ハヅキ辺境伯家の次女①
初投稿です。
良しなに。
ファールン皇国の南方には、皇国の地図を広げた者なら誰もが一度は目を留める広大な領地がある。
ハヅキ辺境伯領。
温暖な気候に恵まれ、海と山と深い森を抱き、交易の要衝でありながら、皇国の中枢から見ればどこか異国めいた香りを漂わせる地。
白壁の屋敷。
反りのある瓦屋根。
石畳の道を歩く洋装の商人。
その横を、袴に似た装束を纏った武官がすれ違う。
皇国の風土と、東方国家・武蔵ノ原の文化が混ざり合ったその領地は、時にこう呼ばれる。
皇国の中にある、東方の国。
そして、その地を治めるのがハヅキ辺境伯家であった。
「――姫さま、足の運びが乱れております」
乾いた音が、朝の訓練場に響いた。
木刀と木刀が打ち合う音。
小柄な少女が、袴の裾を翻して後ろへ跳ぶ。
黒く艶やかな髪が、朝日に照らされて揺れた。
歳は八つ。
幼さを残した顔立ちながら、その瞳は不思議なほど落ち着いている。
少女の名は、テンカ=ハヅキ。
ハヅキ辺境伯家の次女である。
「む……今のは誘いであったぞ、キリカ」
「誘いにしては、重心が前に残りすぎておりました。あれでは、実戦なら膝を斬られております」
「そなた、姫に対して容赦がないのう」
「姫さまのためですので」
そう答えたのは、テンカより三つ年上の少女だった。
名をキリカという。
アッシュブラウンの髪を後ろでまとめ、使用人の装いをしているが、その腰には細身の短刀が差されている。
彼女はテンカの専属メイドであり、同時に護衛でもあった。
「ふむ。ならば、もう一本じゃ」
「はい、姫さま」
テンカは木刀を構え直した。
八歳の少女にしては、姿勢がよく、構えに無駄が少ない。
無論、まだ未熟ではある。
腕力も、体格も、技量も、年長者には遠く及ばない。
それでもキリカは知っていた。
この小さな姫君は、異様なほど呑み込みが早い。
ただ型を覚えるだけではない。
なぜその足運びが必要なのか。
なぜ刃筋を立てるのか。
なぜ受けるのではなく流すのか。
そうした理屈を、テンカは幼いながらに理解しようとする。
だからこそ、キリカは手を抜かない。
テンカが踏み込む。
木刀が振るわれる。
キリカはそれを受けず、半身をずらして避けた。
そのまま木刀の柄でテンカの手首を軽く打つ。
「っ」
テンカの木刀が地面に落ちた。
「今のは?」
「踏み込みの前に、肩が動きました」
「むう……」
テンカは唇を尖らせた。
その仕草だけを見れば、年相応の少女である。
だが次の瞬間、彼女は小さく息を吐き、落ちた木刀を拾い上げた。
「なるほど。ならば次は、肩を殺す」
「はい」
「見ておれ。そなたの涼しい顔を崩してやる」
「楽しみにしております、姫さま」
その呼び名に、訓練場の端で見ていた年配の使用人たちが微笑んだ。
姫さま。
テンカは辺境伯家の次女であり、皇族ではない。
本来ならば、姫と呼ばれる立場ではなかった。
だが、ハヅキ家では多くの者がテンカをそう呼ぶ。
理由は単純である。
「テンカは姫なのです。世界一可愛い、わたくしの妹なのですから」
ハヅキ家の長女、レイナ=ハヅキが、幼い頃にそう言い張ったからである。
レイナは次期当主として育てられている才女だった。
属性魔術と陰陽術の双方に秀で、幼いながらも家臣たちから将来を期待されている。
そんなレイナが、妹のテンカを見るたびに蕩けるような顔をし、使用人たちへ堂々と告げた。
――わたくしは姫ではありません。
――テンカこそが姫です。
――ですから、皆もテンカを姫と呼びなさい。
当時の使用人たちは困惑した。
だが、辺境伯家の長女があまりにも真剣だったこと。
そして何より、テンカ本人が黒髪の小さな姫君と呼ぶに相応しい姿をしていたこと。
それらが重なり、いつしか屋敷の中で「姫さま」と言えばテンカを指すようになっていた。
「テンカ」
訓練場に、凛とした声が響いた。
テンカは木刀を下ろし、声の方へ振り返る。
そこに立っていたのは、ひとりの美しい女性だった。
漆黒の髪を結い上げ、落ち着いた和装に身を包んでいる。
細身でありながら、その佇まいには刃のような鋭さがあった。
コトネ=ハヅキ。
ハヅキ辺境伯家の当主にして、テンカの母である。
「母上」
テンカは背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げた。
「朝の鍛錬はそこまでにしなさい。今日は五行の適性を見る日です」
「はい。承知しております」
「緊張していますか?」
コトネの問いに、テンカは少し考えた。
五行。
ハヅキ家に伝わる、武蔵ノ原由来の陰陽術体系。
木、火、土、金、水。
皇国で一般的に知られる属性魔術とは似て非なる、世界の巡りに干渉する術。
テンカはその基礎を座学では学んでいる。
だが、実際に自分がどの行に適性を持つのかは、まだ知らない。
「緊張はしておらぬ」
テンカは答えた。
「ただ、楽しみではある」
コトネはわずかに目を細めた。
「そうですか」
その表情は厳しい母のものだったが、どこか嬉しそうでもあった。
「では、身支度を整えて来なさい。レイナもアルバートも、すでに儀式場で待っています」
「姉上も?」
「ええ。あの子が来ないはずがないでしょう」
「……それもそうじゃな」
テンカは小さくため息をついた。
姉のレイナは、妹を溺愛している。
それ自体はありがたい。
ありがたいのだが、ときどき愛が重い。
訓練場の隅から、キリカが布を持って駆け寄ってきた。
「姫さま、汗を」
「うむ」
キリカが丁寧にテンカの額を拭う。
テンカはそれを当然のように受け入れながらも、ふと訓練場の奥に置かれた真剣へ目を向けた。
まだ、あれを日常的に使うことは許されていない。
テンカが扱うのは基本的に木刀。
真剣は、型の確認や儀礼の際にだけ手にする。
だが、不思議なことに。
テンカは刀を見るたび、胸の奥がざわめいた。
懐かしいような。
焦がれるような。
あるいは、それが自分の一部であるかのような。
「姫さま?」
キリカが首を傾げる。
「いや、何でもない」
テンカは目を伏せた。
「行くぞ、キリカ」
「はい」
訓練場を後にする。
朝の風が、テンカの黒髪を揺らした。
その髪が、やがて五色に染まることを、この時の彼女はまだ知らない。
ましてや。
その奥に眠る記憶が、自分の人生を根底から覆すことになるなど、知るはずもなかった。
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