【第1話:飢えた城と籠城の鳩】
新連載を始めます!
戦国時代の極限状態から始まる、人と鳥の100年の絆を描いた物語です。
どん底からの逆転劇をぜひお楽しみください。
まずは飢えに苦しむ城塞のお話から幕が開けます。
ひゅるるるる、と乾いた冬の風が、板張りの床を白くこする。
小田原の支城、その本丸御殿の奥。
かつては華やかだったはずの広間は、
いまや飢餓の死臭と絶望の泥にまみれていた。
数ヶ月に及ぶ籠城。
壁の向こうには、地平線を埋め尽くす敵の大軍が、
じっとこの城が腐り落ちるのを待っている。
「──おい。聞こえぬのか、梛木」
低く、地鳴りのような声が広間に響いた。
上座に座すのは、この城の差配を預かる武将、衣笠陣烈。
その眼光は、飢えに狂った狼のそれだった。
頬はこけ、ぎらついた瞳だけが統真を値踏みしている。
「は、ははっ。衣笠様、しかしながら……」
「しかしながら、何だ。言ってみろ」
下座に平伏する梛木統真は、乾いた唇を噛みしめた。
統真は、この城の中でいまだ実績のない、若輩の軍配者だ。
陰陽の五行を学び、日柄や天候の吉凶を占う役目を与えられてはいるものの、
弓矢の戦功なき青二才。
重臣たちからは「辻占の如き日陰者」と侮られ、
その言葉に耳を傾ける者など一人もいなかった。
だが、いまだけは退くわけにいかなかった。
「鳩小屋の鳥を、すべて締め殺せと仰せですか」
「応とも。兵糧はとうに底を突いた。
足軽どもは泥を舐め、木の皮を齧っておる。いまや一歩も動けぬ骸の群れだ。
現状を打破せねば、明日にも城門を破られる。
……幸い、裏の小屋には肥えた鳩が数十羽おる。
あれらをすべて締め殺し、鳥汁の具として兵に配る。
一時の露命を繋ぐには十分よ」
「なりませぬ!
あれは……あの鳥たちは、ただの肉ではございませぬ!」
統真の叫びに、広間に控える重臣たちが一斉に冷ややかな視線を向けた。
「黙れ、末輩の分際で」
「戦も知らぬ占術師が。
鳥を憐れむ暇があれば、己の腹に藁でも詰めておれ」
嘲笑がさざ波のように広がる。
しかし、衣笠陣烈だけは笑わなかった。
ただ、冷酷な目で統真を見下ろし、
ゆっくりと腰の刀の柄に手をかけた。
「梛木。お前は飢えで頭が狂ったか。
それとも、この衣笠の命に背くというのか」
「滅っそうもございません。
ですが、衣笠様、鳥汁の具にすれば、
得られるのは兵たちのほんの一時の満足のみ。
なれば、その鳥を『一万の援軍』を呼び寄せるための鍵とすべきです」
「ほう……」
陣烈の手が、ぴたりと止まる。鞘がわずかに鳴った。
「面白い戯言だ。一万の援軍だと?
人の伝令すら、敵の包囲網を潜れずことごとく首を刎ねられておるのだぞ。
鳥に何ができる」
「鳥だからこそ、できるのです」
統真は顔を上げ、陣烈の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「鳩という生き物には、天地の理より授かりし妙術がございます。
『どれほど遠く離れた未知の土地へ連れて行かれようとも、
必ず己の生まれた巣へと帰る』。
この帰巣の習性を利用するのです」
「……己の巣へ帰る?」
「さよう。
あらかじめ、城外の信頼できる味方のもとへ鳩を密かに持たせておきます。
城が危機に陥ったとき、その者が鳩の脚に文を結び、空へ放つ。
すると鳩は、地上の敵陣など一瞥もくれず、
遥か上空を突き抜けて、この城の鳩小屋へと戻ってまいります。
これこそ、敵の包囲網を完全に突破する、目に見えぬ空の便り筋にございます!」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、衣笠陣烈の口から、爆発するような笑い声が飛び出した。
「ハハハハハ! 聞いたか! 鳥が文を運ぶと抜かしおる!」
周囲の重臣たちも、一斉にドッと笑い声を上げた。
「おいおい、梛木。軍学の書を読みすぎて、ついに夢でも見始めたか」
「鳥が人の言葉を解すとでも? 滑稽な」
陣烈は笑いながらも、その瞳から一切の温度を消し去り、
統真に歩み寄った。
ドサリ、と重い足音が統真の目の前で止まる。
「梛木。お前の言うその鳥の申し遣い、まことに確かなのだな」
「……私の命に代えましても。鳩の帰巣は、天地の理にございます」
「ふん、天地の理か」
陣烈は、統真の顎を乱暴に掴み、無理やり顔を上向かせた。
その指先から、冷たい鉄の匂いがする。
「ならば、一つ試そうではないか」
「試す、とは……」
「そうだ。鳩の処刑は、一先ず猶予してやる。
だがな、梛木。
もしお前の言うその便り筋が役に立たず、最初の鳥が戻らなんだとき……」
陣烈は統真の耳元で、楽しげに囁いた。
「そのときは、お前の首を真っ先に刎ねる。
常のごとくお前の肉と鳩の肉をあわせて、鳥汁を作って兵に配らせよう。
……どうだ。この衣笠の差配、不服はあるまいな」
背筋に凍りつくような戦慄が走った。
失敗すれば、己の命だけでなく、鳩たちの命も、
この城の未来もすべてが消える。
嘲笑され、誰からも顧みられなかった若き軍配者が、
首の皮一枚で繋がった命を懸けるには、あまりにも重すぎる選択だった。
だが、統真の心は、不思議と澄み渡っていた。
ここで退けば、鳩たちはただの肉として虚しく死ぬ。
それだけは、どうしても許せなかった。
「……謹んでお受けいたします」
統真は、はっきりと答えた。
「必ずや、この鳥たちが城を救う目となることを、
その眼にお見せいたしましょう」
「よし。猶予はそう長くは与えんぞ。下がれ」
顎を離され、統真は深く平伏した。
広間を出ると、冷たい寒風が頬の汗を奪っていく。
足が、わずかに震えていた。
「言っちまった……本当に言っちまったぞ」
統真は、城の裏手にある荒れ果てた鳩小屋へと足を向けた。
古びた木枠の向こうで、数十羽の鳩たちが、
クックッ、と小さく喉を鳴らしている。
彼らは、これから自分たちの背に、
一城の運命と一人の男の命が懸けられることなど、露ほども知らない。
「お前たちだけが頼りだ」
統真は、木枠の隙間からそっと手を差し入れ、
一羽の灰色の鳩の頭を優しく撫でた。
誰も試みたことのない、前代未聞の空の奇策。
狂気の武将を相手に仕掛けた、命懸けの合戦が、いま静かに幕を開けた。
第1話をお読みいただきありがとうございます!
いきなり全滅の危機を迎えた鳩たちですが、統真の機転で命を繋ぎました。
次回、鳩を育てるための心強い相棒が登場します。お楽しみに!




