第四十九話 九州北撃
天正九年(一五八一年)九月
相良氏を従属させ、葦北地方を支配下に治めた島津軍の次の目標となったのは阿蘇地方である。
阿蘇山は古くから山岳信仰の場所であり、阿蘇神社宮司を出自に持つ阿蘇氏がその周辺を治めていた。
阿蘇氏は領国を北に豊後の大友家、肥前の龍造寺、そして南に球磨の相良家に接しており、その中から大友家に従属することで命脈を保ってきた家だった。
しかし天正六年(一五七八年)の高城川の戦いで大友家が島津家に大敗して衰退しはじめると、それまで従属してきた周辺の国人衆が島津家、あるいは龍造寺氏に鞍替えしたように、阿蘇氏にも動揺が走って島津家か龍造寺へ鞍替えするべし、という声が多く上がった。
しかしそれからしばらくの間は阿蘇家家臣の声をなだめてなお、大友家へ従属する姿勢を見せた。
その方針に強い影響力を与えたのは阿蘇氏に仕える重臣、甲斐親直入道宗運という将だった。
天正八年(一五八〇年)三月に龍造寺氏、島津家に鞍替えした国人衆連合軍が阿蘇に侵略したが、甲斐宗運は虚を突いて撃退するなど、周辺の強豪国に挟まれた阿蘇氏に忠節を尽くして支える名将だった。
しかしその宗運も衰退著しい大友家に見切りを付けると龍造寺氏に鞍替えを決意した。
天正九年(一五八一年)春の頃である。
そこに相良氏を従属させて肥後国の平定をめざす島津家の進軍目標となったのであった。
天正九年(一五八一年)十月
肥後国球磨郡、人吉城に深刻な評定を浮かべる男たちが本丸に集まっていた。
上座に座るのは38歳余。もみあげから頬に伸び、口周りに繋がる豊かな髭が当主に相応しい威厳を醸し出していた。
下座には犬童美作守頼安、そして深水三河守長智が座していた。
歳はそれぞれ六十、四十ほど。肥後国球磨にあって相良家を支えてきた重臣である。
「また島津殿でございますか」
眉間に皺を寄せて義久からの書状に目を落とす当主に声をかけたのは深水長智だった。
相良氏を従属させた義久は、阿蘇攻めの軍勢を起こす命令を再三に渡って下していた。
「うむ。お主らはどう思うか」
「……阿蘇殿とは相互不可侵の起請文を交わしておりますので、やはりこれはご容赦いただく他あるまいかと……」
長智は当主義陽に釣られるように眉間に皺を寄せた。
「しかしそれを知った上で島津殿は阿蘇に攻めかけよ、と申しておるのかと。これに従わなければ人吉城の眼下に十字紋が立ち並ぶ、ということに……」
水俣城の城主だった犬童頼安は島津軍の猛攻を命を賭して防ぐつもりだった。
しかし頼安を失うわけにはいかなかった義陽は、降伏するように命じた上で葦北の地を差し出して臣従を誓ったのだった。
水俣城で自ら島津軍の手強さを思い知った犬童頼安の言葉はやはり重かった。
「島津殿は三州ではなく既に九州……そしてその先を見据えている」
義陽は書状を脇に置くと、腕組みした。
「では当家はどうかというと、当然そのような力はない。この地方の一郡を治めるので精一杯だ……。ならば、せめて家名だけでも残すことが武家の長者たる者の努めではなかろうか」
自嘲気味に笑う義陽の言葉は九州の国人衆全てに当てはまるものだった。
「では阿蘇に攻める、と」
「うむ。だが起請文を交わしている以上、その天罰は我が身に振りかかるだけでよい。お主らは島津殿に預けた亀千代と長寿丸を頼む」
「お待ちくだされ……! お待ちくだされ、殿! みすみす死ににいくというのか! それを知ってて送り出すことは臣下として恥にございます!」
頼安も長智も慌てて義陽を止めようしたが、その決意は既に固かった。
「ならぬ! お主らは相良の存続に欠かせぬ宝。だが我には既に跡目がおり、代えが効く。我一人の命で相良の家が続くのであれば何の問題もない。もしお主らが我に従軍して追い腹を切るようなことがあれば、反逆者とみなして一党を処罰する!」
「なんと……」
長年相良家を支えてきた二人は、義陽の強い言葉に力なくうなだれた。
「なあに、島津殿とて同じことよ」
義陽はにやりと笑った。
「中央には織田殿が着々と天下を手繰り寄せているらしいから、いずれ九州に迫ろう。果たしてその時、島津殿はどうなさるか」
同年十二月二日
悲壮な決意の元、相良義陽は阿蘇氏と交わした不戦の起請文を焼き捨てた。
そして自らを大将として阿蘇に攻める軍勢を起こすと甲佐、堅志田、御船、隈庄と、次々攻め入り、さらに岩屋城下まで放火して響野原の地に着陣した。
その報せを受けた阿蘇の重臣甲斐宗運もまた、すぐさま軍勢を起こして近くまで密かに軍を進めた。
響野原は八代と熊本城の中間辺りにある高岳山の地から東にある、開けた場所である。
義陽は本陣を山を背負って前目に置いたが、山手に警戒の兵を置かなかった。
甲斐宗運はその隙をついて本陣を背後から奇襲したが、義陽は退却するように願う将兵たちを退けて決して動かなかった。
そしてあまりにもあっけなく討死した。
甲斐宗運は義陽の周りには兵がいなかった、ということを聞き及び、義陽の穏やかな表情を浮かべる首を実検して、義陽の思惑を知った。
それを見た宗運は、一言も発せず涙にくれて嗚咽するばかりであった。
なお、この響野原の合戦に島津の軍勢は一切参戦していない。
阿蘇氏と相良氏の間で謀略があり、島津軍を討つ密約がある、という噂があったためだった。
しかしその真相を知る者は既に亡かった。
その後、義久は相良家が島津家に恨みを抱いて背くか、とも警戒したが亡き君主の意向を継いだ深水長智らの働きによって嫡男の亀千代を元服させて家督を相続させることが決定した。
また義久もそれには感じ入り亀千代に島津家の通字である「忠」を与えて元服させた。
天正十年(一五八二年)三月。
相良四郎太郎忠房は、わずか十一歳だった。
元服を済ませて相良家十九代の家督を継ぐことになった。
なお、この時にその若年さを懸念したのか相良義陽の弟、相良頼貞が跡目を狙う騒動もあったが、これは義久らの執り成しもあって鎮圧されている。
同年六月
肥後の平定を進める島津家に激震が走った。
いや島津家ばかりか日ノ本の国中が耳を疑ったことだろう。
――織田信長が明智光秀の謀反にあい、本能寺にて討たれる。
島津家にとって当面重要だったのは大友家との和睦だった。
大友宗麟の願いを受けた織田信長主導による豊薩和睦であったが、その信長がいないとなれば立ち消えになるのはごく自然な道理である。
しかし和睦交渉がなかったことにすれば後の憂いになるかもしれない、と考えた義久は和睦の祝儀をひとまず引延ばすこととし、太刀を一腰、馬一頭を大友宗麟とその跡目である義統に送った。
また義久がもうひとつ危惧したのは近衛前久と近衛家の無事だった。
近衛前久は織田信長と昵懇にしていた関係から、その身に危険が及ぶことも考えられたためだった。
しかしこれも六月十七日付けの近衛前久の手紙で蟄居中であることを知らせが届いたことで、ひとまず無事であることが確認された。
その後、明智光秀は羽柴秀吉に討ち取られ、秀吉の後見で織田信長の嫡孫である三法師が織田家の家督を継いだ。
しかし織田信長の遺領は織田家に集約されず、功のあった家臣団に与えられていったことで急速に織田政権の崩壊に繋がっていく。
さらに織田家臣下の羽柴秀吉と柴田勝家らの間で武力衝突の緊張が高まっていく中、天下の行く末は混沌としてくのであった。
同年十一月二日
毛利家に保護されていた足利義昭から嬉々とした書状が届いた。
『織田のことは天命というか、自滅だよね。僕はきっと上洛するからね』
義久はとりあえず無視した。
その頃の九州地方では龍造寺隆信の動きがより激しくなっていった。
そのため肥後北部に支配下を伸ばしていた龍造寺勢の一掃を当面の目標と定めた。
また肥後平定の制圧拠点として八代を定めると、忠平、歳久、家久が交代で陣大将を勤めて、残っていた肥後の各城を制圧していった。
そして、この頃には肥前国島原にある有馬城主、有馬晴信が島津家の旗下に入ることを願った。
これを受けて島原半島にも島津軍は援軍を差し向けるようになり、島原半島西の付け根にある千々石城を制圧するなど肥前にも侵食していった。この龍造寺家との戦いは翌天正十一年(一五八三年)も続き、深江城攻めで新納忠元の嫡男、忠堯を失う不幸もあった。
またさらには筑後の田尻鑑種が龍造寺家から離反して謀反を起こすと島津家に助勢を願い、義久もこれを支援するなど、九州平定に向けた足場固めを進めるのであった。
一方、筑後や肥前島原へ進出するなど確実に勢力範囲を広げる島津家に対し、龍造寺隆信は歯ぎしりしてこれ以上の侵攻を食い止めるべく、肥前の各地より兵をかき集めて六万の大軍勢を起こした。
その目標は島原から島津軍を一掃することにある。
天正十二年(一五八四年)立春頃
内城の館で開かれた評定には久しぶりに兄弟が勢揃いしていた。
真幸院飯野城から忠平、宮之城虎居城から歳久、佐土原城から家久。
今では各地の領主となった弟たちも家の運命を左右する重大事項には必ず呼び出されていた。
義久の基本方針として、家の運命を左右するような重大決定事項は兄弟の意見を聞いてから決めることにしていたからである。
肥前国島原の有馬晴信から、龍造寺軍六万の軍勢を起こす用意をしている、という報せに対してどう動くべきか、家臣団でも議論紛糾した。また参謀役の歳久も反対した。
「はっきり言って難しいですな」
「理由は?」
義久は分かってて敢えて聞いた。
また歳久も分かっているだろう、と思いつつも敢えて理由を述べた。
「織田信長公の死によって豊薩和睦は事実上消滅しております。もしここで島原に龍造寺の大軍を迎え撃てるだけの大軍勢を島原に送ると、豊後から肥後や日向に続々と押し寄せるやもしれませぬ」
「……」
「豊後の抑えとして数万を肥後、日向に置いたままとすると、島原に送れる軍勢は目一杯でも八千くらいかと。有馬殿が千五百余の兵を出せると言っているようだが、それでも味方は一万にも満たしませぬ。果たして六万を相手に勝てますかね」
歳久の言葉は至極尤もだった。
常識的に考えて一万と六万、その戦力差二十倍を相手にして勝てる戦を考えつく方が難しい。
そう、常識ならば。
「勝てる」
忠平が即答した。
木崎原で圧倒的戦力差を、軍略を以って覆した実績を持つ戦神は即答できた。
「地の利を活かせれば勝てます」
それに続いたのが家久だった。
「島原は雲仙岳が半島の中央にあり、海岸までなだらかな坂道が続いております」
家久は島原半島周辺の地図を指し示しながら、その道をなぞった。
「ここは大軍を動かす平坦な道はあまりに狭く、大軍を活かせない地勢が多い。そこに誘い込むことができれば、六万の軍勢恐れるに足らず」
家久には自信に満ちた笑顔が溢れていた。
「なるほど」
歳久は思わず唸った。
いつもどこか足りない弟だと思っていた家久も、ここまで鋭い目つきができるようになったか、とその印象を改めた。
「拙者の狙い目はここ、半島東岸の湿地地帯です。ここは高い草木が生えて森林も多く兵を隠しやすい場所が多くございます。ここに誘い込むができれば勝算は大いにございます」
「既にそこまで調べておったか」
忠平も思わず唸った。
「先年に千々石の支援に行った帰りに、密かに調べ通った次第です」
にこりと微笑み頷く家久は、その心は早くも沖田畷の戦場に立っていたのかもしれない。
「だがいくらお主らが勝てる戦と踏んで策を弄しても、その臣下にまで勝てると思わせなければ戦には勝てんのではないか」
義久の鋭い指摘に忠平と家久は思わず黙り込む。
「それをどうにかするのが大将たる者の勤めでございましょう」
二人の様子に思わず歳久は笑みを浮かべて勇気づけた。
天正十二年(一五八四年)三月
島津家と龍造寺家の命運を分かつ一戦が巻き起ころうとしていた。




