大義のはなし 前編
宵闇にふわりと香るもの。--血、である。
具体的に言えばヘモグロビンである。
ヘム鉄が結合して哺乳類の血管内で酸素の運搬を担うアレである。
加えて、先ほどから耳を悩ませるのは、哺乳類(二足歩行)が、何か鋭利なもので斬り裂かれる音である。
ときおり、何か鋭利なもの同士がぶつかり合い、甲高い響きを上げる。
「(物騒なことで…。)」
聞く者もない。肩をすくめる。
同業のからくり師を訪ねて来た帰り道であった。
話をするのは知らないことばかりで面白かったし、使ってみたい素材もいくつか手に入った。
ここにいるのはもう、無用の長居といえた。
そもそも、かねてより思っているが、
なぜあの二足歩行の哺乳類は、牙持つ獣には備わっている本能が欠落しているのだろう。
ーーあるいは、理性で慈悲深い本能をけなげにも抑え込むのか。
成程、物騒にもなるわけである。
そうこうするうちに火の手が上がり、木質のものが焼ける煙と水蒸気、
街人に火気を報せる鐘が、けたたましく打ち鳴らされ、
火の広がりを防ぐべく、打ちこわしの道具を手にした屈強そうな男たちが集団で駆けていく。
(この種に於いては、雄性個体はより筋肉質になる傾向が認められる。)
「こっからは あぶねぇぞ! とっとと逃げな!」
「…はぁ」
向こうとて、返事など期待してはいまい。応じるともなしに頷く。
風に乗り、火の粉が舞う。
宵闇に。
赤熱した木片が、上昇気流を起こし、乗り、さらに広がっていく。
「(…物騒なことで。)」
特に興味もない。
そのまま歩き続けた。
ーーと。
向かいから駆けてきた人影に、ものの見事に跳ね飛ばされた。
痛い。--まあ、人間ならそう感じるであろう事象である。
「--おい」
走っている者がいるのには気づいていたが、移動速度が予想以上だった。
ーー結果、ぶつかった。
怪我はしていないか、そう尋ねようとして、気づく。
血まみれであった。
おそらく先ほどの斬り合いの主役であったのだろう。
着物の前にも後ろにも、刃の痕と、流血の気配がある。
ーーもっとも、どれも浅く、命に関わるほどではなさそうだった。
「…あ、へへ……」
男は気まずそうに頭に手をやり、愛想笑いを浮かべる。--まるで、イタズラが見つかった子どものような、そんな表情。
「じゃ、おれはこれで…!」
「待て」
「…へ、へぇ」
同心とか与力とか、男の頭の中にはそんな単語がよぎった。
手首をつかまれているのは軽くだが、得体のしれない冷たさがあり、触れられた場所が凍傷にでもなりそうだった。
「雪ん子だ…」
「あ?」
「なっ、そうだろアンタ。雪の 物の怪とかそんなんだろ!」
場にそぐわぬ無邪気さで、刀を持ったままの男は笑う。
ーー無邪気、に。
なぜこの二足歩行は同類を斬るのだ。
かねてからの疑問が、またよみがえる。
ふわりと、宵闇に、梅の香が舞う。
一瞬だった。
血の匂い。家々の焼ける煙。そんな匂いがいっときだけ消えうせ、薄紅と真白いーー優しい春先の木の花の香りがした。
あるいはそれは錯覚だったのかーー。
傷の痛みがひいた。
男は信じられないという顔で、白い被りの人物を見る。
「逃げるのにも、不便だろう」
「あ、ああ、いや…」
ほうける、というのだろうか、この状態は。
追っ手の怒鳴り合う声でサムライは我に返った。
「この恩は忘れねぇよ!! じゃあな!」
男が立ち去り、取り残される。
「…恩、か」
苦笑してつぶやく。
後に残ったのは、燃える家々と、飛び交う怒号と。
事態が収束するまでどれほどかかるのだろう。
ーー物騒なことで。
三度、つぶやき、錬金術師は踵をかえした。
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