第四十八話 肥後進出
天正八年(一五八〇年)
大友家傘下から離反した熊本城城主、城親賢を救援するために肥後進出を決定した。
義久はこれに対応するために何人かの臣下の将に配置変えを命じた。
その中でも特筆すべきは、歳久が長年居城としてきた吉田を離れ、祁答院へ移ったことだろう。
祁答院は川内川の上流にある山間部にあり、代々渋谷一族が治めてきたところである。
祁答院からは北西に紫尾山を超えれば出水へ、北東に求名を超えれば大口へ。南へ山を越えれば鹿児島へと繋がる地であった。
歳久は祁答院に入ってすぐに人心一新のために地名を宮之城と改めた。
また義久は肥後に進出するにあたり二つの案を考えた。
一つは出水から天草諸島を経由して海路で熊本城に軍勢を送って進出の拠点として周辺を侵攻していく案。
そしてもう一つは大口、出水から葦北、八代方面に向けて進出し、陸路で熊本城に救援する路を確保する案。肥後葦北郡の拠点は水俣城で、ここの制圧がこの案の目標だった。
義久は歳久や家老衆と相談した上で神慮に委ねた結果、熊本城に直接大軍勢を援軍として送り込みつつ、葦北地方の制圧を目指す二正面作戦を展開することになった。
そして島津家の肥後侵攻が始まる。
同年五月十三日
先ず先手として大口から水俣城へ至る途上にある山城、宝河内城に攻め入った。
大将は新納武蔵守忠元。嫡男忠尭もこれに従軍した。
宝河内城は守りの兵も少なく、また忠元の猛攻により一日で落城した。
同年六月
熊本城支援のため、数万の軍勢が出水を出立。
島津軍は数百艘もの大船団となり、天草諸島を伝って熊本城の近くまで舟を着けた。
この時の大将は熊本城代を予定していた佐多常陸守久政であった。
同年八月
前年より続いていた織田家仲介による大友家との和睦勧告を無視し続けていた義久だったが、新たな展開を迎えた。
織田信長は元亀元年(一五七〇年)より十年続いた石山本願寺との抗争が八月二日付でようやく決着。
大友家との和睦工作はそれまで関白・近衛前久や細川藤孝らを通した間接的な要求だったが、無視を決め込む義久によほど苛ついたのであろう。織田信長、自ら義久宛に書状を寄越した。
しかも内容としては前年より少々変わり、かなり露骨になった。
『大友と和平するべし。最近、本願寺を大阪から追い払った。来年には安芸国(毛利)に出馬するつもりである。天下のために大忠するべし。
天正八年八月十二日 信長
嶋津修理大夫へ』
さすがの義久も毛利家の地まで進出しようとする織田信長の大軍勢を無視することは後々の禍根になると思い、『天下のために大忠』はとりあえず置いといて、大友家との和平を行うことを了承した。
同年十月
さらに新納忠元、吉利忠澄も後を追うように熊本城へ向かい評定を行った。
この評定で熊本城から南西の宇土半島の制圧は必須、という判断になった。
またこの頃に宇土半島の付け根にあり、熊本城から南へ十六キロほどの位置にある宇土城の城主、名和鑑高から島津家への臣従を誓う報せが届いた。
名和鑑高こと宇土殿は、家久が先年上洛した際に連歌会などで同席し興じたことに、何かの縁を感じたのであろう。
かくして宇土半島の制圧に向けて南岸の矢崎城、その近くにある網田城へ攻め入ったのである。
同年十月十五日
矢崎城に攻め入る。
矢崎城の城主は中村右衛門尉一大夫という者だった。
島津軍は百艘余りの舟で押し寄せて上陸し、鬨の声を上げると我先にと攻め上がり、火矢を放つと天をも焦がすほどに火の手が上がった。
島津家の猛攻の前に中村右衛門尉も打ち出てよく戦ったが敵わず、妻子を自ら手にかけて激闘の末に討死。
十八時頃にはその将兵も悉く討死して全滅し、矢崎城は一日で陥落した。
またこの時、家老比志島国定付きの足軽、中馬重方が初陣を果たし、敵将を二人討ち果たしたということで忠平の御前にでて感服を受けた。
同年十月十六日
綱田城の城主は中村二大夫という中村右衛門尉の弟という者だったが、矢崎城の陥落を受けて和睦して下城。
阿蘇へ逃れた。
同年十月二十九日
宇土半島の制圧を完了した島津軍は、熊本城へ帰還。
同年十一月二十三日
熊本城の北東にある合志城に攻め入る。合志城の城主は大津山越前守という大友配下から離脱した国人衆だった。
島津軍はまず城下の久保田千町一帯に放火して大津山越前守を誘いだした。
またこれに対応して四千余りを率いて打ち出て、互いに弓矢を激しく射かけて乱戦となった。
一方の島津軍も兵を二手に分けてこれを挟み撃ちにし、大津山越前守らを討ち取り合志城は落城した。
同年十二月十三日
諸将は鹿児島へ凱旋帰国し、十五日には勝ち戦の祝言を上げた。
またこの年は亡き日新斎の十三回忌という年でもあった。
義久は在りし日の日新斎をまるで昨日のことのように思い出しながらも、次第に町のそこかしこから面影や名残が失われていくこと、日新斎が諌めてくれたことを思い出し、袖を濡らして梅岳の二字を入れた和歌を詠んだ。
梅の花 うへし岳へを こと問は
十に三とせの 跡そ程なき
天正九年(一五八一年)
順調に見えた島津家の肥後進出だったが、肥前の龍造寺隆信もこれに対抗して動いたことで状況が変わってくる。
同年四月十三日
龍造寺隆信は肥後に進出すると南之関に着陣。
合志城から北へ約20キロあまりの場所にある隈部城に攻め寄り、城主赤星統家と争った。
同年四月二十日
奮戦するがこれに敵わないと判断した赤星統家は人質を差し出して降伏し、隈部城は落城した。
この頃、このまま天草諸島経由での援軍では熊本城を守ることは難しいという話になり、水俣城を制圧して陸路の確保を目指すことになった。
相良氏征伐については北原氏の領地回復の際に裏切り弓を引いたこと、菱刈氏征伐の折これに与して相対したこと、大友氏が日向に進出した際に真幸院に攻め入ろうとしたこと、故にその罪は莫大なり、ということを大義名分とした。
同年八月
島津軍は三手に分けて水俣城へ侵攻。
城主は相良家の重臣犬童頼安。守るのは約七百余りであった。
この水俣城攻めについてはその陣立が詳しく残されているので、この頃の島津軍の大攻勢を示す証左として特筆すべき将の名を上げておく。
先陣大将を中務大輔家久、右馬頭以久。
脇大将に吉利忠澄、種子島左近時尭ら六将。
さらに大口より新納忠元、湯ヶ尾より梅北国兼ら各地頭も従軍。
銭亀ヶ尾への陣は日向・大隅方面の将を中心に構成された以下の通りであった。
大将兵庫頭忠平。
脇大将北郷忠虎、頴娃久虎ら六将。
他、地頭衆より都於郡より鎌田政近、宮崎城老中上井覚兼、大隅牛根より鎌田政年も従軍。
そして義久本軍は出水より水俣城へ。
総大将は義久。
陣大将は左衛門督歳久 、薩摩守義虎。
脇大将に図書頭忠長らら四将。
他、地頭衆を含めて伊集院忠棟らが従軍。
以上、総軍あげて五万余もの大軍勢である。
水俣城は葦北地方の拠点とされているだけの堅城であった。
同年八月十七日
水俣城に先陣大将が到着、包囲網を形成し始める。
同年八月十九日
水俣城を包囲。
いよいよ城攻めが始まった。
東の八景ヶ尾、銭亀ヶ尾に陣を築き、忠平、歳久、家久が着陣していた。
「ここの城主は犬童殿と言ったか。七百余りの兵しか居らぬというのに、この軍勢を前に籠城するとは恐れを知らんのか」
忠平は兜を脱いで総髪甲冑姿で腕組みして水俣城を見つめる。
その横に歳久が同じく総髪甲冑姿で立った。
「兄上、此度の城は守りが堅く、無理攻めは禁物とされておりますぞ」
「わかっておるよ」
この時、義久四十九歳、忠平四十七歳、歳久四十五歳、家久三十五歳。
なお壮健だが、心配性の歳久には年齢が悩みの種になりつつあった。
忠平は歳久に微笑んだが、その腕は既に槍を握りたくてどことなくそわそわとしていた。
「兄上、水ノ手口を防ぎました。これで水俣の城もいずれ水に飢えます」
その時家久が報告にあがった。
「おう、又七郎。先陣ご苦労であったな」
歳久が泥に汚れた家久を笑顔で出迎えて労う。
「よし、では熊之牟礼陣の武蔵守に少しばかり射掛けるように伝えてくれ」
「は」
水俣城の北、熊之牟礼陣は新納武蔵守、右馬頭以久らが陣取っていた。
忠平の命を受けて水俣城に攻撃を開始する。
「武蔵守殿、深入りは禁物にございますぞ」
以久が一ノ門まで攻め進もうとする忠元の隊を押しとどめようと、直接出向いて声をかけた。
「典厩殿か。なんの、ただ射掛けるばかりではつまらんから、少しばかり脅しをかけようと思いましてな」
そう言って忠元は詠んだ句を紙を書いて矢文にすると、兵に渡して射かけるように命じた。
それから水俣城より返歌の矢文が射返されたのはすぐのことである。
「ふむ、相良にも和歌の心を理解する者もいるようだ」
その矢文を見て忠元はニコリと微笑んだ。
秋風に 水俣落つる 木の葉かな
よせてはしづむ うら浪の月
前句の島津軍の脅しに対して、相良軍からの鮮やかな返しに、多くの将兵が感心しつつも憤った。
しかし忠元はそれらをなだめてさらに句を認めて矢文を水俣城へ射かけた。
真砂地を 鳴きたつかりの 峯超えて
あいにくとこれに対する返歌はなかった。
教養人としての戦いも征し、島津の大軍勢の前にこれ以上の抵抗は無意味と悟った水俣城城主、犬童頼安はそれから一ヶ月後に和睦を申し出た。
また相良氏の本拠である人吉城からも降伏と、葦北沿岸の一帯の領地、佐敷、湯ノ浦、津奈木を割譲することを条件に、島津家への臣従を誓う使者が訪れた。
同年九月二十日
水俣城陥落。また相良氏も降伏し、球磨郡のみが安堵され、葦北、八代が島津家の地となった。
これによって熊本城まで陸路での補給線が繋がった。
ここに肥後の地も島津家の支配下となったことで、いよいよ龍造寺とも領地を接することになった。
それは九州鼎立時代における激戦の幕開けであった。




