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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
朝鮮出兵
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第六十七話 龍伯の憂鬱

 関白の旗下に入って以来、義弘は秀吉から当主扱いされ、名目上は義弘、実際には龍伯、という状況だった。

 だが、太閤検地の結果によって島津家の統治は龍伯と義弘、忠恒による「三殿体制」となり、さらに混迷の度合いを増すことになる。


 一方でそれ以上に物議をかもしたのは、龍伯、義弘の十万石に次いで、八万石という領地を得た伊集院幸侃である。


「なぜ幸侃が御両殿に次ぐ領地を得ているのだ!」


 その怨嗟は給人領の者、つまり地頭職にある者たちの声が大きかった。


 伊集院幸侃は島津家の家老であったとは言え、同じ島津家の配下、という認識だった。

 だがこうして秀吉直々に領地を定められたのを見て、幸侃はもはや島津家の配下ではなく、秀吉の家臣という風にも見えた。

 また検地後の知行配分を秀吉に代わって行う立場になったことも不興を買う原因となった。


「猿に媚びを売る裏切り者め!」


 日増しに陰口は大きくなり、いずれ幸侃の耳にも届くようになる。

 幸侃は秀吉の九州征伐以来、島津家の家名存続のために奔走し続けた。

 中央政権に擦り寄るその姿は、多くの者から蔑みの目で見られてしまっていた。


 歳久が最期まで弓を引き続けて意地を貫き通した、という武士の美学とはあまりに対照的に捉えられた。


 給人領二十六万石というのは、一見すると多く見える。

 だが一石が一人一年分の食料という換算である。

 扶持としては一人一石が最低限の保証と考えると、一人に付き三石はないと、まともな生活などできない。

 実際には収入の内何割かが年貢として召し上げられていくからだ。

 扶持の中から家臣を養い、或いは家族を養い、余った米を売って銭を蓄えて馬や武具を買い揃えて……ということを考えていくと、島津家が抱える何千という家臣団、その配下や下人、その家族、領民と家族まで含めると何万、何十万という人数になる。

 その生活を支えるには、給人領二十六万石は余りに少なすぎ、また幸侃の八万石は余りに多すぎた。


 定められた石高と配分について各地頭から異議申し立てが相次いだ。

 ついには石田治部少輔も悲鳴を上げて義弘に匙を投げたと言う。


 また元々都之城を領していた北郷氏の一族は伊集院幸侃によって追われ、歳久亡き後の宮之城の地に移らされた。

 大減封とも言える措置だったが、相手は天下人故に抵抗も許されず従うしかなかった。


 しかしこの太閤検地による一連の騒動を、冷徹な眼で見守る男が居た。

 それは富隈城に移った龍伯である。


「殿、幸侃様がおいでになりました」

「通せ」


 龍伯は幸侃が庄内受領のため下向中であると聞いて、呼び出した。


「龍伯様、お久しゅうございます」

「富隈は普請中につき騒がしいが、許してくれ」

「あ、いえ……」


 京以来に再会した島津家筆頭家老を見て、表向き笑顔を見せた。


「少し肥えたか?」

「やはりそう思われますか……。節制しているつもりではいるのですが、連日歓待しているとどうしても」


 そう言って苦笑する幸侃を、龍伯も微笑む。


「此度の検地の騒動であるが、お主の見解を聞かせよ」

「……はっ」


 龍伯の笑顔とは裏腹に、冷たい声に幸侃は身を引き締めて一礼する。


「龍伯様には、包み隠さず申し上げます」


 そう言って目を伏せる。


「検地には多少なり反発もございましたが、滞りなく済みました。また各地の谷間の奥に隠し田があることは承知しておりましたが、いくつかはあえてそれを見逃しております。よって今回定められた石高より少しばかりか実際には多いと存じます」

「ふむ」

「太閤殿下より拙者に八万石もの大領や知行配分の役目を頂戴した事を恨む声もございます。ですが、これは私領ではなくあくまで島津の御家に尽さんがための領地と心得ております。もしご命令あらば御役目を辞任し、領地は今すぐにでも龍伯様、もしくは武庫様にお預けいたします」

「……」


 龍伯はその弁明を聞いて、殊更冷静さを務めた。


「だが太閤殿下より直々に頂戴した領地であり、御役目であろう。勝手もできんのではないか」

「それも……そうですが」


 幸侃は龍伯が何を言い出すか、と動揺する内心を抑えながら悟られないように目を伏せる。


「……領地を召し上げようと言う気は微塵もない。知行割方の役目についても同様だ。引き続き島津の御家のために尽くしてくれたらそれでよい」

「ご配慮賜り、有り難き幸せに存じます」

「うむ……」


 龍伯の目尻が少し下がったのを見て、幸侃は少し安堵した。


「それから……御家のことを考えると憚ることなのですが」

「申してみよ」

「……心岳様のことです」


 心岳とは、歳久の戒名の心岳良空大禅伯の事である。

 龍伯の表情が少し険しくなったが、幸侃は構わず続けた。


「心岳様がお亡くなりになった後も生前の仁徳を想えば、多くの民が慕うは当然の成り行きと思っておりました」

「……」

「ですがそれが関白様のお耳に入ったようで、真に謀反の計略がなかったか、金吾様の書状を全て差し出せ、と直々に申し伝えられまして……」

「なに……?」


 龍伯の顔に、これまでに無いほどの怒気が帯びる。


 歳久は元来筆不精な方ではあったが、多数の書状を龍伯始め各将に届けている。

 参謀役らしく、陣容や城攻めの方策、軍略の進言など、戦術や戦略に関わる超重要機密事項ばかりだった。

 それを差し出すことは、島津家の軍略全てが丸裸にされるも同然だった。


「御朱印状は?」

「ございませぬ。他家への影響も考え、内々に差し出すべしとのことでした」

「……」


 龍伯は答えられないでいた。

 だがその反応を予想していたかのように幸侃は続ける。


「躊躇われるのは御尤もにございます。拙者からは『太閤殿下に背いた反逆人は当家も許しがたいことなので、その書状は全て処分した』とお伝えしようかと存じます」

「……」

「さすれば当家の太閤殿下への忠節心を示せるばかりか、太閤殿下も致し方なし、とお考えになるかと存じます」

「……」

「太閤殿下の御嫌疑により検分が入る恐れもございますので、その際に処分すべきかと……」


 龍伯は思い悩んだ。

 歳久亡き後、その面影を残すのは生前の地と数多くの書状ばかりである。

 せめてその偉勲を後世に残したかった。


 だが、島津家において最も秀吉に近い幸侃の言葉も至極真っ当のようにも思えた。


「相分かった……」


 後日、内々に「天下に憚るため」と歳久の書状の破棄が命じられ、その多くは消失してしまうことになる。

 写本等、密かに残す隙もなかった。


 そしてこの重苦しい雰囲気をどうにかしようと考えあぐねた幸侃は、口が少々軽くなってしまった。


「どこぞの者かは存じませぬが、拙者の事を『虎の威を借る狐』なんぞと陰口を叩く者がいるようです。ですが狐は当家の守り神。この身を尽くして御家を守りたく存じます」

「……」


 龍伯の眉がピクリ、と動いたのを幸侃は見逃さず、内心


(しまった!)


 と声を上げた。


「し、失礼いたしました。今の戯れ言はお忘れください」

「……」


 そして暇を願ってそそくさと庄内に戻っていった。

 自らを神と称して家を守るというその言葉、龍伯は忘れられなかった。


「獅子身中の虫……か」


 龍伯は歳久最後の進言を思い出し、その瞳の奥に謀略の光を灯らせるのだった。




 文禄年間は朝鮮出兵による過酷な兵役が課せられ、或いは太閤検地によって豊臣政権の支配が及んで諸家から悲鳴があがった年だった。

 しかし秀吉の身の回りにも異変が相次いだ年でもあった。


 文禄二年(一五九三年)八月三日に待望の嫡男、おすて、のちの秀頼が誕生。

 翌、三年(一五九四年)二月二十七日には大和国吉野の地で花見の大宴を行う。

 ここまでまでは良かった。


 その翌年、文禄四年(一五九五年)七月八日に関白職を譲ったはずの甥、豊臣秀次を高野山に追放。

 さらに七月十五日には切腹を命じて秀次を自害に追い込んだ。

 その理由には諸説あって定まっていないが、秀次が謀反を画策したとも、秀次の行いに問題があったとも、秀頼への家督相続を確実なものにするためとも言われる。



 そして文禄五年(一五九六年)閏七月には、京以西にかけて震災が相次ぐ。


 同年閏七月九日亥刻

 伊予の地から薩摩にかけて地面が大きく揺れ、石垣や家屋の倒壊など、甚大な被害を招いた。

 さらには豊後では奥浜が海没して津波が起きるなど未曾有の大災害となる。

 一万人あまりの死者を出したと言う。


 同年閏七月十二日

 先日の震災の混乱が収まらぬ内に豊後で地震が発生。

 津波が発生して別府湾のいくつかの島がこの時沈んだとも言われる。

 さらに数多の家屋が倒壊・流出して、八百人あまりの死者をだした。


 同年閏七月十三日

 その翌日には京都伏見を中心に近畿広域にかけて地震が発生。

 京の寺社や築城したばかりの伏見城が倒壊して多くの死者を出した。


 後の世に慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震とそれぞれ名付けられる地震は、秀吉の心胆を寒がらしめ、またこれら立て続けに起きた天災に、朝廷も恐れて改元を決定した。


 また秀吉は地震の前に琵琶湖のなまずが騒いでいた、という風聞を耳にした。

 以来、鯰が地震を起こすもの、という風説が日ノ本中に広まっていく。



 文禄五年(一五九六年)九月

 明との和睦交渉が決裂し、再度の朝鮮出兵が決定。



 文禄五年(一五九六年)十二月上旬

 高麗国の再出兵を控えて下向していた義弘は、年賀の挨拶が出来ない詫びを兼ねて富隈城の龍伯を訪ねていた。

 上座に龍伯、下座に義弘が座り、他を遠慮させて人払いをする。


「ご苦労であるな。太閤殿下のご機嫌はどうだ」

「近頃はお会いしておりませぬが、石田治部少輔が言うには変わりないとも。ですが……」

「が……?」


 そう言って義弘は周りを見渡す。

 その様子に龍伯は思わず笑う。


「安心いたせ。関白方の間諜すらも入り込まぬよう厳重に警備しておるし、ふすまの向こうで聞き耳を立てるような不届き者はおらん」

「失礼致しました」


 義弘も頭を掻いて、しかし小声になる。


「最近の太閤殿下はどうやら道理も通らぬ、理屈も分からぬ奇行が見受けられるようで……」

「ほう」


 龍伯の目が鋭く光った。


(先は長くないかもしれんな……)


 心の内によぎる不敬な思いをそっとしまい込み、「よう分かった」と頷く。


「高麗出兵の辛労を(おもんばか)れば、お主の気の張り様にはかけるべき言葉も見つからん。歳を考えればお主も遠慮できただろう?」


 この年、龍伯六十三歳、そして義弘六十一歳である。

 いずれも歳相応に顔に皺も入り、髭にも頭にも白髪も混じっている。老齢につき体調優れずご遠慮頂きたい、と申し出れば許されそうな歳でもある。

 ちなみに龍伯も年齢と持病の虫気を理由に出兵遠慮を申し出て、代わりに上洛することを条件に認められている。


 思わぬ労いの言葉に、義弘の目頭が一瞬熱くなったが、しかし(かぶり)を振る。


「いや、やはり政のいざこざやら腹の探り合いやら拙者には向かぬ、と上洛してよくよく分かり申した。政は兄上にお任せして、戦場で槍を奮うのが一番だと存じた次第で」


 そう言っておどけて笑い、龍伯も釣られて笑った。

 久保の死から三年。

 無念を晴らしたいという思いもあるのか、と龍伯は思った。


「兄上、それについてご相談があります」


 膝を改めて義弘が軽く頭を下げる。


「実は……」

「なんだ?」


 言いにくそうな顔つきに龍伯は穏やかな笑みを浮かべて促す。


「今の島津十字紋を少々変えた方が宜しいかな、と存じまして……」

「はあ?」


 全く心になかった相談事に、龍伯の開いた口は塞がらず、らしくない奇妙な声が出た。


「先年……天正十五年(一五八七年)頃に、太閤殿下が伴天連追放を発令したことはご存じですか」

「……ああ。何やらそうらしいな。信教は許すが布教は許さんというものであったか。それは別に当家も同じ……」

「左様にございます」

「……まさか」


 龍伯の顔が歪んだ。


「実はその『まさか』でして」

「まさか、島津が十字紋を伴天連の十字架と同一に視たか?」

「いやいや。太閤殿下より直接は話はございませなんだが、幸侃より言い出しかねない気配がある、と」


(また幸侃か……)


 龍伯の胸の内に、歳久最後の進言が思い浮かぶ。


「しかし……そうも過敏になることか?」

「実は拙者にも心当たりがありまして……」

「ん?」

「先年の高麗出兵の折、小西殿が当家の幟を見て、胸の前でこう、十字を切るような所作をしておりました」

「……??」


 義弘が言う、小西行長の所作を理解できない龍伯は首をひねる。


「この胸の前でこう、十字を切るのは何やら神デウスとやらの教えに相通じるものがあった時にやる所作のようで……」

「……小西殿は、南蛮の教えに傾倒しておったか」

「はい。それで、道理の通らぬ話で御家に害が及ぶ前に、少々いじろうかと存じまして」


 龍伯は肩を落とした。


(先祖代々、大事に引き継いできた島津十字紋が、まさかこのような事で変わることになるとは……)


 ため息一つついて、頷く。


「で、どうする気だ?」

「今はこう、筆体で横に短く縦に長い、まさに十の字ですので、十字架と同一のようにも見えまする」

「うむ」

「で、これを縦横同じの長さの棒線にして、丸で囲もうかと」


 龍伯は目を伏せ、呟くように口を開く。


「今の十字紋は縦横の向きを正しくしなければいけない。陣幕設置や幟を作成する折、それに気を使って少々時間がかかってしまうという話を聞いたことがある。縦横同然の丸十字の型にすれば使いやすくなるだろうな」


 そう言って龍伯なりに無理やり納得した。


「お主の思うがままにいたせ」

「ありがたき幸せ」


 こうして島津家の十字紋は少々手を加えられ、丸十字の家紋に改められる。

 もちろん一気に全て差し替わるということはなく、順次差し替えられていき、十字紋と丸十字紋がしばらく混在することになった。

 龍伯はいずれ元に戻そうとも考えていたが、後の戦で僥倖が続いたため、結局丸十字紋はそのまま正式に島津家の家紋として定められることになる。




 文禄の世は文禄五年(一五九六年)十月二十六日に終わり、翌日には慶長元年(一五九六年)十月二十七日に改まった。


 そして義弘らは再び高麗の地に渡ることになる。

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