終わりの始まり
馬車がゴトゴトと重い音を立てて街道を進んでいく。隣に座るルクレチアさんの外套の擦れる音と、私の胸の機械心臓が刻む『カチ、カチ、カチ……』という金属音だけが、狭い車内に響いていた。
頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。
(……『母』……お母さん……?)
手元に握りしめられた、ルクレチアさんから渡された一通の手紙。そこに書かれていた「私の母親」という文字を見るたび、思考の奥底に粘りつくような強烈な違和感が広がっていく。
(普通、お母さんの顔とか、声とか……何かしらの思い出はあるはずだよね? なのに、私の頭の中には『お母さん』って単語の引き出しすら空っぽ……。まるで最初から存在しなかったみたいに……)
サモ邸で過ごした一年間。術後の痛みは綺麗に消えて、私は雑用をこなしながら息をしてきた。だけど、自分の記憶の根っこが丸ごと掠め取られているような居心地の悪さが、じわじわと胸を締め付けていく。
(……私、何かを……すごく大事なことを、忘れてる……?)
モヤモヤとした不気味な思考を断ち切ろうと、私は馬車の小さな窓から外の景色へと視線を向けた。
中央の首都が近づくにつれ、街道を行き交う人々の数が増えてくる。豪華な衣装を着た貴族、重武装の騎士たち、荷車を引く商人。活気にあふれた、ごく普通の「まっとうな世界」の風景。
――その時だった。
「……え?」
遠くの雑踏の中を歩いていた、一人の通行人の姿が視界に入った。
一瞬。本当に、ほんの一瞬だけ。
その人物の頭部が、ヌメヌメとした青黒い鱗に覆われた「巨大な魚の顔」に見えた。
ギョロリとした不自然に大きな目玉と、空気を求めてぱくぱくと醜く開閉する、湿ったエラ。
「ひっ……!?」
私は思わず小さな悲鳴を上げ、喉を詰まらせて目を強く擦った。
もう一度、同じ場所を穴が開くほど見つめ直す。
だが、そこにいたのは、買い出しの袋を下げてごく普通に歩いている中年男性の姿だった。
(な、なに……今の……幻覚……? 私、サモ邸で変な毒でも吸っちゃってたのかな……)
背中に嫌な冷や汗がポタポタと伝う。
地下書庫で聞いたカクカクとした警告の声、サモ様の周囲に漂っていたあのツンとする湿った潮の匂い、シメさんが怯えていた怪異の影。
世界の皮が一枚めくれて、その下にあるドロドロとした「狂気」と「異形」が、私の瞳に少しずつ、けれど確実に映り込み始めていた。
「どうしたの、ヴェロニカ。顔色が悪いわ」
隣からルクレチアさんの優しくも引き締まった声が聞こえ、私は慌てて振り返った。
「あ……ううん、なんでもないです! ちょっと、めまいがしただけで……」
私は必死に首を振り、胸の機械心臓をぎゅっと押し付けた。
カチ、カチ、カチ。
規則正しいその音が、まるで世界の崩壊をカウントダウンしているかのように聞こえて仕方がなかった。
**【実の母の手記/闇の中の告白】**
ヴェロニカ、私の可愛い天使。
あなたが生まれた日のことを、今でも昨日のことのように思い出します。
本当なら、あなたの産声を聞いた瞬間に抱きしめてあげたかった。けれど……私はただ、胸が引きちぎられるような恐ろしさと罪悪感で、身体を震わせるしかできませんでした。
この村での暮らしはとても穏やかで、幸せに見えたかもしれません。
……でもね、ヴェロニカ。私は最初から、恐ろしい嘘をついていたの。
夫は昔から魚料理が大好きだったのに、なぜか川や海の魚を調理させてくれませんでした。「生の魚は体に毒だから」って微笑みながら、いつもお店の乾物ばかり買ってきてくれて……私が「たまには新鮮なお魚も食べたいわ」と言うと、少しだけ困ったような、哀しそうな顔をして私の頭を撫でてくれたわね。
井戸のお水がほんのり生臭く感じた日も、夫は「気のせいだよ、僕が新しく汲んできてあげる」って、夜中に一人でどこかへ出かけていったり。
本当は、分かっていたの。
あの人は魚の生臭さを隠そうとしていたんじゃない。
あの日――夜の泥の中からあなたが流されてきた時、私は正気を失っていた。
死んだ我が子の代わりが欲しくて、夫の止めるのも聞かず、闇の中からあなたを「拾って」しまったの。あの場所で、あなたを探していた本当の親かもしれない誰かを……私はこの手で、重い石で殴りつけて、川へ突き落として殺したのよ。
夫は何も言わず、私の罪を一緒に背負ってくれた。
夜中に一人で出かけていたのは、井戸水を汲むためじゃない。私が殺したあの人の痕跡を、潮泥の奥底へ埋め戻すためだったの。
ねえ、ヴェロニカ。
外はなんだか騒がしくて、見たこともない騎士の方たちがたくさん来ているみたい。
おうちが少し燃えているような音がして恐ろしいけれど……これは、私が人を殺してあなたを奪った罰なのね。
それでも、お母さんは後悔していないの。
どんなに恐ろしい罪を犯しても、あなたと過ごした時間は私の幸せでした。
私のもとに来てくれて、本当にありがとう。
……どうか、あのアートのような黒い影から、逃げ延びてね。私の愛しいヴェロニカ。
回り巡り廻り巡り
――ギギギィ……。
議場の重厚な扉が、外側からゆっくりと開かれた。
窓の外はすでに雨が上がり、静寂が広がっているはずだった。だが、開かれた扉の向こうからは、言葉にできないほど濃厚な、腐敗した潮の生臭さが雪崩れ込んできた。
ヴェロニカは、ゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは――
(あ……あぁ……っ)
プィでもハトでも、中央の老骨たちでもなかった。
そこには、巨大な「魚の遺体」が、天井からぶら下がっていた。
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