大義のはなし 後編
「…ふむ。口惜しい。お月様はこちらを見てはいらっしゃいませんかぁ…」
丸い眼鏡の青年は、残念そうにつぶやいた。
薄い丈夫な紙を、木の枠に貼った明り取りの仕切り窓。
落ちないようにと張られた柵に背を預ける。
夜風が、湯で温まった頬に心地良い。
青年の『影』から忍び笑いが起きる。
「観客の有無などどうでもよかろうよ。我は仕事を果たすのみーー」
比喩でもなく、炎の灯りに照らされた蓬髪のサムライの影から声がする。
「仕事熱心な かたですねぇ」
言いながら、青年は左手に提げた刀の緒を解いた。
【影】が愉しげに囃す。
「そうれ、来るぞ。抜き身の刀ばかりが2本、3本、7本も…」
「…ううむ。土下座で謝ったら見逃してはくれませんかねぇ…」
とぼけたことを呟きながら、青年は顎を軽くかいた。
「見たいのだろう? 海の向こうの世界を」
「見たいですねぇ。目から手が出るくらいには」
足元から【影】が尋ね、青年が応じる。
「約束しよう。広く残酷な世界をお前に見せてやる」
「--仕方ありませんね」
丸眼鏡の青年は真顔になり、襖のほうに鋭い眼差しを向けた。
***
ーー事前の情報と違う。
なんだあのバケモノは。
平助、とだけ彼は呼ばれていた。仲間にも、親にも。
苗字なんかない。望んでも得られないものもある。
でも。
願うだけなら自由のはずだ。
サムライになって、皆に尊敬されて。
立派なーー
「…ぐ、っ」
喉から血の塊があふれてきた。
助かる気がしない。
立派な武士になって、それで。それで。
「おれはーー」
刹那、ふわりと鼻先を、梅の香りが舞った。
ーー梅? こんな季節に。
いまはもう夏だ。田んぼでは蛙たちが歌っている。
「--ああ、あのときの。」
思い出した。隊に入って二年目。派手な斬り合いのあった夜に嗅いだ匂いだ。
急に気温が冷えたような気がして、かすみつつある目を周囲に巡らせば、
後ろに白い被りの姿があった。
男にも見えないし、女にも見えない。
子どものようでもあり、老人のようでもあるーー。
とくに急ぐふうでもなく、地面にすがるように寝ている男の前まですたすたと寄ってきた。
「--わからないな。」
唐突にソレがつぶやく。
瞳には何の感情もなく。
「なぜそうまでして同族を害する? お前に危害を加えられたわけでもないのだろう」
(わから、ない?)
平助には、わからないということそのものが理解できなかった。
「そりゃ、大義のためだよ」
「タイギ。」
白い人影は首をかしげる。
平助は説明した。
「この国には将軍様がいる。おれたちは、将軍様をお守りするのが喜びなんだ」
「ーー喜び。」
人影はまたも繰り返し、まだ何か聞きたそうではある。
「将軍様をお守りできるのがおれたちの役目だ。それは名誉で、誇りなんだ」
「ヤクメ。メイヨ。ホコリ」
(全然、一個も、伝わってる気がしねぇ!!)
痛みも忘れて、平助は心中で叫んだ。
誰かのために何かをする。--それはそう、確かに、尊いだろう。
ややあって、人影は問うた。
「自由に生きたいとは思わないのか?」
今度は、平助のほうがちんぷんかんぷんな顔をする。
「ジユウ。…そりゃ、舶来の食いモンか何かか? おれにはサッパリわからん。
蘭学好きの変人どもが、よくそんなハナシをしてるよな」
「…お前には、自分自身の『願い』が無いんだな」
白い影の言葉に、平助は猛然と反発した。
「そんなわけないだろ! おれだってウマい飯が食いたい! きれいなヨメさんだってほしい! でっかい屋敷にも住みたい!!」
けど、と平助は微笑んだ。
「『大義』が果たせないならなんにもいらない」
視えない。彼の言う『タイギ』には実体はなく、概念ですら、無い。
『それは実在するのか?』
それを口にしなかったのは、人間的な配慮だ。
「わからないな」
ふわり、と香りが舞い、いつかと同じように平助の傷は癒えていた。
三度めは無い、とソレが言う。
「『奴ら』はヒトの願いに集まってくる。欲望、絶望、希望、羨望ーー」
けど、と人影は言う。
「お前には、お前自身の願いがない。ならば、『奴ら』は寄っては来ない」
やつら、とは。物の怪の類だろうか。
三度めはない、とソレは再び念を押して、霧のように姿を消した。
****
「ひっひっひ」
「くっくっく」
あまり品のよいとは言えない笑みを交わしながら、何人かの錬金術師が羊皮紙の帳簿をめくっていた。
べつに記録が紙である必要はないのだが、--まあ、人間だった頃の癖、みたいなものだろう。
「いやあ、笑いが止まりませんぞ。ぶぁっはっは!」
「いっひひひ! まったくですなあ! これなら100年は実験に困りませんぞ!
何から取り掛かりましょうかなあ!
まずは手と足をつなぎ合わせて…!!
ああ、脳も取り出してみなくては!」
さも物騒な相談であるが、血まみれで斬り合いをするヒトビトを眺めてきた後では、むしろ彼らのほうが趣味がよいとさえ思える。
「うひょっひょっひょ! シルフィド殿もいかがですかな! 今ならお買い得ですぞ!」
「--じゃあ遠慮なく」
「ひょ~っ、ひょっひょっひょ!!」
もはや人間を辞めたとしか思えない喜びの奇声は しばらく響いていた。
***
雨が石の碑に打ち付けていた。
この惑星の、この島国の雨は、どうしてこうも静かに降るのだろう。
やわらかい苔たちが岩を覆い、雨路を彩る花々が咲く。
「--よお」
彼はもう若者ではなくなり、頭を剃って髪を上で結う、あの珍しい髪形でもなくなっていた。
雨に打たれていた白い被りの人影が振り返る。
その瞳がわずかに驚きの色を帯びる。
「--生きて、いたのか」
「…」
平助は一度、気まずそうに顔をしかめた。
「…きれいな嫁さん、もらったぞ」
「? --よかったな」
「でっかい屋敷も建てたぞ!」
「あ、ああーー」
「でもな」
「将軍様はもう辞めちゃったんだ」
「--そうか」
「みんな、死んだよ」
平助は寂しそうに言う。
「わからない。おれたちのしていたことって、何だったんだ。
何のためにみんなーー!」
雨は静かに降っていて、平助が何を言ったのか、最後はかすかな雨音と一緒に流れていった。
石碑はただ静かに、そんな平助を見ていた。
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