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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第4章 大魔境に眠るもの
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エピローグ 大魔境に眠るもの

 夕暮れに染まり始めた森の向こうに、第三結界柱の防壁が見えた。


「調査隊だ!」


 見張り台から声が上がる。


 直後、防壁の内側が慌ただしくなった。門が開き、武装した兵と治療術士たちが駆け出してくる。


 第三結界柱を出発した時の整然とした姿は、見る影もない。

 右足を捻挫した術士は兵に肩を借り、左腕を負傷した兵も顔を青ざめさせながら歩いている。

 鎧や外套には土と黒い体液がこびりつき、武器には幾つもの傷が刻まれていた。


 それでも。


 門を潜った人数は、出発した時と同じだった。


「負傷者を治療所へ!」


 結界柱を守る兵たちが、次々と調査隊の者を支える。


「地下へ落ちたと聞きましたが、何があったのですか」

「ほかに負傷者は?」


 幾つもの問いが飛んだ。


 サイゾウは答えず、まず調査隊の姿を見渡す。


「歩けない者を優先しろ。傷の浅い者は後だ」

「隊長も治療を受けてください」

「報告が先だ」


 サイゾウの肩当ては裂け、脛当てにも深い爪痕が残っている。


 刀も刃こぼれだらけで、鞘へ納まっていることが不思議なほどだった。


「サイゾウ」


 テンカが呼び止める。


「そなたも負傷者じゃ」

「これくらいなら歩けます」

「歩けるかどうかを聞いておるのではない」


 サイゾウが僅かに目を伏せた。


「……承知しました。傷を診せてから報告へ向かいます」

「うむ。それでよい」


 テンカが頷くと、サイゾウは治療術士のもとへ歩いていった。


 その背中を見送り、テンカはようやく息を吐いた。


 継火を握っていた右手が、僅かに震えている。

 地下にいる間は、気づかなかった。


 止まれば追いつかれる。

 判断を誤れば、誰かが死ぬ。

 その緊張が、恐怖も疲労も身体の奥へ押し込めていたのだろう。


「姫さま」


 キリカが、テンカの右手を両手で包んだ。


 額の傷には、乾いた血が残っている。それでもキリカは、自分より先にテンカの身体を確かめていた。


「痛むのですか」

「いや」


 テンカは震える指を見つめる。


「今になって、怖くなっただけじゃ」

「……わたしもです」


 キリカの手も、冷たかった。


 テンカはその手を握り返す。


「戻れたのじゃな」

「はい」


 キリカが静かに頷いた。


「全員で、戻ってこられました」


 その言葉を聞いて、ようやく帰還したのだと実感できた。


 だが、安堵している時間は長くはなかった。


 地下で見たものを、一刻も早く伝えなければならなかった。


 ◇  ◇  ◇ 


 応急処置を終えたサイゾウたちは、第三結界柱の指揮室へ集まっていた。

 大きな机の上には、大魔境外縁部の地図が広げられている。


 出席しているのは、第三結界柱の守備責任者、記録係、サイゾウ、ラデルカ、マリエラ、テンカ、キリカ。


 報告は、サイゾウから始まった。


「黒き鬼の残滓を追跡中、地中へ続く遺構を発見しました」


 感情を交えず、確認した事実だけを順に並べていく。


 崩落により、調査隊12人が地下へ落下したこと。

 落下地点の周囲に、人の手で造られた石段や通路が存在していたこと。

 地上へ戻る道を探す途中で、複数の異形と遭遇したこと。


 そして、巨大な地下空洞に、数え切れないほどの異形が潜んでいたこと。


「空洞の奥には、ひときわ大きな影も確認しました」


 サイゾウの言葉に、室内の空気が重くなる。


「正体は?」

「確認できていません。こちらへ反応した異形が一斉に動き始めたため、調査を打ち切りました」

「出入口は塞いだのですか」

「我々が脱出した石段は、崩落させました。ただし、あれほど広い遺構です。ほかに地上へ通じる場所が存在する可能性は高いでしょう」


 記録係の筆が、紙の上を走る。


 守備責任者は地図へ視線を落とした。


「防壁と結界は、地上から来る魔物を想定して築かれている。地下から内側へ入り込まれれば、第三結界柱そのものが意味を失うかもしれん」


 その言葉に、誰も反論できなかった。


 続いてマリエラが口を開く。


「地下で確認した異形には、幾つかの共通点があります」


 机に置かれた紙へ、簡単な図を描いていく。


「黒い瘴気。身体を巡る黒い筋。そして、通常の生物とは異なる再生です」

「再生?」

「傷を元の形へ戻しているのではありません」


 マリエラは首を横へ振った。


「失われた箇所を、骨や肉を無理やり伸ばして補っています。そのため、傷つくほど関節の数や向きが変わり、身体がさらに歪んでいく」


 あれらは傷を癒やしていたのではない。


 壊れながら、動き続けていただけなのだ。


「黒き鬼にも、異常な再生能力がありました」


 守備責任者が呟く。


「はい」


 マリエラが頷く。


「黒き鬼と地下の異形。両者が、同じ影響を受けた可能性はあります」

「黒き鬼は、あの地下から現れたと?」

「現段階では断定できません」


 マリエラの返答は慎重だった。


「黒き鬼の残滓が地下遺構へ続いていたことは事実です。ですが、地下で生まれたのか、地上から入り込んだのか、それすら分かりません」


 ラデルカも腕を組んだまま続ける。


「臭いも一つではなかった。獣、魔物、血、泥、腐った水。それぞれ別のものが混ざっていた」


 褐色の犬耳が、思い出すように僅かに伏せられる。


「あそこにいたものは、最初から同じ魔物だったわけではない」


 室内が静まり返った。


 黒き鬼だけが、偶然変異したのではないのかもしれない。

 大魔境の地下には、別々の生物を同じように壊す何かが存在する。

 その可能性は、黒き鬼一体よりも遥かに危険だった。


「テンカ様は、どう見られましたか」


 守備責任者の視線が、テンカへ向けられる。


 テンカは地下で触れた、濁った気配を思い返した。


「五行の巡りが、壊れておった」

「巡りが?」

「うむ。木は際限なく伸び、土は固まり、金は歪み、水は淀む。わらわが捉えた限りでは、どの性質も互いに巡ることなく、身体へ残っておった」


 傷つくたびに骨や肉を伸ばし、別の形へ変わっていった異形たち。


「あれらは、傷を癒やしていたのではない」


 テンカは静かに告げる。


「死ねぬまま、壊れ続けておったのじゃ」


 誰も言葉を挟まなかった。


「わらわの刀で斬ることはできる。じゃが、あれらを斬るだけでは終わらぬ」


 空洞を覆っていた無数の影。


 その奥にあった、ひときわ大きな何か。


 あれらを一体ずつ倒したとしても、また別の異形が生まれるのなら意味はない。


「何があれらを生み出しておるのか。それを知らねば、同じことが繰り返される」


 テンカは机の上に広げられた地図へ目を落とした。


 人が描いた地図には、森と結界柱しか記されていない。


 その下に、あれほど巨大な空間が存在していることなど、誰も知らなかった。


「地下へ再び入るべきだと?」

「今すぐに、とは申しておらぬ」


 テンカは首を横へ振る。


「今回、わらわたちは生きて戻るだけで精一杯であった。次も同じとは限らぬ」


 その言葉を口にすることに、以前ほどの抵抗はなかった。


 できなかったことを認めるのは、敗北ではない。

 次に何をするべきかを見誤らないために、必要なことだ。


「まずは、地上へ通じる場所がほかにないか調べるべきじゃ。じゃが、地下へ踏み込むのは、十分な備えを整えてからでよい」


「同意します」


 サイゾウが頷く。


「現状の戦力で再調査を行うべきではありません」


 守備責任者は全員の意見を確認し、記録係へ命じた。


「本邸へ緊急報告を送る。伝令符を」


 ◇  ◇  ◇ 


 返答が届いたのは、夜が深くなってからだった。


 指揮室の机に置かれた伝令符が淡く光り、白い紙面へ黒い文字が浮かび上がる。

 筆跡は、テンカにも見覚えがあった。


『第三結界柱および周辺拠点の警戒を一段階引き上げます』

『地下遺構への再侵入を禁じます』

『地表側からの調査は、遠距離からの監視と痕跡確認に限定しなさい』

『地下へ通じる穴を発見した場合も、決して内部へ立ち入らないこと』


 最後に、短い一文が続いた。


『調査隊の全員が帰還したことを確認しました。負傷者の治療を最優先とし、回復後に帰還しなさい』


 ――ハヅキ辺境伯、コトネ。


 当主としての命令だった。


 だが、最後の一文だけは、娘と家臣の帰還に安堵する母の言葉にも思えた。


「母上らしいのう」


 テンカが呟く。


「はい」


 キリカが隣で微笑んだ。


「ですが、戻ればお叱りを受けるかもしれません」

「その時は、そなたも隣におれ」

「もちろんです」

「ならば、案ずることはないな」


 テンカは小さく笑い、伝令符を見つめた。


 ◇  ◇  ◇ 


 その夜。

 第三結界柱の宿舎へ入っても、テンカはなかなか眠ることができなかった。


 目を閉じれば、硬い指が石を削る音が蘇る。


 四肢を絡ませながら迫ってきた異形。

 巨大空洞の奥で、瘴気の向こうに佇んでいた影。


 テンカは寝台の上で身体を起こした。


「眠れませんか」


 隣の寝台から、キリカの声がした。


「起こしたか」

「いいえ。わたしも同じです」


 キリカも身体を起こす。


 窓の外では木々が風に揺れ、結界柱を巡回する兵たちの足音が聞こえていた。


 地上にある、当たり前の音。

 それでも、地下で聞いた音が耳の奥から消えない。


「キリカ」

「はい」

「地下では、皆の力がなければ戻れなんだ」


 サイゾウが退路を守り。

 ラデルカが道を切り開き。

 マリエラが地上へ続く風を見つけ。

 兵たちが負傷者を支えた。


 そしてキリカは、最後までテンカの隣にいた。


「わらわ一人の刀では、届かぬ場所もあるのじゃな」


 キリカは否定しなかった。


「はい」


 その返事が、今は心地よかった。


「ならば、次も一人で背負うつもりはない」


 テンカは窓の外に広がる大魔境を見つめる。


「刀を振るうのがわらわでも、そこへ至る道まで一人で作る必要はない。そなたたちとともに進めばよいのじゃ」


「その時も、わたしは姫さまのお隣におります」

「うむ」


 テンカは静かに頷いた。


「今度こそ、大魔境の底に何が眠っておるのかを見定めよう」


 ◇  ◇  ◇       


 地上が深い夜へ沈んだ頃。

 調査隊が踏み込んだ遺構よりも、さらに深い地の底では、黒く濁った水が音もなく流れていた。


 朽ちた柱。

 折れた武具。

 人とも獣ともつかぬ骨。


 それらが沈む水底の中央に、巨大な何かが蹲っている。


 人の形に似ていたのは、太い胴と、辛うじて頭部と呼べるものがあることだけだった。


 全身を覆うのは、骨とも鎧ともつかぬ黒い外殻。

 幾重にも重なった角が背から伸び、歪んだ腕が折り畳まれるように巨躯へ絡みついている。


 顔にあるはずの目も鼻も見えない。

 ただ、縦に裂けた口だけが、胸元近くまで続いていた。


 その身体の中心には、一振りの妖刀が呑み込まれている。


 柄だけを残して黒い外殻へ埋まり、赤黒い瘴気が血管のように全身へ伸びていた。


 黒い水が、何の前触れもなく僅かに揺れた。


 妖刀に刻まれた紋が、一度だけ明滅する。

 それに呼応するように、異形の巨躯が脈打った。

 顔を覆う黒い外殻。その隙間に閉ざされていた眼の奥に、赤黒い光が灯る。


 ほんの一瞬。

 光はすぐに闇へ沈み、地の底には再び静寂が戻った。


 異形は、まだ目覚めてはいない。


 ただ、その深い眠りの底に――


 遥か地上を歩く、生者たちの気配が届いていた。

これにて、第4章完となります。


この後は第4章時点版の登場人物紹介ならびに設定集を投稿しつつ、幕間を挟んで第5章を開始できればと思います。


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