長い友と書いて、髪
人類の悲願、と呼ばれる薬が、いくつか、ある。
そのうちのひとつを、彼は今、試そうとしていた。
質素な木製の器に盛られているのは、何の変哲もない、白いクリーム。
香りはねっとりとして、お世辞にも、いい香りとはいえない。
だがしかし、その効果を想えば、そんな些細な問題は、あってないようなものだ。
我知らず、喉がごくりと鳴る。
彼は震える手で、そのクリームを指先ですくった。
予想通りに脂っぽく、肌に絡みつく。
「おお…」
右の指先ですくっては、左の手のひらに盛っていく。
白磁のような輝きを放つ魔法の塗り薬は、彼の手のひらの上で、その瞬間を心待ちにしているかのようだ。
彼の心臓は、早鐘のように打ち、臨界点を突破せんばかりだ。
「い、いくぞ…」
誰にともなく宣言し、浴室の鏡の前、彼は自分の顔をーー頭を見つめた。
そして、渾身の気合いを込め、叫んだ。
ーーそう。人類の三大悲願ーー。
「よみがえれ、俺の毛根ッ!! あのフサフサよ、今一度、我が頭部に宿りたまえーー!」
亜光速ともいうべき速度で、塗り薬を持った左手を頭にやると、彼はその手を動かした。つるりとして、抵抗はない。ない。--そう、ない。ないのだ。
「うぉおおおおお、怪しげな錬金術師、その1786人目! 奴なら、奴ならやってくれる! 俺の毛根をよみがえらせ、抜けることのない毛髪を、再生してくれる!!」
クリームが、頭皮全体に広がっていく。両手でもみほぐしつつ、満遍なくーー。
いかん! クリームが余った!
彼は、今までの体験にとらわれていた。
つまり、今回のクリームも、やはりどこか、信じ切れていなかったのだ。
それも仕方ない。1785回。「毛生え薬」と名の付く薬を購入し、試してきた。
塗り薬。飲み薬。座薬。ありとあらゆる形状・色の薬たち。だが、そのどれも、彼の失われた長い友を再生することはなかったのだ。
だから。
彼を責めることはできない。
彼は、頭皮で余ったクリームを、顔に伸ばし。首筋に伸ばし。耳のひだにも、裏にも、丹念に塗り。頬をよくマッサージしつつ、胸元にも。脇にも。腕にも。
ーーそう、まさに全身に塗りたくった。
だが、誰が彼を責められるだろう? それは、人類の悲願なのだ。
その願いを捨てず、2000回近くにも及ぶ敗北に屈さず、希望を抱き続けた彼をこそ、英雄と呼ぶべきだろう。
そして、神は、彼の願いを今、聞き届けたのであった。
もっさーーーーーーーーー!!!!
そう。それは、彼が全身にーー足の裏にまで、クリームを塗り終えた直後のことであった。
原子変換反応によりDNAが刺激され、彼の遺伝子は、かつての勢いを取り戻し、一連の蛋白室を、猛烈な勢いで生産し始めていた。アミノ酸は、リボソームにおいて急速な勢いで、然るべき順序でつながっていった。完成した蛋白質は、細胞内の環境に反応し、複雑な折り畳み構造をとり、それが機能するべき形をとる。
すなわち、DNAの、ある場所にとりついて、ある遺伝子を発現させるスイッチとなる。
つまり。
彼の全身は、今や黒い毛に覆われ、アウストラロピテクスのようであった。
足の指の間にまで、つやつやとした毛髪が形成された。
なびく無数の長い友は、旧友との再会を喜ぶがごとく、ドライヤーの風に舞った。
彼は、有頂天であったのか。それとも、--自分の過ちを悔いていたのか。
両目からとめどなく流れ出す涙は、喜びゆえなのか。それとも悔恨のゆえなのか。
ドライヤーの風はただ、彼の生まれたばかりの毛髪を祝福し、ひたすらに乾いた音を立てるばかりであった。
◇◇
『たすけてくれ』
前触れもなく、鏡に、そんな血文字が浮かぶ。
いつもの依頼人、美女ことトリスティーナが、不要だから、と錬金術師シルフィドの家に置いて行った、レトロな通信機器の一種である、
誰かに頼まれた品を作っていたシルフィドはそれを一瞥しーー。小さく嘆息して作業台から立ち上がると、鏡の前へ。
『誰だ?』
骨董品なので、通信相手を表示する高等機能はなかった。鏡に再び、血がじんわりとにじみ出てきて、文字を描く。
『ゴーリキだ』
「面倒くせぇな。音声に切り替えるぞ」
シルフィドは言い、一方のゴーリキは、スマホの前で頷いた。
「で。どうした?」
「毛が生えた」
シルフィドは、驚きに目を見開く。
「なんーーだと?」
「そう、毛だ。俺の全身に毛が生えている」
「まさか、あの薬、利いたのか!?」
「半信半疑だったのかよ!?」
テメエが渡したんじゃねえか、とゴーリキは心の中で毒づく。
「だって、お前のDNA…」
「DNA!!?]
賢者の石を持たないゴーリキには、当然ながら、DNA配列が肉眼で見えたりはしない。
「いや、そうか。よかったな、おめでとう。飲みに行ったらどうだ? 俺は付き合わないけど」
「ああ…」
浴室の鏡を見つめ、ゴーリキはうめく。
「やっちまった…」
「? やった? 何を」
「全身だよ…」
「は?」
「全身に毛が…」
「はぁ??」
どういう過程を経てそうなったのかーー。
普段は無表情なシルフィドの顔に、焦りのようなものが垣間見える。
「--全身に?」
「ああ…」
「あのさ」
「言いづらいんだけど」
「それ…」
錬金術師のシルフィドいわく、このクリームは、遺伝子に作用し、『毛根の形成を』促すのだそうだ。
毛根の形成を。
もっさー。
彼は、うなだれた。
10分ほども苦悩していただろうか。
やがて、涙声で告げた。
「シルフィド…。脱毛クリームだ。脱毛剤を…俺に」
錬金術師は笑わなかった。
「わかった。明日、持っていくよ」
「ああ…頼む、友よ」
「友じゃねぇっつの」
通話は切れ、浴室の鏡の前には、ふさふさになった男が、ただひとり。
彼は、鏡を見つめた。
鏡の中の彼もまた、彼をーーその頭部を見つめていた。
もさもさだ。
あれほど夢見たふさふさが、今。
彼の頭には、ある。
翌朝。
彼は愕然とした。
寝室のベッドの上。--まるで、脱皮したかのような気分であった。
あれほど生えていた毛が。
すべて抜け落ちていた。
つややかな黒髪は、ベッドの上にも床の上にも、まるで黒いびろうどの絨毯のように、広がっていた。
「な…に」
抜け落ちた毛に足をとられつつ、鏡の前へ走る。
「なん…だと」
光っていた。
彼の頭頂部は、ふたたび。一昨日までの、あの輝きを取り戻していた。
彼にとっては絶望を意味する、あの輝きを。
ドアベルが、客の来訪を告げる。
彼はよろよろとした足取りで、ドアを開けた。
いつもの無表情のまま、銀髪の錬金術師が、包みを差し出す。
「脱毛クリームだ」
「いらんわそんなもん」
一瞬だけ目を見開いたシルフィドはしかし、冷静に告げる。
「だから、お前のDNA,奇妙な遺伝子が付け加えられていてな。おそらく、それが作用しているんだと思う。毛根をーー死に追いやる呪いだ」
「呪い!?」
「ああ…どこかの魔女でも怒らせたのか? よほど手の込んだ呪いだぞ」
「と、解いてくれ!!」
「簡単に言うなよ…。死人を一人生き返らすくらいの労力だ。はっきり言って、オレ、お前のためにそこまでしてやるつもりはない」
「頼む!」
「いいじゃないか。スキンヘッド、似合ってるぜ」
「似合う似合わないの問題じゃあない!! 俺は、俺はあのフサフサが…!!」
懇願する友人に背を向け、錬金術師は、徹夜で作った脱毛クリームを懐にしまい込み、去ってゆく。
残された男はーー絶望に打ちひしがれた。
シルフィドが、何を思いついたのか、ふと、振り返った。
「毎朝、塗れば?」
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