エピローグ
継火を腰に佩いて屋敷へ戻る道は、不思議なほど静かだった。
夕暮れの光が、領都の屋根を淡く染めている。
通りを行き交う人々の声も、遠くで鳴る荷車の音も、いつもと変わらない。
けれど、テンカの腰には新しい重みがある。
黒い鞘。緋の一筋。
その奥に忍ぶ五行の色。
継火。
そう名づけた太刀は、歩くたびにわずかに揺れ、テンカの身体の横に静かに収まっていた。
「姫さま」
隣を歩くキリカが、そっと声をかける。
「重くはありませんか」
「重い」
テンカは正直に答えた。
キリカがわずかに目を見開く。
「ですが、不思議と嫌ではない」
テンカは継火の柄に指を添えた。
「この重みは、わらわが持つべきものじゃ」
「……はい」
キリカは静かに頷いた。
その声が、どこか嬉しそうに聞こえたのは気のせいではないだろう。
屋敷に着くと、すぐにコトネのもとへ向かうことになった。
ハヅキ辺境伯家の奥にある一室。
窓の外には、暮れかけた庭が見える。
コトネは机の前に座っていた。
艶やかな黒髪を結い上げ、いつものように背筋を伸ばしている。
その姿は当主のものだった。
けれど、テンカを見る瞳だけは、母のものだった。
「戻りましたか」
「はい、母上」
テンカは一歩進み、深く頭を下げる。
「ムネチカが打った太刀、継火です」
そう言って、腰の太刀へ手を添えた。
コトネの視線が継火へ向き、しばらく黙ってそれを見つめていた。
やがて、静かに立ち上がる。
「見せなさい」
「はい」
テンカは継火を外し、両手で差し出した。
コトネはそれを受け取る。
刀を扱う所作は静かで、無駄がない。
鞘からわずかに刀身を抜くと、淡い光が部屋に落ちた。
白く澄んだ刃。
その奥に眠る緋色。
刃文の際に走る、かすかな青白い光。
コトネは、ほんのわずかに目を細めた。
「よい太刀です」
その一言に、テンカの胸が熱くなる。
ムネチカを褒められたようでもあり、継火を認められたようでもあり、そして、自分が一歩進めたと認められたようでもあった。
「ムネチカも喜びます」
「ええ。これは、よい仕事です」
コトネはゆっくりと継火を鞘へ納めた。
そして、テンカへ返す。
「ですが、よい太刀であるほど、持つ者を映します」
テンカは両手で継火を受け取った。
「持つ者を、ですか」
「ええ。刀は、ただの道具ではありません。扱う者の心が乱れれば、刃も乱れます。力に酔えば、振るい方も変わります」
コトネの声は厳しい。
けれど、冷たくはなかった。
「継火は、あなたの火を受け止めるために打たれた太刀なのでしょう」
「はい」
「ならば、あなた自身もまた、その火を受け止められる者でなければなりません」
その言葉は、静かに胸へ入ってきた。
以前なら、少し反発したかもしれない。
自分はやれる。
大丈夫だ。
そう言い張りたくなったかもしれない。
だが、今は違う。
テンカは継火の柄にそっと触れた。
「分かっております、母上」
黒き鬼を斬った日のことを思い出す。
燃え上がった火行。砕けた刀。
目覚めた時の天幕。
キリカの赤くなった目元。レイナの泣きそうな顔。
そして、母の言葉。
――次は、倒れずに戻りなさい。
その言葉を、今度は自分の中から取り出す。
「わらわは、斬るためだけにこの太刀を持つのではありませぬ」
テンカは顔を上げた。
「次は、倒れずに戻るために。この太刀を振るいます」
コトネは、しばらくテンカを見つめていた。
やがて、静かに頷く。
「その言葉、忘れてはなりません」
「はい、母上」
テンカははっきりと答えた。
コトネの表情が、ほんのわずかに柔らかくなる。
「ならば、よいでしょう」
その言葉に、テンカは小さく息を吐いた。
許された、というより。
見届けられた。
そんな気がした。
「テンカ」
「はい」
「不満そうな顔をしないこと。しばらく火行を通す稽古は、私かムネチカの許可がある時のみです」
「……分かっております。ですが、早く全力で振るってみたいものです」
「焦ってはなりません」
コトネはそう言って、静かにテンカの頭へ手を置いた。
「継火は、あなたを急かすための太刀ではありません。あなたが帰るための太刀でしょう?」
テンカは少しだけ目を見開いた。
頭に置かれた母の手は、温かかった。
「はい、母上」
今度は、間を置かずに答えた。
継火が完成したからといって、すべてが変わるわけではない。
明日からも稽古は続く。
火を留める練習も、水を巡らせる感覚も、刀を振った後に戻る足も、まだまだ未熟だ。
けれど、今のテンカには、腰に確かな重みがある。
その重みは、自分を前へ押し出すだけではない。
戻る場所を思い出させてくれる。
その日の夜。
屋敷の廊下を歩く使用人たちの間で、小さな噂が広がっていた。
テンカ姫が、新しい太刀を佩いて戻られたらしい。
黒い鞘に、緋の一筋。
刀匠ムネチカが打った、特別な太刀。
黒き鬼を斬った姫君の、新たな一振り。
噂はまだ小さい。
けれど、その火種は屋敷の中だけに留まらなかった。
黒き鬼を斬ったハヅキ辺境伯家の次女。
刀匠ムネチカが新たに太刀を打った姫君。
その名に興味を示す書状が、遠く皇国中央から届き始めていることを、テンカはまだ知らない。
噂は、次の風を待つ火種のように、静かに広がりつつあった。
テンカは自室へ戻ると、継火を刀掛けに置いた。
黒い鞘が、灯りを受けて静かに光る。
キリカが寝支度の準備を進める音を聞きながら、テンカはしばらく継火を見つめていた。
「姫さま」
「うむ」
「明日も、稽古ですね」
「うむ」
「無理のない範囲で」
「分かっておる」
そう答えてから、テンカは少しだけ笑った。
以前より、その言葉を素直に聞けるようになった気がする。
継火は、まだ眠っている。
だが、その内には火が継がれている。
砕けた刃から。炉の火から。
そして、テンカ自身の焔から。
この太刀を佩いて、いつかまた大魔境へ向かう日が来るだろう。
その時、自分は何を斬り、何を守り、どこへ戻るのか。
答えは、もう決まっている。
テンカはそっと、継火の鞘に触れた。
「案ずるでない」
小さく、けれど確かに呟く。
「わらわは、帰る」
黒き鬼との戦いで砕けたものは、ただ失われたわけではなかった。
火は継がれ、刃は形を変えた。
そしてテンカもまた、次の一歩へ進む。
ハヅキ辺境伯家の姫君として。
継火を佩く、ひとりの武人として。
これにて、第2章完となります。
この後は第2章時点版の登場人物紹介ならびに設定集を投稿しつつ、幕間を挟んで第3章を開始できればと思います。
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