【第17話:堂島米相場と瓦版】
第17話です。
江戸の経済の心臓部「米相場」に目をつけた統次郎。
頼れる相棒の弦蔵と、プロデュース能力抜群の瓦版屋の娘・お夜と共に、壮大な挑戦が始まります。
「……やはり、ここが商いの最大の滞りか」
常盤橋の袂にある梛木家の隠居所。
夜の静寂が辺りを包み込むなか、勘定下役の梛木統次郎は、
薄暗い行灯の光に照らされた机の上に、
一本の古い巻物を広げていた。
それは100年前の過酷な戦国を生き抜いた
先祖・統真が血気盛んな時代に書き残した
『鳩通信の術』の調練の書であった。
統次郎は、手垢で黒ずんだその和紙の端を
指先で丁寧になぞりながら、
胸の奥に溜まった重い息を深く、深く漏らした。
「どうしたんだい、統次郎。
お上の『鳩処分』の役人が、いつこの常盤橋に
踏み込んでくるか分からないっていうのに。
そんな緊迫した時に、
じいさんの遺した古い紙切れとにらめっこしてさ」
部屋の太い梁の上から、従姉のお初が心配そうな、
しかしどこか苛立ちを孕んだ声で呼びかけた。
小袖の袂をすっきりと絡げた彼女は、
いつでも動けるよう身を固めているが、
従弟のあまりの動じなさに拍子抜けしているようでもあった。
「お初、これを見てくれ。
先祖が命懸けで残したこの調練の書には、
鳥の習性や風土、日和の整え方が実にもつれるほど
克明に記されている。
だが、問題はこれをどう当世の
商いに結びつけるかだ。
老中・衣笠の理不尽な倹約令をねじ伏せるには、
綺麗事や先祖の威光じゃまるで足りない。
誰もが跪くような、圧倒的な『利』を
奴らの目の前に突きつける必要があるんだ」
「利、ねえ……。
お上のために命を懸けて闇を這ってきたあたしたち隠密の出には、
いささか眩しすぎる言葉だね。
本当にそんなものが、この小さな鳥の羽から生まれるのかい?」
お初が梁からひらりと音もなく
床へ滑り降りた、その時だった。
部屋の障子が不作法に
ガラリと音を立てて開け放たれた。
「おいおい!
梛木の旦那!
そいつを引き写して新しい算段を立てるんなら、
おれの知恵も混ぜてもらわなきゃ困るぜ!」
入ってきたのは、日に焼けた頑強な体躯を持つ、
いかにも江戸の職人らしい無骨な男だった。
手には、特製の鳥豆がずっしりと入った
大きな袋をぶら下げている。
荒木弦介の孫であり、大鳩舎の鳥たちを
我が子のように手塩にかけて育ててきた飼育員、
荒木弦蔵である。
「弦蔵か。
相変わらず足音が荒いな。
隠居所の床が抜けるかと思ったよ」
「はっ、気にしてられるかよ!
おれが毎日毎日、羽の艶まで磨き上げてきた可愛い鳥どもが、
お上の気まぐれで鳥汁にされちまうって時にさ!
旦那、先祖の巻物は確かに最高のご宝物だが、
今の鳥の羽の生え変わりの時期や、
東海道を吹き抜ける山谷の風の癖は、
このおれの頭の中にしかねえんだ。
お上の鼻をあかすなら、
おれが選りすぐった最高の血統を使わなきゃ嘘だぜ」
弦蔵はそう言うと、鳥豆の袋を床にどさりと置き、
統次郎の机の前にあぐらをかいてどかと座り込んだ。
その無精髭の混じった顔には、
お上の権威に対する激しい反骨の炎が宿っていた。
「おやおや、随分と威勢のいい鳥泥棒たちが
集まってるじゃないの。
夜更けに密談なんて、いかにも訳ありって風情ね」
さらに、弦蔵の背後から小気味よい、
鈴を転がすような声が響いた。
小袖の袂をすっきりと絡げ、小脇に刷り上がったばかりの、
まだ墨の匂いも新しい和紙を大事そうに抱えた娘──
江戸の街を昼夜問わず奔走する瓦版屋の娘、お夜だった。
「お夜……! なぜここが分かった。ここは梛木家の古い隠居所だぞ」
「瓦版屋の耳目を舐めないでよ、統次郎さん。
お上の倹約令の裏で、常盤橋の梛木家が
鳩の処分を巡って老中と揉めてるなんて、町の一大事だもの。
路地裏のねずみだって噂してるわよ。
それにね、あたしにはどうしても変えたい、
この江戸の『流行遅れ』があるのよ」
お夜は抱えていた瓦版を、
統次郎の大福帳の上に勢いよく広げた。
そこには数日前、
大坂の堂島で決まったはずの古い米の価格が、
今頃になって日本橋の交易所で
大騒ぎされている不格好な様子が、
おどろおどろしい絵とともに描かれていた。
「これを見てよ。
今、江戸の商人たちが一番困っているのはね、
大坂の『堂島米相場』の価格が江戸に伝わる
報せが届くのがあまりにも遅いこと。
地上の飛脚宿の韋駄天たちが、
どれほど泥にまみれて何日もかけて走っている間に、
上方の米の直はとっくに変わっちゃってる。
これじゃあ、江戸の商人はいつも古い情報で大損するし、
あんたたち勘定方の御公儀の勝手元(台所事情)の差配だって、
完璧に行えるわけがないわ。いつも後手後手なのよ」
統次郎の目が、お夜の放った言葉に鋭く反応した。
先祖の地図と、お夜の広げた瓦版が、
彼の頭の中で一本の天の直路として繋がったのだ。
「……大坂堂島での米の価格を、
地上の関所や川止めに関係なく、いち早く知ることができれば」
「そうよ!
江戸の商人たちは先手を打って大儲けできるし、
お上の勘定方だって正確な差配ができる。
つまりね、衣笠がどれほど難癖をつけようとも、
誰も文句のつけようがない圧倒的な『利』が、この江戸に生まれるのよ」
お夜は不敵に微笑み、
行灯の光のなかで統次郎の顔をじっと覗き込んだ。
「大坂と江戸を結ぶ、約百二十五里の険しき距離……。
地上の飛脚なら、どんなに急いでも数日はかかる。
箱根を越えるだけでも一苦労だ」
統次郎は静かに立ち上がり、
壁に掛けられた『諸国街道絵図』の太い東海道の線を鋭い目で見つめた。
「だが、空を行く我が一族の鳩なら……わずか数時間。
日が高いうちに、上方の直をこの江戸へ運ぶことができる。
これこそが、平時における最高の伝路だ」
「できるぜ、旦那!」
弦蔵が身を乗り出し、汚れた拳で自身の胸を強く叩いた。
「初代『疾風』の気高き血を最も濃く継いだ若鳥──
『疾風二世』が手元にいる。
あいつの帰巣本能と速度は群を抜いてる。
おれが東海道の山谷の風の癖をあいつの翼に
徹底的に叩き込んで、最速の矢に仕上げてみせる!」
「決まりね」
お夜がぽんと手を叩いた。
その顔には、新しい流行を仕掛ける興奮が満ちている。
「あたしは情報の『捌き所』を
完璧に整えるわ。
大坂から鳥が飛んできたその瞬間に、
江戸中の商人がひっくり返るような特大の瓦版を仕込むの。
まずは、この鳥たちがどれほど凄まじい価値を持っているか、
江戸の民草に知らしめるのよ。題して、天下の伝路・評判作戦!」
お初の顔にも、ようやくいつもの不敵な笑みが戻った。
「面白くなってきたじゃない。
地上の役人どもが四角四面な紙切れで天下を縛ろうとしている間に、
あたしたちは空からすべてを塗り替えるんだね。
うちの忍びの足も、継所の番人作りに使っておくれよ」
「ああ、頼む」
統真の血を引く統次郎の瞳に、
静かな、しかし凄まじい熱量を秘めた光が宿った。
「衣笠は鳩を博打の道具と蔑んだ。
ならば、その博打の場である相場そのものを、
この小さな翼で支配して見せよう。
誰もが認めざるを得ない、最速の伝路としてな」
翌日から、
大鳩舎の裏舞台で血の滲むような過酷な調練が始まった。
弦蔵は寝食を忘れ、疾風二世の羽の色艶を毎日見極め、
上方の継所へ何度も鳥を運んでは、
江戸への天の直路を飛ばせた。
「いいか、疾風!
地上の奴らがどれだけ泥にまみれて走ろうと関係ねえ!
お前は天の直路を、風を切り裂いて戻ってくるんだ!」
クックッ、クゥ。
弦蔵の腕の中で、灰色の若鳥が誇らしげに喉を鳴らし、
大空へと弾け飛ぶ。
その羽ばたきは、かつて大嵐を越えた初代と同じ、
圧倒的な気高さを宿していた。
一方、お夜は江戸の日本橋や大棚の商人たちの間を泥臭く回り、
江戸中の耳目を執拗に耕し続けた。
「いい、旦那方。
もうすぐ、誰も見たことのない『本物の速さ』が
江戸に来るわ。
上方の米の直が、その日のうちに手に入る。
その時、一刻を争う速さが命よ。
真っ先に動ける準備をしておきなさいな」
「お夜さん、そんな夢みたいな話があるわけが……。
お上だって飛脚を使っているんだぞ」
「あるのよ。
あたしたちの鳥が、それを目の前で証明してみせるわ」
統次郎は勘定所の奥で、静かに筆を走らせながら、
大坂からの知らせを待つ体制を完璧に組み上げていった。
平和な、しかしそれ故に強欲と伝統の殻に閉じこもった江戸の中期。
地上の武士たちが、利権と面目のために刀を弄んでいるその真下で。
先祖から受け継いだ100年の執念を懸けた、
新たなる耳目の競い合いの幕が、
いま静かに、そして激しく切って落とされたのだった。
大坂〜江戸間の最速システム構築!
現代のネット回線を鳩でやるような試みです。
次回、幕府が誇る「最速の飛脚」との、プライドを懸けたガチンコスピード勝負です!




