黒き鬼の爪痕②
机上の地図には、ハヅキ領南方から西部にかけて広がる悠久なる大魔境、その外縁、防衛線、結界柱の位置が記されている。
第三結界柱の近くには、赤い印が置かれていた。
黒き鬼と遭遇した地点。
「詳細な報告は読んでいます」
コトネが静かに言った。
「ここでは、事実の確認よりも、今後の対応を決めます。サイゾウ、要点を」
「はい」
サイゾウが頷く。
「第三討伐隊は、第三結界柱へ向かう道中で通常オーガの集団と接触しました。数は当初確認で六体。その後、追加で二体。いずれも大魔境中央部に棲むはずの個体です」
「外縁部で遭遇するには、異常な位置ですね」
トウマが眼鏡の奥で目を細める。
「通常オーガは、我々を襲っていたというより、何かから逃げているように見えました」
「黒き鬼から、ですね」
クレハが静かに言う。
「おそらくは。通常オーガを処理している最中、後方より高濃度の瘴気反応を確認。直後、黒きオーガ……いえ、黒き鬼が出現しました」
その言い直しに、会議室の空気がわずかに重くなる。
トウマが羽根ペンで報告書に何かを書き込んだ。
「あれは分類名よりも、まず危険度で扱うべき個体です」
次に、第三討伐隊に同行していた術士代表が口を開いた。
「黒き鬼の周囲では、通常の大魔境外縁部で観測される濃度を大きく上回る瘴気が確認されました。また、あの個体は周囲の瘴気を取り込み、傷の再生に利用していた可能性があります」
「断定は?」
アルバートが穏やかに問いかける。
「追加検証が必要です。ただ、封縛術が腐食するように破られたこと、結界符の光に対して瘴気が退いたこと、そして姫さまの火行によって再生が停止したことから、再生の源が瘴気にある可能性は高いと見ています」
コトネの視線が、テンカへ向いた。
「テンカ」
「はい」
「あなたが斬った時、何を感じましたか」
会議室の視線が集まる。
テンカは膝の上で手を握り、記憶を探った。
緋色の炎。黒い血。肉が盛り上がる感触。
そして、胸の奥にあった黒い塊。
「あやつの再生は、ただ肉が戻っているのではありませんでした」
テンカはゆっくりと言った。
「瘴気そのものを喰っておった。傷口から瘴気を取り込み、黒い血と肉へ変えておるように見えた」
術士が真剣な表情で頷く。
「それと、胸の奥に黒い塊がありました。心臓とは違う。魔核なのか、変異の中心なのかは分かりませぬ。だが、あそこを焼いた時、再生が止まった」
「場所は胸部中央ですか?」
トウマが問いかける。
「やや左寄り。サイゾウが開いた傷の奥じゃ」
サイゾウが頷いた。
「私の刃が胸元へ届いた時、確かに黒い塊のようなものが見えました。ですが直後に肉が絡みつき、刃を捕らえられました」
「再生しながら武器を拘束した、ということですか」
「はい」
トウマの表情がわずかに険しくなる。
「姫さまの火行で、その核は焼失したのですね」
「はい。少なくとも、わらわが見た限りでは、黒い塊が緋色の火に包まれて砕けました」
「死骸の確認でも、再生反応は見られませんでした」
術士が補足する。
「残留瘴気は高濃度でしたが、時間経過とともに霧散しています。姫さまの火行により、瘴気の核が焼き祓われたと見てよいかと」
火行。その言葉に、コトネの瞳がわずかに動く。
つい先ほど、火行の危うさを母に説かれたばかりだ。
テンカは無意識に背筋を伸ばした。
トウマが地図上の赤い印へ指を置く。
「問題は、ここです」
全員の視線が地図へ向かう。
「黒き鬼そのものも脅威ですが、より大きな問題は、なぜあの個体が外縁部まで現れたのかです。通常オーガの群れが先行して逃げていたこと。黒き鬼が高濃度の瘴気を纏っていたこと。さらに、第三結界柱付近まで接近していたこと。偶然にしては要素が多すぎます」
「現場感覚でも、あれは迷い出たというより、押し出されてきたように見えました」
サイゾウが言った。
「大魔境の奥で何かが動き、魔物たちの位置が乱れている可能性があります」
会議室が静まり返る。
大魔境の奥。
テンカは、その言葉を頭の中で繰り返す。
『ボスの背後に、さらに原因があるやつじゃん……』
前世のおじさんが、頭の奥で小さく呟いた。
笑えない。
まったく笑えない。
「第三結界柱周辺の監視を強化します」
トウマが続ける。
「加えて、第二、第四結界柱との連絡頻度を上げ、瘴気濃度の変化を記録します。調査は深部ではなく、まず外縁部から。通常オーガの移動経路、黒き鬼の残留瘴気、結界柱への負荷。その三点を優先すべきです」
「妥当ですね」
クレハが頷いた。
「第三討伐隊には補充を出しましょう。サイゾウさん、あなたは無理をしないように」
「承知しています」
「本当に?」
「……善処します」
「善処では足りません」
どこかで聞いたようなやり取りに、テンカは思わず目を瞬かせた。
サイゾウもまた、上司には敵わないらしい。
クレハはテンカへ視線を向けた。
「テンカ姫。あなたの火行が、黒き鬼に有効だったことは間違いありません」
「はい」
「ですが、今のあなたに黒き鬼への対応を任せることはできません。刀は砕け、姫さまご自身も倒れました。あの火は、強すぎる」
優しい声だった。
だが、甘くはない。
「強い火は、味方の灯にもなります。けれど、扱いを誤れば、守るべきものを焼きます」
「……はい」
「だからこそ、整えましょう。姫さまが火を恐れすぎず、侮りもせず、必要な時に必要なだけ振るえるように」
クレハは、コトネへ視線を向ける。
「コトネ様。刀匠ムネチカ殿を呼ぶ件、私も賛成です」
「トウマは」
「同じく賛成です」
トウマは眼鏡を軽く押し上げた。
「装備面の補助は必要です。普通の刀では、姫さまの五行、とりわけ火行の負荷に耐えられません。ただし、刀だけに頼るべきではない。結界符や制御具も併せて検討すべきでしょう」
テンカは静かに聞いていた。
自分の力が、会議の中で戦力として扱われている。
少し不思議で、少し怖い。
だが、当然でもあった。
黒き鬼を斬った以上、もう「子供だから」で済まされるだけではない。
「テンカ」
コトネが呼ぶ。
「あなたは、どう考えますか」
問われて、テンカは一度だけ目を伏せた。
砕けた刀。緋色の火。
そして、母に告げられた言葉。
どれも、まだ胸の奥に残っている。
テンカは顔を上げた。
「わらわは、まだ未熟です」
「黒き鬼を斬ったのは、わらわ一人の力ではありませぬ。第三討伐隊が隙を作り、サイゾウが胸元へ刃を届かせ、術士たちが瘴気を退け、キリカが皆を下げてくれた。わらわは、最後の一刀を振るっただけ」
サイゾウがわずかに目を伏せる。
「ですが、その一刀で、刀は砕けました。わらわも倒れました。母上にも言われましたが、それを誇る気はありませぬ」
テンカは続ける。
「次に火を振るう時は、守るために振るいたい。味方を焼かず、刀を壊すだけで終わらせず、振るった後も立って戻りたい。そのために、刀が必要なら、わらわは向き合います。制御具が必要なら、それも受け入れます。稽古が必要なら、何度でもやります」
テンカは膝の上で手を握った。
「わらわは、あの火に呑まれたくない。あの火を、わらわのものにしたい」
コトネが、静かに頷いた。
「よろしい」
クレハも微笑む。
「よいお答えです」
トウマは報告書に何かを書き込みながら言った。
「では、刀匠ムネチカ殿への依頼内容を整理しましょう。第一に、火行の高負荷に耐える刀身。第二に、五行の巡りを阻害しない構造。」
「欲張りじゃな」
テンカが思わず言う。
「姫さまの力が欲張りなのです」
トウマは淡々と返した。
反論できなかった。
会議はその後、第三結界柱周辺の監視強化、負傷者の配置換え、調査隊の準備について続いた。
しかし、テンカの同席はそこまでだった。
キリカが静かに前へ出る。
「姫さま」
「まだ聞ける」
「コトネ様」
キリカはテンカではなく、コトネを見た。
裏切りである。
いや、正しい判断なのだが。
コトネは即座に頷いた。
「テンカ、退出しなさい」
「母上」
「あなたがここで倒れれば、会議が止まります」
「……それは困る」
「ならば、休みなさい」
正論だった。
テンカは渋々立ち上がろうとした。
だが、膝に力が入らず、わずかによろめく。
すぐにキリカが支えた。
「姫さま」
「……分かっておる。無理はせぬ」
「今なさいました」
「少しだけじゃ」
「無理に大小はありません」
クレハが小さく笑った。
「よいメイドですね」
「自慢のキリカです」
テンカがそう言うと、キリカがわずかに目を見開いた。
「姫さま」
「何じゃ」
「そういうことを急に言わないでください」
「事実じゃ」
「……ありがとうございます」
キリカは少しだけ頬を赤らめ、すぐに表情を整えた。
テンカはその様子に満足しつつ、会議室を出る。
扉が閉まる直前、トウマの声が聞こえた。
「次に問題となるのは、黒き鬼が生まれた原因です」
テンカの足が、わずかに止まる。
「姫さま?」
「いや」
テンカは首を横に振った。
「行こう」
キリカに支えられながら、廊下を歩く。
報告は終わった。
だが、対策会議はまだ続いていて、大魔境の異変は終わっていない。
黒き鬼は、ただ倒して終わる存在ではなかった。
大魔境の奥には、まだ見えぬ影がある。
そしてテンカの手元には、砕けた刀が残っている。
火を恐れず、火に呑まれず、守るために振るうには。
まずは、刀匠ムネチカに会わねばならない。
テンカは小さく息を吐いた。
黒き鬼が残したものは、恐怖だけではない。
前へ進むための問いでもあった。
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