第十六話 紅い羊が見据えるものは
「どうした。シス。気分でも悪いのか」
シスは顔を床に向けたまま動かない。それでも声をかけると、ゆっくりとロルフに顔を向けた。
「私、商人が嫌いだ」
明らかに怒りが混じっている声色だ。
長い髪をこめかみで編んでいるためうなじが覗く。うなじにはゆらゆらと文様がうごめいていた。
「おい。シス。落ち着け」
ロルフの声に反応して、アルマがこちらに目を向けた。
シスはアルマを鋭い視線で睨んだ。
「おいおい、嫌われちまったな」
アルマは大股で歩いて来ると、乱暴にシスの頭を撫でた。
「なぁ、頼むからこんなところで魔術師だとばれないでくれよ。すべてが無駄になる」
アルマは編み込まれたシスの髪の毛を解いてやった。乳白色の髪がシスの背中にふわりりと流れた。
「行くぜ。お嬢ちゃん。こんなところに留まっていたら人が少ないとは言え目立つ」
アルマはいらついたように自分の髪の毛を払うと、早足で先へと歩いていった。
「シス。大丈夫だって。俺も商人はあまり好きじゃない」
ロルフが穏やかに声をかけると、次第にシスの体に浮かんだ文様は薄くなり消えていった。
シスは何事もなかったように立ち上がると、ロルフの手を両手で握った。
「うん。もう大丈夫」
消え入りそうな声だった。
シスの手を握ったまま歩いていくと、アルマは扉の前で腕を組みロルフを待っていた。
アルマは顎で扉を指し示した。ここに紅い羊がいるのだろう。
もっと厳重な管理をしていると思ったが、薄い扉には鍵もついていない。礼拝堂は立派なものだったが、それ以外の部屋は簡素な作りとなっているようだ。
ひとつ、息を飲みロルフは扉を開けた。
部屋の中はだだっ広いだけで何の変哲もない空間だった。所々日に焼けた白い壁に、人の足で踏み固められたくすんだ床。元は食堂か何かだったのだろうか。テーブルや椅子が壁際に片づけられている。
その開いた空間の中央に紅い羊はいた。
簡素な柵で覆われ、たっぷりの枯れ草の中、紅い羊はキョロキョロと周りを不安そうに見渡している。
「あれが紅い羊。どっからどう見ても普通の羊だな」
ロルフの口から拍子抜けした声が出た。
部屋の中にはロルフ達のほかに数人の見物客がいる。特に変わったところのない羊をつまらなそうに見ていた見物客は、あくびを一つすると一人、また一人と帰っていった。部屋の中にはロルフ達だけが残った。
「外見は普通の羊だな。今は落ち着いているから魔力の文様も出ちゃいないが。間違いなく紅い羊だ」
アルマは部屋の外に声が漏れないように小声で言った。
シスがロルフの手を離れ、小走りで羊に近づいていく。
「おっと、間違っても触るなよ。その瞬間、紅い羊に変貌する」
シスはピクリと足を止め、ロルフを見る。
その瞳はまるで、助けを求めるような視線だった。
「この子。私と同じ」
「同じ?」
「ものすごい怖がり。周りのみんなは自分と違うからいつも不安がってる」
羊にそんな感情があるのかと思うが、こうして捕らえられ人間の権力を鼓舞する道具にされようとしているのだ。
羊にも孤独を恐ろしいと感じる感情があってもおかしくはないのかもしれない。
「おい、ロルフ」
アルマの呼びかけに思考が現実に引き戻される。
「観光に来ているんじゃないんだ。もっと真面目に頼むぜ」
アルマはそう言いつつ、壁際へと歩いていく。もう一度部屋の中に誰もいないことを確認すると、床を指し示した。
シスはまだ紅い羊を見つめたままだ。
「見えるか。この床にガンベルツの地下へと続く隠し通路がある」
ロルフはアルマが指し示した床に視線を落とす。二度ほど床を軽く叩いてみると、その先に空間があるのがわかった。
目を凝らすと地面には四角く枠のような筋が見て取れる。
「ガンベルツは元々城塞都市だ。有事の時は住民が町の外に逃げられるように、網の目のように地下通路が張り巡らされている。それらはすべて繋がっていて、もちろんルイーゼ商会からでも地下通路には降りることができる」
ふと、疑問が浮かぶ。
「それっておかしくないか。極論でいえば、この街のどこからでもこの部屋に来れるってことじゃないか」
「中からは開けられるが、通路側からは開けられない構造になっている。外に出るためだけの一方通行の通路なんだ」
「それじゃあ、地下通路からはどうやってこの部屋に侵入するんだ?」
アルマが馬鹿にしたように鼻で笑う。
「この教会に協力者がいる。盗みに入るときはそいつにここを開けてもらうんだ。心配しなくてもお前はルイーゼ商会から通路を通ってこの部屋に出て、羊を盗み出してくれればいい」
「その協力者ってのは教会の人間か? 信用できるのか? 聖職者が金で動くとも思えないが」
「金の力ってのはな。時には信じている神よりも強い力を発揮する。この街は商人の街だ。金の方が強い」
そういうものだろうか。しかし、不安は拭えない。
「まだ不安が残っているような顔だな。確かに、途中何が起こるか分からない。協力者が裏切るかも知れないし、気が変わったバール商会が羊を別の場所に移動するかもしれない。だがな……」
アルマは硬くこぶしを握ると、ロルフの胸に力強く当てた。
「お前……もう引けないだろ?」
心臓が打ち抜かれたように鼓動が跳ねる。
そう、もう引き返せない。
安息の地、という甘美な言葉。人間と同じ暮らしができるという魅惑の園。手を伸ばせば手に入る所に来ている。
「当たり前だ。引くわけないだろう」
アルマのこぶしが震える。
「まあ、地下通路を通って羊を連れてくるだけだ。子供でもできるお使いだ……頼んだぜ」
ロルフがアルマの瞳を見つめる。力強い瞳だ。アルマももう引けないのだろう。しん、とした部屋の中では早鐘を打つ鼓動がうるさく感じる。
そんなロルフたちの会話をよそに、シスはただ一点、紅い羊だけを見つめていた。