遷移嵐
本作品は、『遷移圏見聞録』の世界観にインスパイアされて制作した、非公式のファンメイド作品です。
原作者様による公式作品・正史とは一切関係のない、独自解釈による二次創作となります。
本作では、『遷移圏見聞録』様に着想を得て、神格ホラーを題材とした物語を描いていきます。
原作とは異なる解釈・設定・展開が含まれる可能性がありますので、その点をご理解いただいたうえでお楽しみください。
それでは、しばしのお時間を。
「こちら側」から「あちら側」へ。
――どうぞ、お気をつけて。
「…………..何なんだよ…….お前」
返事はない。
見えないナニカに向かって銃口を向け、引き金に指をかけた。
ゴロゴロ━
遠くから雷の音が近寄ってくる。
こんな時に嵐とは、つくづく運のない男だと思う。
「出てこい、姿を現せッ!! ほら、かかってこいよッッ!!!」
その時だ━
霧の向こうに、鹿の頭らしきシルエットがむくっと現れた。
「……んだよ、鹿か?」
怯えて損した。
そう思い、安堵のため息を吐く。
だが、まもなくのことだった。
もう一頭の鹿のシルエットが、その側で顔を出した。
「……?」
一頭。
また一頭。
さらに一頭。
霧の向こうから、次々と鹿が姿を現していく。
「おい……なんか……変だぞ」
ゴロゴロゴロ━━
雷鳴が、先ほどよりも近くなった。
風が強くなりはじめた。
木々がざわめく。
枝が揺れ、葉が一斉に擦れ合う。
ザワザワザワザワ――。
「……風向きが変わった?」
さっきまで、ほとんど風なんて吹いていなかった。
それなのに今は、森全体が揺れている。
霧も風に押されるように流れ始めた。
一瞬だけ。
鹿たちの姿が、はっきりと見えた。
「…………」
十頭……いや。
もっといる。
霧の奥にも、まだ何頭もいるようだった。
そのすべてが、こちらを見ている。
「……おいおい」
僕は思わず一歩後ずさった。
鹿たちの目は、暗くてよく見えない。
だが、何かがおかしい。
一頭。
また一頭。
鹿たちが、ゆっくりと頭を上げ始めた。
僕を見るのではない。
僕の背後でもない。
全員が、同じ方向を見ている。
「……何を見てるんだ?」
振り返る。
何もない。
ただの森だ。
木々と、霧。
それだけ。
「……?」
もう一度、鹿を見る。
やはり同じ方向を見ている。
その瞬間。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ━━
雷鳴が響いた。
今度は、明らかに近い。
腹の底まで震えるような音だった。
「……っ」
空を見上げる。
雲が厚くなっている。
さっきまで薄暗かった空が、いつの間にか真っ黒な雲に覆われていた。
「早すぎるだろ……」
雨が強くなる。
ポツ、ポツ、という程度だった雨粒が、次第に大きくなっていく。
バラバラバラッ。
ヘルメットに雨粒が叩きつけられる。
「……参ったな」
これでは帰るどころではない。
「…………おかしい、こんなの...予報では嵐なんてなかったろ!!」
嫌な感じがした。
僕は再び鹿たちを見る。
鹿たちは、まだ動かない。
逃げない。
鳴きもしない。
ただ、じっとしている。
「……お前ら.....お前ら何なんだよッッ!!」
返事があるはずもない。
そう思った。
その直後だった。
一頭の鹿が、ゆっくりと首を傾けた。
ぐいっ。
不自然なほど、大きく。
首が、ありえない角度まで曲がった。
ミシ……。
「…………は....嘘...だろ??」
僕は息を止めた。
ゴロゴロゴロゴロゴロ━━
雷鳴。
ザァァァァァァァァ……。
雨。
ビュウウウウウウ――。
風。
三つの音が重なっていく。
どんどん大きくなる。
森が揺れる。
木々が軋む。
霧が猛烈な勢いで流れていく。
「くそっ……!」
僕は目を細めた。
前が見えない。
雨粒がシールドを叩き、視界を白く染める。
それでも、銃だけは離さなかった。
「……帰らないと」
そう呟いた。
自分に言い聞かせるように。
「帰るんだ……」
けれど。
その言葉を口にした瞬間。
僕は気づいた。
――帰る?
どこへ?
一体、どこから来た?
「…………」
背筋が凍った。
さっきまで覚えていたはずなのに。
自宅の場所。
猟師小屋の場所。
ここへ来るまでに通った道。
頭の中に浮かぶはずの景色が、なぜかうまく思い出せない。
「……なんでだ?」
僕は必死に記憶を辿った。
バイク。
山道。
雨。
霧。
それから――
「…………」
思い出せない。
いや。
違う。
思い出せないんじゃない。
思い出そうとすると、何かが邪魔をしている。
頭の奥に白い霧がかかっているようだった。
「……冗談だろ」
その瞬間。
ドンッ!!
地面が揺れた。
「うわっ!」
思わず膝をつく。
木々が大きく揺れる。
鹿たちも、ようやく動いた。
だが。
逃げたわけではない。
一斉に。
空を見上げた。
「…………」
僕も釣られるように、空を見た。
雲が――
おかしい。
渦を巻いている。
巨大な雲の塊が、空の一点を中心にして回転していた。
「……台風?」
違う。
こんなものは知らない。
雲の中心が、暗い。
暗いというより。
何もない。
光がない。
雲の向こうに夜空があるわけでもない。
そこだけ、世界そのものが抜け落ちているように見えた。
「……なんだ、あれ」
風がさらに強くなる。
立っているのも難しい。
雨が横殴りになり、木の葉や小枝が空を舞っていく。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ――
雷鳴が止まらない。まるで空そのものが唸っているかのようだ。
「…………っ」
僕は銃を握り直した。
(何かが起きる...)
本能がそう告げていた。
鹿たちは、まだ空を見上げている。
そして。
霧の向こうから。
一頭。
また一頭。
さらに一頭。
次々と鹿が集まってくる。
その数は、もう分からない。
森の奥。
霧の向こう。
木々の間。
至るところに、鹿のシルエットが浮かび上がっていた。
「……なんで、こんなに……」
その時。
空が――
光った。
「――ッ!」
次の瞬間。
ドォォォォォォォォンッッ!!!
雷が落ちた。
風も雨も、無情にも激しさを増していく。
霧が渦を巻き、木々が悲鳴を上げる。
空が歪み、大地が震える。
「……なんだよ……これ……」
僕は立っていることさえできなくなり、片膝をついた。
それでも銃だけは握っていた。
目の前の鹿たちは、もう一頭も僕を見ていない。
全員が空を見上げている。
まるで――
何かが来ることを知っているかのように。
そして。
空の中心にあった「何もない場所」が。
ゆっくりと。
こちらへ向かって――
開き始めた。
「…………あ....れは、光? なんか.......綺麗......」
その時だった。
「そこで何してる!!」
「――ッ!?」
突然。
人の声がした。
確かに聞こえた。
男の声だ。
「遊神警報が出てるんだぞ! 馬鹿野郎が早くこっちに来い! 死にたいのか!!」
「……人……?」
僕は顔を上げた。
霧の向こうに何かが見える。
ぼんやりとした灯りが一つ。
激しく吹き荒れる霧の向こうから、小さな光がこちらへ近づいてくる。
「おい!! 聞こえてるのか!!」
また声が響く。
「そこにいたら危ない!! 早く来い!!」
「…………」
僕は呆然とした。
人だ。
間違いない。
人間の声だ。
それだけで、胸の奥に張り付いていた恐怖が少しだけ剥がれ落ちた。
「……助かった……?」
そう呟いた。
だが。
その瞬間。
ピッ。
「……?」
ポケットの中から、小さな電子音が聞こえた。
スマートフォンではない。
腕時計だった。
僕は左腕を見る。
「…………は?」
秒針が。
異常な速度で回っている。
一周。
二周。
三周。
いや。
もう目で追えない。
長針も短針も関係なく、文字盤の上を狂ったように回転している。
「なんだ、これ……おかしい、こんなの...ありえるはずがない!!」
時計を叩く。
止まらない。
電池が切れたわけでもない。
壊れたわけでもない。
その直後。
バイクの方から、
ピピピピピピピピピッ!!
けたたましい電子音が鳴り響いた。
「……!」
振り返る。
メーターが点滅している。
速度計の針が跳ね上がった。
ゼロ。
二十。
百。
二百。
ありえない数値まで一気に振り切れたかと思えば、今度は逆方向へ落ちていく。
燃料計も。
温度計も。
見たことのない警告灯まで、次々と点灯している。
「おいおい……!」
僕はバイクへ駆け寄った。
「何なんだよ、これ!!」
メーターを叩く。
だが、反応はない。
それどころか針の動きはさらに速くなる。
「……くそっ!」
背後から風が吹き抜け、身体が持っていかれそうになる。
「早くこっちに来い!!」
霧の向こうから、また声が飛んできた。
「そこにいたら巻き込まれるぞ!!」
「巻き込まれるって……何にだよ!!」
叫び返す。
返事はない。
いや。
風が強すぎて聞こえないだけなのかもしれない。
僕は一瞬、迷った。
あの灯りへ行くべきか。
それとも、この場を離れるべきか。
だが。
どちらにしても――
ここに留まるという選択肢だけは、なかった。
「……クソッ!」
僕はバイクに飛び乗った。
キーを回す。
セルを回そうとした。
――反応がない。
「おい……!」
もう一度。
ダメだ。
「……こんな時に!! かかれよ!!」
僕はキックペダルを踏み込んだ。
ガチャンッ!
一度。
「かかれ!!」
二度。
「頼むッッ!!」
三度。
「かかれってばあッッ!!」
エンジンはかからない。
「この……!」
もう一度、力を込める。
「ポンコツがああッッ!!」
ガチャッ!!
――ブォンッ!!
エンジンが唸った。
乾いた排気音が、荒れ狂う森の中に響き渡る。
「かかったっ!」
アクセルを捻る。
エンジンが一気に回転数を上げる。
だが。
メーターは相変わらず狂ったように動き続けている。
「……もう知らねぇ!」
僕はハンドルを握り直した。
霧の向こう。
ぼんやりとした灯り。
その先に、人がいる。
少なくとも。
人の声がする。
それだけを頼りに。
僕はアクセルを開けた。
バイクが、霧の中へ突っ込んでいく。
「待ってろ!!」
そう叫んだ。
「今行く!!」
背後で。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ――
これまでとは比べものにならない轟音が鳴り響いた。
僕は振り返らなかった。
振り返ってはいけない。
なぜか。
そう思った。
ただ前だけを見る。
灯りへ向かってバイクを走らせる。
そして――
とうとう森を抜けた。
視界が一気に晴れ、目を開けると...目と鼻の先に一軒の小屋が見えた。
ガレージが開かれ、男が大きく手を振っている。
「早く、早く入れッッ!! 急げえええ!」
僕はアクセルを開けた。
猛スピードでガレージへ飛び込む。
「――ッ!」
バイクは猛烈な勢いのまま、濡れた床を滑っていく。
「おい、ブレーキ!!」
男の声が飛んできた。
「分かってる!!」
ブレーキレバーを握り込む。
――効かない。
「なっ……!?」
後輪が大きく滑り、ハンドルが暴れる。
「止まれッ!!」
身体を捻り、足を地面につけようとするが、勢いは殺しきれない。
「うおおおおおッッ!!」
次の瞬間――
ドガァァァンッ!!
鈍い衝撃とともに、バイクはガレージの奥の壁へ激突した。
「ぐあっ!!」
身体が前方へ投げ出される。
銃を握っていた手が地面を擦り、肩から床へ叩きつけられた。
「――っ、痛ぇ……!」
しばらく、何が起きたのか分からなかった。
耳鳴りがして、視界が揺れている。
「おい!! 大丈夫か!!」
さっきの男が駆け寄ってくる。
「……いってぇ……」
僕はゆっくりと身体を起こした。
壁を見る。
バイクの前輪が、壁にめり込んでいた。
「…………クソ...フォークは確実にお釈迦か」
「馬鹿野郎!! 死ぬ気か!!」
男が怒鳴る。
「こっちは命懸けで呼んでたんだぞ!!」
「いや……申し訳ない……」
僕は息を整えながら立ち上がった。
僕はガレージの入口を見る。
「まったく......酷い嵐だったな...ありがとう...おかげで助かりました」
男が答える。
「遷移嵐の中、森の奥にバイクのヘッドライトが見えてな...俺が戸締りの最後に外を確認してて、運が良かったな。これもクニタマの加護...感謝しろよ」
その言葉の意味が、分からなかった。
「遷移嵐? クニタマ? アンタ...何を言ってるんですか?」
僕は男の顔を見る。
男は険しい表情で、ガレージの扉を見つめていた。
「……あんた」
男がこちらを見る。
「何も知らずに、あの中に入ったのか?」
「…………」
僕は答えられなかった。
すると男は、僕の手に握られているものへ目を向けた。
「……それ」
「……?」
「銃だよな」
「ええ」
「……それを持ったまま、遷移嵐の中を走ってきたのか?」
「遷移嵐……? さっきから、訳のわからないワードばかり...あれって他の嵐とは何か違うんですか?」
その言葉を口にした瞬間。
「…………お前」
男の表情が変わった。
「……何ですか?」
「まさか――」
男が一歩、僕へ近づいた。
「遷移嵐って...言葉すら知らないのか? そうか、あの森は遷移口になっていたのか...」
「だからあ、さっきから遷移だったり...クニタマだったりわけわかんないっすよ! ここは、どこなんですか! あの森で見たものは、一体何なんですか!!!」
もう、僕に冷静でいられる余裕なんてなかった...目の前に、会話の通じる存在がいる。その安心感に、解けた緊張の反動で甘えていたのかもしれない。
「落ち着け...まず、一つ言っておく......」
「な...なんなんですか....」
男は、溜息を吐いた後ゆっくりと口を開いた。
「ここは...君の住んでいた世界とは...違う世界だ」
10秒にもわたる沈黙━━
「.........は?」




