魔界接近
その日は、あまりに唐突に訪れた。
朝から空を覆っていたのは、不吉なほどにどす黒い雲の渦だ。生き物すべてを威圧するような、ただならぬ気配が世界を支配していた。そして昼前。鼓膜を震わせる巨大な雷鳴とともに、天から地上へ向けて、巨大な「雲の柱」が垂直に伸びた。
「巨大竜巻……?」
エリは直感的にそう呟いた。だが、隣に立つオーエンの表情は冷徹なまでに静かだった。
「いえ、魔界との回廊が開いたようです」
「魔界との回廊……?」
「ええ。あそこを道として、魔獣や魔人が奔流となって押し寄せてくる。まさに『侵略』という言葉が相応しい惨状になるでしょう」
エリは目を凝らした。雲の柱の周囲には、すでに無数の黒い粒が蠢き始めている。
「カルミナたち神官は何をしているの?」
「神殿で祈りを捧げているのでしょうが……」
オーエンはわずかに口角を上げ、皮肉げに続けた。
「あいつら(魔族)に祈りが通じると思いますか?」
「……思えないわね。あの不気味な黒い粒が、全部敵だっていうのね」
覚悟は決まった。エリは鋭い声で呼びかける。
「ナイトホーク!」
「お呼びでしょうか、我が主」
影から這い出るようにして、忠実な従者が姿を現した。
「黒竜の姿で私を乗せて、あの回廊の周りを飛んで。自慢のブレスで、出てくるそばから焼き払うことはできるかしら?」
「造作もなきこと。この身は貴女の矛であり、盾なのですから」
ナイトホークの不敵な笑みに、エリは満足げに頷いた。
「よし。なら、この世界の人たちを安心させるために、最高に派手な演出をかましましょう。守備隊の兵たちも、その姿を見れば勇気が湧くはずよ」
エリは機能性重視の戦闘服を脱ぎ捨てた。代わりに纏ったのは、天界の風に揺れるような、神々しくも優美な女神の衣だ。あえて「見られること」を意識したその姿で、彼女は巨大な黒竜へと変貌したナイトホークの背に飛び乗った。
「ナイトホーク、絶対に私を落とさないように飛んでね?」
「案じられますな。主を落とすような不手際、このナイトホークが生涯犯すはずもございません」
漆黒の翼が大きく羽ばたき、突風が巻き起こる。
いざ、戦場へ。気合を入れ直したその瞬間、エリの脳内に直接、場違いなほど軽やかな声が響いた。
『エリ、私の姿を使って人々を鼓舞するっていうなら――サービスで、私と同じ“ナイスボディ”に変えてあげようか?』
女神ミリエル=エオニアからの、突然の念話だった。
エリは間髪入れずに叫んだ。
「いらんわ!!」
その反射的な拒絶に、直後、ほんのちょっぴり(……胸のボリュームくらいは貰っておいても良かったかしら)と後悔したが、エリはそんな思いはすぐに空の彼方へ放り出した。
今、彼女が見せるべきは、魔界を焼き尽くす女神の威光なのだから。
「エリ様、これをお持ちください」
出発の間際、オーエンが小さな革袋を差し出した。使い込まれた柔らかな手触りの袋からは、かすかに甘い香りが漂っている。
「……これは?」
「氷砂糖です。私はナイトホーク殿に同乗して随行するわけには参りません。戦場では極限の集中力を強要されます。血糖値が下がり、思考が鈍る前に口に含んでください」
オーエンの声音はいつも通り淡々としていたが、その眼差しには主の身を案じる深い誠実さが宿っていた。
「オーエン……。私のこと、そこまで分かってくれているのね。ありがとう、大事に使うわ」
エリは革袋を腰のベルトにしっかりと括り付けた。その温かな心遣いが、決戦に挑む緊張をわずかに解きほぐしてくれる。
「では、行ってまいります」
ナイトホークが短く咆哮した。その巨躯が震え、漆黒の鱗が陽光を弾いて鈍く輝く。彼は翼を器用に使って階段のような足場を作ると、エリをその背へと優しく促した。
「しっかりと掴まっておられよ。これより、空の覇者の速度をお見せする!」
エリがその広い背に跨り、首元の硬い鱗を掴む。
次の瞬間、爆発的な風圧とともに世界が浮き上がった。




