序章 案ずるでない、わらわが斬る
悠久なる大魔境が、悪鬼どもの咆哮に震えた。
木々の間を埋め尽くす、異形の群れ。
青黒い肌に、額から伸びた歪な角。人に似た姿を持ちながら、その手足は異様に長く、先端には獣のような黒い爪が生えている。
一体一体の動きも速いが、それだけではなく、悪鬼たちは耳障りな叫びを交わしながら左右へ散り、傷ついた兵を狙って隊列の隙間へ入り込もうとしていた。
「前衛、下がれ! 負傷者を中央へ!」
怒号が飛ぶ。
槍兵が後退し、盾兵たちが崩れかけた隊列を支える。
だが、悪鬼の一体が盾の上を飛び越えた。
頭上から黒い爪が振り下ろされる。
その直前。
黒い影が、兵たちの前へ滑り込んだ。
夜を溶かしたような長い黒髪。
黒を基調とし、緋の意匠を施した戦装束。
腰には、黒い鞘に緋色の一筋が走る太刀。
その姫武者は迫る爪を前にしても、足を止めなかった。
一歩、深く踏み込む。
身体を半身へ開き、爪の軌道から紙一重で外れる。
風圧が黒髪を舞い上げた。
伸ばされた悪鬼の腕の内側へ滑り込み、静かに柄を握る。
「――西天白金」
澄んだ声が、咆哮の渦を貫いた。
黒髪が、根元から白金へ染まっていく。
鞘の内で、刃が高く鳴った。
抜刀。
白金の閃光が走る。
振り下ろされるはずだった悪鬼の腕が、黒い爪ごと宙を舞った。
血が噴き出すより早く、姫武者は敵の脇を駆け抜ける。
刃を返す。
首筋へ白い線が走り、悪鬼の巨体が傾いた。
その背後から、さらに五体。
右から二体。
左から三体。
別々の方向から襲いかかり、退路を塞ぐ。
「姫さま!」
兵の叫びに、姫武者は振り返らなかった。
白金の髪をなびかせたまま、太刀を鞘へ戻す。
腰を沈める。
悪鬼たちが地を蹴った。
牙を剥き、黒い爪を広げ、頭上から一斉に襲いかかる。
鯉口が鳴った。
次の瞬間、白い光が戦場を横切った。
誰の目にも、刃の動きは追えなかった。
姫武者が太刀を振り抜いた後になって、悪鬼たちの身体へ細い斬線が浮かび上がり、黒い血が霧となって散った。
五つの巨体が、ほとんど同時に地へ落ちる。
轟音とともに土煙が立ち上った。
それでも、姫武者は止まらない。
白金の刃が走るたび、迫る悪鬼の喉が裂け、武器を持つ腕が落ち、両膝が断たれていく。
悪鬼たちは数を頼みに包囲を狭めようとしたが、姫武者の踏み込んだ場所から、その陣形は次々と崩れていった。
やがて最後の一体が倒れ、森に束の間の静寂が戻った。
兵たちは声もなく、その背を見つめていた。
わずかな時間で、十を超える悪鬼が地に伏している。
だが、姫武者は太刀を納めなかった。
白金に染まった髪も、その色を失わない。
彼女だけは、まだ終わっていないことを知っていた。
森の奥で、大地が鳴った。
一度。
また一度。
大木が根元から押し倒され、鳥たちが一斉に空へ逃げる。
先ほどまで戦場を満たしていた悪鬼の臭いが、濃密な瘴気によって塗り潰されていった。
喉の奥へ、鉄錆のような味がまとわりつく。
「何かが……来る?」
兵の一人が、掠れた声を漏らした。
暗い木々の向こうから、巨大な腕が現れる。
指の一本が、人の胴ほども太い。
続いて、幾本もの角を戴いた頭部が姿を見せた。
全身を覆う黒紫色の皮膚。
盛り上がった肩には無数の古傷が刻まれ、その傷口から煙のような瘴気が漏れ続けている。
先ほどまでの悪鬼たちが、幼子に見えるほどの巨体。
大悪鬼。
それが一歩踏み出すたび、地面が深く沈んだ。
大悪鬼の濁った眼が、血に濡れた戦場をゆっくりと見渡す。
やがて、その視線がただ一人に止まった。
白金の髪を持つ姫武者。
大悪鬼の口元が、裂けるように歪んだ。
笑ったのだ。
己と戦える獲物を見つけたことを、喜ぶように。
咆哮が大魔境を揺るがした。
音の塊が木々を薙ぎ払い、兵たちを後方へ押し戻す。
術士の張った防護陣が激しく明滅した。
「防御陣を維持しろ!」
「来るぞ!」
大悪鬼が地を蹴った次の瞬間、巨体は視界から掻き消え、白金の姫武者の目前へ巨大な拳が迫っていた。
受けない。
刃の腹を拳へ添え、その軌道に沿って身体を流す。
拳は姫武者の脇を通り過ぎ、背後の大地へ叩き込まれた。
轟音とともに地面が深く抉れ、石と土が高く舞い上がる。
拳そのものは、完全に受け流したはずだった。
それでも衝撃だけで戦装束の袖が裂け、白い腕へ細い血の筋が走る。
姫武者の足が地を滑った。
一歩。
二歩。
三歩目で踏み止まる。
大悪鬼は、すでに次の一撃を放とうとしていた。
両腕を高く振り上げる。
避ければ、その先にいる兵たちが押し潰される。
姫武者は退かなかった。
「姫さまっ!」
悲鳴に近い声が飛ぶ。
彼女は、ほんのわずかに背後へ視線を向けた。
恐怖に顔を強張らせた兵たち。
傷ついた仲間を支えながら、それでも武器を捨てずに立つ者たち。
誰もが逃げたいはずなのに、彼女とともに戦おうとしていた。
姫武者は静かに笑った。
「案ずるでない」
太刀を鞘へ納める。
腰を沈め、迫る大悪鬼を正面から見据えた。
「わらわが斬る」
呼吸を一つ。
白金の髪が、風もないのにふわりと浮かぶ。
「――南天朱火」
白金の髪へ、一筋の緋色が灯った。
また一筋。
さらに一筋。
澄み切った白金を芯として、燃えるような緋色が流れ込んでいく。
二つの色は互いを損なうことなく、螺旋を描くように混じり合った。
金の鋭さへ、火の熱が重なる。
異なる二つの行が一つの流れとなり、鞘の内にある刃へ収束していく。
空気が震えた。
白金と緋に染まった髪が、大悪鬼の巻き起こす暴風の中で大きく広がる。
迫る巨腕。
沈められた腰。
柄へ添えられた白い指。
鞘の内側で、刃が澄んだ音を響かせた。
――黒髪を五行の色に染め、その理を刀に宿して魔を誅する姫武者。
のちに《五行姫》と呼ばれる彼女にも、まだ己の火すら御せなかった頃があった。
これは、その始まりの物語である。
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