第六十八話 島津の砦
慶長二年(一五九七年)二月二十一日
高麗再出兵の陣立てが申し渡され、義弘は五番備え一万人を命じられて帖佐を出立した。
なお、亡き末弟家久の嫡男豊久は三番備えとして八百人と定められている。
義弘は出兵命令を前に領国が守るべき幾つかの掟を定めた。
京都・高麗の公役に備えること。
出陣中の間に男の居ない家や妻を盗まないこと。
酒を飲み過ぎないこと。
火の用心をすること。
他細々と定めて、同年二月二十八日付でその掟を発令した。
また義弘の出陣後、龍伯、愛娘であり忠恒の妻となった御上様こと亀寿、義弘の愛妻宰相殿の三名が人質として上洛した。
同年二月二十八日
義弘は再び高麗国に渡るため、川内川の久見崎を出立。
嫡男忠恒、右馬頭以久、図書頭忠長、さらには阿多盛淳、新納旅庵、木脇久作祐秀、中馬与八郎重方、他諸将と共に渡海した。
なお中馬重方はその無骨な性格から上司である家老の比志島国貞と諍いを起こした。
其の結果知行地と住居を没収されて蒲生の僻地に蟄居処分となっていた。
蟄居処分とは門を閉じ、一切の交流、生活に必要なやり取りを禁じることである。蟄居処分が長く続けばその果ては飢死もありえる。
しかしその話を聞き及んだ義弘は中馬を惜しんで密かに毎年米二俵を送っていた。
そして文禄の役の際に兵が集まらなくて難儀している時に義弘旗下に組み込まれた。中馬も義弘の心意気に深く感じ入り勇んで義弘のために槍を奮うことになる。
島津軍は文禄の出兵の際は島津兵の気力も乏しくもなくまともな戦は出来なかったが、慶長の出兵は流石に前回よりは参陣者は多かった。
無論「殿に恥はかかせられぬ」という新たな時代に対応した薩摩武士の気概が芽生えつつあることも幸いした。
ともあれ、釜山に集結し、上陸した義弘を始めとした日ノ本の大軍は、再び高麗の地の支配を目指すことになる。
慶長における朝鮮戦役は上陸後すぐさま幾つかの戦が続いた。
その緒戦の中で大規模な戦では漆川梁海戦と呼ばれる戦があった。
朝鮮半島の南端、巨済島とその北西に接する漆川島の間に、漆川梁という海峡がある。
釜山の湊に集結し上陸したものの、朝鮮の水軍を警戒していた日ノ本の軍は全軍あげて北進することを躊躇していた。
しかし朝鮮の水軍が漆川梁に集結しているという情報を入手し、日ノ本の陸軍と水軍で挟撃した戦である。
この戦では水軍を藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明、菅達長が大将を務め、陸路を義弘、小西行長が担当した。
文禄戦役では大した武功を上げられなかった義弘は、関白の不興を買うことを恐れた。
同年七月十五日夜
義弘は自ら軍勢を率いて陸路を進んで李氏朝鮮軍を圧倒。
また不所行の目立った忠恒も臣下の者の手前みっともない姿を見せられないとでも思ったのか、藤堂高虎、脇坂安治らと共に水軍を率いて進撃、自ら敵船に飛び乗って勇戦。
敵将四百余の他、雑兵を数えきれない程を斬り捨てた。
翌十六日明け方
朝鮮方の水軍数百艘が引いて行くところを東堂高虎の兵ら他諸将が競い合うようにこれを追撃。
結果、数千人を斬り捨て、百六十艘余りを拿捕し、さらには十五、六里に渡って敵船をことごとく焼き捨てた。
この戦での軍功一番は誰しも藤堂高虎と認めたが、ただ一人加藤嘉明が進み出て自らが一番だと言い張った。
これには高虎も怒り、両者で言い争いとなった。周りの者たちの取り成しで一先ず落ち着いたが、以来、藤堂高虎と加藤嘉明の仲は険悪になったと言う。
またこれに前後して、義弘は手前の兵の数に不安を感じ、また実際にも一万人という名目よりは少なかったので龍伯に軍衆の加増をお願いする書状を送っていた。
五月二十三日付のそれは七月になって届き、龍伯も慌ててこれに応えて伏見から国元の家老衆に出兵を命じる等命令系統の混乱が見られた。
ともあれこの大勝によって海路の憂いを断った日ノ本の軍勢は、陸路を左軍、右軍。そして水軍の三手に分かれる。
宇喜多秀家を大将とし、先鋒は小西行長。これに、義弘、蜂須賀家政、長宗我部元親、加藤嘉明、生駒一正ら五万。
毛利秀元大将、加藤清正先鋒。黒田長政、浅野幸長、鍋島直茂ら五万の兵が朝鮮半島へ侵攻を開始した。
同年八月十二日
義弘らは慶尚道と全羅道の境にある南原城を攻め立てた。
義弘は長宗我部元親、加藤嘉明と共に北面を担当して包囲し、十五日に落城させた。
なお、又七郎豊久も東面の軍勢に参陣している。
その後は秀吉の命によって各方面の制圧を進めるが、同時に各城に大名を入れさせて、日ノ本流の城と統治体制を敷くことになる。
ここで経済、食料などの基盤を固めた後に明の制圧を目指す、という計画だった。
義弘が担当したのは朝鮮半島の南岸、縦横に海岸線が入り組む泗川という地である。
唐島こと巨済島より西へ約四十キロ余りの場所だった。
同年十二月末
泗川古城から半里離れた場所。
雪が散らつく薄暗闇の中、寒波に襲われ体を震わせる二人の島津兵が居た。
「うう……寒いなあ……」
「全くだ……」
警備を担当するのは彦太郎、兵十郎という姓の無い軽輩の兵だった。
いずれも襦袢や袴を二重に重ねて防寒対策としていたが、やはり寒さが堪えた。
「こんな所で年越しを迎えるのか……」
高麗の寒波は肌に突き刺すような寒さが厳しく、雪が降ることはまれだったのは幸いではあった。
しかし南国出身の薩摩武士にとって、高麗の厳しい寒気に、身も心も折れる寸前だった。
(今すぐ帰りたい……)
彦太郎の頬を伝う涙は何も寒さに因るのものではないだろう。
その時、城から何人かの兵が出てきて、声をかけた。
「おおい、殿のご命令だ!見張りはもういいから城に入れとよ!」
「それは助かった!」
寒さにやられた赤ら顔に笑顔が溢れ、彦太郎と兵十郎は目を見合わせる。
そして急ぎ足で城に戻るのだった。
「うう、寒い……」
彦太郎が門をくぐると、暗闇の中で老将に手を取られた。
「おう、ご苦労だったな。火にあたれ。ほれあたれ」
「ああ、助かる……。すまんこった」
見れば風を防いだ一室で、いくつもの火を焚かれている。
そして多くの者が肩がふれあう程に身を寄せあって焚火を囲んでいた。
「おう、木脇。見張りをしておった者だ。少し開けてくれんか」
「……はっ」
彦太郎は手を引かれ、無理やり隙間が作られた焚火の輪の中にねじ込まされた。
「おう、わしも入れさせろ。寒い寒い」
そういって手を引いた老将も彦太郎の横に体をねじ入るように座る。
「ほれ、酒を温めておいたから飲め。体が温まるぞ」
「おお、これは気が利くではないか」
そう言って彦太郎に盃を差し出し、酒を注いだ。
一気に飲み干すと、カーっと血液が沸き立つ。
兵十郎も恐縮する様子で他の将から酒を振る舞われていた。
「ああ、生き返った……。しかし見張りはせんでよいのだろうか……もし明兵が攻めて来たら……」
「それはもう、攻めて来たら仕方ないと諦めることにした。それよりこの寒さで死人が出たら元も子もないからな」
「そうか。さすが殿は分かっておるわ」
「そうだろう、そうだろう」
彦太郎はそれまで寒さと焚火と焼酎に夢中で気にならなかったが、どうにも会話の内容がおかしいと気づいた。
焚火の灯りでにんまりと微笑む老将をまじまじと見て、これ以上ない程に目を見開いた。
「え……! と、と、殿!?」
腰を浮かして飛び上がり、焚火の輪から外れて平伏する。
「こここ、これは……、気付かなかったとは言え……その、とんでもない無礼な口の利き方を……!」
「気づいておらんかったのかよ!」
地面に頭を擦り付る彦太郎に、焚火を囲む輪からも爆笑の声が上がる。
よく見ればいずれの焚火を囲む者たちは、禄高の差も全く関係なく、足軽から陣大将まで入り乱れて肩を寄せあい、盃を傾けている。
「よいがなよいがな。ほれ、寒うなるぞ。入れ入れ」
彦太郎はまた義弘に手を取られて焚火の輪に溶け込み、今度はその心遣いに涙を流しながら、盃を頂戴して恐縮するのだった。
この時、泗川には明伝来の城があり、これを古城と呼んでいた。
しかし古城の守りの勝手が分からないことに不安を抱いた日本軍は、そこから南へ日本風の城を普請することを考えた。
それは後の世に倭城と呼ばれることになる。
薩摩の地より遠く、この高麗国泗川の地で義弘ら島津軍は年を越した。
慶長三年(一五九八年)四月五日
冬を越し、暖かくなった頃に長年の懸案だった新城の普請を開始した。
これには現地人も動員して大急ぎで築城されるのだった。
また一方その頃、日ノ本の龍伯はその年の一月に上洛して何事もなく過ごしていた。
他に出仕している各大名らは毎朝のように茶ノ湯に興じていたが、龍伯は不執心だったためそれに付き合いはするもの
(なにやら勿体ものよ……)
と冷めた目でそれを見ていた。
その他約六千石の隠し田が石田治部少輔に見つかり、その家臣の柏原彦右衛門がこっぴどく叱られる、という事が起きていたが、龍伯は知らんぷりを決め込んだ。
また宰相殿が元気でいることなども忠恒に伝えてやるのだった。
だがその龍伯の知らぬ所で天下の行く末に暗雲が立ち込め始めていた。
同年五月
秀吉が病に伏せるようになり、日ごとに症状が悪化し始めた。
この時六十二。当世の寿命とも言える。
しかしついに死を覚悟した秀吉から遺言状が出され、これに従うように求められた。
龍伯もまた加賀大納言こと前田利家、内府こと徳川家康の両名宛に七月二日付で起請文を差し出した。
(ついに……関白殿が亡くなられるか……)
龍伯は伏見の薩摩屋敷でこれからの事を考えていた。
豊臣政権が続くかどうかは不透明だった。
秀吉の跡継ぎとしては秀頼がいたが、若年過ぎてとてもではないが治世者として存在しうることは難しいだろう。
だがそれも後見次第であろう、と龍伯は睨んでいた。
しかしその後見役として定められた五大老に問題がある。
それは徳川家康の存在だった。
秀吉は天下一統を目前に控えて家康を異常に恐すぎた。
秀吉が本気になれば全国を併呑した後、難癖をつけて徳川家を取り潰すこともできたはずだ。
だが秀吉は家康に、三河から移封する代わりに関東八州を与えてしまった。
長年連れ育った徳川家の忠臣は故郷を離れることを迷惑がったと言う。
ただの湿地帯にしか過ぎなかった地に城を作り、さらには城下町を作るなど、とてもではないが成し得ない事、と思うのは当然だった。
秀吉とてただくれてやるつもりはなく、城下町開発で財政を圧迫させてやろうとか、地元の国衆を相手に治世が上手くいくはずがない、とか、東海道、中山道をはじめ関東を完全に封じ込めれば問題ない、という目論見があったとも言う。
だが家康はやってのけた。
関八州に強大な徳川王国を築きあげてしまった。
その結果、秀吉亡き後の天下は家康が取るのではないか、という噂話は秀吉健在の頃から半ば公然に囁かれていたことでもあった。
龍伯はこの頃、家康と私的な交際を重ねて昵懇の間柄だった。
天下を取るつもりがあるのか、暗に聞いたことがある。だが家康はただ笑って
「とんでもない」
とおどけて見せるのだった。
(家康殿も食えん方だからな……。狸と揶揄されるだけのことはある)
だが病に伏せる秀吉のうわ言が噂話として耳に届く度に、その心のうちは天下の事よりも遠く高麗の地で苦闘する一族の事に向いていた。
「龍伯様……。お茶がこぼれそうです」
「お、すまんな」
人質として取られている亀寿、宰相殿はすっかり仲良くなり、大阪の屋敷で女の話に花を咲かせることが増えていた。
龍伯もまた様子を伺いに顔を出すうちに、宰相殿と弟の話でよく盛り上がるようになった。
この日も夏の暑い日で、日陰を選んで涼を取っている所に、宰相からお茶を振る舞われている。
「龍伯様は近頃、お空を見てため息をついてばかりですね」
「そうかな」
龍伯は剃りあげた頭を掻いて、苦笑する。
「宰相殿とて旦那と会えんから寂しかろう」
「……はい」
「なに、近いうちに会えるようになる。今はただあやつらの無事を祈ろう」
「はいっ」
宰相殿もすっかり歳を取りつつあったが、変わらず元気の良い笑顔で応えた。
(武庫、忠長、以久、豊久。数多の島津の兵たちよ。帰れるのは間もなくだ……。皆々お主らの無事の帰りを待っているぞ……)
龍伯は遠く高麗の空に思いを馳せるのだった。
慶長三年(一五九八年)八月十八日
伏見城にて豊臣秀吉死去。
享年六十三。
島津家が屈して以来、十年以上に渡って散々辛酸を舐め続けた天下人の死に際して、龍伯は何一つ感情が沸かなかった。
ただひたすら、天下の行く末を静かに見守りながら、高麗からの帰りを待っていた。




