黒い板
ハーゲンの右腕から、黒い線が伸びていた。
皮膚の上ではない。
その下。
血管のように見えるが、違う。
レオンには分かった。
魔力経路だ。
本来なら目で見えるものではない。それが黒く浮き上がるほど、何かが強く入り込んでいる。
「動かないでください」
レオンが近づく。
「抜けるのか」
「まだ分かりません」
「早くしろ」
「急かすと余計遅くなりますよ」
ハーゲンが睨んだ。
「腕に訳の分からんものを刺されてるんだぞ」
「こっちも訳の分からないもの調べてるんです、文句言わないでください」
ガレスが横から言った。
「二人とも喧嘩するな」
「してません」
「してる」
カイが小さく言った。
レオンはハーゲンの腕へ杖を近づけた。
探査魔術。
浅く。
黒い板の周囲だけを見る。
「……変だ」
「何が?」
ボルグが聞く。
「魔力を吸ってない」
これまでとは違う。
死体に刺さっていた板。
工場の設備に仕込まれていた部品。
どれも、魔力をどこかへ流す役割を持っていた。
だがハーゲンの腕の板には、その流れがない。
「じゃあ何してるんですか?」
カイが聞く。
「待ってください」
さらに見る。
黒い板から伸びる細い経路。
腕。
肩。
胸。
そこまでは同じ。
だが心臓や魔力の中心へ向かっていない。
代わりに。
「……右手?」
レオンはハーゲンの手を見る。
「何だ」
「指を動かしてください」
「こうか?」
ハーゲンが握る。
開く。
黒い線の一部がわずかに光った。
レオンは顔を上げる。
「もう一回」
「何なんだ」
「いいから」
もう一度。
握る。
光る。
「これ、魔力を取るためじゃない」
「じゃあ?」
ミリアが聞く。
レオンは壁の向こうを見る。
さっきの金属扉。
血統鍵。
バルグン家の者だけが開けられる仕組み。
「認証?」
ボルグが反応した。
「何だと?」
「この人を鍵にしてる」
ハーゲンの顔が険しくなる。
「俺を?」
「たぶん」
レオンは黒い板を指す。
「魔力の特徴を読んでる。それを外へ送るための経路がある」
「どこへ?」
「分かりません」
ハーゲンが舌打ちする。
「またそれか」
「分からないものは分からないです」
レオンは言い返してから、少しだけ止まった。
昔なら、そんな言い方をされると腹が立った。
今も気分は良くない。
でも、だからといって答えが増えるわけではない。
「ただ」
レオンは続ける。
「これを刺した誰かが、バルグン家の血統認証を使おうとした可能性はあります」
ボルグが古い金属板を見る。
「旧工房を開けるために?」
「それだけとは限りません」
ハーゲンが腕を見る。
「なら、俺が気絶してる間に使われた?」
「可能性はあります」
「誰にだ」
「それをこれから調べます」
ガレスが部屋の奥を見る。
「ここに連れてきた奴がいるのは確実だな」
「そうですね」
「ユリウスは?」
沈黙。
レオンはすぐには答えなかった。
状況だけ見れば怪しい。
ハーゲンを呼んだ。
その後、ハーゲンは消えた。
ユリウスも旧工房にいた。
だが。
「まだ分かりません」
ガレスが頷く。
「まあ、そう言うと思った」
ハーゲンが苛立ったように言う。
「俺はあいつに呼び出された」
「何て?」
「グラドの記録を見つけた。直接見せたい、と」
「一人で来た?」
「ああ」
「護衛は?」
「ここは自分の街だぞ」
「だからって」
「お前に言われたくない」
レオンが黙った。
カイが少し笑う。
「先生、今日それ多いですね」
「気のせいです」
ミリアがハーゲンの腕を見る。
「それ、今すぐ抜かなくても大丈夫?」
「少なくとも、魔力は抜かれてない」
「じゃあ急いで抜くより、まず安全確認?」
「そうしたい」
ハーゲン本人は不満そうだったが、今度は何も言わなかった。
レオンはグラドの金属板へ戻る。
『中心を壊すな』
『中心を壊せば、繋いだ先へ流れる』
『外から止めよ』
その下。
埃を払う。
まだ文字があった。
「ボルグさん」
「見えてる」
ボルグが顔を寄せる。
古いドワーフ語。
かなり細かい。
「何て?」
「……『鍵を持つ者から切れ』」
全員がハーゲンを見る。
ハーゲンも自分の腕を見る。
「俺か?」
レオンが金属板を覗く。
「続きは?」
「『器は鍵を通じ、枝を開く』」
「枝?」
カイが聞く。
レオンはすぐに思いついた。
工場。
黒い管。
何十台もの設備。
そこから伸びる経路。
「ネットワーク……」
「何だ?」
ガレスが聞く。
「いや」
レオンは言い直す。
「一つの中心から、たくさんの設備へ繋ぐ仕組みです」
古代の器。
現代の工場。
形は違う。
だが考え方は似ている。
中心。
そこから伸びる枝。
そして鍵。
「ハーゲンさんの板を切れば、下の装置も止まる?」
カイが聞く。
「そこまで単純なら助かるんですけど」
レオンは黒い板を再び見る。
「でも、試す価値はあります」
ハーゲンが腕を出す。
「やれ」
「待ってください」
「今そう言っただろ」
「切るとは言ってません」
「何が違う」
「黒い板そのものを抜くのか、板から伸びてる経路だけ止めるのか」
レオンはカイを見る。
「前と同じです」
カイが頷く。
「外側から止める?」
「はい」
「じゃあ潰します?」
「人体に刺さってるものを工具で潰すのはちょっと」
「ですよね」
ハーゲンが呆れたように二人を見る。
「お前たち、俺の前で俺の腕を潰すとか抜くとか言うんじゃない」
「じゃあ安全な方法を考えるので黙っててください」
「人間のガキは態度がでかいな」
「先生はいつもこうです」
カイが言った。
「フォローしてくださいよ」
「無理です」
ミリアがレオンの横へ来る。
「私が魔力の流れを見る?」
「お願い」
レオンは杖を構える。
黒い板の周囲へ、極細の結界を作る。
まず板そのものを固定。
次に。
そこから伸びる魔力経路だけを探す。
一本。
二本。
三本。
本来のハーゲンの経路と、後から作られた経路。
見分ける。
「これ」
レオンが小さく言う。
「いけそう?」
ミリアが聞く。
「たぶん」
「たぶんで人の腕いじるの?」
「じゃあどうしろっていうんですか」
「確認しただけ」
レオンは息を整える。
一本目。
切断。
ハーゲンの腕がわずかに震える。
「痛いです?」
「少し痺れただけだ、この程度……」
「じゃあもう一本」
二本目。
三本目。
黒い線が一つずつ薄くなる。
最後。
右手へ伸びる経路。
「これを切ります」
「やれ」
レオンが杖を振る。
ぷつり。
魔力の感覚が途切れた。
黒い線が消える。
数秒。
何も起こらない。
「……終わり?」
カイが聞く。
「少なくとも腕は」
レオンが答えた。
その時。
遠くから、低い音が響いた。
ゴン。
工房全体が震える。
ハーゲンが顔を上げる。
二度目。
ゴン。
ガレスが剣を抜く。
「止まった音には聞こえねえな」
「俺もです」
レオンは旧工房へ戻る。
中央の円形装置。
さっきまで完全に止まっていたはずのもの。
その一部が動いている。
ゆっくり。
外周の金属輪が回転している。
「先生!」
カイが駆け寄る。
「これ、逆じゃないですか?」
「何が?」
「止めたんじゃなくて、起動した?」
レオンの顔が強張る。
「違う」
魔力を見る。
流れが変わっている。
ハーゲンから装置へ向かう経路は消えた。
代わりに。
装置から外へ。
何本もの経路が開いていく。
「鍵を切ったから」
レオンが呟く。
「閉じるんじゃなくて、別の状態に切り替わった?」
ボルグが金属板を掴む。
「続きだ!」
「何て書いてる!」
「待て!」
文字を追う。
「『鍵を切った後――』」
その先。
削られている。
「読めない!」
「そこだけ?」
「そこから先がない!」
レオンは舌打ちした。
今度は自分でも分かる。
焦っている。
ガレスが言う。
「どうする」
「中心は壊せない」
「なら外だろ」
カイが黒い管を見る。
「さっきみたいに、枝を全部止める?」
「数が多すぎます」
「でもやるしかないんじゃ?」
その通りだった。
レオンは装置の流れを見る。
枝。
いくつも。
工場へ。
街へ。
もっと先へ。
「……街だけじゃない」
「何?」
ミリアが聞く。
レオンの顔から血の気が引く。
「これ、山の外にも伸びてる」
「どこまで?」
「分からない」
細すぎる。
遠すぎる。
でも。
一つ。
二つ。
何十。
接続先がある。
第七区画だけではない。
「魔導器?」
カイが言う。
レオンは答えなかった。
断定できない。
だが。
似ている。
あまりにも。
その時。
装置の中央で、光が灯った。
黒い柱。
その表面に、文字が浮かぶ。
共通語ではない。
ドワーフ語でもない。
レオンには読めた。
魔族語。
短い一文。
『鍵、解除』
ガレスがレオンを見る。
「何て書いてある」
「鍵が解除されたって」
「次は?」
文字が変わる。
レオンの喉が詰まる。
『第二経路、開放』
「第二経路?」
カイが聞く。
そして。
工房の外。
ずっと遠くから。
巨大な音が響いた。
街全体が揺れた。
ボルグが壁へ手をつく。
「今度は何だ!」
答えはすぐに来た。
通路の奥から、保安兵が走ってくる。
「主任!」
「どうした!」
「中央区です!」
息を切らしながら叫ぶ。
「中央区の魔導器が、全部勝手に動き始めました!」
レオンは装置を見る。
止まった第七区画。
そして今度は、勝手に動き始めた中央区。
カイが青ざめる。
「先生」
「はい」
「これ……街中に繋がってますよね」
レオンは答えなかった。
代わりに。
装置の奥で、また文字が変わった。
今度は。
名前だった。
『レオン・アルヴェィン』
レオンは動けなかった。
ハーゲンが聞く。
「何て書いてある?」
誰も答えない。
ガレスだけがレオンの顔を見ていた。
「お前の名前か?」
レオンはゆっくり頷いた。
その直後。
黒い柱の向こうから。
あの声がした。
「今度は、逃げるなよ」
黒衣の魔族の声だった。




