テア
その日の調査は、夕方で一度打ち切られた。
エミール・ハルトマンの記録。
同日の担当者二人。
王家の紋章が入った指輪。
調べるものは増えた。
だが。
レオンには何もすることがない。
拘束中だからだ。
「暇だ」
寝台に仰向けになる。
両手の拘束具が腹の上で鳴った。
本を読もうにも、さっきまで書類を見続けていたせいで文字を見る気にならない。
窓の外はもう暗い。
王都の街灯が点き始めている。
魔導器の光。
昔は夜になれば暗かった通りが、今は遠くまで明るい。
便利だ。
それを見て。
またユリウスを思い出しそうになった。
レオンは目を閉じる。
やめた。
今日はもう考えたくない。
扉が叩かれた。
「誰です?」
「私」
聞き慣れた声。
レオンは起き上がった。
「どうぞ」
扉が開く。
テアだった。
後ろに兵士が二人。
さらに。
エドガー。
「またいるんですか」
「私も好きでいるわけではない」
「帰ればいいのに」
「お前が逃げなければ帰れる」
「逃げませんよ」
「信用がない」
テアが二人の間を通る。
「喧嘩するなら廊下でして」
「私に出ていけと?」
「うん」
「殿下」
「今日は逃げないでしょう」
テオファニアがレオンを見る。
「逃げる?」
「今のところ予定はないです」
「ほら」
「その男の予定ほど当てにならないものもない」
結局。
エドガーは扉の近くに椅子を置いた。
完全には出ていかなかった。
「そこならいいよ」
「ありがとうございます」
「怒ってる?」
「いえ」
どう見ても怒っていた。
テアは気にしない。
手に持っていた籠を机へ置く。
「何です?」
「夕飯」
「さっき兵士が持ってきましたよ」
「食べた?」
「まだ」
「じゃあちょうどいい」
籠を開ける。
パン。
肉。
野菜。
小さな焼き菓子。
そして。
瓶。
レオンが見る。
「酒?」
「少しだけ」
「俺、拘束中なんですけど」
「だから?」
「飲ませていいんですか」
テアがエドガーを見る。
「駄目?」
「……量によります」
「一本」
「駄目です」
「半分」
「殿下」
「少し」
エドガーは目を閉じた。
「一杯だけです」
「交渉成立」
「私は今日何度交渉させられるんだ」
テアは楽しそうだった。
レオンも。
少しだけ。
笑った。
机に料理を並べる。
レオンが椅子へ座る。
そこで。
問題に気づいた。
拘束具。
両手首は完全に離れているわけではない。
食べられなくはない。
ただ。
かなり食べづらい。
レオンはパンを取ろうとする。
拘束具が皿に当たった。
音がする。
もう一度。
また当たる。
テオファニアが見ている。
「何です」
「別に」
「笑ってますよね」
「笑ってない」
「絶対笑ってる」
パンを掴む。
今度は成功。
そのまま口へ運ぼうとして。
拘束具が顎に当たった。
テオファニアが吹き出した。
「笑った!」
「ごめん」
「ひどいな」
「だって」
「自分で食べられますからね」
「そう?」
「食べられます」
もう一度。
今度は慎重に。
パンを食べる。
成功。
「ほら」
「偉い偉い」
「子供扱いしないでください」
「昔はもっと素直に食べさせられてたのに」
レオンが止まる。
「いつの話です」
「八歳くらい?」
「覚えてない」
「嘘」
「本当に」
「熱出した時」
少しだけ。
思い出した。
王城。
冬。
王立魔術学校へ通っていた頃。
風邪を引いて寝込んだ。
国王が見舞いに来た。
テオファニアも。
「……あれか」
「思い出した」
「忘れてました」
「私がスープ飲ませた」
「半分こぼしたでしょう」
「思い出してるじゃない」
レオンは黙った。
テアが笑う。
「今もやる?」
「結構です」
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮じゃない」
「じゃあ何?」
「恥ずかしい」
言って。
少し後悔した。
テアが目を丸くする。
「何です」
「レオンが恥ずかしいって言った」
「言いますよ」
「初めて聞いたかも」
「昔は人前でも平気で全身着替えてた」
「子供の頃でしょう!」
エドガーが遠くから。
「私は何を聞かされている」
「聞かなくていいですよ」
「私もそうしたい」
テアは笑いながら。
結局。
フォークで肉を一切れ刺した。
「はい」
「本当にやるんですか」
「一回だけ」
「嫌です」
「一回」
「自分で食べられる」
「知ってる」
差し出されたまま。
レオンは数秒見た。
テアは引かない。
「……一回だけですよ」
「うん」
食べる。
テアは顔が明るくなる。
「何でそんな嬉しそうなんです」
「何となく」
「理解できない」
「いいの」
レオンは酒を一口飲んだ。
久しぶりだった。
温かい。
身体の中が少し緩む。
「おいしい?」
「はい」
「よかった」
食事を続ける。
何の事件の話もしなかった。
戦争も。
魔導器も。
ユリウスも。
ただ。
王都の新しい店。
王城の料理人が変わったこと。
テアが最近乗馬で落ちかけたこと。
昔レオンが宮廷の池へ落ちた話。
「それ、俺じゃないです」
「レオンだよ」
「違います」
「絶対レオン」
「アルトじゃないですか?」
「アルトはそのあと助けに飛び込んだ人」
「……じゃあ俺か」
「でしょう」
そんな話。
本当に。
どうでもいい話ばかり。
なのに。
レオンは気づいた。
楽だった。
何かを判断しなくていい。
誰が正しいか。
何を止めるか。
誰を殺すか。
考えなくていい。
ただ。
ここにいる。
食事が終わる。
テオファニアが窓際へ行った。
「見て」
「何を?」
「街」
レオンも立つ。
隣へ行く。
夜の王都。
魔導器の街灯。
家々の明かり。
遠くに王城の外壁。
「綺麗になったでしょう」
「そうですね」
「昔より?」
「明るいです」
「私、好き」
テオファニアが言った。
レオンは街を見る。
「俺も嫌いじゃないですよ」
「王都?」
「魔導器」
テオファニアがレオンを見る。
「王都は?」
「人が多い」
「ガレスみたい」
「酒も高い」
「それもガレス」
レオンが笑った。
「でも」
少し間。
「帰ってきてよかったです」
テオファニアは何も言わなかった。
ただ。
肩を寄せる。
レオンも逃げない。
拘束具があるから。
手は繋げない。
「これ邪魔ですね」
「今さら?」
「今だけ外してくれないかな」
「エドガー」
「駄目です」
即答。
テオファニアが振り向く。
「まだ何も言ってない」
「聞かなくても分かります」
「一分」
「駄目です」
「三十秒」
「駄目です」
レオンが言う。
「諦めましょう」
「レオンが言うと腹立つ」
「何で」
「困ってるの私だけみたい」
レオンは少し考える。
「困ってますよ」
「本当?」
「はい」
「じゃあどうする?」
どうする。
と言われても。
両手は使えない。
レオンは少しだけ屈んだ。
テアの額に。
自分の額を軽く当てる。
テアが止まる。
「これくらいなら」
「……ずるい」
「何で」
「私がしたかった」
「早い者勝ちです」
テアが顔を上げる。
距離が近い。
レオンも。
分かっている。
数秒。
そのまま。
そして。
テアが。
ほんの少しだけ前へ出た。
唇が触れる。
短い。
本当に。
一瞬。
離れる。
レオンは何も言わない。
テアも。
顔が少し赤い。
遠くから。
エドガーが深く息を吐いた。
「見てたんですか」
レオンが言う。
「見張りだからな」
「騎士道ってそういうものなんですね」
「陛下の御命令に命を懸けて従うんだ」
テアが笑う。
レオンも。
笑った。
その夜。
眠る前。
久しぶりに。
レオンは明日のことを考えなかった。
ただ。
王都の明かりを見て。
目を閉じた。




