第9話 「分ける技術/真白が“白紙”になる」
その店に入れるのは、
死にたいと思ったことがある人間だけだ。
少なくとも、そういう人間にしか、
あの暖簾は見えない。
包丁は、刃物の顔をしていなかった。
古い木の柄に、ほんの少しだけ手の脂が染みている。刃の幅は広く、光は鈍い。どこにでもある台所の道具みたいで、だからこそ、手に取るのが怖かった。
店主がそれを俺の前に置いた。
「切れ」
「何を」
「言葉」
俺は包丁を見た。刃に自分の指が映る。映っているのに輪郭が歪む。歪むのは光のせいだ。光のせいだと思いたい。
「包丁で言葉は切れません」
店主は目を上げない。米を研ぐ音だけが続く。水が米粒を転がす音。小さな音は、耳に残る。
「切れる」
「冗談ですか」
「冗談なら、お前の顔はもっと楽になる」
返しが早い。早い返しは逃げ道を塞ぐ。塞がれると、俺は黙る。黙るのは得意だ。得意だから、店ではそれが武器にならない。
店主が続けた。
「客の言葉を三つに分けろ。事実。願望。自己罰」
「自己罰って」
「自分を殴る言い方」
俺は包丁の柄を握った。握ると、手のひらが少し汗ばんでいるのが分かる。分かるのに、手は離せない。離す理由がない。離す理由を作るために、俺は反論を探した。
「そんなの、勝手に分類したら失礼じゃないですか」
「失礼を避けたいなら、この店には向いてない」
店主が言った。淡々とした声のまま、湯を沸かす。火がつく音が小さい。小さい音が、心臓の音と似ている。
「ここは台所だ。混ぜたら腐る。腐ったら、誰も食えない」
俺は包丁を置こうとして、やめた。置いたら負ける気がした。負ける相手がいるわけじゃないのに、勝手に負けたくなかった。
「客は、話をしに来るんですよね」
「違う。吐きに来る」
店主は一拍置かずに言う。吐く、という言葉が胃に落ちる。胃が重い。重いまま、俺は店主を見た。
「吐いたものをそのまま受けたら、お前が詰まる」
店主がようやくこちらに視線を投げた。投げた、という感じだった。拾うか拾わないかは俺に任されている。任されるのが苦手なのに、ここでは任され続ける。
「詰まったら」
俺が言うと、店主は鍋を置いた。
「味が死ぬ」
味が死ぬ。言い方が変なのに、妙に具体だ。台所の言葉は具体で、だから刺さる。
「やれ」
店主が短く言った。
「客が来る前に、練習だ」
練習と言われても、何をどう練習すればいいか分からない。分からないまま、俺は包丁を握った。握ると、手の中に冷たさが残る。冷たさが残ると、少しだけ頭が澄む。
店主が言った。
「お前、昨日の空白の客。何を言ってた」
俺は思い出した。明るい声。軽い言葉。笑いの速度。笑っているのに、目の奥が乾いていた。
「選ぶのが面倒だって」
「事実は」
「……選べなかった」
「願望は」
俺は口の中で言葉を転がした。転がすと、舌が乾く。
「楽になりたい」
「自己罰は」
自己罰。自分を殴る言い方。あの客の「なんでもいい」は、殴っていたのか。自分を。
「選べない自分は、価値がない、みたいな」
店主は何も言わない。肯定も否定もしない。俺の答えを、ただ置く。置かれると、逃げ道がない。逃げ道がないから、見えてしまう。
俺は包丁の刃を指でなぞりそうになって、やめた。刃は触れば切れる。切れるものは、触り方を覚えないといけない。
店主が言った。
「いい。今のは切れてる」
褒めているのかどうか分からない言い方だった。分からないまま、胸が少しだけ軽くなる。軽くなるのが怖くて、すぐ息を吐いた。
「切り分けると、何が変わるんですか」
「混ざらない」
店主はそれだけ言った。
「混ざると、相手の痛みが、お前のものになる」
俺は黙った。痛みが自分のものになる感覚は、知っている。知っているから、反論できない。
「お前は、優しいふりが好きだ」
店主が言った。ふり、という言葉が刺さる。
「ふりじゃ」
「ふりだ。優しいふりをすると、自分が殴られなくて済む」
俺の喉が乾いた。乾いた喉が、言い返す言葉を吸い込む。吸い込まれた言葉は出てこない。
店主は火を弱めた。鍋の湯気が少しだけ落ち着く。落ち着く湯気の匂いが、洗剤の匂いと混ざっている。混ざる匂いの中で、俺は包丁を握っている。
「今日の客」
店主が言った。
「絡まってるのが来る」
予告みたいに言う。予告が当たるのが、この店だ。
暖簾が揺れた。
外の空気が一瞬だけ入ってきて、すぐ消えた。消え方が不自然で、だからここが境界なんだと分かる。分かることが増えるほど、戻れなくなる。
客は、席に座る前から話し始めた。
「すみません、あの、突然で……ここ、紹介とか必要ですか。なんか、変な店って聞いたんですけど、変っていうのも失礼ですよね、でも、そういう意味じゃなくて、あの」
言葉が長い。息継ぎが浅い。浅い息で言葉を積むと、音だけが先に走る。内容が追いつかない。
年齢は三十代くらい。スーツでも私服でもない、どちらにも寄せた服。髪は整っているのに、額に薄く汗がある。汗が落ち着かなさを示している。落ち着かなさが、ここに来る人の共通だ。
店主が言った。
「座れ」
「はい、すみません」
客は座った。座り方が丁寧すぎる。丁寧さは、他人の目を気にしている丁寧さだ。気にしているのは、怒られたくないからだ。
俺は水を出した。コップが冷たい。冷たい水が少しだけ客を落ち着かせる。落ち着くのはほんの一瞬で、すぐに言葉が再開される。
「えっと、こういうところって、相談とか、悩みとか、そういうのを話す場所ですか。いや、話すっていうのも、勝手に話していいのか分からなくて。でも、誰かに聞いてほしくて。聞いてほしいっていうと、甘えですよね。自分でも分かってるんです。分かってるんですけど」
言い訳が多い。言い訳が多い人は、殴られ慣れているか、自分で自分を殴っているかだ。殴っているのは、たぶん両方。
店主は包丁を研いでいた。研ぐ音が規則的だ。規則的な音が、客の言葉を切り分けるみたいに聞こえる。俺はそれを感じて、背中が少しだけ冷えた。
店主が言った。
「何を食う」
客は一瞬止まった。止まると、目が泳ぐ。泳いだ目が、俺に一度触れて、すぐ逸れた。逸れるのは、俺がここにいるのが想定外だからだ。俺は客じゃない側に立ち始めている。
「えっと、食べたいとか、そういう気持ちがあんまりなくて……でも、何か、変わりたいっていうのはあるんです。変わりたいっていうのも、勝手ですよね。今の自分がダメだって言ってるみたいで」
俺の指先が少し震えた。震えるのは共鳴だ。共鳴をそのまま出すと混ざる。混ざるな、と昨日言われた。
店主が俺を見る。
「聞け」
命令は短い。短い命令は逃げ道を作らない。俺は包丁を置いて、客に向き直った。向き直ると、客が少し身構える。身構えは、評価される恐れだ。
俺は息を整えた。整えると、喉の乾きが少しだけ収まる。収まると、言葉が出る。
「今、言ってることを三つに分けます」
客が目を丸くした。
「え、三つ」
「事実。願望。自分を殴ってる言い方」
客が笑いそうになって、笑えなかった。笑えない笑いは、痛いところを突かれた笑いだ。
「殴ってるって……」
「自分に対してです」
俺は言った。言い方が硬い。硬い言い方は冷たい。冷たいと感じさせるのが怖いのに、今日は怖さが少し薄い。薄い怖さが、逆に怖い。
店主が小さく言った。
「言い方が悪い」
それだけ。訂正もしない。止めもしない。ただ「悪い」と言う。俺は喉の奥で「すみません」と言いそうになって、飲み込んだ。謝ったら、また自分を殴る。
「事実からいきます」
俺は客を見た。客の指が膝の上で絡まっている。絡まった指は、言葉の絡まりと同じだ。
「今、食べたい気持ちがない。誰かに聞いてほしい。言い訳が多くなる」
客の眉が少しだけ動いた。動いた眉は、当たっている反応だ。
「願望は、変わりたい。軽くなりたい。怒られたくない」
客が息を吸った。吸った息が、胸の上で止まる。止まるのは、自分で言葉にしてしまったからだ。
「自己罰は」
俺は少しだけ間を置いた。間を置くと、店内の音がよく聞こえる。鍋の小さな沸騰音。包丁の置かれる音。湯気の匂い。
「甘えだ、とか。勝手だ、とか。ダメだ、とか」
客の指が、ほどけた。ほどけた瞬間、肩が少し落ちた。落ちる肩は、力が抜けた肩だ。
客が小さく言った。
「……そういうふうに言わないと、許されない気がして」
許されない。誰に。客は言わない。言わないけど、言わないところに本命がある。そこを掘るのは、今日はやらない。混ざるから。
俺は言った。
「今、必要なのは」
口が勝手に進みそうになって、止めた。止めたのに、もう遅かった。店主の言葉が頭にある。後悔の薄味。怒りの汁。空白飯。店の献立が、俺の中に入ってきている。
客が身を乗り出した。
「必要なのは」
俺は言ってしまった。
「後悔の薄切りですか。怒りの湯通しですか」
客がぽかんとした。ぽかんとした顔は、戸惑いと、少しの笑いが混ざっている。混ざり方が、人が助かるときの混ざり方だ。助かる、という言葉を使いたくないのに、浮かぶ。
「薄切りって」
客が笑った。笑いは短い。短い笑いは、無防備だ。
「湯通しって、料理みたいですね」
「台所なので」
俺は言った。言ってから、言い方が強いと気づく。強いのに、引っ込めない。引っ込めないのが、今日の俺だ。
店主が小さく舌を鳴らした気がした。気がしただけかもしれない。店主は言った。
「後悔。薄切り」
その言い方は、注文確定だった。客が「え、はい」と頷く。頷きが、選んだ頷きじゃない。選ばされた頷きだ。その危うさが胸に触れる。でも、触れたまま止めない。止めないことを、俺は覚え始めている。
店主が鍋に何かを入れた。香りが立つ。立つ香りが、味噌の匂いに似ているのに、違う。違いは、焦げの匂いが混ざっていることだ。焦げは失敗の匂いだ。失敗が香りに含まれているのが、この店らしい。
器が出た。煮込み。色は濃いのに、湯気が軽い。軽い湯気は喉を刺さる。刺さるのに、吸ってしまう。
「食え」
店主が言う。客は箸を取った。箸の先が少し震える。震えが怖いのは、効くと分かっているからだ。
客が一口食べた。
泣かなかった。
泣かない代わりに、肩が落ちた。肩が落ちる音が聞こえそうだった。聞こえないのに、落ちたのが分かる。分かると、こちらの胸が少しだけ軽くなる。
「……あ」
客が言った。声が小さい。小さい声は、言ってはいけないことを言う前の声だ。
「……ごめんなさいって、言いたかっただけかもしれない」
言った瞬間、客の喉が少し震えた。涙は出ない。涙が出ないのに、喉が震える。震えは、体が先に反応している震えだ。
「誰に」
俺が訊くと、客は首を振った。振り方が小さい。小さい首振りは、言えない首振りだ。
「言えないんです」
客が言う。言えない、という言葉自体が事実だ。事実は置ける。置くと、整理される。
店主が言った。
「言えないなら、言えないまま食え」
残酷に聞こえるのに、客は頷いた。頷きが、さっきより少しだけ自分の頷きになっている。自分の頷き。それが戻ることが、空白の逆だ。
客は食べた。食べるたびに、顔が少しずつ落ち着いていく。落ち着くのは救いじゃない。整理だ。整理されると、混ざりが減る。混ざりが減ると、痛みは消えないけど、形が見える。
形が見えると、人は自分を殴りにくくなる。
俺はそれを見て、胸が痛まなかった。痛まないことに、驚いた。驚きが遅れて来る。遅れて来る驚きが、罪悪感に似ている。
客が箸を置いた。
「……変わった、っていうより」
客は言った。言い方が少しだけ遅い。遅い言い方は、考えてから言っている。
「戻った、って感じがします」
戻った。戻った、という言葉が腹の奥に落ちた。俺は戻っていない。俺はどこに戻ればいいか分からない。分からないまま、ここにいる。
客が立ち上がった。財布を出す前に、こちらを見た。
「さっきの……薄切りとか、湯通しとか」
客が少し笑った。笑いは短い。短い笑いは、今日の唯一の余裕だ。
「変だけど、分かりやすかったです」
分かりやすい。俺がやってきたことは、分かりやすくすることだった。分かりやすくすると、物語は進む。進むほど、俺は冷たくなる。
客は帰った。
暖簾が揺れて、外の空気が一瞬だけ入って、また消えた。消え方がいつもより早い気がした。早い消え方は、追い出しているみたいだ。
皿洗いをしていると、水が手の甲を流れた。流れる冷たさが、まだ俺が生きている証拠みたいで、少しだけ安心する。安心するのが怖い。安心すると、ここが居場所になる。
店主が言った。
「痛まなかったな」
俺は手を止めた。止めると、水音が大きくなる。大きい水音が、問い詰めに聞こえる。
「……痛むべきですか」
「べきは、持ち込むな」
店主が言う。
「痛む奴は、ここで働けない」
働けない。働く。俺はいつの間にか、働いている側になっている。なっていることを、言葉にすると怖い。怖いから黙る。
「今日の客、救ったと思ったか」
店主が訊く。救い、という言葉が嫌だ。嫌なのに、胸のどこかが反射で「救えたかも」と思ってしまう。思ってしまうのが恥ずかしい。恥ずかしさが、自己罰だ。
「思ってない」
俺は言った。嘘じゃない。救いとは違う。整理だ。切り分けだ。切り分けは、血が出ることもある。血が出るのに、救いとは言わない。
店主が言った。
「じゃあ、いい」
それだけ。
肯定も否定もない。ここではそれが通常だ。通常に慣れると、俺は現実に戻れなくなる。
「でも」
俺は言った。言葉が勝手に出る。出るのが怖いのに止まらない。
「俺、さっき。献立みたいな言い方しました」
店主が手を止めた。止め方がほんの一瞬だけ遅い。その遅さが、人間の癖に見える。癖が出るのは、刺さっているときだ。
「したな」
店主が言う。
「悪いですか」
「悪い」
短い。短い言葉は刃だ。刃が刺さる。
「理由は」
俺が訊くと、店主は言った。
「店の言葉を使うと、店がお前を使う」
胃が少しだけ冷えた。冷えが、空白飯の白に繋がる。白は楽じゃない。選べなくなる。選べなくなるのに、欲しがる。
「じゃあ、俺は」
俺は言いかけて、止めた。止めたのに、店主が続けた。
「真白」
名前を呼ばれると、胸が少しだけ縮む。縮むのに、逃げない。逃げないのが、今日の俺だ。
「お前、真白って名前、似合ってきたな」
似合う。
似合う、という言葉が、褒め言葉じゃない形で刺さる。白紙。何も書かれていない。何も書かれていないと、生きていない。生きていないのに、動いている。動いているのが、空白だ。
俺は初めて、自分の名前が嫌だと思った。
嫌だ、と思った瞬間、喉が詰まった。詰まって、言葉が出ない。出ないのに、目の奥が熱い。熱いのに涙は出ない。涙が出ない熱は、怒りに似ている。
「……似合わなくていいです」
俺は言った。言い方が幼い。幼い言い方は、弱い。弱いのに、店主は笑わない。
「似合わなくするなら」
店主が言った。
「書け」
「何を」
「自分を」
自分を書く。
書くためには、選ぶ。選ぶのは痛い。痛いのに、痛みを避けると白になる。白は、楽じゃない。
俺は皿を洗った。洗い続ける。洗剤の匂いが鼻に刺さる。刺さる匂いは現実だ。現実があると、少しだけ戻れる気がする。戻れる気がするのが、怖い。
帰り際、暖簾が揺れた。
揺れの隙間から、街の光が見える。見えるのに、遠い。
俺が暖簾に手を伸ばした瞬間、文字が一瞬だけ浮いた。浮いたのは錯覚みたいに薄い。薄いのに、読めた。
代償。
喉が乾いた。乾きが強い。強い乾きが、舌をざらつかせる。ざらつきのまま、俺は暖簾をくぐった。外の空気が冷たい。冷たい空気が肺に入る。入った瞬間、胸の奥が白くなる。
白くなるのに、二文字だけが黒く残る。
代償。
振り返ると、暖簾はいつも通りだった。
いつも通りのはずなのに、俺の指先だけが、まだ冷えていた。




