ワスレ草
さらさらと流れる渓流の中の小島に、小さな、青い美しい花がいっぱいに咲いている。その名はーー。
「ミュオソーティス(myosotis)」
銀の髪の青年が、言ともなしにその名を口にした。飴色の髪と栗色の瞳の少年が隣からその顔をのぞき込む。
「…師伯?」
「あるいは forget-me-not.(フォーゲット、ミー、ノット)。渓流の中に咲く花を取ろうとして、川に落ちた人物が叫ぶんだ。"忘れないで"」
師伯と呼ばれた人物は、淡々と言葉を継ぐと、小さくわらった。
「…どうする? お前なら。忘れる? それとも、忘れない?」
「間抜けですね」
「間抜けじゃない死因なんて、聞いたことがない」
少年の言葉に、青年は肩をすくめた。
***
ところ変わって、地上のどこかに処る、錬金術師の小屋。ドアベルがからりと鳴る。
「あっ、いらっしゃいませ」
洗濯物をたたんでいた少年が応じるが、それを見もせずに、入ってきた人物は唐突に土下座した。これが後の世にいう、スライディング土下座の起源かどうかは、知る人ぞ知る。
身なりのよい人物は、顔を上げないままに叫ぶ。
「頼みます!!」
本棚で書を漁っていた銀髪の錬金術師ーーシルフィドが、胡散臭そうに目を細める。
金髪碧眼の、絵にかいたような王子様が、土下座ポーズのまま、直訴していた。
「高名な魔術師である あなたなら、死人を生き返らせることもできると聞いた! どうか、彼女を生き返らせてほしい!」
「花を取ろうとして川に落ちた間抜けな恋人を?」
銀髪の青年は、つまらなさそうに言う。飴色の髪の少年のほうは、それをたしなめた。
「師伯っ、そんな言い方…!」
錬金術師は淡々と告げる。
「オレはアンタに興味は無い。ーーはは、それとも。代わりに何か差し出してくれるのか? 死人を生き返らすんだ。それ相応の対価だろうな?」
王子様とおぼしき人物は、歯のきらめくような顔で、返す。
「もちろん! 私の持つものを、何でも差し出そう! 富でも名誉でも!」
「馬鹿じゃないのか? ーーそんなものいらない」
銀髪の錬金術師がそう言うのと同時。その小屋は、地上から掻き消えた。
後に、草原と王子様とおぼしき人物だけを残して。
「forget-me-not。忘れないで。忘れないで。ーー面倒くさいね、人間ってのは」
青年はつぶやく。
天上のどこかに、その街はあるのだと云う。錬金術の都、ハーフ・エメラルド。
錬金術の全ての秘術を記したとされる緑柱石の石板。
その道程の半分は歩いたという自負と、まだ半分の道のりであるという戒めを込めて付けられた名である。
***
置き去りにされた"王子"は呆然としていた。
その気まぐれさは耳にしていたが、こうも門前払いされるとは思ってもみなかったのだ。
ふと足元を見ると、一輪の黄色い花と、メモが一枚、置いてある。
そのメモには上手くも悪筆でもない字でこうあった。ーー"ワスレ草"
「ーーくそっ!」
彼は、メモごとそれを踏みつけた。
忘れろ、だと? 彼女のことを?
ーー無理な話だ。
***
この世でもあの世でもない場所に、死者の町、と呼ばれる場がある。
死後、天国やら地獄やら、そんな場所に行くまえにいっとき、魂が留まる場なのだともいう。
「渡してくれた?」
美しい赤毛の娘が、悲しげに微笑む。
「ええ。でも、思いっきり握りつぶしてましたけど…」
少年が申し訳なさそうにうつむく。それから、彼は尋ねた。
「死者には予知能力があるんですか? 言われた通り、本当にやって来るなんて」
「ふふふ。さあ、どうかしら。あたしだけかもしれないわね」
生前から不思議なちからを持っていた娘は、口の前にひとさし指を立ててみせた。
「このワスレ草って、本当に効果があるのかしら」
「本当は、死者に、生前のことを忘れさせるために咲いているらしいですよ」
一面の、黄色い花。"ワスレ草"。
「死者は覚えていなくても」
今は死者となった娘は悲しげに微笑む。
「きっと、生きているひとたちは、覚えていてくれるわ」
forget-me-not。忘れないで。
自分が忘れてしまうから、死者たちはこんなにも言うのかもしれない。
ワスレ草を生者に送った彼女の気持ちは、どんなものだったろう。
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