わらわと饅頭①
時系列はエピローグ後の話となります。
ハヅキ辺境伯領の領都には、少し変わった甘味処がある。
店名を【フクキタル】
白壁に黒い木組み。
軒先には丸い提灯が下げられ、そこには丸々とした饅頭の絵が描かれている。
皇国風の石畳の通りに面しながら、店構えはどこか武蔵ノ原の茶屋を思わせる造りで、店先からは蒸した生地と甘い餡の香りがふわりと漂っていた。
テンカ=ハヅキ、11歳。
ハヅキ辺境伯家の次女であり、刀剣術と五行術を学ぶ姫武者である彼女は、今、その店の前で足を止めていた。
「姫さま」
半歩後ろで、キリカが静かに声をかける。
アッシュブラウンの髪をうなじのあたりで一つに束ねた専属メイド兼護衛は、今日も隙のない立ち姿をしていた。
「本日は領都の巡回を兼ねた外出であって、甘味処巡りではございません」
「分かっておる」
テンカは重々しく頷いた。
「分かっておられる方の顔ではありません」
「失礼な。わらわは常に冷静じゃ」
「では、なぜ店先で足が止まっているのでしょうか」
「それは……」
テンカは視線を逸らした。
ちょうどその時、店の奥から蒸籠を開ける音がした。
白い湯気がふわりと立ち上る。
甘い香りが通りへ流れ出した。
ふっくらと蒸し上がった生地。
中に包まれた、なめらかな餡。
熱々を一口かじれば、口の中に広がる優しい甘み。
テンカの喉が、小さく鳴った。
「……民の暮らしを知ることも、ハヅキの娘として大切な務めであろう」
「民の暮らし、ですか」
「うむ。領都で評判の店が、今日も変わらず民に愛されておるか。実際に見て、食して、確かめる必要がある」
「食して、確かめる必要があるのですね」
「ある」
テンカは真剣だった。
キリカはしばらく無言でテンカを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「お一つだけです」
「む」
「姫さま」
「……二つでは駄目か?」
「お一つです」
「では、一つと半分」
「半分とは?」
「キリカの分を、わらわが少し味見する」
「わたしの分を勝手に計算に入れないでください」
キリカの声は淡々としていたが、口元にはわずかに笑みがあった。
テンカはその隙を見逃さない。
「つまり、キリカも食べるのじゃな?」
「……護衛として、店内の安全確認をするだけです」
「ならば、その安全確認のついでに饅頭を食べても問題あるまい」
「姫さまは本当に饅頭のことになると口が回りますね」
「褒めるでない」
「褒めておりません」
そんなやり取りをしながら、二人はフクキタルの暖簾をくぐった。
店内には、木の卓がいくつか並び、壁には季節の花を描いた絵札が飾られ、棚には茶器や小さな菓子箱が置かれている。
皇国の菓子店にあるような華やかさとは違う。
だが、どこか落ち着く空気があった。
「いらっしゃいませにゃ!」
明るい声とともに、奥から一人の女性が顔を出した。
頭の上には、ぴんと立った猫耳。
腰の後ろでは、柔らかそうな尻尾が機嫌よく揺れている。
彼女の名はルル。
フクキタルで働く猫獣人の女性である。
人懐こい笑顔とよく通る声で、領都の常連客からも親しまれている店員だった。
「あっ、テンカ姫さま! 今日も来てくれたのにゃ!」
「うむ。邪魔するぞ、ルル」
「邪魔なんてとんでもないにゃ! 姫さまが来ると、店がぱっと明るくなるにゃ」
「ふふ、口が上手いのう」
「本当のことにゃ。キリカちゃんも、いらっしゃいませにゃ」
「お邪魔します」
キリカが丁寧に頭を下げる。
ルルはにこにこと笑いながら、二人を窓際の席へ案内した。
「今日はどうするにゃ? いつもの黒糖饅頭? それとも胡麻饅頭? 今朝はこし餡もよく練れてるって、店主が自慢してたにゃ」
「む……」
テンカは真剣に悩んだ。
黒糖饅頭は外せない。あの深い甘みと香ばしさは、茶とよく合う。
だが、胡麻饅頭も捨てがたい。ふっくらとした饅頭の中に、すり胡麻の豊かな香りが広がるのだろう。
こし餡も気になる。滑らかで、上品で、舌の上でほどける甘み。
これは難問だった。
『会議資料より真剣に悩んでないか、俺』
前世のおじさんが、頭の奥で呟いた。
仕方あるまい。饅頭は大事だ。
テンカは顎に手を当て、しばし考えた。
「黒糖饅頭を一つ。胡麻饅頭を一つ。こし餡饅頭を一つ」
「姫さま」
即座にキリカの声が飛んだ。
「お一つだけと申し上げました」
「これは違う」
「何が違うのですか」
「比較じゃ」
「比較…?」
「ハヅキ領の食文化を正しく理解するためには、複数の味を比べる必要がある。これは単なる甘味ではない。領地理解の一環じゃ」
「姫さま」
「何じゃ」
「その理屈は、前回も聞きました」
「む」
テンカは言葉に詰まった。
ルルが尻尾を揺らしながら笑う。
「じゃあ、姫さま用に小さめ三種盛りにするにゃ? 店主に頼めば作ってくれるにゃ」
「それじゃ!」
「……ルルさん」
キリカの視線がルルへ向いた。
ルルは猫耳をぴこりと動かし、少しだけ視線を逸らした。
「だ、だって姫さまが嬉しそうにしてると、ルルも嬉しいにゃ」
「気持ちは分かりますが、姫さまを甘やかしすぎです」
「キリカも饅頭を食べれば分かる。饅頭は人を優しくするのじゃ」
「姫さまは、饅頭の前ではすでに十分甘いです」
「うまいことを言うでない」
そんなやり取りをしていると、店の奥から一人の男性が姿を現した。
白い調理服に、きちんと整えられた髭。
年齢は四十代ほど。
柔らかな雰囲気を持つが、菓子職人らしい鋭い目もしている。
彼こそが、フクキタルの店主。
コリンズである。
「これはこれは、テンカ姫さま。本日もご来店いただき、光栄です」
「うむ。コリンズ、今日もよい香りじゃ」
「ありがとうございます。今朝の餡は、なかなか良い出来でして」
コリンズの顔が、職人のものになる。
「豆の炊き加減、砂糖の入れ時、練りの温度。いずれも申し分ありません。特にこし餡は、舌触りを損なわぬよう何度も裏ごしを重ねております」
「ほう」
テンカの瞳が輝く。
コリンズも嬉しそうに頷いた。
「やはり、饅頭は奥深い。皇都で菓子職人をしていた頃、私は自分なりに菓子というものを理解していたつもりでした。ですが、あの日、初めて饅頭を口にした瞬間――世界が変わったのです」
遠い目で語るコリンズ。
キリカが小さく首を傾げる。
「世界が、ですか」
「ええ」
コリンズは真剣だった。
「あの白く柔らかな生地。中に包まれた餡の優しい甘み。華美ではない。派手でもない。ですが、噛めば噛むほど、心に染み入る。私は悟りました。これこそが、私の探していた菓子なのだと」
「大げさではありませんか?」
キリカが控えめに尋ねる。
「大げさではありません、キリカ殿」
コリンズはきっぱりと言った。
「私は皇都の有名菓子店で料理人をしておりました。高価な砂糖も、珍しい果実も、華やかな飾り菓子も扱いました。ですが、饅頭にはそれらとは違う力がある」
「力?」
「人を黙らせる力です」
「黙らせる?」
「はい。うまい饅頭を食べた者は、まず黙ります。言葉を忘れる。そして、ほっと息を吐くのです」
テンカは深く頷いた。
「分かる」
「姫さま、分かるのですか」
「うむ。よき饅頭は、心を丸くする」
「まさに!」
コリンズがぱっと顔を輝かせる。
キリカはその二人を見て、少しだけ困ったように瞬きをした。
饅頭を前にすると、なぜかテンカとコリンズは妙に通じ合う。
それは以前からのことだった。
「では、本日は姫さまには特別に、小さめ三種盛りをご用意いたしましょう」
「うむ!」
「店主まで……」
キリカが小さく呟く。
だが、コリンズは職人の顔で胸を張った。
「ご安心ください、キリカ殿。姫さまのお身体に負担のない大きさでお作りします」
「本当ですね?」
「もちろんです」
こうして、テンカにとって本日の最重要案件――小さめ三種盛りの饅頭が、正式に用意されることとなった。
評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!




