封印具
週末の日曜日が“神期祭”だったから、翌日月曜日は振り替え休日だ。そんな休日にも、毎日の様にデバイスの中のイトマキエイに起こされ、万里は寝ぼけ眼を擦った。そう言えば、その右手に指輪がない。寝る前に脱ぎ捨てた青と白の勝負服のポケットにも無いし、落ちているポシェットとその中身にも見当たらなかった。少しだけ変な顔をした万里は、多分知っているだろうと、トラストに尋ねる事にする。自室を出ると、コーヒーの香りが微かに漂っており、彼女の足は一階へと向かった。案の定、トラストは一階居間に居て、慣れた様子でコーヒーを入れている。
「ねぇ、昨日、私が右手に嵌めていた、男物の指輪を知らない?」
「これか」
挨拶も早々そう言った万里に、彼は空中で何かを掴む動作をした後、手を開いて見せる。そこには確かに、神期祭で貰った指輪があったが、その中央の石が黒から蒼に変わっているのに、彼女は気付いた。
「色が変わっている」
「で、あろうな。正当な持ち主の元に渡ったからよ」
トラストの言い様に、万里は少し考えて彼を見上げた。
「これは、貴方の?」
「これは――≪女神の封印≫、その一つ。つまり、≪蒼の魔王≫を封じたものだ」
言いながら、彼は視線で万里をダイニングテーブルへと促した。彼女が座れば、戸棚からマグカップを2つ出し、一つは自分に、万里には牛乳を半分追加して出してくる。“兄”の時の所作が染みついているのか、自然と行われた事に、万里は少し照れた。「さて」と、彼は彼女の向かいに座る。
「百幾つ在る魔王を封じ込めた封印具は、神殿の奥深くに収められていたと記憶しているが、どういう経緯で我が下へ渡って来たのやら。我が目覚めて幾許か、神殿の動向も大した騒ぎになっておらぬ」
彼の封印を解くには、本体が眠っている封印具も当然必要になるらしい。彼が万里と契約を交わして四カ月、封印が弱まり、万里の意識を共有する事で体を得て一月ほど、この短期間の間に封印具まで手に入った事に、意図的なモノを感じると、厳しい表情だ。だから万里は、昨日の出来事――使徒の格好をしたスタッフと踊った事――を話す。「≪使徒≫」とトラストは唸った。彼の中では、使徒と神殿は別物らしく、早々に神殿の陰謀説を消したらしい。
「だが、まぁ、短命種の記憶力だ。封印具の存在など、当に忘れておるやも知れぬな」
考えるのに飽きたか彼はそう言うと、少し意地悪く笑い、「案外、本物(の使徒)だったのやも知れぬぞ」と脅かしてくる。その、こちらを試すかの様な表情を、何処かで見た気がして、万里は、彼と初めて会った夢の出来事――二、三カ月前を思い出していた。
夢だと思ったのは、夢の中で目覚めた時に、今までで見た事もない景色を見たからだ。石造りの神殿のような、薄暗い場所で目覚めた万里は、足元に伸びる光に誘われるようにして歩き、光が差す水中庭園を見た。浅い水場に潜った時の様な、波紋を広げる光と揺れる水の紋様が柱の向こうに見えたので近づけば、柱のこちら側は空気があるのに、向こう側は水の中だとわかる。ガラスで遮ってあるのかと思って、等間隔で横に並ぶ柱の間に移動し、水の方へ手を差し出したが、指先が水に濡れて「あっ」と手を引っ込めた。その時、いつのまにか隣に立っていたのが、トラストである。
急に人の気配を感じて隣を見た万里だったが、水中に沈められたかのようなこの神殿の光景も、急な人物の登場も、夢ならば仕方なしと考え、彼の存在を受け入れた。多分、一目見て、この神殿の主が彼なのだろうと感じたのがある。そして彼は、名乗った。
「我が名は≪|原始にして万物の魔王(ダーク=トラスト)≫。またの名を、≪闇の錬金術師≫。娘、お前の≪願い≫に応えよう。望むのならば、我が手を取れ」
そう言って手を差し出されるが、万里は彼が何を言っているのかわからなかった。ただ、≪魔王≫とは聞こえたので、仮にも蒼穹神話を習い、魔族は人を喰うだの、嬲るだのと教えられていた自分、一度目は手を取ることはなかった。そしてそこで目が覚めるが、次の日も、飛んで次の日も、彼と会う夢を見続けたのである。
「貴方は、どうして夢に出てくるの」
「逆だ。お主が我が夢に出てくるのだ。≪魔王≫とは≪願いに呼応するもの≫。お主の≪望み≫が我を呼ぶ。我が魂と主が魂が、似ている故」
始終その調子で、彼と会話や交流を続けた結果、彼女の中で恐ろしい≪魔族≫のイメージは消えた。毎回の夢が楽しくなったのもあるし、夢の光景がとても美しいからもある。でも、万里が一番印象に残っているのは、「ここは詰まらぬ」と語ったトラストの横顔だ。毎日の「ただいま」に何も返らない日々に唇を尖らせていた、自分の顔と一致したように感じて、彼女は最終的に彼の手を取った。それ以降、彼の夢を見る事はなくなったし、特に生活も変わらなかったから、万里はすっかり夢の出来事を忘れていたのである。そして、一か月程前になって≪兄≫が現れた。それからの事は、言わずもがなだ。
「あぁ、そうか」と万里は納得する。望みを叶えるために彼の手を取った時も、最後通告と、彼は脅かす様に笑ったのだ。彼は優しいのかもしれないと別の事を考えながら、万里はトラストの言葉に困った顔をした。トラストは少しだけ万里を眺め、「だが、好都合」と万里に指輪を、ぽんと投げ渡す。慌てて受け取った万里は、自身が封印されていると言うのに、あまりに雑な扱いに眉根を寄せた。
「安心せよ。最大出力で攻撃しても、傷一つ付かぬわ。忌々しい事にな」
続けて彼は言う。コーヒーの入ったマグカップを傾けながら、今度は得意そうに言った。
「我が力を使う為の媒体としては、大変優秀よ。お主が狭間へ落ちたのも、契約により、中途半端に我が力の影響を受けたが原因だろう。だが指輪を身につければ、意図的に現世から姿を眩ませ、狭間の層にて、我が力を奮う事が出来る」
途端に「げっ」と万里が顔を顰めたのに、彼は不満げにした。
「仮にも魔王の力ぞ、何が不満だ」
「普通の女子高生に必要なものじゃないよ。それとも、急な抜き打ちテストで満点を取れちゃう能力でもあるの」
「何をみみっちい事を申すか。我、魔王ぞ? 望めば世界をも支配できる存在ぞ?」
「(世界支配なんて)もっと要らないよ!!」
万里の悲鳴に、彼は益々渋い顔をする。とても納得いかない顔をしているので、万里はさらに思い出した事を告げた。
「これを嵌めたら、あの無人の、オバケしか居ない街に行っちゃうんでしょう。それに、目がおかしくなる!」
言われてトラストは、至極残念な表情になる。
「あの一つ目の左腕といい、お主の目といい、異形となるのは、我らの力を扱うのに未熟だからよ。一つ目も、恐らく魔王との契約者――宿主――である。そして、お主が契約している我が力の源は、“左目”だ」
「じゃあ、アレは、トラストのせいなのねっ」
万里が非難めいて言えば、さらに彼の表情が、残念から嫌悪に変わった。
「お主が、我が力を、適切に、扱えば、な・ら・ん・わっ!! 良かろう。我自ら、お主を鍛えてくれるっ」
彼を怒らせたのを、万里はすぐに後悔した。兄であった時も彼は有言実行、万里を躾けるのが大変上手で、“靴を揃える”など、もはや彼女もきちんと確認しないと気が済まなくなったのである。彼は指輪を指し、「とりあえず着脱を可能にせねば」と告げた。それで、嵌めた時の目の痛さを思い出した万里は慌てて立ち上がり、「レイナから連絡が来てたから今すぐ返事を出す」と一気に言うと、二階へと駆け出す。
「では、午後からだっ」
追い投げられた言葉に、万里は「ひえぇ」と自室に入って鍵をかけた。扉を背に、鍵をかけてとりあえず一息ついた万里は、トラストの気が変わる様に祈りながら三歩先に進む。片手でデスク前にある回転椅子の背もたれを持って動かし、気分転換として置き型デバイスを起動、座った。習慣づいた動作でキーを滑らせてパスを入力すると、腕時計型の携帯デバイスで確認した通り、レイナからメールが来ている。『イベント楽しかった?』とサブタイトルまんまの内容に、万里は駅であった怖い出来事を抜かし、生徒会メンバーと過ごした楽しかった記憶を、多少誇張して返信した。
それからメールアドレスには、5つのダイレクトメールと、1つ、見慣れないアドレスのメールが来ているのに気付く。『二ノ宮 万里様』とサブタイトルにあって、万里はぐっと険しい顔になった。ネット通販だったり、ポイントカードやカラオケ店からのモノではないし、一見、誰かのデバイスからを思わせるアドレスだが、交遊関係の狭い万里の事、このアドレスを知っているのはごく限られた人間だけであり、結果、とても疑わしい。
企業やカラオケ店の顧客情報から万里の名前を抜き取った迷惑メールだろうと、彼女はそれを削除し、念の為ウイルスなどの感染がないか、ファイヤフォールを調べる。そして、それについては早々に忘れる事にしたのであった。
☆★☆
週明けてからの生活に、それほど変化はない。新年イベントも、思いつく行事ごとを済ませると、それで生活が劇的に変化するはずもなく、連休が終わると“日常”という生温かい現実に空気が白け、気にも留められなくなるのは毎年のことだ。学校に来て3限目の終わり。普段通りの空気の中、万里だけはそわそわと、腕のデバイスと壁時計とを往復していた。すると、彼女の念が通じたか、カラリと教室のドアがスライドされる。
「遅よう」
いつも通り、ただ、遅刻をしている自覚のあるセリフに、万里は苦笑した。やっと登校した友達は、遅刻には何の理由があったものやら、見た目は連休前の表情と同じ眠そうな半眼で、存外元気そうだったからだ。
「おはよう、レイナ。遅かったね」
万里の声かけにこっくりと頷いて、彼女は万里の席の斜め後ろに鞄を置く。ごそごそと置き勉している教科書の入れ替えを行う彼女に、万里は椅子の向きを変えた。
「で、何があったの」
そう問えば、彼女はちょっとだけ顔を上げて、半眼をさらに細める。
「とても重大な事件よ」
言って彼女は、鞄から、さらにパン屋のものと思われる紙袋を出した。昼食の際に良く見るそれは、彼女のお気に入りの店だと知れる。「え、まさか」と一瞬怪訝な表情で、しかし次には「パン屋?」と疑問に首を傾げた万里に、彼女は少し身を屈めて声を潜めた。
「クロワッサンが半額だったの」
まるで宝くじで1億円当たったと言わんばかりの雰囲気である。途端に万里は拍子抜けし、「それだけぇ」と言葉を漏らした。表情こそ変わらないものの、ピタリとレイナが止まる。「あ、やばい」と万里が思った直後、恐らく通りかかっただけだろう、担任がドアから顔を覗かせた。ぴたりと生徒の会話が途切れた瞬間、バチッと万里たちと目が合った彼は、意図して出しているのだろうのんびりした抑揚の声で続ける。
「シェイラーン。お前、今日は、罰掃除」
眠そうな半眼で、動作もそれほど変化はないが、万里は何故か彼女が「なぬ」と固まるのを見た気がした。だから、担任の姿が消えてから、友達のよしみで追加する。
「手伝うわ」
「悪かったわ」
「良いよ。今日はどうせ暇だったし」
連休中は会えなかったものだから色々と話す事もあり、掃除は捗ったのかそうでないのか分からないうちに終わる。普段より少しだけ遅い帰路でレイナは言い、万里は自由人な彼女の気質に、好意的に返事した。自宅の方角は一緒で東地区だから、二人は並んで電車に乗っている。今日は人が多い様子で、二人分の空いた席が見つからなかったから、吊革だ。
「そういえばさ、パーティ楽しかったの?」
「いいえ、全然」
パーティだなんて、どことなくセレブな感じがして万里は尋ねるも、レイナの答えはにべにもない。非日常的な脳内のイメージがあり、彼女の答えに納得できない万里に、彼女は思いついた例えを出した。
「お葬式とか親戚の法事とかって、退屈でしょう。それと、一緒」
「そんなもんか」
万里も、小学校前ぐらいに親戚の法事に参加した記憶を引っ張り出し、折角のお休みを一日潰される、あの感覚を思い出した。あれはあれで意味があるのは知っているが、それと同じと言われ、万里は相当退屈なんだと納得する。
「素敵な人が居たとか、面白い催しがあったとか、そういう類は、一切なし?」
「ええ」
がっかりする万里に、レイナは「だから」と続けた。
「今週末は桜の開花予定でしょう。だから、お花見に行きたいわね」
急なイベントの提案に、楽しい事に飢えている万里は飛び付く。途端に機嫌をなおして、「行く行く」と飛び跳ねんばかりの彼女は、吊革に寄りかかりながら「お主、天才か」と、何処となくトラストの口調を真似てしゃべっていた。明らかに“退屈”な万里への、レイナの優しい気遣いだともわかり、嬉しかったのだ。そんなこんなしていると、レイナの家のある駅に停まる。
「じゃあ、お先に」
「うん。また明日ね」
軽く手を振り合い、彼女たちは別れた。次の駅へ走り出した電車から、レイナが階段を上っていく姿を見送り、万里は片方の肩に負担をかける、重い鞄を持ち直す。万里の家のある駅までしばらくあるので、何処かに座ろうとキョロキョロ見渡すと、まばらに席が空いていた。一番近く、丁度スーツ姿の男性と主婦らしき50代ぐらいの女性の間に、彼女は目星を付ける。直線を走る電車の振動に軽くバランスとりながら、吊革を移動してそこに立つと、次の駅で降りるのか、スーツ姿の男性が立ち上がった。
丁度良いから、彼が退いてから座ろうと思って、万里が少しだけ体の位置をずらす。すると、無言で男性が万里の手を掴んだ。びっくりして、ばっと掴まれた手を見た万里は、濃いサングラスをかける彼の顔を見れなかった。瞬間、キンッと大きな耳鳴りが鳴り、うっと両目を閉じてしまう。
「え?」
次に目を開けると、そこは無人の電車内。いや、一人だけ気配がある。
「え?」
再び万里は呟いて、目の前、スーツ姿だった男性を見た。
「よぉ」
何が面白いのか、少しだけ笑い混じりの声の主は、大きな緑の一つ目を細め、万里を見下ろしている。万里の目は、零れんばかりに見開かれた。悲鳴が喉元をせり上がって来たが、その前に、彼は万里を電車の席へと突き飛ばして、退路を塞ぐ。
「きゃっ」
思わず出た声は、意外や意外、大変女の子らしい声だった。自分でも驚く点だったが、万里はその衝撃を噛み締める間もなく、右肩に片足を乗せられ、悲鳴を上げる。
「探してたんだ、“二ノ宮 万里”。この間の礼がしたくてな」
肩の痛みに呻いて彼を見上げれば、一つ目を細めてニヤニヤと、しかし全く目が笑っていない表情をしていた。そしてその手には、いつ手に入れたのか、万里の生徒手帳がある。「え?」と思わず声を上げた彼女に、彼は「中央公園に落ちていた」と簡単にネタばらしして、それを彼女の膝の上に放った。
「この数日間、未所持なのに気付いてなかったんだろう?」
言いながら彼は体を前に倒して、万里の肩にかかる圧を強める。手加減しているのか、それほど痛くはなかったが、この状況に恐怖しか感じれず、万里は眉を顰めた。前回の出来事だって、急に彼が首を絞めて来たのだ。どうにかトラストが撃退してくれたらしいが、現在彼は家に居て、しかも今回は動いている電車内なので、万里も逃げ出せない。下手に刺激したり抵抗すると、何をされるかわからないと、万里は身を竦めた。
「ぽけっとした顔をしていたから、てっきり被害者かと思ったんだが、お前も大概役者だな」
彼女を踏みつけたまま彼は言い、何のことかわからない万里は、疑問の視線を投げかける。ふっと自嘲した彼は、「それで」と万里の顔を覗き込んだ。
「どういう異能なんだ、お前。あの男が槍生成の異能と武道担当と考えているんだが、お前と組むメリットが見えない。目が変わっていたから、目に関係ある事か?」
「あの男って?」
「青い長髪の男だよ。お前が気絶する前ぐらいに、急にあの場に現れた。お前を連れ帰ったから、知り合いだろ?」
多分、≪蒼の魔王≫の事を言っているのだと見当はついたが、目の前の彼にどう説明しようかと万里は悩む。シティ・ロマージュは蒼穹神話を信仰している地域の一つで、見た目に反してこの人が信心深い場合、魔王を擁護する万里とは、どちらにしろ敵対する事になるからだ。黙りこんだ万里が気に入らないか、彼は一度身を起こすと、もう一度足を動かして万里の肩を蹴る。思いっきりではないし、ちょっと小突く程度なのだが、制服が汚れるし、怖いから止めてほしいと万里は横のポールに身を寄せた。彼女の前に仁王立ちして、彼。
「正直、あの男の相手は手間だ。だから、黙って石を渡すか、痛い思いをして石を奪われるか、選べ」
あんまりな言い様に、万里はじっと彼を見上げる。要件を言ってしまうと、彼は特に表情がない、無愛想に噤んだ口元で万里を見下ろした。電車内の照明が、彼の顔を影にするのに、一つ目の緑の瞳孔は光らんばかりに見える。怖いと万里は思ったが、かといって、指輪はトラストを封じている最重要アイテムであって、彼に渡す事は出来ない。
「貴方はどうして石を欲しがるの」
意を決して万里が質問すると、彼女の脛当たりを彼はまた小突いた。確かに痛いという程ではないが、びくりとする万里に、彼は「それはお前らも同じだろう」と返す。何か思い出したか、忌々しそうに目を細めた。
「石同士を接触させて取り込めば、異能が強くなる。お前の石は、立派な大きさだ。あの男と組んで、どれだけの相手から奪ったんだ? この無人の街に落ちたばかりの奴なら、簡単に奪えるだろう?」
彼から凄く重要な事が聞き出せ、万里は目を丸くした。石同士を接触させれば取り込めるとはどういうことか。そもそも異能とは何か。万里はもう一度小突かれるのを覚悟で、彼が重きを置いている異能について尋ねた。すると、器用に目を見開いて彼は少しだけ考え、右手を顔の当たりまで持ち上げる。びゅっと電車内に突風が発生し、万里は「えぇ!?」と制服のスカート毎生徒手帳を押さえ、鞄を引き寄せた。
「――“知らない”? もしくは“見えない”能力か? 補助系統だろう事は間違いなさそうだな」
風が治まるぐらいで彼は独白し、万里の腕を取って引っ張った。瞬間、びりっと冗談見たいな音を立てて、引っ張られた方の腕を覆う制服が引き裂かれる。次いで、熱湯をかけられたような熱さを感じて、万里は防御反応に手を引き抜いていた。熱さだと思ったのは、痛さに変わる。
「痛――っ」
殆ど反射の勢いで、痛みが走る左腕を右手で押さえる。鞄が落ちたがそれどころでなく、押さえた右手の指の間から血が滲んできたのを見て、万里はもっと良く左腕を見た。びりびりの白地の制服も、うっすら紅色に染まって来て、左腕が乱雑に表面を切り刻まれているのに気付く。気付いたら気付いたで、痛みが増した気がして、万里は左腕を抱え込むようにして身を丸くした。
「“防御”はなし。“回復”系統も除外。接触による“増幅”もみられない」
身を屈めて痛みに耐える万里の上から、冷淡な彼の声が聞こえる。そう言えば、駅でも彼は風を扱っていたから、左腕を切り刻んだのはカマイタチみたいなものかもしれないと考えた。わかったからといって、どうにもならないが、痛みが我慢できる程度に慣れて来た万里は、少しだけ顔を上げる。
「私、“異能”だなんて持ってないし、要らない。でも、あの指輪は大切なモノであげられない」
痛みに涙を溜めて言えば、電車の照明の逆光でほとんど顔が見えない彼が、少しだけ笑ったような気がした。直後、頭に手を置かれて、床へ引き倒される。何とか右肩からの受け身に成功したのは、動く直前の彼から怒気のような気配を感じたからだと思われた。けれどそれで終わりではなく、倒れた万里目掛けて、彼は片足を踏みつける。
「ぐっ」
痛さの残る左の上腕部を踏みつけられ、万里は悲鳴を噛み殺して呻いた。じわじわと体重をかけながら、彼は声音だけは優しく告げる。
「わかったよ、“二ノ宮 万里”。お望み通り、痛い方だ」
ふっと荷重が消え、万里ははっとして、身をもっと硬くした。予想通り、背中当たりに少し重めの蹴りが来る。お腹じゃないだけ良心的かもと思ったのは一瞬で、背面に響いた衝撃は強く、そのまま電車の床を体が滑った。その際、鞄にも当たったらしく、鈍い音と何かが壊れるパキッという音がする。でも構っている暇はなく、痛みに呻きながら彼女は立ち上がると、目の前にあった各車両を遮るドアに飛びついた。
隣の車両に滑り込み、全体重をかけてドアを閉める。顔の位置に当たる透明プラスチック越しに、極力感情を落としたような一つ目と目が合い、万里はぐっと息を吸って気合いを入れた。彼が入って来れない様に、ドアノブを握りしめた万里だったが、彼は無造作に左手で拳を握ると、がんっとプラスチックを殴る。一度で壊れなかったが、万里は無言の脅迫を感じた。抵抗すればするだけ痛い思いをさせられるとはっきりわかる動作で、万里はプラスチック窓から見えない様にドアノブに縋りついて身を小さくする。
すると、ガンガンとプラスチック窓を彼は叩いた。一度、二度程度では壊れなかったものの、三回目ぐらいでバンっと窓が壊れる音がして、頭の上に何か落ちて来たのを彼女は感じた。目を上げれば、窓の当たりに少し血が滲んだ左腕が貫通しているのを見る。彼の本気を感じて、万里は血の気が引く思いだ。彼の左腕は動ける範囲で万里を掴もうとしたようだが届かず、代わりに彼の苛ついた声が降って来る。
「開けろ。じゃなきゃ、吹き飛ばす」
「開けたら、また蹴ってくるじゃないっ」
ドアの向こうで風が渦巻いている音が聞こえ始める。きっと竜巻みたいな風でこのドアを吹き飛ばす気なんだとわかったが、開けても開けなくても結果は一緒と思える万里は、非難の声を上げた。
「石を渡せ」
「だからっ、それは無理!!」
一つ目男の要求に即座に否を叫んだ万里に、彼は舌打ちする。そしてもう一度、多分脅しだろう、ドアを足で蹴った。本気の蹴りらしく、薄い板のドアは軽く凹凸が付く。「ひぃっ」と悲鳴を漏らすが、万里はドアに縋る手を離そうとしなかった。もう一度舌打ちが聞こえ、彼は向こう側のドアノブに手をかけたらしい。急にすごい力がかかって、万里は慌てる。
「やだっ、嘘っ」
男性と腕相撲なんてした事はないけれど、こんなに簡単に力負けするものだろうか。ぐっぐっぐと少しずつ開けられていくドアに恐怖して、万里は何とか閉めようとしたが、半分程開いたぐらいで諦めて次の車両へ走り出す。ガンと、力任せにドアがスライドされる音が響き、次のドアに行く前に、万里は肩を引かれた。
強い力で振り向かせられると、頬に衝撃を感じて体がぶれる。かっと、頬が熱くなる。打たれたんだと、壁にぶつかって理解した。怯えに竦む体が、もう一度引き寄せられる。パンっと、今度は逆をやられた。その際、唇を切ったらしく、口に血の味が薄く広がる。襟首を掴まれて、手が止まった。
「石は、どこだ。全裸にしても良いんだぞ」
目を開けたら、一つ目が睨んでいる。急にうるっと来て、万里は口を引き結んだ。スカートの襞に隠すようにしてポケットに手を突っ込む。もう散々痛い思いをして、彼女の覚悟は決まった。目が痛いぐらい、何でもない。
「アンタなんかに、あげない。あれは、私の大切なモノなの!」
叫んで万里は、指輪を嵌める。『遅い』とトラストの声が聞こえた気がした直後、耳元で大声で叫ばれるかのような耳鳴りに襲われた。それは相手も同じだったようで、一つ目男はぱっと手を離すと、万里以上に苦しんで両耳を押さえる。
「あ゛あ゛あぁあ゛っ」
あまりの苦しみ様に一瞬だけ心配になった万里は、思ったほど目が痛くないのに気付いた。鏡はないが、触った感じ、以前の様に目が変化している事はなさそうだ。それから肩ほどであった髪が伸び、その上トラストと同じ蒼に変わっているのに気がつく。どうやら、封印具を身につけると姿が変わるらしいと知れた。体の調子も良くなった気がして左腕を見れば、擦り傷の様な浅い傷だらけの腕が綺麗に治っている。
「封印具、凄い」
思わず万里は呟いた。




