第六十一話 京の生活
春の都大路をどことなく急ぎ足の初老の男が一人。それに付き従うように歩く中年が一人。
そしてその前後を若い男が二人。
春とはいえまだ肌寒いのが京の正午前である。
格子状に組み入る通りには商いの声や観光に訪れた旅人、様々な声が飛び交う賑やかな往来ではあったが、それらに目を向けるこもなく、ただひたすらに歩みを進める。
「御足労頂き真に申し訳ございません。次の角を曲がればまもなくです」
「よい」
曲がり角で振り返り頭を下げる若者に、初老の男が優しげな笑みを浮かべて頷く。
若者の言葉の通り、間もなく京にこれほどの立派な屋敷があったのか、と思うほどの門が見えた。
その門番に若者が気安く声を掛ける。
「ご苦労。島津様をお連れした」
「! ……はっ」
緊張した面持ちで頭を下げた門番は、手早く大きな門の横、人一人がようやく潜れる程度の門を叩いて開けさせた。
「図書、緊張しておるか?」
「……はい」
「まあ、なるようにしかならん」
(やはり太守様だ、肝が座ってらっしゃる)
小声で穏やかな笑みを浮かべる龍伯に図書頭忠長は頭を垂れた。
天正十六年(一五八八年)
龍伯が前年七月に上京してから間もなく八ヶ月が経とうとしていた。
住めば都と言うもので、龍伯も京での生活に馴染みすぎるほどに馴染んでいた。
やはり元を辿れば京で暮らした近衛家家司だったせいもあろうか。
なお、相変わらず秀吉の御朱印状は故郷に残る義弘に届いている。
「はあ……。何故俺なんだろうな……」
秀吉の御朱印状に、義弘はため息を付いて御朱印状を広げる。
義弘は一度剃髪したものの出家を認められず、再び髪を伸ばし始めた。
その髪もようやく髷が結える程度にはなっている。
「何はともあれ、致し方ございませぬ」
御朱印状を渡した相手、伊集院幸侃も慰めるようになだめた。
「なになに……。上洛命令か。久しぶりに兄上に逢えそうだ」
『肥後国人一揆の鎮圧、誠にご苦労であった。島津殿を邪魔した相良殿は弁明在って道理も通るので赦すことにした。諸事あろうから、一度上洛するように。上洛後の住まいは修理大夫殿が取り計らってくれるだろう』
義弘は思わずにんまりと笑みを浮かべて、前年来会っていない兄の顔を思い浮かべる。
「それがしにも関白様からの上洛命令が届いております。時期としてはそれがしの方が少々早くなりそうです」
「幸侃も忙しなく京薩を行き来して大変だの」
「それがしの骨が削れた程度で御家が守れるなら、実に安いものです」
「お主の忠孝は誠にありがたい」
「そのお言葉だけで十分にございます」
幸侃は軽く頭を下げて「それから」と言葉を続ける。
「金吾様のことですが……」
「おう、あやつめ。使いの者に会ったか」
「お会いできなかったとのこと。言伝によれば、変わらず『病で動けず、情けない姿に恥じ入るばかりなのでご遠慮したい』と……」
「うむむ。あやつが嘘をつくわけないので病で真であろうが、このままではまずいぞ」
細川幽斎、石田治部少輔からは関白帰軍の際の不始末について咎める書状が届き、歳久には上洛して詫びを入れるように促す書状が届いていた。
「又六郎が動けぬというのだから動けぬのであろう。だがこのままでは関白様の勘気を被ってしまう」
義弘は難しい顔をして御朱印状に再び目を落とす。
「幸侃、俺は口がそう回らんから、どうにか又六郎に矛先が向かぬように関白様に取り計らってくれるか」
「承知仕りました」
(又六郎め、一体何を考えているのだ……)
義弘に政務が集中していく一方で龍伯が政務を執る機会がほとんどなくなっている。
龍伯の政務に関する事といえば、大阪や京における島津家屋敷の整備や、臣下にこれまでの忠勤に対する感服状を送ることや、領内における前体制時の些事の対処くらいなものである。
代わりに空いた時間で亀寿や又一郎久保とよく過ごした。
人質として大阪方に預けたものの、雑に扱われることもなかったので実に快適な生活と言えた。
特には次期当主として期待をかける久保には自ら太守の心得を説くなどの時間を過ごせた。
龍伯自身も家久も世話になった里村紹巴の連歌会に通うなど、失意の敗戦を癒やすには十分すぎるほど充実していた。
そしてこの日、龍伯はわずかな伴を連れて、とある大名家に招かれた。
その招いた相手は、徳川家康――。
「本当にこちらでよろしいのか」
「どうぞ、遠慮なさらず」
「恐縮至極であるが……」
客として招かれた時は、そのまま上座にあがるか、下座に回るかは相手次第というところではあるが、まず率先して上座に座ることは避けるものである。
しかし玄関先で家康に出迎えられた龍伯は、客間に通されると手を引かれて上座に座らされた。
そして家康自らは下座に座り、目を見合わせる。
どうにも忙しないその所作に、初対面だというのに思わず声を上げて笑った。
「いや、大変ご無礼仕りました。それがしは徳川家康と申します」
「この度はお招き頂き、真にありがたいことです。拙者は島津龍伯と申す」
お互いが膝の前に手をついて頭を垂れて挨拶を済ませる。
「そこもとは拙者の従兄弟で、図書頭忠長と申す」
「これは……ご挨拶遅れました」
「いやいやこちらこそ」
そう言って龍伯の右脇に座する忠長に頭を垂れた。
そしてまた一息ついて、笑顔になる。
龍伯は中肉中背で歳の割に若々しさが見える男に只ならぬ将器を感じ取っていた。
また家康も剃髪して僧形を成してはいるものの、品のある佇まいに圧倒的な眩さを感じて、萎縮してしまっていた。
「本来はこちらからお尋ねすべき所を不躾に申し訳ございませぬ」
「いや、こうして関白様の信を集める徳川殿に招待いただくとは身に余る光栄でございます。しかもこのように上座に……」
「いやいや失礼ながら島津殿は彼の源氏方の古参にて、これでも配意が足りぬほどです」
「恐縮であるが……」
そう言って龍伯は照れ笑いを浮かべる。
「それがしの配下の者も紹介させてくだされ」
「うむ?」
「入るがよろしかろう」
家康が声を掛けると、三人ほどが客間に入ってきて、家康の後ろに座して深々と頭を下げる。
「本多正信にございます」
「井伊直政と申します」
「本多忠勝と申します」
「これはご丁寧に痛み入る。拙者は島津龍伯入道と申す」
龍伯は穏やかな笑顔で会釈する。
しかし内心は目の前の男の妙な視線にどうにも落ち着かず、少々困ってしまった。
「それがしは生まれも育ちは三河でして、関白様の贅を尽くした暮らしにはなかなか馴れぬものです」
「拙者も薩摩の育ちで、京や大阪がここまで栄えているとは思いもせず、ただ驚いております。いやはや――」
そう言って龍伯は苦笑する
「島津の元は京の出だ、鎌倉の御家人だ、と言っても何の意味もなかったか、と己の世間の狭さに恥じ入るばかりです」
「いやいやいや。実はそれがし島津殿をお招きしたのはそれでございまして……」
と、どこか浮ついた様子で家康が笑顔を見せる。
「島津殿の御家の発祥を是非お伺いしたかったのです」
「左様でございましたか」
家康の視線に妙な所がある、と思っていた龍伯は、これは羨望の眼差しだったか、とようやく合点が入った。
穏やかな笑みを浮かべて静かに口を開く。
「当家初代は惟宗忠久公と申しまして、生憎と生年は不詳にございます」
「ほお」
「その母は丹後局と申しまして鎌倉様の側室だったようです。初代公を宿したことが発覚して正室に恨まれ、摂津に逃れた時に産まれたと伝わっております」
「おお、まさにご落胤でございますね」
家康は都度都度感心し、楽しげに頷く。
「それ故、源氏を名乗らず惟宗の家に預けられて育ち、当初は近衛様の家司として働いておりました。その後、出自を聞きつけた鎌倉様が御家人に召し抱え、その後に功あって薩摩大隅日向に守護の任を賜った次第です」
「左様でございますか。随分と古くに御家が興ったのでございますな……」
「ええ。その後、母方の氏族の乱に連座して一度は三州守護の任を解かれはしましたが、功あって再び守護の役目を頂き、以後南北朝、室町の世に代わってなお、こうして生き長らえております」
「いやあ、そのような名家とこうしてお目通りが叶い、真に至福にございます」
「おだてないで下され、徳川殿」
龍伯は困ったような笑顔で頭を撫でる。
「こうして僧形になって僕も政務から離れつつあります。関白様の天下の行く末にただ身を委ねるばかりですので」
「いやいや、こうして京の地で島津殿と顔を合わせることが叶いましたのも何かの縁。是非これからも良しなにお願いしたい」
「それはご丁寧に。是非こちらからもお願いしたく存じます」
島津と徳川の長は和やかに再び挨拶を交わした。
龍伯は家康の背後にいる忠臣と思しき者らに目を向け、穏やかに微笑む。
「三河の将兵は随分と精強だという話を聞きましたが、その根源たるや何か秘訣でもあるのでしょうか」
「そうですなあ。とにもかくにも忠義者が多いのは事実です。小録に甘んじてなお、我が家を盛り立ててくれるからこそ、こうして関白様の旗下で僅かばかり余裕を持てております」
「三河の方々は真の武士なのでしょうな」
龍伯は頷き、家康や背後に居た者たちもまた、褒められて満足した表情を見せる。
「聞けば、島津殿の御家にも新納武蔵守という中々の武辺者がいらっしゃると聞きました」
「あの御仁は……」
思わぬ所で島津の家が誇る名将の名前が出てきて、龍伯は図らずも思い出し笑いをしてしまった。
そして忠元の伝説的な活躍や最後まで秀吉に抵抗した話をした。
「いや、その話を聞いた時には正直言うと肝を冷やしました」
笑顔で話す龍伯に、その話に家康も思わず笑う。
しかし最後に寂しそうに付け加えた。
「ですが今となっては彼のような忠臣に報いる事もできず、心を痛めております」
家康は同情した。
国持ちとして認められている同じ立場、そして忠臣に報いることができない己の不甲斐なさに身を重ねた。
またそうしなければ関白秀吉の元における天下では生きていけないことも。
「また、薩摩大隅といった国は一見すれば広大な土地にも見えますが余りに山が多いのです。僅かばかりの平地でせせこましく稲作に励み、わずかでも不作に見舞われれば、途端に飢饉になる……。薩摩や大隅は実は貧しい国だと存じます。それでも忠義を尽くしてくれる者共には、頭を下げても下げたりませぬ」
「では――」
家康は少し挑戦的なことを聞いてみようと思った。
「――もし尾張や摂津のような肥沃な土地と、薩摩・大隅の地と交換となればどうなされますか?」
しかし、龍伯は何一つ表情を変えることなく、悠然と言い放つ。
「お断りするでしょうな。いかに貧しくとも、三州は我らの血肉も同然。我らはこの地に一所懸命の志を以って未来永劫、住み続けるでしょう。」
家康は龍伯が太守たる所以を垣間見た。
(物静かそうに見えて、島津殿は真に武士の鑑……)
それからも龍伯と家康はお互いの故郷の様子や京までの道のりに見かけた名所などを語り合い、何時迄も話題が尽きることがなかった。
さらには
「粗食ではございますが」
と夕食までご馳走になり、龍伯と家康はまた故郷の名物について語り合って実に気安く心を通わせた。
そしてそろそろ、という頃になって家康がまた口を開く。
「是非、島津殿が九州の覇者と成られるまでの武功話をお聞かせ頂きとうございます」
しかし龍伯はまた困ったように笑い、首を振る。
「いや拙は弟や優れた家臣たちにあれこれ口を挟むばかりで、ロクに槍を合わせたことがないのだ」
意外な答えに後ろに控えていた者たちも、ただの謙遜だろうと思ったが、家康は満足そうにうなずく。
「自ら手を下さずとも勝利を得るとは、まさに源頼朝公そのもの。さすが公の血を引くだけのことはありましょう」
「そ、そうであろうか?」
家康の称揚の言葉に、龍伯は戸惑う。
「何やら夏頃には愚弟も上洛するとのことですので、是非その際はご挨拶させてくだされ。武功話についてはそちらが得意としております」
「左様でございましたか、それは是非とも」
にこやかに笑う家康に龍伯は「この返礼はすぐにでも」と言い家康からは「是非島津殿の家系図を拝見したい」と願ったので、これを承諾し、次に合う日を約束してこの日は散会した。
客人の持てなした後、満足気に薬を煎じている家康に、本多正信が顔を覗かせる。
「意外と言えば意外……さりとて流石と言えば流石、といった印象ですかな」
「中々腹の中は見せてはくれなんだが、それこそが鎌倉の血の重みの成せるものであろう」
「はぁ」
正信は呆れた表情を悟られないように畳に目を落とす。
(やれやれ)
熱心に薬研を転がす家康には正信の顔が見ていなかったようだ。
(源氏好みも行き過ぎなければよいのだが)
天正十六年(一五八八年)
島津龍伯五十六歳、図書頭忠長三十八歳、徳川家康四十六歳。
徳川家康と龍伯の距離がより接近するのは後に肥前国名護屋で在陣してからと言われる。
また両家は後年激しく言葉を交わすことになるのだが、それは後の話である。
肥後国人一揆の騒動が一段落すると伊集院幸侃、次いで義弘が上洛した。
義弘は五月二十六日に真幸院を発ち、到着したのは閏六月のことである。
「兄上……お久しゅうございます」
「うむ、ご苦労であったな」
小雨が振りだそうかという曇天の午後。
大阪の薩摩屋敷で兄弟は久々に再会した。
前年四月、関白との根白坂決戦を前にした評定以来の事である。
「……ぐすっ」
「いやいや、泣くことではないだろう。歳を考えろ歳を」
人払いをして二人きりになるなり涙を見せる弟に、龍伯は苦笑する。
「でも……兄上がここまで苦労なされたことを考えると……」
龍伯もつい涙を貰って目頭を熱くして、それを誤魔化すように扇子を扇ぐ。
「薩摩に残した者たちは息災か」
「はい。皆々、太守のお帰りをお待ちしています」
「左様か。お主も宰相殿と離れ離れになって辛かろう」
「まったく、まったくもってその通りで……!」
龍伯に茶化されて義弘もようやく涙が引っ込んだ。
しかし穏やかな笑みを浮かべる龍伯に、義弘は思わず息を飲んだ。
(兄上はこんなにも穏やかな顔をされるのか)
それに釣られて義弘も笑顔になる。
「兄上は……どこか変わられましたな」
「ん?そうか?」
「はい、失礼ながら愚弟の目にはいつも眉間に皺を寄せた、険しい顔しか見えておりませなんだ。今はこう、まるでお祖父様のような菩薩のごとき……」
「……よせよせ」
龍伯は笑って照れ笑いを浮かべる。
「薩摩の田舎侍もだいぶん京生活にかぶれているのかもしれんな」
そう言ってお互い声をあげて笑った。
ひとしきり笑った後で、義弘は表情を引き締めて再び口を開く。
「そう言えば、又六郎の様子ですが」
「いや、あやつのことは聞きとうない」
「え」
予想もしなかった言葉に義弘は呆気に取られて龍伯を見る。
龍伯は首を振りながら、視線を上下に向ける。
(……床下と天井裏に何か居るのか?)
義弘はぎょっとして気配を探ったが、何もわからなかった。
それを見て龍伯がふと笑う。
「少々暑いな。池に珍しい鯉を入れたのだ、ちと見てみろ」
「は、はあ」
そう言って龍伯と義弘は連れ立って屋敷の池の辺りに立った。
声を潜ませて龍伯は呟くように口を開いた。
「すまんな、関白の間諜が潜んでいるという噂がある」
「……!」
義弘は目を見開いて、目を伏せる龍伯を見る。
(関白様は島津を警戒しているのか……)
「して、又六郎の様子はどうか。あやつめちっとも返事を寄越さぬ」
「それが……」
龍伯と義弘の間に誰にも聞き取れないように小声が交われる。
義弘も哀しげな顔をして首を振った。
「拙者の使いの者に会おうともせず。聞けば身動き一つできぬと言って断ってばかりで」
「そんなに悪いのか……」
「医者や薬で治る気配もないということですので、或いは余命幾ばくもないかもしれませぬ」
「しかし口が聞けぬ病でもあるまい。右筆に任して返事でも寄越すようにせねば、関白の勘気を被るぞ」
義弘は周囲の気配を警戒しながらさらに声を潜ませる。
「どうやら、あやつは何かを企んでいるようです」
「!! ……謀反か?」
穏やかだった龍伯の表情に険しさが戻る。
「いえ、虎居に兵を入れている様子はございませぬ」
「では何を……」
義弘はなお首を振って、池の鯉を見る。
「関白様の手入れによって多くの者が領地を失ってしまいました。俸禄も減らされております」
「……心苦しい限りだ」
「はい。そこもとの連中は表向き平静を装っておりますが、内心不満を抱いている者も多いと聞きます」
「……まさか」
「はい。どうやらそういった露骨に不満の声を上げる者に声掛けしているとか」
「煽っているのか?」
「いえ、そのようなことは決して無いと使者を寄越してございます。不満を抱く者に使いの者を差し向けてただ慰めているようで」
「そうか……」
「又六郎の使者が言伝と称して言うには『沈黙もまた回答なり』と。兄上はそれの意味する所は分かりますか?」
「いや」
なお残る課題に頭を悩ませ腕組みする兄の姿が二つ。
(又六郎め……一体何を考えているのだ……)
夕焼け空の池の水面を小雨が叩き始めるのだった。
そしてこの夏、島津家にとって、というよりは龍伯と義弘の兄弟にとって少々厄介なことが起きる。
義弘が大阪城に上って秀吉を面会した閏六月四日のことである。
関白と再会して義弘はこれまでの忠孝ぶりを賞されて従四位下、薩摩侍従を拝領した。
義弘はその場ではありがたく、恭しく頭を下げたが、内心は裏腹だった。
(なんということだ……)
龍伯の官位もまた従四位下修理大夫だったので、兄弟同格と見なされたのだ。
戦国乱世も終焉に向かっているからこそ、朝廷官位にもそれなりの権威を持つ。
官位次第でどこまで洛内の中に進めるか決まってくるし、それは家格や世間の評判にも直結するからだ。
さらに秀吉は義弘に羽柴姓を与えた。
名字を与えるということは、書状の署名に使ってもよいということである。
署名に世の天下人の名字が使用されればそれなりに権威が発生する。
それ故の名字拝領だったが、それが義弘にだけ与えられて、龍伯には与えられなかったことが、義弘の居心地の悪さを強調した。
これも実質的な家督は龍伯から義弘に移っているから龍伯は政務を執ることはない、故に名字を与える必要もない、という関白の意向であろう、とは思ったが、義弘のため息はより増えていった。
以後義弘は暫くの間、島津氏でありながら、羽柴薩摩侍従義弘という宛先で書状を頂戴することが増えていく。
さらに義弘にとって居心地が悪くなることが加わる。
秀吉はその後龍伯にも羽柴姓を与えたが、そのついでに義弘に豊臣姓を与えたことだった。
関白の忠臣義弘と、外部の幕臣に過ぎないとみなされる龍伯。
秀吉の兄弟の見方は徹底していた。
「とことん関白様に嫌われたものよのう」
その話を聞いた龍伯は苦笑して義弘の気持ちを考える。
(あやつも相当悩むかもしれんが、まあ仕方あるまいて。なるようにしかならん)
御朱印状の件から慣れていた龍伯は、関白のやることなすことに一々目くじらを立てることを諦め、あるがままに受け容れることしか考えていなかった。
しかし七月には、関白から龍伯宛に摂津国や播磨国の領地、一万石が与えられた。
何やらこれまでの忠孝ぶりを賞するという名目だったが、恐らくは弟に対する過剰な扱いに機嫌を損ねないように、という秀吉なりの配慮のようにも思えた。
ちなみに、拝領した地は摂津国能勢郡、豊嶋郡、播磨国揖東郡、揖西郡、神東郡の各村々と言った所である。
(よもやここに移れとか言い出しはしないだろうな)
龍伯は頭を下げてありがたく拝領しつつ、さすがにこれには少々警戒した。
幸いにも秀吉はそれ以上何も言わなかったので、拝領した領地の検分や代官を定めて恙無くこれを済ませた。
そして八月には細川幽斎から帰国を認められそうだ、という話を聞き及び、暇乞いを願って龍伯はいよいよ薩摩へ帰国することになった。
「兄上、どうぞご無事で」
「いや、泣くなよ。何も今生の別れでもあるまい」
「うう……」
京の薩摩屋敷で別れの酒宴を開いた所、また義弘は涙をこぼして別れを惜しんだ。
(年も入って涙もろくなったのだろうか)
苦笑する龍伯を余所に、義弘は寂しそうに龍伯の背中を見送るのだった。
また別に龍伯は二人の家臣に後事を託した。
「帖佐、市来。諸々のことは任せたぞ。武庫をよく補佐してくれ」
「畏まりました。どうがご無事で」
「うむ」
伏見の薩摩屋敷には帖佐宗光、市来掃部兵衛が代官として常駐させるように定めている。
「又一郎、身体の方は支障ないな」
「義父上様、お気遣い誠に痛み入ります。旅のご無事をお祈りいたします」
「うむ。 息災にせよ」
又一郎久保は上洛して早々に病を患い熱を帯びた。
次代の希望故に龍伯は顔を青ざめて看病し、また祈祷して、平癒を願った。
以来、又一郎は龍伯のことを本当の父親のように思い、心から慕っていた。
勇猛にして才気あふれる大器と賞された久保が活躍する舞台はもう少し先である。
「典厩、些事は全てお主に任せた。粗相の際は構わず諫言してくれ」
「お任せください。太守様のご無事をお祈りいたします」
「うむ。皆を頼むぞ」
典厩こと右馬頭以久もまた、義弘について上洛していた。
もし義弘が迷った時に相談できる一族は以久をおいて他にいない。
龍伯は以久に頷き、以久も力強く返事をした。
龍伯が京を発ったのは九月三日のことだった。
兵庫頭義弘、又一郎久保は堺までついていき小船に乗って龍伯の船を見送った。
なお、龍伯の薩摩下向には愛娘の亀寿も連れ立っている。
龍伯が懇意にしていた細川幽斎が同情して秀吉に進言し、これが認められた次第だった。
十月六日には日向国細島に到着した龍伯だったが、そこで待ち受けていたのは太守の無事と帰還を祝う、予想以上の大歓声だった。
鹿児島、吉田など島津家直轄地からはもちろん、蒲生、帖佐、山田、曽於、川辺、串良、大口、羽月、曽木、平泉、高原、舟蔵など三州各地から代表した使者が歓喜の声をあげて薩摩の大船を出迎えた。
そして、口々に祝着の言葉を述べて、中には太守の姿を見て涙を流して喜ぶのだった。




