第六十九話 高麗退却戦
義弘は苦渋の決断をしなければいけなかった。
(……全員生きて帰ろう、と誓ったばかりだと言うのに……)
義弘の眼下、泗川新城の平原に明軍が埋め尽くさんばかりにひしめき合っている。
押川郷兵衛という者が物見をして言うにはその数二十万ほどだと言う。
(そんなに多いか?)
義弘の視界に映ったのは六、七万と言った所である。
――それでも十分多いが。
対する島津軍の兵は五千から六千ほどだった。
慶長三年(一五九八年)八月末。
高麗国に遠征していた日本軍はなおも留まっていた。
高麗在陣の将らに秀吉の死は伏せられていたから、各城の守備に専念していた。
これは後に豊臣臣下の将、加藤清正ら武断派の禍根となる。
しかし事態は思わしくなかった。
明、朝鮮の連合軍に日本国王、秀吉の死が漏れてしまっていた。
なお留まり続ける日本軍を、明軍はこれまでの恨みを晴らさんとばかりに一斉に攻めかかっていた。
そして島津軍が入る泗川の城にも、明軍が迫っていた。
「父上、釜山に撤退するべきでは?」
焦った様子で進言したのは忠恒だった。
「我等だけ逃げてどうする!? まだ西の順天城にいる小西殿が残っておるではないか! 我等が逃げたら小西殿は孤立して高麗の地で死ぬことになろうが!」
「それは……そうですが……」
忠恒は、父の悲壮な決意を思い知った。
本丸館から退室した忠恒に、忠長が様子を伺う。
「殿はなんと?」
「父上はここに留まり続けるそうだ」
「……!」
忠長は絶句して顔を伏せた。
しかし顔を上げた時には力強く笑みを浮かべていた。
「流石…! 流石は天下無双の島津の将にございましょう。ならばこの身、骨を粉にして尽くすのみ!」
忠恒はそれを見て目を丸くし、自らが将来背負う島津の家とはどういうものかを思い知った。
「今ここで一人逃げても謗られるだけ。ならば島津の名、高麗の地に刻み込んでくれようか」
「その意気でございます!」
忠長と忠長もまた、その瞳に勇気の炎を灯らせた。
泗川古城には川上忠実という将が城代として三百の兵を率いて入っていた。
しかし泗川新城に逃げる暇もなく包囲されてしまっていた。
その報せを受けて再び義弘に進言したのは忠恒だった。
「父上、今すぐ救援に向かいましょう!」
「……いや、ならぬ」
「何故ですか! 今をおいて救援に行かなければ、川上らは討ち取られてしまいます!」
「多勢相手にこの少兵で策も無しに飛び込むは無駄死するだけだ。さすれば今ここに残る者、小西殿もまた孤立する」
「それは……そうですが……」
「堪らえよ。信じるのだ」
義弘も内心焦りを隠せないでいた。
義弘も明の大軍が迫っていることは分かっている。
だが不慣れな地で策を張り巡らせることも難しく、六千の兵で太刀打ちできるかも分からない。
野戦を仕掛けるよりは籠城しつつ小西隊一万の兵と合流すれば勝機があると睨んでいた。
(ここで見守る事しかできないとは……)
忠恒は内心苛つきながら、その時を待つしかなかった。
また泗川古城の川上忠実も、未明になって総勢三百の兵が密かに抜け出した。
約半分、百五十名ほどの犠牲を出しながら、辛うじて泗川新城にたどり着いたのだった。
同年十月一日
泗川新城の眼下に明の大軍が押し寄せていた。
「今は耐えるのだ、小西殿の軍勢が合流すれば勝機はあるぞ。一兵残さず無事に日ノ本へ帰ろうではないか」
義弘は励ましたが、状況は絶望的だった。
二十万とも言う大軍と、圧倒的な物量、そして次々と打ち込まれる大砲に手も足も出なかった。
島津軍も持ち込んだ大砲で応戦していたが、限界だった。
討死も覚悟する中、この難局を打開するための緊急の軍議が開かれていた。
「殿、ご報告がございます」
「申せ」
上座の義弘に、川上忠実が頭を垂れる。
「櫓より観察していた兵曰く、この相次ぐ大砲の火薬は大砲の奥にある火薬桶より取り出しているとのことです」
「それは真か!」
「ならばそれに火を付けて破壊すれば、勝機はあるぞ……!」
色めき立つ将たちだったが、しかし事はそう容易く行くはずもない事は明らかだった。
「だが、どうやって……」
「やはり……誰かが犠牲になってでも火を付けに飛び込むしか……」
沈黙する空気を討ち破るように忠恒が心苦しそうに言い、それを義弘が睨みつける。
「馬鹿なことを申すな、かような策は認められぬ」
「ですが殿、もはやこれ以外に策はございませぬ。このまま明の大砲にただひたすら砕かれるのを待つばかりです。然らば小西殿を救うどころではなくなります」
「ぐう……」
忠長にも言われてしまったが、義弘はなおも逡巡する。
そこで末席にいた若者が立ち上がった。
「殿。その策、是非拙者にやらせてくだされ」
「某にもお任せください」
一人の若者は赤糸威の大鎧を身にまとった鹿児島の士卒で、市来清十郎家綱。
もう一人も赤糸威の大鎧を身にまとった帖佐の士卒で瀬戸口弥七郎重治と言った。
「……控えよ。馬鹿な事を申すな」
義弘は若者を睨みつけたが、身動ぎしなかった。
「殿は覚えておいでではないかもしれませんが、拙者ら二人はこれまで戦で危ない所を何度も殿に助けて頂きました。この命、殿の御為、国の為、十万の兵の為、何一つ惜しむことはございませぬ」
「……」
義弘は聞こえないかのように顔を伏せる。
「殿は以前、日新公の教えとして死を恐れてはならぬが、無駄死は避けよ。だが名誉の死ならば後世に名を残せることを誇れ、とおっしゃいました。これはまさに名誉の死にございます。死して名を残す栄誉をお与えくださいませ」
「……ならぬ」
なおも首を降る義弘はさらに言葉を続ける。
「この高麗の地で死すれば遺骸も持ち帰れぬではないか、かようなことを命じるわけにはいかぬ」
「……では――」
そう言って市来清十郎は微笑む。
「では、今を以って我等は島津が守り神、稲荷大明神となりまする。さすれば遺骸が四散せしとも、その御霊は薩摩に帰ることができましょう」
「……!」
義弘はなおも渋る。
「高麗の地で土地に不案内であろう。さらに日ノ本の言葉は通じぬ。薩摩に帰れるものか」
「では……」
そこでもう一人、僧形の将が立ち上がった。
「拙僧がこの二柱の稲荷大明神の道案内を致しましょう」
名を佐竹次郎右衛と言い、白糸の威大鎧を身にまとっていた。
佐竹は陣僧でその名を光明坊とも言い、漢文に長けた者だった。
義弘は立ち上がり、眼下に望む明の大軍を睨みつける。
(……全員で生きて帰らねば、と誓ったばかりだと言うのに……)
義弘はついに観念した。
ため息を一つつき、目頭を濡らしながら振り返る。
「ならば、お主らだけにいい格好はさせられぬ。全軍を以って道を切り開くぞ」
「……はっ」
こうして、泗川新城における伝説的な戦いが始まる。
「開門!」
押し寄せる明軍の虚を付く形で門が開かれた。
一斉に島津軍が飛び出し、明軍に襲いかかる。その先を行くのは忠恒だった。
そして明兵が乱れた一瞬の隙をついて、泗川新城から三匹の狐が飛び出す。
それは赤と白の狐だった。
両軍を飛び越えて、明軍の陣奥へと向かうその狐に、兵が呆気に取られて思わず見とれた。
しかし慌てて矢を放ち、槍を突き立てる。
狐は矢を受けてものともせず、槍をはね返し、ただひたすらに明軍の陣を切り裂いていく。
白色の狐はその途中で力尽きたが、その後に続いて飛び出した二匹の赤色の狐が動揺する明の兵を横目に駆け抜け、陣の奥へとたどり着いた。
その時、泗川の野に雷が落ちた。
雷は明軍の火薬庫に落ち、大轟音と共に黒煙と大きな炎が巻き起こる。
それを見ていた多くの島津兵は熱気を浴びながら一斉に手を合わせた。
――泗川新城。
全の島津兵が突撃を控えていた。
義弘もまた馬上の人となり、その手には軍配が握られている。
島津軍に残る兵は約六千。兵を前にして、義弘は声を張り上げる。
「そもそも日本は神国である! 仏天の御加護がなければどうして運が開けよう! 平生の信心は、今この時にあり!!」
そう言って前を見据える。
「見よ!! たった今我等の前に稲荷大明神が顕れ、哀れにも敵軍の中に飛び込み討たれてしまった!!」
自然と涙がこぼれていたが、それを拭うこともしなかった。
「しかしこれは吉兆である! これで我が軍の勝利は間違いない! 敵軍が動揺している今この時を逃すべからず!! 全軍、――」
義弘の一際大きい声は泗川新城に轟いた。
「――突撃!!!」
「おおおおおおおおお!!!」
泗川新城に突撃を知らせる法螺が鳴り響き、太鼓が打ち鳴らされる。
うねりを上げて六千の兵が飛び出し、動揺する明軍を飲み込んでいった。
鹿児島方衆、一万百八。
帖佐方衆、九千五百二十。
富隈方衆、八千三百八十三。
伊集院源次郎忠真の庄内方衆、六千五百六十。
北郷作左衛門三久の平佐方衆、四千百四十六。
合計、三万八千七百十七。その他切り捨て数知れず。
これは島津軍が後に記した明軍の将兵を討ち取った数とされる。
また明側の書にも泗川の戦いで三万の兵が討ち取られたと記録された。
一方、この日の島津軍の死者はわずか三名。
うち一名は既に現世と縁を断った法体だったため、これに数えられず、正式には二名とされる。
泗川新城の戦いは、明、朝鮮連合軍二十万を島津軍六千の兵で討ち破る、世界でも類を見ない奇跡の一戦と言われる。
またこの一戦で明軍は島津の名を「石蔓子」と称してひどく怯えるようになったと言う。
この大勝は日ノ本で帰りを待つ者たちを感嘆せしめ、そして龍伯の耳にも届いた。
(赤白の狐が敵勢に向かった……?)
にわかには信じがたい話だったが、弟は何か辛い決断をしたのだ、と悟った。
同年十月下旬。
義弘は泗川の戦いで勝利した後、十月十五日付で一つの命令書が届く。
「撤退命令……!」
「帰れるぞ!」
喜びと安堵が泗川新城に広まり、すぐさま撤退の準備が始まる。
そこでやはり気になったのは、順天城の小西隊だった。
其の頃小西行長の順天城では一時明、朝鮮軍と和睦した。
しかし秀吉が亡くなり、日本軍が退却中であることを知ると和睦条約を破棄して再び攻撃を開始した。
小西行長もこれを撃退したが背中から襲撃されることを恐れて退却できないでいた。
多くの将が日本に帰還する中、それを知った義弘は再び檄を飛ばす。
「小西殿を救いに参るぞ。一兵残さず無事に帰ろうぞ」
既に島津の兵は疲弊しきっていたが、義弘の「全員無事で帰ろう」という言葉を信じ、体に鞭打って船を調達した。
同年十一月一七日
泗川新城を引き払った島津軍は海路で順天城を目指した。
またこれに感じ入った立花宗茂の兵三千の他、宗、高橋、寺沢らも従軍し、合計三百艘あまりの水軍が救出に向かった。
救援に向かった地で待っていた戦は七年に渡って続いた戦役の、最後にして最大の大海戦となった。
同年十一月十八日夜明け
薄暗い中で両軍が不意に遭遇したことで戦が始まる。
露梁津と呼ばれる順天城の沖合での戦いは、寒さとの戦いでもあった。
船から落ちた者を船頭東太郎左兵衛門が櫂を伸ばして救い、義弘自ら手当をする一幕もあった。
その将の名を木脇休作祐秀と言って身の丈八尺(2m)の大男だった。
二十二歳の若者は義弘の膝の上で傷の手当を受けながら大恩に打ち震え、後に「薩摩の弁慶」を自称して義弘と片時も離れず生死に共にすることになる。
この大海戦では日本軍と明・朝鮮の水軍と相乱れる激戦となったが、小西行長の軍が唐島に退却を成功したことで決着が付く。
後に双方ともこれを勝利したと主張するが、この戦で双方とも多くの犠牲者を出したことは事実だろう。
全ての日本軍が一路釜山を目指している頃、豊久は釜山の向かいにある椎木島で待っていた。
同じ隊に配属されていた他の将らは既に対馬へ帰国の途についている。
「殿……その……まだ待たれるのですか」
豊久は遠慮がちに声をかけた将の胸ぐらを掴み、殺意をむき出しにする。
「もう一度言ってみろ。今すぐこの凍える海に叩き落としてやる」
「も、申し訳ございませぬ!」
怯える将を開放すると、豊久は再び海を見つめる。
「叔父上は必ず戻られる……必ずだ……」
豊久は自らに言い聞かせながら、義弘、忠恒らの島津軍の帰還を待ち続けた。
義弘らの一軍が釜山に到着したのは十一月二十一日のことだった。
「おおーい!」
「兵庫様だ! 兵庫様が戻られた!」
「又八郎様もおられるぞ!」
双方が喜びを爆発させて、太鼓を叩き、指笛を吹いて無事を祝う。
「叔父上!」
「又七郎!」
船を寄せるや否や、豊久は飛び移った。
「よくぞ、よくぞ戻られました……! 必ずと戻ると信じておりました!」
「わっはっは! この兵庫、老いたりと言っても異国の地で死ねるものか!」
そう言って涙を流して肩を抱き合い、お互いの無事を労うのだった。
その後、時化に見舞われて数日足止めされたが、日本全軍が釜山を発ったのは十一月二十五日。
そして日ノ本軍が完全に撤退を完了したのは十二月上旬のことだった。
同年十二月八日
名護屋に上陸後、義弘を待ち受けていた諸将が囲んでその無事を祝った。
「兵庫様には、感謝しても感謝しきれませぬ! 小西の命、兵庫様に救われました」
輪の中から進み出て手をとり、頭を下げたのは小西行長である。
誰かが義弘の肩を叩いて言った。
「高麗の連中は島津殿のことを『石曼子』と言って恐れておるようだ。あの戦ぶりはまさに鬼石曼子でござろう!」
と言って笑い、島津軍の精強さと義弘の武勲はますます高まり、全国でも広く知れ渡ることになる。
また、これ以来「明や朝鮮は島津義弘公のことを『鬼石曼子』と言って恐れた」と日ノ本の軍記で称賛されたが、当の明や朝鮮側はそういう呼び方をしていなかった。
そのため、後年になって日ノ本に訪れた明の使者に「鬼石曼子」の名前を出し、どういう風聞になっているか、と問うたが、首をかしげて誰のことか分からなかったと言う。
日ノ本に帰還した義弘と忠恒は、そこで島津軍を解散して故郷に帰し、自らはそのまま大阪に向かった。
同年十二月二七日
大阪の薩摩屋敷にて。
「宰相!」
「貴方様!」
玄関先でひしと抱き合う夫婦の姿があった。
「ご無事で何よりでございました。ああ、これは夢かしら……」
「高麗の地で何度も何度も宰相のことを夢に見た。これも夢であろうか」
「これは夢ではございません、貴方様をお慕いする宰相にございます」
「これは夢ではない。そなたを慕う義弘である」
そう言って手を取り合い、口を吸わんばかりにお互い顔を近づけた所で、さすがに後ろにいた忠恒が咳払いした。
また宰相の後ろにいた亀寿も口元を押さえて笑い、忠恒と目を合わせてまた笑い合うのだった。
翌日には二人揃って龍伯と謁見し、諸将らと合わせて無事の帰国を祝うささやかな宴が開かれた。
その後義弘は二十九日には京の伏見城に向かい、五大老を前に秀吉の死を聞かされた。
義弘は言葉を失い、ただ涙を流した。
こうして約七年に及んだ文禄・慶長の高麗戦役は終結した。
義弘はその後、紀伊国は高野山にこの戦役で亡くなった日ノ本、明、朝鮮全ての死者を弔う碑を建立した。
その碑は薩州嶋津兵庫頭藤原朝臣義弘、同子息少将忠恒の連名で慶長四年(一五九九年)六月付で後の世まで残ることになる。
しかし高麗戦役の終結は同時に豊臣政権の不安定さが露見するきっかけにもなった。
石田三成を筆頭にした文治派と、加藤清正、福島正則ら武断派の豊家内部での争い。
そして忍従の二文字を隠れ蓑に、密かに牙を研いていた徳川家康が天下取りに動き出す。
だがその歴史の裏で、島津家にもまた謀略が渦巻き始めていた。
泗川の戦いにおける赤白の狐の逸話については「鹿児島市史第3巻(昭和46年2月発行)」の第7部に収録されております稲荷神社境内の「泗川新塞三勇士の碑」の金石文を参考にしました。




