プロローグ 始まりの風が吹く
「━━朝か⋯⋯」
乾いた砂に覆われた一面の荒野。遠くの空、幾多もの雲の隙間から赤い光が差し込み、一日の始まりが告げられる。その中、大きな苔色の布がはためく音と共に、生ぬるい湿気を含んだ風が細かな砂を伴いながら吹き過ぎていく。
「嫌な風だな」
と、荒野の中に座り込む一人の青年がぼやいた。砂混じりの風が当たり、ベタついた肌に眉をひそめる。そんな彼は黎明の空をじっと眺めていた。
「おはよう。見張り番ご苦労だったね」
「なんだ、もう起きたのか」
その青年へ、後ろから一人の男が声をかけた。男の声に気付いた青年は振り返ると、男がその手に持ったカップを青年へ渡す。鉄製のカップの中には水が入っていて、青年は軽く礼を言いながらそれを一気に呷った。
「あー生き返ったぜ、少しだけ。あとは美味い飯と柔らかいベッドでもあれば最高だったんだけどな」
「僕も同感だよ。食料はまともな味じゃないし、前回ちゃんと寝られたのがいつだったのかすらもう覚えてない。つくづく使い潰されてるのを実感するね」
「せめて風呂に入れたんなら多少はマシになるってのに、その余裕すらねえときた。嫌になるぜ、ほんと」
「そうだね。でもここを乗り越えれば、この戦争もようやく終わりに近づく。あと少しの辛抱さ」
ここは戦場だった。この荒野の中、戦争に参加している彼らは簡素な天幕を張った臨時拠点を作り、野営をしていたのだ。
しかし、長く続いた戦いにより、既に彼らの体力も気力も限界に近い。だが、彼らを縛る環境と、互いを支えるという覚悟が、彼らに膝を折ることを許さない。青年は立ち上がり、体に着いた砂を払って、その顔に笑みを浮かべてみせた。
「正念場ってやつだな。このクソみてえな戦争が終われば、やっとこさ俺らも晴れて自由の身だ。そう思えば、やる気は有り余って仕方ねえ」
「はは、まったく頼もしいね。━━さあ、仕事の時間だ。油断なく行こう」
彼らは歩く。進む先に、希望があることを信じ、真っ直ぐ前を見て、歩いていた。
*****
しかし、その希望が彼らに微笑むことは、決して無かった。
━━俺たちは今、ここで死ぬ。
吹き荒れる風の中、青年の目前には、『死』が立ち塞がっていた。避けようのない、絶対的な『死』が。
それは烈風の塊。文字通り、塊だ。荒ぶる風が流れゆく自由を捨て去り、ただ一点に集約されている。圧縮された空気は歪み、朧気な水晶玉のように輪郭を帯びる。それでもなお、その烈風の塊は周囲の空気を着実に吸い込み続け、次第に膨張していた。
だが、その状態も長くは続かないだろう。一点に圧縮された膨大な量の空気は、莫大なエネルギーを蓄えている。今も高まり続けているそれは、一点に留めておくにはあまりにも大きすぎるものだ。そしていずれ限界を迎え、そのエネルギーは解き放たれることになる。
それはさながら『空気の爆弾』。エネルギーが解き放たれれば最後、周囲に存在するあらゆる物体を破壊し尽くすだろう。その爆弾の前に立つ青年も、例外ではない。
━━そんな脅威を前にして、俺は、俺たちは、何も出来ないでいた。
「⋯⋯カミサマ、なんていねえよな」
今まで幾度となく祈り、救いを求め願っても、青年の前に救世主たる神なんてものはついぞ現れはしなかった。ならば、己の力で現状を打破しようと、青年はその手を伸ばし続けた。その結果がこれだ。なんと、惨めなことか。
「⋯⋯どうやら、僕たちはここでお別れみたいだ」
青年の隣に立つ男。彼は空へと目を向けている。その視線の先にあるものは、一言で呼ぶならばまさに『風の壁』であった。圧縮されている烈風とは別の、吹き荒ぶ暴風。それが青年たちの逃げ道を塞ぐようにして渦巻いている。それが通り抜けようとするもの全てを阻む、崩すことのできない鉄壁として立ちはだかっていたのだ。
その壁を前に青年たちは為す術も無く、いつ爆発してもおかしくない爆弾が爆発するその時を、ただ立ち尽くしながら待つしかない状況に陥っていた。文字通り、絶体絶命と言える。
「⋯⋯あぁ、そうだな」
男の呟きに呼応して、青年も空を見上げる。風の向こうに拡がるのは、雲に覆われた、憎たらしいほどに色の無い空。何度も眺めたあの太陽を、もう目にすることはできない。
「悔しいなぁ。あれだけ必死に頑張ったのに、こんな終わり方⋯⋯」
男は俯き、声と体を震わせる。その姿を見る青年の脳裏に浮かぶのは、この二十年にも満たない己の人生。どん底から這い上がるために足掻いた記憶。だがここに至るまで、結局何も出来なかった。何も残すことはできなかった。ただひたすらに、足掻いただけ。その足掻きも無駄で、無意味なものだったと、無慈悲に突き付けられる。
涙は出てこない。声も出ない。ただただ空虚な絶望が、青年の胸の中を支配する。
しかし、男は深く息を吐いたかと思うと、その顔を上げた。そして青年の目を見て、その口を開く。
「━━認められるわけ、ないよね」
━━どうして、そんな顔ができる。
青年は、信じられなかった。男が見せたその表情が、穏やかな笑顔だったからだ。死を前にして、無力を前にして、諦観なんて一欠片もない、絶望の中に一筋の希望を見つけたような、そんな顔。そんな男は己の胸に右手を当て、大切なものを握るように拳を結ぶ。
「⋯⋯なに、してんだ。お前」
青年が尋ねれば、男はその握った拳を見つめた。固く力の入ったその拳からは、微かに、しかし確かな存在感が滲んでいる。
「おまじない、ってやつかな。君がこの先、『幸せ』でいられますようにって⋯⋯」
「⋯⋯は?」
青年には、男の言っていることが理解できない。幸せとは、なんだ。わからない。青年たちの行く末は、ここで死に、無に帰すだけ。その他の結末は存在しないはずだ。なのに、男はそんな言葉を口にした。
「⋯⋯どうした、ついに頭がイカれたか? 元からその気はあると思ってたが、もう少し堪えてりゃ最期までカッコついたのに、残念だぜ」
「なんだよ、こっちは至って真面目なのに、酷いじゃないか。⋯⋯ま、それでこそ君だよね。でも最期くらい優しくしてくれたっていいだろ?」
「ははは」と男は肩を小気味よく震わせる。そうして彼は一呼吸おいて、ちらと烈風に目を向けた。
「⋯⋯僕の選択がこの先、君を苦しめることになるかもしれない。そしたら君に恨まれるかもね。余計なお世話だったって」
「⋯⋯なんの、話だ?」
青年は、男の言葉に込められた意味が少したりとも理解できていない。だが、そんな青年の疑問をかき消すように、胸に当てた男の拳からは微かに光が溢れ出した。なにかが秘められていることは確かで、でも正体は見通せない。目を離すことも、できない。
そして、光に釘付けになったままの青年の胸へ、男はその光る拳を突き付けた。
「━━っ!?」
唐突だった。男の拳が胸に当たったその瞬間、青年は己の内側にあるなにかが、得体の知れないものに縛り付けられたような感覚に陥った。強い困惑の中で青年は声を詰まらせながら、かろうじて言葉を吐き出す。
「な、んだよ、今の⋯⋯っ」
錯覚か現実か。吟味しようにもこんな極限状態の中、起きた出来事を推理できるほど青年の頭は回らない。
「それでもね、君には生きていて欲しいんだ」
未知の衝撃に思考を白くされた青年へ、それでも男は話を続ける。当然、何を言っているのか、青年に理解できるはずもなかった。
「⋯⋯っ、お前、俺になにしやがった⋯⋯。さっきから、何が言いてえんだよ! お前は⋯⋯!」
混乱している青年を置いて、一切の説明もなく話を続ける男。そんな彼に対し、青年の心には苛立ちが募る。しかしその苛立ちを一直線にぶつけても、男は微笑みを崩さない。慈愛の感情以外は読み取れない優しい顔で、しかし決して曲がらないであろう意志を込めた瞳で、男は青年を見つめ、そして言葉を口にする。
「僕の身勝手でわがままな、最期のアドバイスさ。⋯⋯遺言とも言えるね」
「遺言って⋯⋯、」
「もう時間が無い。━━お願いだから、聞いてくれ」
『遺言』。その単語に噛み付こうとする青年に対して、男の視線は真っ直ぐ青年の瞳を射抜く。
「君は本当に凄い奴さ。あまり自覚してないかもしれないが、君はきっとこの先、多くのことを成し遂げられるはずなんだ。そんな君の人生がこんな所で終わってしまうなんて、あっていいはずがない」
「そんなの、お前だって同じだろ⋯⋯!?」
「いいや、僕はもう成し遂げられた。そりゃ、最悪に近い人生だったけど、でも君のおかげで無意味にはならなかった。それだけで、僕はもう充分なんだ。だから━━、」
そう語る男の顔は笑顔のまま。しかし、その頬は濡れていて。
「⋯⋯おい、待ってくれよ。なあ、ケイ、お前は━━」
より強く吹き荒れる風の音に、青年の言葉は遮られる。
「━━今までありがとう。タク」
風に遮られているはずなのに、やけにくっきりと、男の言葉が耳に届き、そしてより一層、風が強く渦巻いて━━、
━━刹那。
━━━━青年の世界は黒く染まる。
『━━幸せになれよ』
━━━━━━たった一人の親友の、言葉を残したまま。




