かな重みと暖かさがあった。
(あれ、毛布なんか被ってたかな?)
未だ、春先なので割と冷えこむ。
起きておくために丁度良いと、寒さに身を委ねていたの筈だったが…。
(これ、赤凪さんのだ)
我が家には客室等という気の利いた部屋はなく、居間は赤凪の就寝の場でもあった。
昨晩、カリカリとペンを走らせながら、視界の隅に布団に横たわる赤凪の姿があったのを思い出した。
(…無防備な寝顔を晒してしまった)
顔に熱が篭る。
伐が悪いことこの上ない。
理由も聞かずに飯を抜いた。
なのに、親切にして貰うとは。
…後、自分の無防備さにも火が出る想いだ。
(よく考えれば、危ないシチュエーションだったのでは)
男と女が一つ屋根の下、夜を明かす。
…思わず、想像してしまった。
「よう、起きたか」
「はぁいぃぃ!」
妄想の途中に声を掛けられたものだから、素っ頓狂な悲鳴が口から発されていた。
「…大丈夫か?」
「あ、はいはい!」
心臓音が五月蝿いくらいに高鳴る。
顔とは言わず、体全体の毛細血管が開き、朱へと全身を染めていく。
鼓動がうるさい所為で、耳鳴りまでしてくる。
「ん、風邪か?
そんな場所で眠るからだ、馬鹿ものが」
「違います!
大丈夫です!
至って健康です!」
理性の働いていない状態で吐き出される言葉は、羞恥を増幅させていくばかりだった。
今この状況を抜け出す術は、この場を離脱するしかない。
「わ、わ、わたし、顔洗ってきます!」
「お、おい」
赤凪さんから逃げるように居間を離れ、二階の自分の部屋に駆け込む。
襖を閉め、そこにへたりこむ。
穴があったら入りたい!
そこで眼に付いたのは、昨日の夜に引いて置いた布団。
布団に飛び込み、枕に顔を埋める。
(恥ずかしいよ、恥ずかしいよ、恥ずかしいよ!)
目尻に涙が溜まる。
こんなに恥ずかしい想いをしたのは初めてだ。
責任は自分に在るから余計にだ。
(どうやって赤凪さんに顔を合わせたらいいんだろう!)
赤凪さんとまともに会話出来ない自信があった。
その原因は…、検討がついていた。
彼を、生まれて初めて男として認識してしまったからだ。
同年代の知り合いではなく、男の人として…。
(もしかして私、赤凪さんに惹かれてる?)
近くに対象になる者が居なかっただけに、私はこういった感情に疎い。
(確かにハンサムだし、口は悪いけど優しいし、関心が尽きなくて、それで…。
…そう、一途な人)
凪穂。
彼の心の半分はあの少女が占拠している。
時より見せる笑みは、恐らく彼女との思い出によって浮かぶものなのだろう。
心を許した者だけに見せる微笑み。
私には向けられない、微笑み。
(……)
悔しいと想った。
(やっぱり、惹かれてるんだ)
赤凪さんへの好意を確信してしまった分、更に辛くなった。
もし、好意が想いに変わっても、それは届くことは無い。
それだけは分かっていたから。
「ハアァ~」
特大のため息を吐いていた。
(顔、合わせたくないな。
このまま、部屋に篭っちゃおうかな)
ギシ、ギシ、ギシ。
最近、御馴染みに成りつつある階段の軋み音。
(まさか)
軋みが途絶え、襖越しに人が居る気がする。
「鼎、やっぱり風邪か?」
躊躇いがちな声が聞こえてくる。
(…心配してるのかな)
「何か食べた方がいいぞ。
作って遣りたいのは山々だが、材料も道具も使い方が分からん。
どうしたらいい?」
(…馬鹿だな、私)
布団から出、襖を開ける。
「お、大丈夫か?」
私だけに向けられた言葉。
(今はこれでいいじゃないか)
少しだけ心の踏ん切りが付いた。
私は諦めが悪い方だ。
それにこれから時間もある。
なら、悲観するものではない。
「平気ですよ。少し眠っちゃっただけですから」
「そうか」
赤凪さんから、空腹を教えるぐぅ~という音がお腹からしてくる。
「悪い」
お腹を押さえ、頬を染める赤凪さん。
「直ぐ、ご飯の用意をしますから、下で待っていてください」
クス、クスと笑いが溢れてしまう。
赤凪さんは照れくさそうに頭の後ろを掻きながら、階段を下っていった。
(さて、美味しいものでも食べさせてあげますか!)
こう言うのも楽しいかもしれないと想う。
相手は罰で夕食を食い損ね、飢えた子羊。
ご飯を餌に、昨日の言い訳が出来るか試してみよう。
自然と顔に微笑が付く。
心には先ほどの暗さは微塵も無く、晴れ晴れとしたものになっていた。
刻々と時間は過ぎ、時刻は十時を回っていた。
朝食を終え、父の帰りを待ちながら、昨日の続きを始める。
カチ、カチ、カチ、カチ…。
ゼンマイ式の仕掛け時計が妙に耳に障る。
イライラが募り、集中できない。
カチ、カチ、カチ、カチ…。
赤凪さんは物欲しそうな子供のように、その時計を眺めていた。
カチ、カチ、カチ、カチ…。
「壊さないでくださいね。
時計って、結構高いんですから」
不安になり、一様注意だけはしておく。
(ああ、ダメだ、ダメだ!
今日中に教練に進むんだから!)
カチ、カチ、カチ、カチ…、バキッ!
異音が耳に届く。
「言ってる側から、解体しないでください!」
「…壊すつもりはなかった」
赤凪さんの手中にある時計は、原型を留めておらず、無残な残骸に成り果てていた。
これで、この時計は二度と耳に障りる音を出すことはないだろう。
「あったら困ります!
どうやったら、握り潰せるんですか!」
「…再現しようか?」
困り果てた赤凪さんは、とんでもない提案してくる。
「結構です!
次、こんなことをしたら、昼抜きですからね!」
(はあ~。
このままだと、家内道具が全滅するのも時間の問題なのでは…)
…あり得そうで笑えなかった。
昨日を見る限り、赤凪さんの現代における知識は皆無と考えて差し障りはないだろう。
しかも、何にでも興味を持ち、触れ、解体をしようとするから始末が悪い。
これも今朝から集中できない要因となっている。
眼を離すのが恐ろしいのだ。
(赤ん坊か、この人は)
嘆息を付く。
野放しにしておけば、ここがゴミ捨て場と変貌を遂げてしまう可能性がある。
父のことは心配で家に居たいが、彼を放置できない。
帰宅する家が無かったら、父も浮かばれないだろう。
それに確証はないけど、確信はしている。
父は無事だと。
だから、この野獣に常識を叩きこむべく、予定を繰り上げることにする。
「赤凪さん、町に行きましょう」
「まち?
何処だ、そこは」
「…そうですね、都みたく、わんさかと人が居て、活気に溢れている場所です」
「都か、…いい、行かない」
好奇心旺盛な赤凪さんのことだから、直ぐに食いつくと想っていたのだが、予想外の返事が返ってきた。
「ど、どうしてですか!」
動揺してか、どもってしまう。
「…都は好きじゃない。
後、人の集った場所もだ」
らしくない台詞な気がした。
苦笑して見せる赤凪さんの表情に暗い影が差す。
(都には、凪穂さんとの想い出があるんだ…)
察してしまった。
「駄目です。
赤凪さんに拒否権はありません」
湧き上がってくる感情を押し殺し、冷たく言い放つ。
「これは赤凪さんの常識改善の為の企画です。
町に出て、常識を学びましょう」
「…別にまちとやらに行かなくても」
「下着を手拭いと間違えるような人に、権限はありません」
急所を突いた。
赤凪さんは頭を垂れ、私は勝利を収めた。
「それに凪穂さんの思い出に引きずられていたら、前に進めません」
完全に余計な一言だった。
押し殺していた感情が少しだけ垣間見せた、黒い感情。
その瞬間、空気が体積を得たように重いものに変貌を遂げた。
赤凪さんが手の内に残っていた時計の残骸は、粉微塵に粉砕した。
「え!」
赤凪さんは時計の破片で切れ、血に濡れた掌で私の首を捉えた。
「ぐぅ」
粘りつく粘液が首に付着した。
それまでの朗らかな雰囲気は掻き消え、心臓を鷲みされたような、鋭くて息苦しいものへと変化していた。
「…何て言った」
微かに緩められた握力。
その緩みのお陰で、止まっていた呼吸を何とか再開することができた。
「何て言ったかと聞いている」
肺に供給されているのは酸素ではなく、火薬だと想えた。
喉焼き、肺を焦がし、躯をじりじりと蝕んでいく。
敵意等と言う生易しい気配ではない。
殺意までも到達してはいないが、それでも気が狂いそうな重圧が圧し掛かってくる。
苦しくて、眼を開いた。
そこで見たのは声音では測れなかった、感情に翻弄されている瞳だった。
憤慨、戸惑い、悔しさが入り混じった、孤独な子供の瞳。
「何故、凪穂の名を知っている!」
過ち。
迂闊な一言だったことを悟る。
その名は赤凪さんの内にだけ秘められたもの。
赤凪さんが一度たりとも口にしなかった、大切な名。
記憶を覗いてしまった為に、知ってしまった事を忘却しており、迂闊にも嫉妬に任せて口にしてしまったのだ。
私は萎縮している心に、叱咤した。
伝えないといけない。
記憶を見たことを、そしてごめんなさいと。
「やはり、お前も新宮司の者ってことか、何処までも姑息な!」
赤凪さんの台詞はよくわからなかった。
でも、血を吐くかのように罵倒しているのに、今にも泣きそうな顔をしているのだ。
「しゃ、なさん、き、いて」
呼吸がままならない上に、声帯を押さえてけられ言葉が巧く紡げない。
それでも、苦しくても伝えないといけないと、必死に言葉を発する。
また少しだけ握力が緩む。
首を濡らしていた赤い液体が、首筋を滴っていく。
「何をだ。
俺を嘲笑っていたことか」
「そんな事してないです!」
あてこすってくる赤凪さんに、弁解を試みる。
「私、あの夜、父を助ける為に伝承に縋りました。
それで、ばんさんに赤凪さんにお願いしろと言われ、伝承通りに赤凪さんの手を握りました。
そうしたら、赤凪さんの記憶が流れ込んできて、…その時に凪穂さんの事を」
「出任せを言うな!」
万力のような掌に力が籠る。
赤凪さんが本気にならば、花を摘むように首の骨は折れるだろう。
それを考慮すれば、赤凪さんは私を疑いきれていないのだ。
「ほ、んと、うです」
偽りがないことを示すため、赤凪さんの瞳を受け止める。
「しん、じ、てくだ、さい」
途切れ途切れになりながらも、内容を一字残らず伝える。
これは謝罪。
その気が無くても、騙し、欺き、裏切っていた。
敏感で繊細。
赤凪さんの不安定な心を傷つけたのは確かなのだから。
だから、逸らせない。
その怯えた瞳から。
首から手が外される。
瞳に理性の光が戻ってくる。
私は咳き込み、失われていた呼吸を再開する。
暫くして落ち着くと、赤凪さんは話しかけてくる。
「どうして黙っていた」
「…記憶を覗いたことが、心を覗いてしまったようで。
…言い出せませんでした」
赤凪さんは思案顔になり、暫しの沈黙が訪れる。
後に合点がいったような表情をして、いつもの口癖を言う。
「…馬鹿たれが。
それは万爺の所為だ。
お前が責任感じてどうする。
それよりも秘匿されていた方が勘に障る」
私は怒られているのに、とても嬉しかった。
「…ごめんなさい」
私は頭を垂れながら、涙腺から溢れてくる雫を袖で拭き取る。
「お前が見たものを聞かせてくれ。
それで堪忍してやる」
「あ、はい。
でも、その前に」
赤凪さんの手を掴む。
傷は深かったらしく、未だに血が止まっていない。
「治療しないと」
「これか。
大丈夫だろ、これくらい」
「ダメです!
…責任感じます」
「わかった。
なら、紙と墨を持ってきてくれ」
手首の動脈を軽く押さえ、赤凪さんは止血をしている。
手馴れているところを見ると、怪我をするのは日常茶飯事なのだろう。
私は促されるまま、二階に駆け上り、符術ようの切り揃えた紙と墨、そして筆を急ぎ掴と、急ぎ一階に戻る。
「俺が書くから準備をしてくれ」
頷くと、赤凪さんの前に紙を置き、墨で満たされた入れ物を横にセットする。
赤凪さんは墨に未だ止まっていない血を滴らす。
そこに素早く筆をつけ、符に術式を描いていく。
術式は、変化を司る金の式。
五行に振り分けられた方陣が描きこまれ、その上に見たこともない術式が加えられていく。
あっという間に、一つの符が完成した。
「よし、後は」
符を血に濡れないように摘みあげると、赤凪さんは縁側か草履を履き、雑木林の方角に歩き始めた。
私は理由がわからないので、取りあえず付いていくことにする。
雑木林に踏みこんだところで立ち止まり、符を掌の前に翳す。
「変生」
言葉に反応し、符から淡い発光が行われる。
すると、傷口が見る見るうちに塞がり、僅かな傷跡と血痕を残すだけとなった。
「凄い、高等な金の術が使えるんですね」
私は感嘆の声を上げていた。
「これは、俺の性質ではない」
「はい?」
「ま、気が向いたら話してやる」
赤凪さんは縁側の庭先に設置されている筒井筒により、桶を落とす。
ポチャンと水を打つ音が響き、水が桶を潤しているのを確認後、縄を使い引きあげる。
滑車の回る音と共に冷たい井戸水が筒井まで登ってくる。
赤凪さんは井戸水を運搬用の桶に移してから、掌の血を洗い流す。
「これでいいか」
「はい」
「じゃ、話してもらおうか」
縁側に腰掛け赤凪さん。
私もそれに習う。
私はこれを話すに当たって、どうしてもしても訪ねておくことがあった
「父の話では、赤凪さんは一度死んだ事になっていますが、そのことを覚えていますか?」
率直で、ある意味酷な内容の問いだった。
でも、これ以上遠回しに説明しても自分でも混乱を招く恐れがあった。
「…死んだのか、俺は」
私が見た内容を察し、赤凪さんは呆然と呟く。
「正直、わかりません。
でも、あの傷で助かる訳がない。
…胸に風穴が開いていましたから」
心の臓を貫かれ、そでも猛然と立ち向かう赤凪さんの視点。
死を厭わぬ覚悟で少女を救うために、修羅と化して戦った。
鬼の瞳に写った赤凪の姿は、なんと雄雄しかったことか。
思い出すだけでも、心を打った。
「そうか、それで納得がいった。
どうして途中で記憶が紡がれていないのか。
…お前の中に俺の記憶が息づいているんだな」
「恐らく、そうです。
私は赤凪さんの記憶が失われている想っていたんですが、それは間違えで、私の中に移ったと考える方が辻褄が合う気がするんです」
「…そうか、万爺が関わっているならそれが妥当な見解だろう」
「?」
「…お前はそれでも符術士の端くれか。
五行、木の根本の意味はなんだ」
「あっ、紡ぐ!」
「万爺は大地に宿る精が一角だ。
そして陰陽五行、陽の木の正統な持ち主だった」
「…だった?」
「なにをとち狂ったか知らんが、万爺は俺にそれを託しやがった」
「はあ…」
「わかってないだろう」
「…はい」
「ま、話が逸れたが、万爺の存在自体が木の力みたいなものだ。
だから、お前と俺が繋がり、記憶の表層を持っていってしまったんだろう」
なるほどと、私は頷く。
「本当にわかってンのか」
半眼で私を詰る赤凪さん。私ははアハハと笑い誤魔化す。
「まあ、いい。
それより、俺の最後とやらを聞かせてくれ」
赤凪さんの声音が真剣なものに戻る。
「はい、私が見たのは鬼と相対している凪穂さんの姿でした。
あ、でも、烙印が無かったから鬼とは言えないか?」
今でも頭の中に鮮明に再生できる光景から、用途を抜き出し思案する。
「鬼が烙印?
何の話だ?」
「え、何って、鬼のことですよ。
鬼って角を付けて、黄金の瞳をしていて、それで五行の烙印を付けられた者のことですよね」
私は父から教えてもらった知識を元に、同意を求める。
「…誰だ、そんな嘘を教えたやつは」
「……違うんですか?」
「ああ、全くだ」
赤凪さんは完全に呆れ顔だった。
「じ、じゃあ、鬼ってなんですか!」
「御魂に陰の五行を刻んだ、大地の代弁者だ」
「………」
私は、全くついていけないでいた。
「簡単に説明してやろう。
鬼とはその行為から付けられた名称だ。
都を壊し、焼き、恐怖の坩堝に貶め、人を喰らう所から来ている。
本来は陰璽星瀾と云う。
自然に仇なす者を亡ぼす為に、大地が生み出した静粛者だ」
「…それって、人間」
「一概のもそうとは言い切れないが、大半はそうだな」
「どうして、そんな」
戸惑いを隠せないでいた。
意外な事実が露呈してゆき、軽い混乱に陥る。
「符術士なら大地が生命である事ぐらい知っているだろう。
なら理由は、簡単に説明がつくな。
大地が体内に沸く蛆虫の排除を試みるのは当たり前だとは思わないか」
「蛆虫ですか、私たちは」
その語句に釈然としないものを感じ、私は眉を顰めていた。
「ものの例えだ。
ま、大地にすれば、似たようなものだろう。
人の欲望は限りを知らない。
いつか、大地の腐爛を招く可能性のある存在だからな」
反論できない。
砂漠の拡大化。
ゴミの埋め立て。
木の伐採。
資源の濫用。
被害者は間違いなく、星と言う生命だ。
「だから、陰璽星瀾は時代の中に産み落とされ、腐食の根源を潰しに来ると云う訳だ」
「じゃあ、鬼って良い者なんですか」
「…極端な奴だな。
人にとって悪なら、俺やお前にとっては悪だろう。
なら、良い者とは言えない。
視点の相違だ。
大地には善の化身でも、人には悪の権化だ。
それに陰陽五行の内、陰が鬼に刻まれているのは、それが大地の邪な心の現われだからだろう。
自分が生き残る為に人を犠牲にしようとしている。
死にたくないのはどちらも同じだ。
だから、鬼と人はいつの時代も戦を繰り広げている訳だ」
途方もない話だと想った。
星は怒りに触れ、鬼が生まれる。
(母なる海と父なる大地は、人を見捨てているのだろうか)
「ま、悲観するはない。
大地は人に試練を課しているだけかもしれないからだ」
「…試練ですか」
「そうだ。
何故なら、大地に意思、陰陽五行の陽は、万爺のように人に味方をする者に受け継がれているからだ。
滅びだけを望んでいるのではない。
共存の道も大地は模索していると考えられないか?
…ま、これは人の受け売りだが。
さて、本筋に戻そう。
確かに角は生えていて、邪眼で特殊な色をした瞳を有しているかもしれないが、烙印なんてものは鬼に刻まれちゃあいない」
父は嘘を付いたのだろうか?
それとも、知れなかったのだろうか?
それは追々問い詰めることにしよう、鬼の伝承と共に。
「それじゃあ、あれは鬼だったかもしれません」
「凪穂と鬼がか。
それで」
映像を口にするのは難しい。
鮮明に記載されているものでも、言葉にすれば曖昧な形に成りかねない。
私は手振りを加えながらも、出来る限り事細かく記憶の再現を試みる。
話は終局を向かえる。
「…そうか」
赤凪は噛み締めるように、そう呟いた。
(この人格が書き割みたく、曖昧で偽ものじみた感じを受けるのは何故だ。
破ったら先には何もないじゃないのか。
…自信がない。
俺は死んだのだとすると、此処にいる赤凪と言う男は本当に、凪穂と共にあった赤凪なのか)
偽者。
記憶と外見だけ揃えられた別の生き物。
「赤凪さん?」
(死んだ者を生き返らせることは出来ない。
なら、木の性質を遣い、記憶を移植したのではないのか。
銘記されたものがおいそれと他に移るのは、俺の存在そのものが移され、赤凪として造られたものだからじゃないのか)
「…大丈夫ですか?
顔が真っ青ですよ、赤凪さん」
(その考えが正しいなら、何たる茶番だ!
代用品としてこの世に生まれてきたのか、俺は!)
ギリギリギリ。
赤凪の歯と歯が摩擦をおこす。
「赤凪さん!
確りしてください!」
余りに赤凪の様子がおかしかった。
自分の両肩を抱くとそこから肉を抉るまで力を加え始めていた。
焦った鼎は赤凪の肩を掴み揺さぶる。
不安の鬩ぎ合い。
人は己の環境を狭く隔離することで、自己を確定し守る。
だが、赤凪には隔壁が無い。
意識が覚醒後、いきなり三百年と言う歳月が経過しており、赤凪が知っている者も、赤凪を知っている者もこの世には居ない。
そんな世界に放り出された。
広い荒野に。
その不安が増長し、新たな不安を呼びこんだ。
自己を守る鎧は粉々に砕けようとしていた。
「…ごめんなさい!」
パンッ!
赤凪の頬を、容赦のない平手が襲った。
「…鼎?」
「そうです。
私がわかりますか?」
「…かなえ」
「は~あ~…」
無事返答してくる赤凪を見て、鼎は安堵のため息をついていた。
「良かった、正気に戻ったんですね」
「正気?
ふっはぁはぁはぁはぁ!」
赤凪は血の付着した指で髪をかきあげ、狂ったように笑いだす。
正気と狂気の境界。
その狭間は何処に位置するのか。
道徳、倫理。
今の赤凪にとってそんな尺度で測られても、困るというもの。
これは只の僻み。
それでも、赤凪はそう考えずにはいられでいた。
「感情なんて不安定なものをも持ち合わせている人間に、正気も何も無いだろうが」
「え!」
「時代、場所、状況、宗教などに合わせた道徳ならことなら問題だらけだ。
価値観のずれは、いつも隣り合わせで存在のだから。
……俺にはこの状況は耐え難いよ」
ぽつぽつ。
縁側越しの地面に幾つもの滴が点を作る。
晴天の空から零れる筈も無く、それは赤凪の頬を伝い落ちていた。
「赤凪さん」
(…泣いてる)
小さな子供のように顔を覆い、肩を震わせ噎び泣く赤凪。
鼎にとって、その光景は衝動的だった。
内側からか、それとも外側からか。
それを超越したところにこの衝動というものは存在する。
強いて言うなら、本能に近いだろう。
差があるなら、衝動は経験や情報、積み重ねてきたモノがファクターとして薄皮一枚で関与しているところだろう。
だから、鼎は赤凪の頭を抱きしめていた。
母性と愛しさの狭間で。
どんな言葉も浮かんでこない。
只泣き崩れそうなこの子を抱きとめてあげたいだけ。
強くもなく、弱くもなく、視界を覆い、外敵から守るように抱く。
涙が止まるまで、ずっと。
赤凪は顔を覆っていた手を外し、鼎の背中に回していた。
大きな子供はそれから、声を上げ泣いた。
不安を涙で洗い流すかのように。
どれくらい時が経過しただろう。
赤凪の手が背中から離れる。
それに気づいた鼎も抱いていた頭を離す。
だいぶ泣いたのだろう。
赤凪の目蓋が少し腫れ、瞳が充血している。
「…大丈夫です。
私がついてますから」
鼎は、どうしてこんな言葉が口に付いたかはわからないでいた。
これも衝動だったのかもしれない。
「……」
微笑する鼎から眼を逸らす赤凪。
恥ずかしさの余りに、眼だけでなく全身を紅くしていく。
「気が向いたら話してください。
私じゃ役不足ですけど、言葉にすれば和らぐと思いますから」
「…悪い」
「赤凪さん、こういう時はありがとうと言ってくれた方が、自分にも相手にも沁みます。
だから、謝らないでください」
「…ありがとう、か。これでいいか」
赤凪はぶっきらぼうに言うと、聞こえない声でもう一度こう呟く。
「ありがとうな」
と。
その後、赤凪の口から不安の丈が語られることはなかった。
普通に振舞っているが何処となく、沈んだ感じが否めないでいた。
気晴らしに、鼎は当初の予定どおりに赤凪を街へと連れ出しを決行する事とした。
見世物にでもなった気分だった。
いや、犯罪者と言った方が的確かもしれない。
ここにある全ての視線を釘付けにし、私が視線を合わせない限り逸らすことはない。
(これだから、人ごみと異国は苦手なんです)
デミタスが居ればましな気分でいられたのだろうが、二手に分かれて情報収集を行ってる今、それを愚痴っても詮無いことだった。
本国では難なくこなせるミッションだが、どうも異国での受けは悪いらしい。
捗らない。
…どころか、一人も口を利いてくれない。
華やかな雰囲気に包まれた町並みだとは思うが、自分が介入すると突如として静まり返る。
賑わいを見せていた雑貨屋、世間話に花咲かしている主婦、表通りを駆け回る子供。
どれもが、一目散に姿を隠す。
(…発音が可笑しいのか?)
自分の日本語は、日本で暮らしていけるとお墨付きを貰ったものだった。
だが、誰に話しかけた場合、その者はそそくさと逃げていってしまう。
(…のようで無いな)
外見が異なることが致命的なのかもしれない。
(どうして人は、こうも見かけに先憂されるのだろうか)
左目蓋にそっと触れる。
こうすると荒れていた気持ちが和らぐ。
これもヌール ジャハーンの齎す効力なのかもしれない。
そして彼女の温もりを感じれるからだろう。
(しかし、困った。
これでは目的の場所へ行けるのはいつになることやら)
デミタスと別行動を行ったことは過ちだったと思う。
地元なら兎も角、異国の地では慎重に選択をすべきだと後悔する。
(ん、あの少女は)
取り分け眼を引くような子ではなかった。
背は百五十位、肩まで伸ばした髪は最近ハサミを入れた形跡がある。
ジーパンに白いTシャツで、胸に忍耐のロゴが入っている。
その上から紺色のジージャンを羽織っている。
これだけで見ると、何処にでもいる、ごく有触れた感じのする少女だった。
(凶兆の兆しか。
命の危険すらあるな。
看過する訳にはいかないか)
禍々しい気配が少女を覆い隠さんとしている。
関わっている暇は本来ないのだが、性分には勝てなかった。
そう覚悟した時、少女が此方に気づき、呆然と私を観察していた。
赤凪を無理やりに連れ出した迄は成功といえた。
だが、まさかここまではしゃぐとは…。
沈んでいたのは嘘だったのかと勘ぐった程だ。
いつもの態度は大人びているが、本質はやっぱり子供だと想った。
今は現代に慣れようプロジェクト始動中。
赤凪にお金を持たせ、目の前の団子屋に大福を買いにいって貰っている最中だった。
その時、店の横手から妙なざわめきが起こっている。
何事かと想い、鼎はそちらに眼を向けると芸術が立っていた。
(うわ~、凄い美人…)
第一印象はこれだった。
鼎は惚けながら、その人物を見ていた。
細めの眉毛。
それにマッチした穏和な感じの藍色の瞳。
鼻は高く、軽く結んだ口元が又魅力的な印象を受けた。
スラッとした体は、無駄な肉を一切削ぎ落としされていた。
美で言えばテラングィードの方が上回るだろうが、生物でありながら無機物の彫刻見たいな二律背反的な存在に思えた。
完結に言えば、人の温かみが感じられなかった。
その分、この人の方が魅力的だと、鼎は思った。
外国人を見たのはこれが初めてという訳ではないが、日本人の感性にも理解出来るくらいに美しいとわかった。
(神様は不公平だな…)
鼎は、天は二物を与えまくりだとぼやく。
(凪穂さんといい、この人といい、外見から負けてるんだもんな。
スタート地点が違いすぎるよ)
彼は何故か此方を見ているようだが、自分に関心など持つはずが無いと、鼎は高を括っていた。
彼は、鼎との距離を縮めてくる。
この辺りに何かあるのかなと、鼎は周りを見回す。
鼎の予想に反して、周囲に彼の興味を引きそうなものは無かった。
「お嬢さん、宜しいですか」
芸術は流暢な日本語で鼎に語りかけていた。
鼎は再び、周りを見回す。
だが、誰も居ない。
「私のことですか?」
お嬢さんなんて柄でもないが、他に誰もいない。
鼎はそこで、対象は自分ということ認識する。
「そうです。
貴女です」
鼎は、緊張で硬直してしまう。
(うわ~、どうしよう、どうしよう!
話しかけられたよ!)
鼎は憧れのビックスターに対面したかのように、全身が硬直し、歓喜が迸る。
「はひっ、な、なななんですか」
その影響は、間抜けな羅列を口から吐き出させていた。
(いや~!
今日の私、こんなのばっかり!)
鼎は心で絶叫する。
恥の上塗り。
相手が又赤凪でないのが唯一の救いと言えた。
「落ち着いてください。
別にとって喰おうとしている訳ではありません。
お聞きしたいことがありまして、宜しいですか?」
懇切丁寧に尋ねてくるので、鼎はその様子が仁とダブった。
そのお陰か、混乱していた思考が正常に戻ろうとしていた。
「…はい、私で御答出来るなら」
「アリガトウございます」
芸術品が微笑む。
…100万ドルの微笑みとはこんなものだろうか、等と惚ける鼎。
そこでやっと彼女ではなく、彼であることに鼎は気づいた。
(男の人だったんだ。
…美人なんて思ってしまった)
微笑みの中に異性から醸し出される雰囲気があった。
「先ずは、行きたい場所があるのですが。
ご存知ですか、新宮寺という名称の神社を」
「……はい?」
鼎は疑問符で聞き返していた。
まさか、自分の住まいが挙げられるとは思わず。
「知らなければ良いんです」
「いえ、知ってますけど。
あんな場所に何か御用ですか?
ご利益なんて無いに均しい神社ですよ」
あんなだの、ご利益が無いだの失礼極まりない語彙を自神社の説明に並べる。
「それに、新宮寺は八日前に潰れました。
お参りする価値もありませんし」
鼎は追い討ちをかけた。
仁が聴いたなら、涙を流して訴えてきそうな内容だった。
(ま、本当の事だから仕方ないよね)
参拝客が来なくなり、収入が滞っている今こそ惜しい客なのだが、潰れたものにお参りしては、ご利益どころか災厄に見舞われそうに思えた。
せっかくの観光を瓦礫の山を見学するのに費やすのは無駄だろうと、鼎は悲嘆したい惨状の我が神社の傷口に塩を塗りこむ。
「それでも構いません。
私に道を教えてください」
「そらなら、私の連れが戻って来たら案内します。
表から入れませんし」
「親切な人だ。
5時間の苦労が浮かばれる」
「え、五時間も探していたんですか?」
「あ、…口が滑りましたね。
間の抜けた話ですが、誰も口を利いてくれなくて」
納得した。
鼎も赤凪で対人免疫が付いていなかったら、逃げ出していたかもしれない。
それほどかの人物は、決定的に民間人としてのレベルを凌駕していた。
外見といい、雰囲気といい。
(そんなに行きたいなんて、どんなガイドブックを見てきたんだろう?
そんなに壮大なご利益でも記載されていたのかな?)
新宮寺のご利益は記憶の再起。
記憶障害や痴呆症の気がある人などが訪れる。
他には記憶の神様として、受験生に人気があるとかないとか。
ご利益は無い。
あれば、もっと速く符術をしっかりと覚えたはずだと、鼎は批判した。
(自分に対してだけご利益は薄いのだろうか?
そうすると、なんてかみさまだ!
崇拝者に利益を与えないとは!
…ま、真剣じゃないから、そんなの言えた義理じゃないけど)
「大変でしたね。
新宮寺までは責任もってお送りします。
ですから、安心してください」
「感謝します。
助かります」
外見は、所詮外見ということだ。
中身や本質は触れてみないと、確認できないと改めて実感する鼎だった。
「そういえば、名前を聞いてませんでしたね。
私はエンブリオ マシュカーゼといいます。
お見知りおきを」
「あ、私は鼎、新宮司 鼎です」
「シングウジ!」
「あ、気づきますよね。
そうなんです。
私、新宮寺の神主の娘なんです」
「…これは都合がいいみたいですね。
鼎さん、率直にお聞きしたいことがあります」
鼎は、そこでピンと来た。
テラングィードの介入があった地点で、教会の執行機関が動くと仁から聞かされていたからだ。
教会。
それは、過去から連なる宗教の総称。
キリスト、カトリックを中心にして、俗なるモノに対抗するために集結した組織。
力を持たねば存在する危うくなるこの世界で、各宗教はこれに抗うために、合併を余儀なくされた。
その代わり、三大術士の勢力程でないにしろ、強大な力を有した機関として君臨していた。
テラングィードは教会のブラックリストの中でも、要注意人物として記載されていた。
犯罪暦は数知れず、その中でも聖夜の悲劇と呼ばれる惨劇は、一夜にして五百人の命と一つの町を滅ぼしたとされている。
これが、テラングィードを知名度を広めたエピソードとなった。
潰れた神社が目当てではなく、テラングィードの消息を求めて来たのだと鼎は納得した。
「最近、そこで事件は起きませんでしたか?」
鼎は自分の推理が正しいことを確信した。
「もしかして、教会の人ですか?」
取り合えず疑問形にして尋ねて、相手の出方を伺う。
「…そうですか、ご存知なのですね。
話が早くて助かります。
…テラングィードについてですが」
「その~、最近起こった事件のことはご存知なのですか?」
「ええ、報告では8日前に姿を現したと。
それからは?」
「いいえ、あれ以来姿を見せてはいません」
「…連れの方が戻るまで、少しお話しても宜しいですか?」
「構いませんが、私もあんまり事件の背景を知らなくて。
詳しくお答え出来るかわかりませんが」
「それで結構です。
では、質問させて貰います」
エンブリオは思案し、二拍置いてから質問を口にする。
「ヤツの目的はわかりますか?」
率直でシンプルな質問だった。
鼎は外張りから固めていくような回りくどい質問をしてくると踏んでいた分、拍子抜けしていた。
「はあ、…確か、目的はお父さんが所持していた木霊の書を手に入れることだったと思います」
「コダマのショですか。
その書の内容は?」
「私は知りません。
恐らく、お父さん以外誰も知らないと」
「…そうですか。
ヤツはどうしてそれを知ったのでしょう?」
「それはテラングィードの目的ではなく、彼を雇っている毒島って人が欲していたんです。
だから、テラングィードも中身に興味があって狙っている訳ではないかと」
「なるほど。
で、コダマのショは無事なのですか?」
「はい、お父さんが迎撃しましたから」
本当は仁が火に変えてしまったが、物(身柄)は奪取されてないので同じことだろうと、鼎は解釈しておく。
屁理屈とも言うが。
「それは凄い。
あのテラングィードを引き下がらせるとは」
仁が褒められたので、鼎はなんとなく鼻が高い気持ちになった。
あのって言うぐらいなのだから、テラングィードなる吸血鬼は相当な怪物だったらしいと。
「なら、未だこの国に居そうですね、ヤツは」
「なんでですか?」
「ヤツの辞書に後退の二文字はありません。
任務を受けたなら、必ず完遂してくるでしょう」
嬉しくない推理だった。
このまま平和な日々は積み重ねられないのかと、鼎は落胆した。
「大体の背景は掴めました。
現場を確認しておきたいので、済みませんが案内の方、宜しくお願いします」
「はい、わかりました。
あ、丁度連れが戻って来たみたいです」
エンブリオの後方から、透明な容器を上下左右に翳し中の大福を興味深げに観察している赤凪が戻ってくる。
鼎は陽気なものだと嘆息をついて、赤凪に手を上げる。
その時のエンブリオの震える唇に気づかず。
悪寒が奔った。
これ程の罪過を纏わせた雰囲気を持つ者は、惨劇の夜、テラングィード以来だった。
左眼が異様に反応を示している。
水面に波紋が発生し、それが連鎖的に増殖していくような感覚だった。
噴出す汗が急速に温度を無くし、冷たく凍えたものへと変換されていく。
口唇が色を失い、奥歯から震えがこみ上げてくる。
(人なのか!
私の後ろに居る者は!)
振り向けない。
恐怖が先走り、心臓を鷲みにしている。
自分に備わっている特殊な能力が、今日ほど疎ましく思えたことはない。
その能力は、人の生き方、そう業を読み取るといったものだった。
抗えぬ、償えぬ、生きた罪の証。
人の本質と言っても過言ではない。
生活というサバイバルにおいて、欠かすことの出来ない子羊の業。
だが、それは生きる為の最低限の罪。
(これは、何なんだ!
どれだけの命で繕われた混沌なのだ!)
皮膚から神経に浸透してくるどす黒い感触。
左眼が意思とは関係なく、反転を起こそうとしていた。
審判を下すまでもなく、後ろに迫ってきているものは悪だと断定している。
(こんなものを生かしておいて良いものか!
それは罪だ!)
左眼の代わりに眼窩に入っている、ヌール ジャハーンに同調していく。
そして、左眼が反転した。
大福屋から戻ってみると、鼎の横に見知らぬ影が存在していた。
何か話し込んでいるようだ。
(様子がおかしい。
…僅かだが、漏れ出している雰囲気は)
距離を縮めながら、鼎の隣にいる者に警戒する。
勘がそう告げている。
(…殺気!)
鼎迄、後三歩の間合いで事態が急変した。
敵の攻撃範囲に踏み込んだ、あの緊張感が反射的に躯に蘇る。
戦で幾度も感じた、戦慄だ。
自分の動きに大福の入った袋がついていけず、棚引く。
それを一線する、目で追いけれない青白い光が到来する。
殺気の間合い分、距離ギリギリでこれを躱す。
眼前を光が舞い、数本の髪が切れ飛ぶ。
足首の力だけで後方に退避し、敵を見極める。
一刻、袋を裂かれ、洩れた大福が土に塗れた。
日本人とはかけ離れた外見の人物が、左手に青い光を携えた剣を構え、こちらへの殺意を露にしていた。
いや、どちらかと言えば嫌悪感と信念だろうか。
左眼窩に収まっている鉱物が、こちらを射抜くように蒼い光を放っていた。
「エンブリオさん!
なにを!」
鼎の悲鳴じみた声が響く。
「鼎さん、離れていてください!
この男は罪人です。
断罪します!」
(…これまた、的確な表現だな)
冷めていく心が、皮肉を浮かべていた。
罪人。
どれだけその言葉が自分を罵倒してきたことだろうか。
あの左の瞳が、それを見透かしているかのようだ。
(そうか、こいつも俺の眼に似たものを持っているのか。
なら、俺の存在は許せるものではないだろう)
「エンブリオさん、止めてください!
赤凪さん、逃げて!」
鼎の制止、だが逆にそれが引き金となった。
(速い!)
久々の戦で、体が反応についていかない。
それよりも敵の動きがずば抜けていた。
(やばい!)
右掌に握られていた硬貨を咄嗟に投げる。
染み付いていた脊髄反応が考えるまでもなく、急所へと投擲をした。
眼、眉間、そして判断を鈍らせることの出来る聴覚を奪うために、左耳にと三枚の硬貨が飛来していく。
全弾当たれば、死を免れない。
青線が二つ奔る。
眼と眉間を狙った硬貨が瞬間に姿を失う。
位置をほんの数センチずらし、三枚目も躱されていた。
だが、これが時の隙間を生み出してくれる。
全身のバネを使い、後方へと跳ぶ。
下から青刃が迫る。
衣服が切れ、胸の辺りから皮膚を裂く痛み走る。
投げ銭を行っていなければ、間違いなく股間から刃が駆け抜けていたことだろう。
背筋がゾッとする。
瞬きの過ちが、死へと繋がる。
「赤凪さん!」
鼎の声は二人には届かない。
間合いが開き、互いの視線がぶつかる。
(蒼き瞳。
浄眼の遣い手か。
それにしては、何て悲しい瞳をしているんだ)
(奥底に光る、紅き灯り。
邪眼か!
だが、何故こんなにも悲しみを湛えているのだ)
(染み付いた罪は拭えないか。
…死を望んでも、死を受け入れるわけにはいかない。
それが、凪穂の願いなら!)
(これ程の罪を背負いながら、こんな眼が出来るのか?
これが本当に罪人の瞳か?
だが、この男は確実に重ねてきたのだ。
いかに拭おうとも血に匂いまでは消せはせぬ!)
両者の間に強固で曲がらぬ意思が構築する。
それを人は信念と呼ぶのかもしれない。
エンブリオは腰に備え付けているポシェットに右手を突っ込み、円柱形の突起物を人差し指、中指、薬指に挟みと取り出し、赤凪に向かって撃つ。
と同時に大地を削り、踏み込む。
赤凪は飛来してくる物体と同じ速度で迫る敵の、二段構えの攻撃の突破口を素早く思考する。
(上、左右、除外。
正面、賭けに近い。
…下!)
残り四枚の硬貨を撃ちだし、二枚は飛来してくる棒を正確に迎撃し、二枚がエンブリオを牽制するように飛んでいく。
その行方を見ぬ間に赤凪は足を振り上げ、そのまま舗装された地面を踏み砕く。
コンクリートは踏み貫かれ、破片と粉塵を撒き散らす。
煙幕が形成される。
「キャアッ!」
(しまった!)
煙幕に紛れ、エンブリオに攻撃を加えようとした赤凪の動きが鼎の悲鳴で止まる。
エンブリオに気を捕らわれ過ぎていて、近場にまだ居る鼎のことを意識の外へと追いやっていた。
冷静な判断をそこで欠いてしまった。
赤凪は気配で方向を攫むと、鼎の元へと駆け出す。
「貰いました!」
煙幕を切り裂き、青白い剣が赤凪を袈裟懸け切り裂こうと迫ってくる。
迂闊だった。
「ちっ!」
赤凪は上半身を地面にぶつける勢いで倒し、その反動で蹴り上げる。
振り下ろされる剣が腰以下の高さになる前に、根元の手を強打する。
「くっ!」
エンブリオの腕が跳ね上がる。
赤凪の蹴りが、エンブリオの打ち込みより勝った。
エンブリオの左の手の指が、親指以外曲がらぬ方向に折れていた。
維持できなくなり、青刃が消滅する。
それを確認すると、赤凪は体制を建て直す。
「鼎、大丈夫か!」
エンブリオから眼を離さず、声をかける。
「…赤凪さん、無事ですか!」
(聞いてんのはこっちだ。
…取りあえず無事のようだな)
赤凪は煙幕が未だ充満している為、鼎を視認はできないでいた。
エンブリオの左の瞳が輝きを増す。
そうすると、メキメキと指が元の形態に修復されていく。
再生ではなく、形状が元に戻ったのだ。
ヌール ジャハーンが記憶している形状に。
「…続けますか」
殺し合いに言葉は不要と、互いに沈黙する。
隙を窺うなどといった、まどろっこしい事は一切無い。
歴戦の猛者達は知っていた。
隙などが生まれる筈が無いことを。
隙は作るものであって、窺うものではない。
それが生死の境を生き場としている者の鉄則だった。
両者とも直ぐに地を踏み出す。
赤凪は拳を固め、エンブリオは再び青刃を左手に宿す。
「止めろぉぉ!」
暴力が振り払われる中間に、叫びを上げながら鼎が割って入っていた。
(馬鹿!
何て事を!)
(カナエさん!
マズイ!)
両者が繰出した攻撃は制御を離れていた。
このままでは、間違いなく一人の少女を肉塊に変えてしまう。
赤凪は制御を離れた右腕に、左拳を叩き込み方向転換を図る。
エンブリオは全神経を集中させ、振り下ろそうとしている刃を必死に停止させる。
ガキッ!
ブチブチ!
鼎の耳には、両者の肉体が壊れ行く音がハッキリとした。
赤凪は右肘の辺りが陥没し、右拳が放たれる事を阻止した。
エンブリオは全力で制止させた為に神経が千切れ、右腕が体にぶら下がっている状態になっていた。
「この馬鹿が!
何考えている!」
「危ないじゃないですか!」
二人の怒声が飛ぶが、鼎は涙目で二人を睨み返す。
「馬鹿はどっちですか!
危ないのは誰ですか!」
鼎の非難の声に、エンブリオは二の句を告げれないでいた。
「それに、二人ともおかしいです!
こうなることが当たり前のみたいに受け入れて、争いを始めるなんて!
おかしいです!」
鼎は、感情の堰が切れたように叫んだ。
眼に見えない何かに翻弄されている二人に、感情の丈をぶつけた。
「…私は」
「言い訳なんて聞きたくありません!
…止めてください。
今はそれ以上望みませんから」
エンブリオの言葉を遮り、鼎はいっきに捲くし立てる。
(ヤダ、ここのところ、涙腺緩みまくりだ)
鼎は二人の間で俯く。
唇を噛み、感情の奔流を堰き止める。
「…判りました。
貴女に従いますよ、カナエさん」
エンブリオは渋々、提案に応じる。
「……」
赤凪は沈黙したままでいた。
「赤凪さん!」
負傷し動かない手をぶら下げ、赤凪が鼎に近づいていく。
パッン。
「えっ」
赤凪の左手が鼎の頬を叩く。
頬が次第に熱を帯びてくる。
鼎は熱の篭る頬を押さえ、頭一つ分高い赤凪の顔を見る。
「…馬鹿はお前だ。
簡単に命を投げ出しやがって」
怒気を含んだ声音が鼎の耳を打つ。
(憤ってる、どうして…)
「お前は俺の近くに居るな」
そう言い捨てると、赤凪はその場から離れていく。
「しゃ、赤凪さん、待って!」
制止の言葉に耳を貸さずに赤凪は素早く商店街から去っていった。
(わかんないよ!
どうして行っちゃうの!)
只、止めたかっただけだった。
それが赤凪の心に、どう映ったのかわからない。
「連れとは彼のことですか?」
「…はい。
…エンブリオさん、どうして赤凪さんに危害を加えようとしたんですか!」
「罪は償わなければなりません」
「それじゃ、わかりません!
わからないよ」
鼎は責める声から一転して、弱弱しくなっていく。
「彼は多くの命を屠っています。
その罪の重さは、償えるほど軽くありません。
そう、これ以上の虐殺を重ねる前に、世界から抹消してしまった方がいい」
「勝手なこと言わないでください!
あの人のこと何にも知らない癖に!」
「それでは、貴女は彼の何を知っているのですか?
間違いなく彼は大罪人です。
それこそ、テラングィードと並ぶほどの。
彼の人生を除き見たとき、貴女はそういった言葉を、未だ持っている自身がありますか」
「……」
鼎は即答できない自分が歯がゆかった。
(私は何も知らない。
それこそ無垢なまま生き過ぎたんだ。
…でも)
「…持ちます」
「……」
「私は赤凪さんの全部を知らない!
だけど、これまで接してきた赤凪と言う人は誰よりも純粋な心を持っていた!
それで他の人より苦しんで。
…だから、私は言います!」
鼎の頬を幾つもの雫が零れる。
「…参りましたね。
そこまで言い切られるとは。
済みませんでした。
…それに、貴女の言葉が正しいのかもしれませんね」
「えっ?」
「恐らく彼は、自分に渦巻く混沌を察しています。
混沌は次なる凶事を呼び込む。
だからこそ、簡単に命を晒した貴女を叱咤し、遠ざかろうとしたのかもしれません」
(そうだ、そうに違いない!)
鼎は都合よく、そう解釈すると赤凪のことが気がかりになる。
「赤凪さんを探さないと…」
「私も手伝いましょう。
元はといえば、私の責任ですし」
「でも、お仕事は」
「テラングィードは一度失敗している。
次は貴女を人質にしてお父上から、そのコダマのショを奪おうと画策するかもしれません。
護衛は必要でしょう。
…そういう事は考えませんでしたか?」
「……」
「だから、これもお仕事です。
さて、行きましょうか」
「あ、その腕」
赤凪同様に、一度破壊されたエンブリオの腕。
「これですか?
大丈夫ですよ。
…人と呼ぶには私も外れてしまった者ですから」
エンブリオはそっと左眼に触れる。
光を宿した蒼の瞳に、鼎は気づいた。
「その眼」
「…力ですよ。
テラングィードを追い詰めるための」
エンブリオはおどけて見せ、左眼を完全に掌で覆う。
僅かに指の間から洩れていた青白い光が、光量を軽減させていき、消える。
気がつけば、神経が切れて動かなくなっていた腕が、何事も無かったような状態に戻っていた。
「さて、左腕も繋がりました。
この通りですし、行きましょう」
回復した左腕をあげ、鼎の肩を叩く。
(直ちゃうんだ。
いとも簡単に)
「…やはり、怖いですか?」
鼎が呆然とその腕を眺めていたからなのだろう、エンブリオはそんな事を訪ねてくる。
(…同じこと言うんだな。
赤凪さんもこの人も、私の知らない怯えを抱えている)
「意味は何となくわかります。
でも、それがエンブリオさんを怖がる理由には成りません」
驚いた表情をするエンブリオ。
「…貴女は優しい人だ」
「わ、わたしは別に優しくなんかありません!」
「貴女みたいな人が世界に居るからこそ、救いを信じれるのかもしれません。
と、お喋りが過ぎましたね。
捜索に向かいましょう」
現代の迷い子を探すべく、二人は行動を開始する。
茜色の空は感傷的にさせる。
奥底までその色に染まってしまうかのようだ。
だが、奥底にはけっして届かない闇が幾つも点在する。
それは、自分自身すらも理解出来ぬほど深淵なる衝動。
(その闇すらも、彼女は照らしだし、曝け出してしまいそうだ)
必死に連れを探す、カナエ嬢の横顔を眺めながら、私は想う。
(包み隠していないその言葉が、芯に届くのだろう)
術士は言葉に力を持たす為に、言霊を利用する。
それは言葉として利用すると、その言葉の真意を表面化させてしまう。
だから、術士は術の発動時以外での言霊の使用を避ける。
だが、彼女は普段から言霊により会話し、本心を曝け出している。
(それはこの世界では、余りに無防備で危険なこと)
だが、それは自分のような人間には救いだと想える。
彼女の語る全てが、彼女の心であり、在り方なのだ。
だから、彼女の優しさは救いとなる。
(あの男が彼女と共にいたのも、それが理由かもしれない)
闇は光に焦がれる。
それが人の内であるなら、尚更に。
だが、それは醜い部分をハッキリと照らし出し、己の不埒さをより垣間見る諸刃。
光と影は隣り合わせの鏡。
(残酷な取り合わせだ。
救いを求めれば、付いて嘆きは訪れる。
この少女の明るみを曇らせたくないものだ。
だからこそ、あの男とは歩むべきではない)
この世界には余りに光が少なすぎる。
太陽一つで、全ての闇を洗い流せないように。
光源に群がりは生物の本能。
安らぎを求め、僅かな光を押しつぶそうとする。
(あの男の混沌は全てを飲みこむ。
本人にその気が無くとも、重ねた咎はあらゆるものを否応無しに引き擦りこむ。
生かしておくべきではない。
惨劇の元は打たねば成らない。
例え、新たな禍根を残そうとも、あの闇だけは)
左瞼に触れる。
断罪を決意し、そして、懺悔を祈る。
空と地上が茜色で覆われている。
後、一刻もすれば闇の到来を迎えるだろう。
(裁くものも、裁かれるものも、斉しく覆いつくす刻の訪れ。
それが私たちには相応しい)
「神よ、神よ、なぜ(レマ)見捨て(サバタ)給うた(クニ)か」
僅かに口にだして言う。
これまでに何度か吐いた、世界を呪う言葉を物悲しく奏でる。
夕焼けは薄れ、空は色を朱と蒼に二分している。
太陽の姿は既になく、明りだけが存在を知らせるように灯っていた。
赤凪は適当に町を彷徨っていた。
土地勘があるでもなし、この時代に伝手もない。
(なら、何処を歩いても同じだ)
先に開けた土地があった。
足を踏み入れると、変わった建造物が点々としていた。
その中に腰掛を見つけ、それに座り込む。
ズキッ、ズキッと痛む腕が厭に勘に触った。
肘の関節部が機能できないほどに陥没していた。
痛みで意識が冴えていく。
治療しようにも、符を持ち合わせていない現状では、ままならない。
(このまま、腐り落ちるまでほっておくのも良いかもしれない)
赤凪は、自暴自棄な考えに委ねながら寝転がり、星の光を称え始めた虚空を見上げる。
ズキッ、ズキッ、ズキッ。
それに伴い、憤りが沸々と沸きあがってくる。
(…いい加減にしてくれ!
俺を惑わすな!)
絶望できれば、どれ程簡単に終われるだろう。
幕を引き、何もかも投げだせたらどんなにいいだろう。
(…あいつが思い出させる、凪穂の事を!
あいつの全てが凪穂を彷彿とさせる!)
だから、死ねない。
凪穂の願いが眼前に突きつけられているようで。
(自分の命を軽んじるところまで、…糞!)
吐き捨てた感情が冷静な思考を蘇らせる。
腰掛をはみ出した腕が地を撫でる。
日中に蓄積された熱が指を伝うが、熱に犯されている肘が五月蝿過ぎて、感じられない。
(俺の傍にいれば、何れ凪穂と同じ行動を起こすかもしれない。
これで良かったんだ。
それに、想いに縛られることも無くなる。
この時代は俺の居場所ではないのだから)
赤凪は腕と言わず、このまま朽ち果ててしまおうかと、体中の力を抜いていく。
世界に紛れ込んだ異物はいずれ排出される。
自己を拒否しかけていた赤凪には、それは救いに聞こえた。
じゃりっと土を踏む音が近づいてくる。
(丁度いい、お迎えがきたようだ)
「シャナでよかったですか、名は」
攻撃の間合い手前で立ち止まり、話しかけてくる。
「ああ、浄眼の遣いよ」
「エンブリオ マシュカーゼと申します。
地獄への手向けに名乗っておきます」
「…地獄へ持っていってやるよ、執行人」
赤凪は半身を起こし、エンブリオと向き合う。
夕闇に不気味に輝く瞳が此方を見ていた。
「覇気が感じられませんね。
死を受け入れて貰えるのですか?」
「そうしたいのは山々だが、どうも染み付いた生存本能が楽にしてはくれないらしい」
「其の方が、後腐れがありませんから構いません」
「鼎はどうした」
「心配ですか、貴方のような人でも。
…貴方を探してますよ。
私には間単に位置が掴めますからね、その混沌の」
「鼎が駆けつけてしまう前に始めるか」
「ええ、人気がない公園で助かりますよ。
それに彼女が狙われる可能性があるので、早く戻りたい」
「……」
赤凪の静まりかけていた想念がぶり返してくる。
「優先したのか俺を。
鼎ではなく」
「ええ。
大罪人を放って置けるほど、私は図太い神経はしていませんから」
「…殺されてやる訳には行かなくなった」
「……」
「こいよ、さっさと終わらせてやる」
赤凪の身体から膨大な殺気が溢れ、公園内を覆い尽くす。
先ほどまでの覇気の無さが嘘のように、全身から感情が零れ出していた。
太陽が沈み、闇の到来と共に殺意が辺りを掌握していくのだった。
先制はエンブリオからの斬撃だった。
袈裟懸けから迫る、必殺の一撃。
切り捨てた影と腰掛が音もなく二つに割れる。
「なっ!」
切り裂かれたのは影のみで、エンブリオは赤凪の姿を見失う。
(腰を掛けた状態でここまで速く動けっ)
「ッグァ!」
エンブリオは、思考を中断させるほどの衝撃が腹部に叩き込まれていた。
油断をした覚えは無い。
それでも、見抜けないでいた。
殺気に覆い尽くされた公園内では、巧く気配を察せなかったのも原因の一つだ。
鳩尾に収まった拳はエンブリオの意識を半分近く奪い去る。
(駄目だ!
意識を失うな!)
エンブリオは閉じかけていた意識を一機に呼び覚まし、後方へと退避する。
着地すると、足の感覚がまるで無い。
膝が笑い、力が込められない。
体重を支えることが出来ずに、エンブリオは膝を地面に付く。
「どうした、俺を断罪するんじゃなかったのか?」
(くっ、内臓が破裂しているか)
左眼窩内のヌール ジャハーンが聖光を放ち、内臓を復元していく。
それに伴い、エンブリオの足に力が戻る。
相手を見据えながら、素早く立ち上がる。
(そんな!
又、消えっ)
瞬きもせずに見据えていた筈なのに、残像すら拾えず、エンブリオの思考が再び遮られる。
「カハァッ!」
腹部の筋肉と筋肉の間の溝に的確に差し込まれる拳。
エンブリオは意識は保てたが、喉元を駆け上がり吐き出される大量の血が、ダメージの大きさを物語っていた。
腹を抱え、うめき声をあげる。
最早、立つこともまま成らなくなっていた。
血色に犯された唾液がのど元を伝い、黒い服を濡らしていく。
殺気が公園から消え失せる。
何事もなかったように辺りが静寂に包まれていた。
赤凪は膝をつき、俯いているエンブリオに背中を向ける。
「ハアァ、ハアァ、ハアァ、何故、止めを刺しにこないのですか!」
「…遣ることが無くなった時、お前見たいな奴がいないと困るんでな。
生かしといてやる」
絶望を拭い去れない赤凪は、斬首刀としてエンブリオを生かすことにした。
「情けをかけるのですか!」
エンブリオは息も絶え絶えな状態で叫ぶ。
「どう受け取っても構わない。
俺は鼎の元へ行く」
「…貴方にとってあの少女はなんなのですか」
エンブリオの答えが出せない質問に、赤凪は当惑を隠せないでいた。
「…俺が知りたいよ」
眉を八の字にし、困惑の顔を作る赤凪。
会話を打ち切ると、灯りが灯り始めた街へと駆け出して行くのだった。
(…まるで歯が立たなかった。
こちらの弱点を把握して、このような攻撃を…)
赤凪が全力を出せば、腹筋の壁を突き破り反対側までの風穴を開くことができただろう。
だがそうはせずに、衝撃で内部の隅々まで被害を及ぼす波のような力で、拳は打ち込まれていた。
槍ではなく槌。
貫かれていれば、その部位の修復だけですんだが、全身を淘汰する衝撃。
その前にヌール ジャハーンの加護は巧く作動を起こせないでいた。
殺すのではなく、生かして身動きできなくするために。
(駄目だ。
稼動可能になるまで、後十分は必要。
…完敗ですね)
エンブリオは身体の欲求に従い、仰向けに倒れこむ。
腹部から波が襲ってくる。
くぅっと呻きを洩らし、何とか安静にできる体制になる。
地面の心地良い冷たさと、視界にポツポツと現れ始めた星々と淡い微光を反射する月が癒しを齎してくれる気がした。
軋みが全身を苛む、赤凪の行動を阻害する。
(…ここまで反動が来るとは、失敗した)
足を進め、腕を振る。
その当たり前の行動でさえ、一つ一つ神経を削いでいく。
痛みと圧し掛かってくるような疲労感。
それが指を曲げるなんて行動にまで付いて廻る。
ブリキの玩具見たくガチガチに体が強張り、身体制限をかけてくる。
(この役立たずが!
正常に動きやがれ!)
自分に叱咤しても、体の訴えが解消される訳も無く引きずる感覚で足を前にだす。
赤凪の身体疲労は、エンブリオ戦に活用した、{暗示}によるものだった。
あるスイッチを入れることにより、通常では使用していない全筋力を開放し、爆発的な能力を発揮することが出来るといった代物だ。
赤凪が利用している暗示は、奥深くに刻みこまれた特殊なものだった。
遣り方は、変化を司る金の力を使い身体能力の飛躍を計る。
この状態になる直後に、ある合図を自分の中に形成する。
この合図が暗示の発動の鍵となる。
その暗示を内に上書きを繰り返し、刻み込む。
これにより、符の力を有さなくても合図により肉体を限界に扱うことが出来るようにしてあるのだ。
勿論、普段と比べ物にならないほどの力を発揮するため、肉体の疲労は半端なものではなく、その上に神経系も限界。
昔見たいに頻繁に使用していれば、これほどの疲労困憊は免れただろう。
だが、この時代に流れ着いてから、一度として使用していなかった術式は肉体を崩壊寸前まで追い込んでいた。
(…なんだ、この違和感は)
現在における肉体、それに赤凪は違和感を覚えていた。
この肉体は、三百年前に使用していた体ではないのではと…。
どうしてそんな考えに至ったかというと問われれば口ごもりしてしまうのだが、感覚的に言えばしっくりこないと言った感じだった。
その違和感が、赤凪の自己転送創設という、自分の記憶が写されたものという推理に導いた一旦となっていた。
(やっぱりこの体、おかしい!)
苦痛の絶頂に近い身体。
それが錆で動かない歯車が、油でも挿された時のように、少しづつスムーズな動きに戻っていく。
幾らなんでもこの回復は早すぎた。
慣れた状況でも、使用後三日間は動きが制限されてしまう。
僅か五分かそこらで回復の兆しを現し始めたのだ。
これを天の助けと素直に喜ぶ気は、赤凪はなれなかった。
苛立つ気持ちを抑え、今は鼎の捜索に集中することにする。
(こうなったら、あれでいくか)
並木道に差し掛かったところで、赤凪は青々と茂るイチョウの木を見つめる。
秋になれば、並木道に相応しい風景を披露してくれることだろう。
(大きさに問題があるが、何とかなるだろう)
赤凪は考えを纏め、一番大きな葉を捜しだすのだった。
日も暮れ、今しがた太陽の面影も闇へと埋没したところだった。
民家や商店には明かりが灯り、闇の恐怖からその身を逃そうとしている。
だが、ここに闇に汚染されていく心が、町並みを走っていた。
(此処にも居ない、何処にいるの!)
視界がぼやける。
滲んだ塩水は街明りを含み、より一層に視界をぼやけさせる。
鼎が赤凪の捜索を初めてから、一時間が経過しようとしていた。
途中、エンブリオの姿も無くなり、心細さに拍車がかかる。
(赤凪さん!
何処なの!)
鼎の脳裏に母との別れが投影される。
十歳の頃だった。
いつも通りに、お勤めがあるからと朝早くから準備をしている母がいた。
お休みの日以外は早朝に出かけ夜中に帰宅するので、私は必ず母と起床をともにし、お見送りを事を習慣としていた。
「鼎、どんな時にも私は傍にいますからね」
行ってきますの代わりに、母の漏らした言葉はこれだった。
そして最期に聞いた言葉。
私は何を言ってんだろうぐらいの想いしか抱かなかった。
そして、毎朝交わす行ってらっしゃいを返しただけだった。
二度と送ることのない人に。
昼ごろだろうか、一本の電話が掛かってきた。
父は寝起きなのか、呆けた顔で居間に備え付けてある電話を受ける。
私はお気に入りのラジオ番組が途中だったので、電話に見向きもしないでいた。
トークも勢いに乗り、まさにこれからという時に、父の手がラジオのスイッチをオフへとスライドさせていた。
私はその横暴に腹を立て、抗議でようとして固まった。
血色を失い、青ざめている父の表情を見て。
「瑚之恵が危篤だそうです」
いつも難しい言葉で私を翻弄する父の台詞は、この頃の私にはやはり理解できなかった。
だけど、母の身に何かがあったことだけは察することができた。
「お母さんがどうしたの?」
危篤が何を意味し、その先が無いことも知れずに。
「…わかりません。
只、危険な状態と。
私は病院に向かいます。
鼎は大人しく待ってなさい」
そう言い残すと、父は浴衣の上に半纏を羽織り外へと飛び出していく。
私はその背中を見送る。
呆然と玄関口で佇んでいたら、灰色ずんだ空からポツポツと雫が滴る。
それは止む気配を見せず、地を洗い流すかのように勢いを増すばかりだった。
ラジオを今更つける気にもなれず、私は雨音に一人震えながら、只々膝を抱え二人の帰りを待った。
その時に危篤を国語辞典で調べてみた。
{危篤}、病気が重く、生命が危うくなるさま、と。
後悔した。
調べ物なんて、普段してないものをしたから罰が当たったんだと。
内容を知ってしまったから、頭の中をその言葉が埋め尽くす。
生命が危うい、生命が危うい、生命が危うい、生命が危うい、生命が危うい。
振り払おうとしても、母のことを考えてしまい徒労に終わってしまう。
不安に打ち震える永い時は、私の心を凍えさそうとしていた。
ガラと玄関の開く音に、私は頭を上げる。
心に光が差し、急いで玄関まで駆け出す。
「お、お父さん、どうしたの。
びしょ濡れじゃない!」
この十二月に降り続ける雨の中を傘も差さずに帰宅した父の姿は、見るに耐えないぐらい生気が失せ、二本の支えで辛うじて立っている屍のようだった。
「…お母さんは?」
雰囲気を察する等と、そんな芸当はこの頃の私には無く、これがどれ程父の心を抉ったか想像もしなかった。
「うっ、うおおおお!!!」
私にしがみ付き、泣き崩れる父。
冷たく濡れて行く服の嫌悪感よりも、父が始めて見せる号泣に圧倒されて動けなかった。
そこで鈍感な私は気づいた。
二度と戻らぬ人。
母とのの記憶が、思い出にしかなくなってしまったことを。
「う、うええええぇえぇ!!!」
私も父に釣られ、嗚咽した。
初めて知った、人を失う怖さと絶望感。
(居なくなっちゃ嫌だ!)
あの時の絶望感が再び胸に蘇ってくる。
それに赤凪さんの脆さに触れてしまった私は、薄々と感づいていた。
彼はは死にたがっているのだと。
ここで会えなければ、母のように何も告げられないままに失ってしまう。
(どうして誰も居ないの!
お父さんは、赤凪さんは、エンブリオさんは何処に行ったの!
誰でもいいから、お願い姿を見せて!)
ぼろぼろと毀れる涙に視界がぼやけて、人の顔も判別できなくなっていく。
泣き崩れてしまいたい。
足を止め、人に憚らず、膝を抱え篭りたい。
一度でも進行を止めれば二度と動けない。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ!
もう、失いたくないよ!)
ガクガクする足に拳を打ちつける。
動け、動けと。
(赤凪さんに言ったんだ、ついているって!)
歩行をどうにか維持し、袖で涙を拭う。
遣るべきことは終えてないと、自分に激を飛ばし、街道を突き進む。
「うぐっぅぅぅ」
決意も新たに踏み出した瞬間、私は口元を塞がれ、腕を拘束されていた。
(なに、なに、なに!!!)
次に浮遊感が生じる。
足を抱え上げられたのだ。
四肢を押さえられ、身動きが取れない。
「早くしろ!」
男の怒鳴り声が鼓膜を揺らし、視界が移動を開始する。
「うぅ、うぅ、うぅぅぅ!」
手足をばたつかせてみるが、びくともしない。
「じっとしていろ!」
拘束している男が怒鳴り散らし、手首に痛みが奔る。
「くぅぅ!」
(痛い、痛いって!)
狭い所に押し込められ、手首、足首を縄で縛られ、猿轡もおまけまでついてくる。
(もしかしなくても誘拐!
じゃあ、毒島の手に落ちたの私!)
危機感はあるのだが、どうも命のやり取りをしている訳ではないのでパニックまで至らなかった。
(ダメ、赤凪さんを探しにいけない!)
今の大事なのは、自分のことよりも赤凪のことだ。
「出せ!」
体が後ろに流れ、シートに押さえつけられる。
これで、車に乗せられたことまで理解できたが、私には打つ手はない。
後部座席に監禁され、逃げられないように両サイドを屈強な男たちに固められている。
この手際の良さはプロフェッショナルのそれだった。
(馬鹿だ私は!
エンブリオさんから警告を受けてたのに!)
自分の不甲斐無さと迂闊さを呪う。
(ごめん、お父さん、ドジ踏んじゃった…。
変わってない、八日前と何にも)
迷惑しか掛けれない自分に、自己嫌悪しか浮かばない。
(赤凪さん、ごめんなさい。
…私、もう会えない)
観念し、成り行きに身を任せるしかなくなった時だった。
「なんだこれは」
運転席の方から素っ頓狂な声があがる。
声に釣られ、私は座席越しのフロントガラスを見ると、そこには扇状の葉が張り付いていた。
それだけなら何も驚くことはないのだが、扇状の葉には紅いインクで文様が描かれていた。
(これって、木の式!)
五行が一つ、紡ぎを司る木の式が葉に書き込まれていた。
知識の乏しい私では、これが何を意味する式かは検討も付かなかった。
(お父さんが助けに来てくれた?)
淡い期待が胸をもたげる。
ボコッ!
ボンネットに大きな物体が落ちてくる。
速度は恐らく八十キロは固いと思われる外車の上に突如だ。
「んんんんん!!」
余りの驚きに、私はうなり声をあげていた。
私を捕らえた三人組の男達も、あまりの出来事に硬直していた。
ボンネットの上の現れたのは、口端を引き上げ、凶悪な面構えをした赤凪さんだった。
赤凪がフロントガラスに落とすは、破壊の鉄槌。
六度の衝撃が防弾用のフロントガラス叩き、最後に粉々した。
降り掛かるガラス片から身を守る為、両手を前方に翳す運転席の男。
その胸倉に血に濡れた手が伸びてくる。
「おい、その娘をどうするつもりだ!
返答しだいでは極楽か地獄へ送るぞ!」
選択の余地は無い。
どちらにしろ、死ねと言っているのだから。
「うわあああ!」
脅えた運転席の男はブレーキを力一杯に踏む。
急激な減速で生まれた力が、ボンネットに舞い降りた悪魔と運転席の男を車の前方の公道へと振り落とす。
そこへ、止まりきれない車が迫り来る。
赤凪は左手に掴んでいた男を、迫る来る鉄の箱へ放り投げる。
「ぐはあああ」
背中からモロに車に撥ねられた男は、ボンネットから後転しながら車の後ろまで転がり、放物線を描き落ちた。
赤凪は横に飛び、暴れ車の猛チャージを躱す。
鼎は咄嗟に身を屈め、体を前の座席に押し付ける。
その直後、止まり損ねた車がT字路の壁に激突した。
座席に体が押し付けられる。
急ブレーキのお陰で速度は激減していたことが救いとなり、鼎は怪我もせずにすんだ。
そんな鼎がいる後部座席。
そのドアが引き剥がされる。
一般常識を持ち合わせていない為に、この扉の開け方を知らなかった赤凪は力任せに扉を取り払ったのだ。
剥がされた入り口から拳が飛んでくる。
顎の砕ける音と共に鼎の両サイドを固めていた男の一人が昏倒する。
そこへ鬼が乗り込んでくる。
「んんんん!」
「この馬鹿が!」
鬼はいつもの罵声を飛ばすと、鼎の奥にいる男の腹へ蹴りをぶち込む。
強烈な蹴りは奥のドアを道連れに、男を車の外へまで吹き飛ばしていた。
圧倒的な暴力は、僅か1分という時間をもって一つの事件を粉々に砕いていた。
赤凪は鼎を抱きかかえると、車から降りる。
ザワザワと周りが騒ぎ始める。
野次馬に捕まると色々と厄介だと判断し、赤凪は鼎を肩に担ぎなおし、そのまま新宮寺に向かい駆け出していく。
後方で爆発音が響くが、それは赤凪の関知するところではなかった。