第1話 悪夢
「これ、おかしいんですよ」
少年は机の上に書類の束を叩きつけた。
薄い紙束だった。表紙には王立魔導技術局の紋章と、《第三式携行魔導器・軍用試験報告》の文字がある。
向かいに座っていた男は、紙束ではなく少年の顔を見た。
「その件については、専門部署が安全性を確認している」
「だから、その専門部署が間違ってるって言ってるんです」
「レオン」
「見れば分かるでしょう。増幅器の第二環と第四環が接続されてる。こんな設計、意味がない。魔力効率が落ちるだけだ」
「レオン」
「しかもここ。逆流防止の術式が一個多い。逆流しないなら必要ないし、逆流するならそもそも設計がおかしい。なのに試験記録には異常なしって書いてある。だったら――」
「レオン・アルヴェイン」
ようやく、少年は黙った。
長い机の向こうには三人の大人が座っていた。
軍務卿補佐。
王立魔導技術局の次官。
そして、国選勇者管理局の役人。
レオンが知っている顔は、最後の男だけだった。
この男は十二歳のレオンを勇者隊へ連れていった。
十五歳の誕生日には酒の代わりに葡萄水を渡して笑った。
去年、北部戦線で右腕を焼かれたときには、病室まで見舞いに来た。
だからレオンは、最初、この部屋に呼ばれた理由が分からなかった。
「本日の議題は、魔導器の安全性ではない」
役人が言った。
「じゃあ何です?」
「君の処遇についてだ」
「処遇?」
「本日付をもって、君を第三国選勇者パーティから解任する」
レオンは一度、瞬きをした。
「……は?」
部屋が妙に静かだった。
窓の外から、訓練場の掛け声が聞こえる。
一、二。
一、二。
規則正しい。
誰かが剣を振っている。
「もう一度言う。君を第三国選勇者パーティから解任する。同時に、宮廷魔術院における軍事研究への参加資格も停止する」
「待ってください」
「決定事項だ」
「いや、意味分かんないです」
レオンは笑った。
笑ったつもりだった。
実際には、口元が一度引きつっただけだった。
「何で?」
誰も答えなかった。
「任務なら全部成功させた。去年の北部でも、俺がいなかったら第三防壁は落ちてたでしょう」
「功績は認めている」
「南の竜種討伐だって――」
「功績の話ではない」
「じゃあ何の話です?」
役人は一枚の紙を取り出した。
「度重なる命令違反。上官への反抗。管轄外施設への無断立ち入り。機密資料の持ち出し。技術局職員への威圧的言動」
「持ち出してません。借りただけです」
次官が初めて口を開いた。
「許可なく持ち出すことを、一般には持ち出したと言う」
「次の日には返しました」
「そういう問題ではない」
「じゃあ、どういう問題なんです?」
軍務卿補佐が小さく息を吐いた。
その仕草が、レオンにはひどく腹立たしかった。
まるで駄々をこねる子供を相手にしているようだった。
「君は優秀だ」
役人が言った。
「知ってます」
次官の眉が動いた。
役人は一瞬だけ目を閉じた。
「……非常に優秀だ。だからこそ、これまで多くのことが許されてきた」
「許されたんじゃなくて、必要だったからでしょう」
「その認識そのものが問題なんだ」
「何が?」
「君は、自分が必要なら何をしても許されると思っている」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
だからレオンは、さらに強い声を出した。
「そんなこと思ってません」
「では、なぜ命令を無視した」
「間違ってたからです」
「なぜ技術局の封鎖区画へ入った」
「資料を見せないからです」
「なぜ研究主任に杖を向けた」
「あいつが俺の解析紙を燃やそうとしたからでしょう!」
「杖を向ける必要があったのか」
「燃やされる必要もなかった!」
声が部屋に響いた。
誰も何も言わない。
レオンは自分の呼吸が速くなっていることに気づいた。
まただ。
いつもこうなる。
向こうが馬鹿なことを言う。
自分が訂正する。
向こうが理解しない。
説明する。
それでも理解しない。
そして最後には、なぜか自分が怒っていることだけが問題になる。
「……魔導器には、何かあります」
レオンは机上の報告書を指した。
「俺はずっとそれを言ってる」
「その件は技術局が調査している」
「調査してない」
「している」
「してたら分かるはずだ」
「君は技術局員ではない」
「だから何ですか」
言った瞬間。
役人の顔がわずかに曇った。
止めればよかった。
レオン自身、それは分かっていた。
けれど、もう止まらなかった。
「俺より魔術を理解してる奴が、この部屋に…いや、この国に、いったい何人いるんです?」
沈黙。
軍務卿補佐が目を伏せる。
技術局次官は無表情だった。
役人だけが、真正面からレオンを見ていた。
やがて言った。
「そういうところも含めての決定だ」
胸の奥で何かが落ちた。
「……何だよ、それ」
敬語が消えた。
「俺が正しいかどうかと関係ないだろ」
「組織では関係がある」
「敵が来たときも?」
「何?」
「魔族が攻めてきたとき、俺が礼儀正しいかどうかで火球の威力が変わるのか?」
「レオン」
「俺が何歳かで治癒術の成功率が変わるのか? 俺があいつらに頭下げたら竜が死ぬのかよ」
「やめなさい」
「必要だから呼んだんだろ!」
自分の声が、遠くから聞こえた。
「十二のガキを戦場に連れていったのはそっちだろ! 普通の学校にも行かせなかった。みんなと遊ばせてくれなかった。家からも勝手に連れていった。王都に来い、魔術院に来い、勇者パーティに入れ、国のために働けって______」
そこまで言って、息が止まった。
誰も反論しなかった。
それが一番怖かった。
レオンは机の端を握った。
「……じゃあ、俺はどこに行くんです?」
役人は答えるまで、少し時間を置いた。
「宮廷所属そのものを解くわけではない。一般研究職への異動を申請することもできる。治癒院からも誘いが――」
「違う」
レオンは言った。
「俺は、どこに行けばいいんです?」
そこで夢は終わった。
*
目を開けると、天井に染みがあった。
レオンはしばらく瞬きをせずに見つめた。
黒い染みは、大陸の地図に見えなくもない。
北西部が少し欠けている。
一年前から直っていない。
「……最悪だ」
寝台の上で上体を起こした。
汗で寝間着が背中に張りついている。
窓の外は明るかった。
鐘が鳴る。
一回。
二回。
三回。
四回。
五回。
六回。
七――
「レオン!」
扉が叩かれた。
「起きてます」
「嘘つかない!」
「今起きました!」
「それを寝坊って言うの!」
扉の向こうから足音が遠ざかっていく。
レオンは顔を両手で覆った。
十七歳。
元・第三国選勇者パーティ所属。
元・宮廷魔法使い。
現・聖ルシア救護院住み込み医師。
起床、七時十二分。
最低だった。
*
「痛みますか」
「痛いです」
「ここは?」
「痛い」
「ここ」
「もっと痛い!」
「じゃあ折れてますね」
「そんな軽く言うなよ!」
診療台の上で、石工の男が叫んだ。
レオンは男の腫れ上がった左手を持ち上げ、指先に魔力を集める。
薄青い光が皮膚の表面を走った。
骨。
腱。
血管。
魔力を細く伸ばし、内部をなぞる。
第三中手骨に亀裂。
位置は悪くない。
「朝、石材が落ちてきた?」
「ああ」
「魔導器は?」
「使ってたよ。補助腕輪。あれがなきゃ腕ごと潰れてた」
「へえ」
レオンは男の手首に巻かれた革製の器具を見る。
銅線と小さな魔石を組み合わせた、安価な身体強化用魔導器。
第三世代量産型。
市場に出て三年。
初期型より魔力損失が十五パーセントほど少ない。
値段は半分。
よくできている。
腹立たしいほどに。
「何だよ」
「別に」
「魔法使いって、こういうの嫌いなんだろ?」
「誰に聞いたんです、それ」
「酒場」
「酒場の話を医学より信用するなら、酒場で治してもらってください」
「愛想ねえなあ」
「無料診療に愛想まで求めますか?」
「無料ってったって教会が払ってるだろ」
「じゃあ神さまに愛想を求めてください」
後ろで誰かが咳払いした。
レオンは振り返らなかった。
誰かは分かっている。
「患者さんに喧嘩を売らない」
「売ってません」
「いま売ってたでしょう」
「値札は付けてません」
「そういうのいいから」
白い修道服の袖が視界に入った。
ミリアが横から男の腕を支える。
レオンより一つ年下。
淡い茶色の髪を後ろでまとめ、首から銀色の聖印を下げている。
この救護院で育ち、十五の頃から負傷者の世話をしている。
レオンがまだ宮廷にいたころからの知り合いだった。
つまり、レオンが偉そうなのは昔から知っている。
「固定する?」
ミリアが訊いた。
「いや。これなら癒着させる」
「魔力足りる?」
「誰に言ってるんです?」
「そういうところ」
「何が」
ミリアは無視した。
レオンは骨折部へ魔力を流し込んだ。
治癒魔術は、単に傷口を塞ぐ魔法ではない。
人体が本来持つ修復過程を読み取り、それを魔力で加速する。
無理に治せば歪む。
速ければいいというものでもない。
細胞の増殖。
血流。
炎症。
組織の接続。
どこまで促進し、どこから人体自身に任せるか。
攻撃魔術よりよほど繊細だった。
青白い光が男の手を包む。
数秒後、レオンは手を離した。
「握って」
男がおそるおそる拳を作る。
「……おお」
「強く」
「痛くねえ」
「今日は重い物を持たない。酒もやめる」
「酒も?」
「嫌ならもう一回折ってください」
「何でだよ」
「治癒直後は血流が――」
「ああ分かった分かった」
男は笑いながら診療台を降りた。
そして扉の前で振り返る。
「ありがとな、勇者様」
レオンの指が止まった。
男に悪意はなかった。
たぶん。
「……どういたしまして」
扉が閉じた。
ミリアが帳簿に何かを書き込みながら言った。
「怒らなかった」
「何が」
「勇者様」
「別に怒ることじゃないでしょう」
「昨日は薬屋のおじさんに怒ってた」
「あれは言い方がムカついたんです」
「一昨日は?」
「あいつは明確に馬鹿にしてた」
「三日前」
「覚えてない」
「毎日じゃない」
「うるさいな」
ミリアが笑った。
レオンは次の患者票を取った。
そのとき、窓の外で小さな歓声が上がった。
子供たちだった。
通りの向こうで、行商人が実演販売をしている。
掌ほどの箱型魔導器。
男がつまみを回すと、箱の上に小さな炎が灯った。
「ほら! 薪も火打石もいらない! 魔力を込めて押すだけ!」
子供が歓声を上げる。
母親らしい女が銅貨を数える。
「料理にも使える?」
「もちろん! 火力調整は三段階!」
「前の型より安いわね」
「大量生産ってやつですよ!」
レオンは窓から目を逸らした。
「顔」
ミリアが言った。
「何です」
「すごい嫌そう」
「別に」
「嫌いなんでしょ、魔導器」
レオンは少し考えた。
「……あれは良いやつですよ」
「え?」
「旧式は燃焼術式が不安定だったけど、あの型は二重弁になってる。子供が使っても暴発しにくい」
ミリアは目を丸くした。
「詳しいね」
「専門だったから」
「じゃあ嫌いじゃないんだ」
レオンは答えなかった。
窓の外では、小さな女の子が母親から箱を渡されていた。
恐る恐る押す。
ぽっ。
炎がつく。
女の子が笑う。
昔なら、それだけのことにも魔法使いが必要だった。
火を起こす。
水を温める。
夜道を照らす。
怪我人を運ぶ。
荷車を持ち上げる。
遠くへ知らせを送る。
生まれつき魔力の多い者だけができたことを、今では誰でもできる。
良いことだ。
間違いなく。
「……次、呼んでください」
レオンは言った。




