第六十三話 出陣
天正十九年(一五九一年)
秀吉の旗下に入った日ノ本の諸家は一つの下知により再び戦に委ねることになる。
――唐入の支度をせよ。
後の世に言う、文禄・慶長の朝鮮の役である。
秀吉の唐入計画は元々織田信長が発案していたという風聞もあった。
しかし実際に唐入の布石となるような動きを取ったのは九州を平定してからのことである。
そのため日ノ本統一後の目標として噂に上がっていたが、この年になって正式に下知された。
その背景には秀吉の弟、秀長をこの年の一月二十二日に亡くしたことも影響している。
天下人になるため我武者羅に突き進む兄に、唯一諫言できる立場であったとも言われる者の死によって、秀吉の我欲は歯止めが掛からなくなってしまっていた。
そして唐入のために通過地点として進軍目標となったのが高麗の地であり、これを治める李氏朝鮮である。
李氏朝鮮は高麗における統一王朝ではあったが、実質は隣の大国、明を宗主国と仰いで朝貢することで生き長らえていた王朝だった。
後の世で彼の国にそれを否定する、或いは偽る向きもあるようだが、沽券に関わるが故の無理筋なのだろう。
だが何も、それを恥じ入り”なかったことにする”必要はないだろう。
戦国の世は法治の道理も通らぬ時代であり、大陸と陸続きである以上は、そうしなければ生き残れなかったからだ。それは明・李氏朝鮮だけではなく、遠く西欧の地でも当たり前のことだった。
西欧の諸国がそうだったように、過去の恥をあるがままに受け容れ、また繰り返さぬように、真摯な姿勢を以って決して迎合せず、自らの力で未来に向かって歩みを進めればいいだけの話である。
閑話休題。
ともあれ、唐入のために高麗国へ従属を迫っていたが、これが拒否されたため朝鮮の役は計画され、下知された。
李氏朝鮮にとってはいい迷惑であったかもしれないが、島津家のみならず、日ノ本の諸将もこれに従わない訳にはいかない。従わねば、これもまた家の存亡に関わるからだった。
そして島津家に課せられた兵役は過酷なものだった。
『唐入に付、島津殿の御軍役人数は一万五千。
幟三百本、五十本手槍。
三百本の内、二百本は長槍、三十本は手槍、千五百丁 鉄炮。千五百帳 弓』
等――。
「一万五千……!」
最初に下知された陣案を読み、龍伯は絶句した。
もちろん一万五千という兵は島津家がかつて九州平定の折に動員した人数と同規模である。
だがそれは国家存亡に関わる危機に際してのことだった。故に無理が効いた。
しかしその無理の反動で、また半世紀以上も前から続く長年の戦で士卒、領民問わず疲れ果てている。
それ故に島津家の九州平定にあと一歩まで迫りながら、結局取り逃がした。
半士半農を基本とする島津家において、ここに来ての大規模徴兵は事実上不可能だった。
また一つ、厭戦気分以外にも徴兵を難しくさせているものがあった。
それは反秀吉、反関白、反中央政権という薩摩国衆の気骨である。
その実情は龍伯ばかりか、義弘にも理解していた。
(だが、これに従わねば……)
表向き従わねばならない姿勢と、現実として対処しなければいけない諸問題。
島津家の家名存続のため、またその地で暮らす人民の安寧のため、相反するような難題に、再び頭を悩ませる。
龍伯にとって幸運だったのは、上洛後に秀吉が気を使わなければいけない相手と誼を通じていたことだった。
その相手とは徳川家康である。
龍伯が薩摩や大隅の実情を自嘲気味に徳川家康にも打ち明けていたことが幸いだった。
弟の秀長が亡くなった今、秀吉の歯止め役は徳川家康にあった。
もし迂闊な真似をすれば家康に天下をさらわれる。その恐怖が秀吉の歯止め役に代わっていた。
『一万五千は余りに多すぎる』
龍伯の悲鳴に、徳川家康も深く同情した。
関東八州に移封されて忙しかった家康だったが龍伯の訴えを聞き入れ、自ら秀吉に掛け合い、なんとか五千、せめて一万、と譲歩を引き出すことに成功した。
同年八月五日
朝鮮出兵に向けて準備が進む中、関白秀吉を慟哭させる事態が起きる。
秀吉嫡男鶴松、夭折。
元々病弱だったとも言われるが、数え三つの若さだった。
この時秀吉唯一の嫡男だったため、その哀しみの深さたるや相当なものだった。
そして結果的に、その鬱憤を晴らす矛先が高麗の地に向く。
同年九月下旬
島津家の元に秀吉から書状が届く。それには『高麗国御出張之文書』と書かれていた。
高麗国を弾劾し、これを征伐するという勇ましい内容が書かれ、また出陣は来年春の朔日と定められた。
「……始まってしまうのか……」
龍伯と義弘は、その書状を見て、また苦労をかけてしまう故郷の人民たちの気持ちを考え沈鬱な表情になった。
朝鮮出兵に向けて、秀吉の準備も着々と進めていく。
まずは人質の要求だった。
石田治部少輔より龍伯、義弘宛に届いた『人質番組』と記された文書には島津歳久入道の孫子、袈裟菊や島津右馬頭又四郎以久の実子、彰久等の名前が並んでいた。
また高麗遠征のための拠点として、肥前国名護屋という地に巨大な城郭を築いた。
奇しくも尾張国の名古屋と同じ読みに何かの縁を感じたのだろうか、何もなかった小高い山地に瞬く間に一大政務拠点が出来上がった。
肥前国名護屋は対馬海峡に面した地で、玄界灘を一望できる地だった。
ここから船で北西に向けば、壱岐、そして対馬に渡り、高麗の地は目の前である。
さらに秀吉は関白の位を自らの甥である秀次に譲位し、自らを太閤と称するように命じた。
位人臣を極めた秀吉の我欲はなおも止まらない。
龍伯、義弘が戦支度のために薩摩に下向し、代わって多くの者が人質として上洛した。
そして朝鮮出兵の準備が進められるが、薩摩、大隅の家老や国衆の動きはあまりに重かった。
義弘とて領民の気持ちも十分に理解していたので、早く支度をしろと無理に叱りつけることもできず、悲壮な覚悟を抱いて出陣に備えていた。
これには事情がある。
それは龍伯と義弘の秀吉に対する協力姿勢の差である。
秀吉が御朱印状のほとんどを義弘に送って龍伯を島津家の太守から外そうとしたように、龍伯も秀吉から一定の距離を取った。
龍伯の消極的な姿勢は、なお龍伯を三州の太守と扇ぐ国元の地頭らの共感を呼んだ。
『島津は膝を折れども頭は垂れず』
それまでの島津家の地方政権下にあって、ある程度の自由が利く支配体制から、中央政権介入の下による自由の利かない支配体制に移行することに強く反発していたことも一因だった。
秀吉は元々、鎌倉以来の名家でもある島津家を買っていた。
まず出自の低いと揶揄される関白の旗下に加えることで権威付けに利用することを考える。
しかし大口で謁見した新納忠元らの高い忠節心を得ることを思いついた。
それ故に太守に向けられている忠節を、義弘に差し向けるように図った。
その義弘を豊臣政権の幕閣に組み込むことで、豊臣政権の安定化を狙った。
しかし秀吉の考えは甘かった。
古の伝承によると現在の朝廷が成立する以前、ヤマト王権は熊襲と呼ばれる部族と争ったという。
熊襲とは南九州に根を張った集団で、薩摩隼人の祖先とも言える存在である。
つまり太古の昔より薩摩隼人は中央集権的な権力の干渉をひどく嫌う気質だった。遺伝子に刻まれた特質と言ってもいい。
それ故に一夜で築き上げたかのような秀吉の権力機構が薩摩の地に浸透することは難しかったと言える。
これは完全に秀吉の判断の誤りである。
島津家を手懐けたければ徹底的に龍伯を立てなければいけなった。
そうすれば島津家の精鋭部隊は秀吉の手駒となりまた違った歴史を歩んだはずだ。
そしてこの時、秀吉の意思を石田三成を通して感じ取り、このままでは家が潰れると危機を感じたのは義弘で、どうにかなるだろうと考えていたのは龍伯だった。
義弘はこの時、石田治部少輔より冷酷な通知を思い出していた。
通知というよりは、脅迫に近い。
それは天正十七年(一五八九年)のことである。
薩摩屋敷を訪れた石田三成がいつものように事務的な口調で言い放った。
「島津殿は、滅亡も近いですな」
「……は?」
物騒な言葉に義弘も呆気に取られた。
「それは……どういうことですかな」
「国持ちを認められているのは天下に於いて三家しかございませぬ。すなわち、毛利殿、家康殿、その次に島津殿です」
「……」
三成は義弘の皺を見据えてさらに続ける。
「それだというのに御伽衆に加わるわけでもなく、何一つ奉公もせず、物味遊山ばかりで関白殿下の御用に全く立っておりません」
(琉球のことを言っているのか……)
義弘は泡立つ内心を悟られないように目を伏せる。
「そればかりか、その軍勢を起こせば龍造寺、鍋島、立花、伊東などにも劣る有様」
「……っ!」
「一体なんのための国持ちなのでしょうな」
義弘の拳は自然と震えていた。
「今後、何一つ奉公ない場合は、滅亡をお覚悟めされよ」
石田三成の言葉は老いつつある義弘を震え上がらせた。
家が取り潰されるかもしれないという恐怖に。
また三成の非難もまた真っ当なことだった。
秀吉が島津家に求めたこと。
それは琉球国の支配、及び明との貿易路の確保である。
島津家と琉球国の関係はかなり古く遡る。
島津家十一代忠昌の頃には明との貿易のために琉球国とのやり取りが既にあった。
それは鹿児島まで挨拶にくるように、という強権的な不穏なやり取りもあれば、友好を深めるやり取りもあった。
明との貿易の窓口役として琉球国を認識していたからだ。
この頃の琉球国は日ノ本より距離を取る独立国家の体ではあったが、実質的には李氏朝鮮同様、明を宗主国と仰いで生き残りを図っていた。
しかし日ノ本の天下統一を目指す秀吉にとって、南西諸島の琉球までが日ノ本である、という認識だったため、これに従属させるように島津家に命じていた。
だが琉球国にとってすれば北に遠い場所から吠える者共よりも、西に近い明の方がはるかに脅威である。
何故なら南蛮貿易等を通じて外患をより身近に感じていたからだった。
よって琉球国は島津家、或いは関白の従属せよという要求を受容することは出来なかったのである。
今度の朝鮮出兵についても島津家より従軍するように促す書状を送ったが、これも拒否されている。
天正二十年(一五九二年)正月
朝鮮出兵の命令には薩摩の者たちの耳にもようやく届き、ようやく戦の支度を始める者たちも出始めた。
この時義弘は沙汰あって居城を真幸院飯野城から夫婦共々、栗野城へ移っていた。
栗野城は横川城の北、飯野城の南のちょうど中間辺りの場所である。
そんな義弘の元に、一人の老人が訪れる。
「関白めの此度の無体な要求に大変苦労しているとお聞きしております。隠居して老いたりと言えども玄佐も武士。どうかお連れくださいませ」
樺山玄佐こと、樺山善久だった。
日新斎の加冠で元服して以来、数多くの戦に参陣した島津家きっての勇将である。
しかしこの歳八十三の老臣だった。
この年、義弘も五十八歳の身でそれなりに老いを感じ始めていたが、やはり三十も離れた老いた忠臣には気遣うことしかできない。
「いやいや……。玄佐殿のお気持ちは大変ありがたいのだが、老身に無理はさせられぬ。どうかここで拙者の帰りを待っていてくれぬか」
深々と刻まれた皺と、骨と皮ばかりかと思えるほどのやせ細った身、三十キロ近くある大鎧を着用したらそのまま潰れてしまうのではないかと思うほどである。
しかし玄佐も口を尖らせる。
「老身を侮ってはなりませぬぞ。こう見えて山道坂道歩行を毎日欠かさず、時を見て水練も欠かさず。この身が高麗の地で失せるとも何一つ惜しむことはない」
そう言って膝を前に出してくるので、義弘も困ってしまった。
「玄佐殿、どうか聞き分けくだされ。先々代より島津に尽くしてくれた御身を慈しめばこそなのです。どことも知れぬ地で命を散らすような不遜をさせれば、梅岳様に合わせる顔がございませぬ」
義弘必死の懇願に、玄佐は「嗚呼」と悲嘆して句を詠んだ。
君が為 名のためとりし 梓弓
八十しあまりの 身こそよわけれ
義弘はその想いに目頭が熱くなったが、なおも説得して歌を返した。
池水に 深き根差しの かくろいて
ひきわつらへる まこも草かな
ようやく樺山玄佐も納得して、泣く泣く居城に帰ったのだった。
しかし義弘に従軍すると言って聞かなかった者がまだいる。
大口から駆けつけた新納武蔵守忠元入道拙斎である。
「申し出はありがたいが、武蔵殿には留守を任せたい」
「六十七の我が身を老いたりと謗りますか!」
思わぬ剣幕に、義弘も面食らった。
「いや、落ち着いてくれ武蔵殿」
「いいや、落ち着けませぬ。五十八程度の若殿に老いぼれ扱いされるとは、屈辱と言わずしてなんといいますか!」
「よいから落ち着け!」
義弘もつい声を荒げて膝を打ち半腰を上げる。
息の荒い五十八と六十七の大人が睨み合う。
「武蔵殿、どうか聞いてくれ」
義弘は息を落ち着けて、諭すように口を開く。
「拙者は高麗の地に渡らねばならぬ。太守様もまた肥前に赴き軍の指揮を取らねばならぬ」
「……」
「太守も拙者もおらん薩摩と大隅を任せられるのは、武蔵殿を於いて他におらぬ。故に留守を任せたいのだ」
うつむいたままながら視線が和らいだ様子の忠元を見て、義弘も少し安心した。
「これは老い云々ではない、我らが兄弟の不在を任せるに相応しいのは武蔵殿以外おらんのだ」
「……」
義弘は殊更穏やかな声を務めた。
「新納武蔵守よ。不在の折、薩摩、大隅の守護を命じる」
「……畏まりました。それと――」
深々と頭を下げた忠元はその姿勢のまま、畏まる。
「――先ほどはご無礼仕り、申し訳ございませぬ」
「よい」
義弘は笑顔で頷き、後事を託すのだった。
天正二十年(一五九二年)二月二十七日
義弘、そして久保は居城を立った。
その供は、わずか二十三騎と言う少なさである。
この日に出立しなければ秀吉が定めた出陣の日付に間に合わないからだった。
船で肥前まで赴く事にしていたため、湊には忠元も付いてきた。
ありきなや 唐土迄も 送れじと
思いし事も 昔なりけり
その忠元に義弘も歌を返した。
もろこしや 大和を駆けて 心の身
通う思いぞ 深きと走る
またこれを受けて忠元はさらに奉り祝う。
から立や 身のれはやかて 帰国哉
忠元の熱い想いを乗せて、義弘と久保は、遠く高麗の地へ、長い旅へと出立するのだった。
この時、義弘の胸中はまさに悲壮、の一言に尽きた。
石田治部少輔の非難は尤もだったが、これまで多くの苦労を重ねてきた兄のことを思えば、ゆっくりさせたい、とさえ思っていた。
それ故、義弘は「高麗には自らと久保が行くから、龍伯様は見逃して欲しい」と細川幽斎に願った。
また龍伯も虫気の持病が再発して思うようにいかない日が続いたので、龍伯自身の出兵は免除された。
しかしその義弘にさらに追い打ちをかける事態が名護屋城で待ち受けていた。
「船がない……!?」
「はい、島津殿の船はここにございませぬ」
「遅れているのか……」
石田三成の脅迫の言葉が思い浮かぶ。
最初の頃は秀吉は龍伯なり義弘なり、島津家と直接やり取りする機会が多かった。
しかし一頃を過ぎると取次役という者を介してしかやり取りができなくなった。
その意図は図りかねたが、秀吉の存在がより遠くなったことは確実である。
そして島津家の取次役は石田三成だった。
当初は懇切丁寧に接していた三成も、成果が上がらない島津家には愛想を尽かしたようだ。
義弘は青ざめた。
「兄上のため、御家のため。身命を捨てるつもりで期日に間に合うように名護屋に赴いたのに、渡る船がないとは……!」
臍を噛んで手綱を握りしめる。
「これでは日本一の大遅陣ではないか……!」
しかし嘆いた所で船が到着するわけもなく、仕方なく急遽五枚帆の米運搬船を借り受けた。
先に久保らを渡海させ、次いで義弘もその後を追った。
急いで対馬を渡海し、高麗国は釜山の地へ降り立ったのは四月二十八日のことだった。
義弘は国元の家老衆らに石田三成の印象が非常に悪くなっている、という手紙を、また新納忠元にも窮状を訴える手紙を送った。
さらに龍伯からも家の存亡に関わることなので協力するように地頭衆にお達しして、ようやく薩摩大隅の国元からも続々と高麗の地を目指すことになる。
だが、朝鮮出兵のため多くの将兵が肥前名護屋の地に向かう中、義弘を、――島津家を窮地に陥らせる大事件が起きてしまう。




