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銀の術師と星巡儀(アストロラーベ)  作者: さまよえるペンギン
魔法屋、はじめました。
44/57

長い友と書いて、髪

人類の悲願、と呼ばれる薬が、いくつか、ある。

そのうちのひとつを、彼は今、試そうとしていた。


質素な木製の器に盛られているのは、何の変哲もない、白いクリーム。

香りはねっとりとして、お世辞にも、いい香りとはいえない。

だがしかし、その効果を想えば、そんな些細な問題は、あってないようなものだ。


我知らず、喉がごくりと鳴る。

彼は震える手で、そのクリームを指先ですくった。

予想通りに脂っぽく、肌に絡みつく。

「おお…」

右の指先ですくっては、左の手のひらに盛っていく。

白磁のような輝きを放つ魔法の塗り薬は、彼の手のひらの上で、その瞬間を心待ちにしているかのようだ。

彼の心臓は、早鐘のように打ち、臨界点を突破せんばかりだ。

「い、いくぞ…」

誰にともなく宣言し、浴室の鏡の前、彼は自分の顔をーー頭を見つめた。

そして、渾身の気合いを込め、叫んだ。

ーーそう。人類の三大悲願ーー。


「よみがえれ、俺の毛根ッ!! あのフサフサよ、今一度、我が頭部に宿りたまえーー!」


亜光速ともいうべき速度で、塗り薬を持った左手を頭にやると、彼はその手を動かした。つるりとして、抵抗はない。ない。--そう、ない。ないのだ。

「うぉおおおおお、怪しげな錬金術師、その1786人目! 奴なら、奴ならやってくれる! 俺の毛根をよみがえらせ、抜けることのない毛髪を、再生してくれる!!」

クリームが、頭皮全体に広がっていく。両手でもみほぐしつつ、満遍なくーー。

いかん! クリームが余った!

彼は、今までの体験にとらわれていた。

つまり、今回のクリームも、やはりどこか、信じ切れていなかったのだ。

それも仕方ない。1785回。「毛生え薬」と名の付く薬を購入し、試してきた。

塗り薬。飲み薬。座薬。ありとあらゆる形状・色の薬たち。だが、そのどれも、彼の失われた長い友を再生することはなかったのだ。

だから。

彼を責めることはできない。


彼は、頭皮で余ったクリームを、顔に伸ばし。首筋に伸ばし。耳のひだにも、裏にも、丹念に塗り。頬をよくマッサージしつつ、胸元にも。脇にも。腕にも。

ーーそう、まさに全身に塗りたくった。

だが、誰が彼を責められるだろう? それは、人類の悲願なのだ。

その願いを捨てず、2000回近くにも及ぶ敗北に屈さず、希望を抱き続けた彼をこそ、英雄と呼ぶべきだろう。


そして、神は、彼の願いを今、聞き届けたのであった。


もっさーーーーーーーーー!!!!


そう。それは、彼が全身にーー足の裏にまで、クリームを塗り終えた直後のことであった。

原子変換反応によりDNAが刺激され、彼の遺伝子は、かつての勢いを取り戻し、一連の蛋白室を、猛烈な勢いで生産し始めていた。アミノ酸は、リボソームにおいて急速な勢いで、然るべき順序でつながっていった。完成した蛋白質は、細胞内の環境に反応し、複雑な折り畳み構造をとり、それが機能するべき形をとる。

すなわち、DNAの、ある場所にとりついて、ある遺伝子を発現させるスイッチとなる。

つまり。


彼の全身は、今や黒い毛に覆われ、アウストラロピテクスのようであった。

足の指の間にまで、つやつやとした毛髪が形成された。

なびく無数の長い友は、旧友との再会を喜ぶがごとく、ドライヤーの風に舞った。

彼は、有頂天であったのか。それとも、--自分の過ちを悔いていたのか。


両目からとめどなく流れ出す涙は、喜びゆえなのか。それとも悔恨のゆえなのか。


ドライヤーの風はただ、彼の生まれたばかりの毛髪を祝福し、ひたすらに乾いた音を立てるばかりであった。


     ◇◇


『たすけてくれ』

前触れもなく、鏡に、そんな血文字が浮かぶ。

いつもの依頼人、美女ことトリスティーナが、不要だから、と錬金術師シルフィドの家に置いて行った、レトロな通信機器の一種である、

誰かに頼まれた品を作っていたシルフィドはそれを一瞥しーー。小さく嘆息して作業台から立ち上がると、鏡の前へ。

『誰だ?』

骨董品なので、通信相手を表示する高等機能はなかった。鏡に再び、血がじんわりとにじみ出てきて、文字を描く。

『ゴーリキだ』

「面倒くせぇな。音声に切り替えるぞ」

シルフィドは言い、一方のゴーリキは、スマホの前で頷いた。

「で。どうした?」

「毛が生えた」


シルフィドは、驚きに目を見開く。

「なんーーだと?」

「そう、毛だ。俺の全身に毛が生えている」

「まさか、あの薬、利いたのか!?」

「半信半疑だったのかよ!?」

テメエが渡したんじゃねえか、とゴーリキは心の中で毒づく。

「だって、お前のDNA…」

「DNA!!?]

賢者の石を持たないゴーリキには、当然ながら、DNA配列が肉眼で見えたりはしない。

「いや、そうか。よかったな、おめでとう。飲みに行ったらどうだ? 俺は付き合わないけど」

「ああ…」

浴室の鏡を見つめ、ゴーリキはうめく。

「やっちまった…」

「? やった? 何を」

「全身だよ…」

「は?」

「全身に毛が…」

「はぁ??」


どういう過程を経てそうなったのかーー。

普段は無表情なシルフィドの顔に、焦りのようなものが垣間見える。

「--全身に?」

「ああ…」

「あのさ」


「言いづらいんだけど」


「それ…」


錬金術師のシルフィドいわく、このクリームは、遺伝子に作用し、『毛根の形成を』促すのだそうだ。

毛根の形成を。


もっさー。


彼は、うなだれた。

10分ほども苦悩していただろうか。

やがて、涙声で告げた。

「シルフィド…。脱毛クリームだ。脱毛剤を…俺に」

錬金術師は笑わなかった。

「わかった。明日、持っていくよ」

「ああ…頼む、友よ」

「友じゃねぇっつの」

通話は切れ、浴室の鏡の前には、ふさふさになった男が、ただひとり。

彼は、鏡を見つめた。

鏡の中の彼もまた、彼をーーその頭部を見つめていた。


もさもさだ。

あれほど夢見たふさふさが、今。

彼の頭には、ある。


翌朝。

彼は愕然とした。


寝室のベッドの上。--まるで、脱皮したかのような気分であった。

あれほど生えていた毛が。

すべて抜け落ちていた。

つややかな黒髪は、ベッドの上にも床の上にも、まるで黒いびろうどの絨毯のように、広がっていた。

「な…に」

抜け落ちた毛に足をとられつつ、鏡の前へ走る。

「なん…だと」

光っていた。

彼の頭頂部は、ふたたび。一昨日までの、あの輝きを取り戻していた。

彼にとっては絶望を意味する、あの輝きを。


ドアベルが、客の来訪を告げる。

彼はよろよろとした足取りで、ドアを開けた。


いつもの無表情のまま、銀髪の錬金術師が、包みを差し出す。

「脱毛クリームだ」

「いらんわそんなもん」


一瞬だけ目を見開いたシルフィドはしかし、冷静に告げる。

「だから、お前のDNA,奇妙な遺伝子が付け加えられていてな。おそらく、それが作用しているんだと思う。毛根をーー死に追いやる呪いだ」

「呪い!?」

「ああ…どこかの魔女でも怒らせたのか? よほど手の込んだ呪いだぞ」

「と、解いてくれ!!」

「簡単に言うなよ…。死人を一人生き返らすくらいの労力だ。はっきり言って、オレ、お前のためにそこまでしてやるつもりはない」

「頼む!」

「いいじゃないか。スキンヘッド、似合ってるぜ」

「似合う似合わないの問題じゃあない!! 俺は、俺はあのフサフサが…!!」


懇願する友人に背を向け、錬金術師は、徹夜で作った脱毛クリームを懐にしまい込み、去ってゆく。

残された男はーー絶望に打ちひしがれた。

シルフィドが、何を思いついたのか、ふと、振り返った。

「毎朝、塗れば?」

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音声化シリーズ。
知り合い様に企画していただいたものだったり、自分で企画したものだったり。
よろしかったら、音声にて、ひととき、浮き世を忘れてみて下さいませ♪

◆銀の術師と機械の小鳥(音声)◆
◆どうしたら、君の心が手に入る?◆
↑こちらは、作っていただきました!((o(^∇^)o))
ありがとうございます!!

◆魔法の街と枯れる花(音声)◆
↑ある機械少女の悩み

◆ドラゴンと、絵と(音声)◆
↑本編の2と3の間辺り。番外編的な。

◆【英語】君は美味しいフィッシュ・スープ◆
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