霧の向こう
本作品は、『遷移圏見聞録』の世界観にインスパイアされて制作した、非公式のファンメイド作品です。
原作者様による公式作品・正史とは一切関係のない、独自解釈による二次創作となります。
本作では、『遷移圏見聞録』様に着想を得て、神格ホラーを題材とした物語を描いていきます。
原作とは異なる解釈・設定・展開が含まれる可能性がありますので、その点をご理解いただいたうえでお楽しみください。
それでは、しばしのお時間を。
「こちら側」から「あちら側」へ。
――どうぞ、お気をつけて。
「この世界は退屈だ」
つくづくそう思う。
特に僕のような刺激に飢えた人間にとっては尚更だ。
スポーツは、それなりに試した。どれも悪くはない。けれど、アドレナリンを満たすには足りない。
お化け屋敷も、飽きるほど回ったが。
最初の頃は驚かされたものの、今ではありきたりな演出では鳥肌すら立たなくなった。
今も続けている趣味といえば、狩猟、バイク、それにアンティーク品の収集くらいだ。
そんな僕は今、インテリアデザイナーとして働きながら、屋久島の広大な自然に囲まれて暮らしている。
刺激に溢れた日々とは、程遠い。
けれど━━。
自然の恵みを肌で感じる。時には、大自然の猛威による試練を受ける。地元の優しい人々と、顔を合わせて話す。そして、自分で獲った肉を喰らう。
本土では中々味わえない、そんな些細な毎日が。
なんだかんだ言って、僕は好きだ。
2025年10月
その日も、いつもと変わらない朝だった。
窓を開けると、湿った空気が部屋へ流れ込んでくる。
「は〜っ! 今日もいい朝!」
屋久島の朝は、都会のそれとは違う。
鳥の声。
木々の葉が擦れる音。
遠くから聞こえる沢のせせらぎ。
そして、昨日まで降り続いていた雨の匂い。
僕はキッチンに立ち、いつものように珈琲を淹れた。
少し濃いめの、酸味は濃いめ。
これも、いつものこと。
カップを片手に窓の外を見る。
山には薄い霧がかかっていた。
今日は猟友会の人達と山に入る予定だった。最近は罠猟をやる人間も減った。だからこそ、銃猟を担える人間には声がかかる。
「今日は晴れるといいな…」
狩猟道具を確認し、弾薬を数える。
ナイフを研ぎ、必要な荷物をザックへ詰めていく。
準備を終える頃には、霧も少しずつ晴れてきていた。
玄関を出る。
愛車に跨り、エンジンをかける。乾いた排気音が、静かな朝に響いた。
「さて、行くか…」
山道を抜け、目的地へ向かう。
…..とはいえ、今日はこのまま山へ入るわけじゃない。
猟師なのにバイクで出かけるのか、と聞かれたことがある。
当然だ。
山の中までバイクで入れるわけじゃない。今日の目的地は、山の麓にある猟師小屋。
そこに、猟に使う車を置いてある。山へ入るときは、そこでバイクから車へ乗り換える。
普段の移動はバイク、猟の日は車。
それだけの話だ。
むしろ、狭い山道を走るならバイクの方が都合がいい。
そう思っていた。
━━ぽつ。
ヘルメットのシールドに、小さな水滴が落ちた。
「…雨?」
空を見上げる。
さっきまで薄く雲がかかっていただけなのに、いつの間にか灰色の雲が山の上を覆っていた。
ぽつ、ぽつ、と水滴が増えていく。
やがて雨は、はっきりとした雨音へ変わった。
「参ったな…」
速度を落とす。
路面が濡れ、タイヤが水を跳ね上げる。
屋久島の雨なんて珍しくもない。むしろ、この島で雨を気にしていたら何もできない。
そう思っていた。
けれど。
しばらく走っていると、妙なことに気づいた。
「….あれ?」
道が、違う。
分岐なんてあっただろうか。見覚えのない道が、霧の向こうへ伸びている。
バイクを停める。
「妙だ….」
エンジンを切ると、途端に周囲が静かになった。
聞こえるのは、雨音だけ。
僕はスマートフォンを取り出した。地図を開き、現在地を確認する。
「……..おかしいな」
現在地は表示されているのに、地図上には今いるはずの道がない。
霧が濃くなっていく。木々の輪郭さえ、ぼんやりと滲んで見える。
普段なら聞こえてくる鳥の声もない。獣の気配もない。ただ、雨だけが降っている。
「…….引き返さないと…」
身体がそう言っていた。バイクを反転させる。
…….その瞬間。
僕は、背筋に妙な寒気を感じた。
来た道が分からない。
「……..おいおい、冗談キツいって…..」
目の前には、同じような木々と霧。
右も左も、似たような景色。
さっきまで走ってきたはずの道が、どこにも見当たらない。
「……….嘘だろ。この道は何十回と通ってんだ…..今更間違えるはずがない!!」
僕はヘルメットのシールドを上げた。雨の匂い、濡れた土の匂い、森の匂い….それも屋久島のものに違いない。
なのに…
なにかが….決定的に違う。
そのときだった…
霧の向こうに….
ナニカ、が見えた。
最初は、木だと思った。
だが、
木ではない。人でもない….そもそも━━
「…….あれは、何だ?」
形が、認識できない….立っているようにも見えるし、横たわっているようにも見える。
巨大なものにも見えるし、手を伸ばせば届きそうなほど小さくも見える。
霧が流れる。そのたびに、輪郭が変わる。
いや……
変わっているのは、輪郭ではない。
「…..僕の見え方が…..変わっている?」
僕は、後ずさった。一歩、また一歩。
足元の木が、ぎしりと鳴る。
霧の向こうには、何も見えない。
…………..
本当に?
さっきまで、確かにナニカがいた。
そう思った瞬間。
「……っっ!!!」
背中に冷たいものが走った。
反射的に、バイクに戻る。
「….ライフル!」
それだけが頭に浮かんだ。
何をするつもりなのか、自分でも分からない。
ただ━━
何かを持っていなければならない。
そう思った。
バイクに括り付けていたライフルバッグを外し、ファスナーを開ける。
指が、うまく動かない。
「….くそっ、くそっ!!!!」
弾薬を入れていたケースを取り出そうとして、手が滑った。
カチャ━━
乾いた音。いくつかの弾薬が地面へ落ちた。
「….あ」
拾わなければ。
そう思うけれど、手が震えている。
指先が言うことを聞かない。
一つ拾って、また落とす。
「…..なんで、なんでなんで!!!」
自分でも分からない。こんなことは初めてだった。
山で野生動物と対峙したことなら何度もある。
危険な場面だってあった。
それでも、手が震えたことなんて…ただの一度もなかった。
なのに今は━━
震えが、止まらない。
やっとの思いで、ライフルを掴み…..5発装填する。
その動作すら、ひどくぎこちなかった。
銃身が雨に濡れる。
僕は両手でそれを握りしめた。冷たくて、確かな重さがある。
これだけは現実だと….そう思いたかった。
銃口を霧へ向ける。
「…………………….」
呼吸が荒い。安全装置、構え、照準、いつもなら勝手に身体が動く….
けれど━━
照準の先に、何もない。ただ白い霧だけ。
「……..ほら……..出てこいよ」
声が震えた。自分でも驚くほど、小さな声だった。
「…………..何なんだよ…….お前」
返事はない。
雨だけが降っている….
僕は銃を握り直した。
その瞬間━━
霧の向こうで━━
何かが、動いた。
僕の指が…………引き金に触れた。
第一話「霧の向こう」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、『遷移圏見聞録』の世界観に触れたことをきっかけに、「もし自分が“あちら側”へ迷い込んだら」という発想から制作を始めました。
今回は、主人公にとって何気ない一日が、少しずつ「いつもの日常」ではなくなっていく過程を描いています。
道が違う。
地図にない。
自然の音が消える。
そして、そこにいるはずの「何か」を認識することができない。
この物語では、単純に「怖いものが現れる」という恐怖だけではなく、
「自分が今いる場所は、本当に自分の知っている世界なのか」
「自分が見ているものを、本当に正しく認識できているのか」
という、認識そのものが揺らいでいく恐怖を描いていければと思っています。
まだ始まったばかりの物語ですが、これから主人公が何を目にし、何を知ることになるのか。
どうぞ、最後までお付き合いいただければ幸いです。
それでは、次の記録で。
――お気をつけて。
クニタマ様のご加護を。




