表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
生きる気がない人しか入れない店 ―あやかし食堂・本日の献立は後悔―  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/12

第10話 「代償一覧/救済ではなく、取引」

その店に入れるのは、

死にたいと思ったことがある人間だけだ。


少なくとも、そういう人間にしか、

あの暖簾は見えない。


 


 暖簾をくぐる前から、喉が乾いていた。

 乾きは水分の不足じゃない。言葉が足りないときの乾きだ。昨日、暖簾に見えた二文字が、まだ舌の裏に張り付いている。代償。剥がれない薄い紙みたいに。


 路地の奥は、相変わらず暖かい光が滲んでいた。雨上がりの夜で、アスファルトは黒い。黒いのに、光だけが薄い膜みたいに浮いている。浮いているから、足元が確かじゃない。


 暖簾に手を伸ばすと、布の繊維が指に絡んだ。絡む感触がいつもより強い。引き戻されるみたいで、少しだけ嫌になった。


 店内に入ると、湯気の匂いがする。味噌にも似ていて、でも違う。焦げた匂いが混ざっている。焦げは失敗の匂いで、失敗は人の匂いに近い。ここはあやかしの店だと分かっているのに、匂いだけは人間の台所だ。


 カウンターの中で店主が手を動かしていた。包丁は使っていない。指先だけが忙しい。何かを整えている音がする。紙を撫でる音。爪が木に当たる音。音が乾いている。


「来たか」


 店主は顔を上げずに言った。


「……はい」


 返事をしたら、声が少しだけ掠れた。自分の声が自分のものじゃないみたいに聞こえる。最近、そういう瞬間が増えた。欠けた単語。遅れて来る感覚。俺は、それを全部、気のせいにしたがっている。


「皿は」


「洗います」


「先に」


 店主が言った。


「これ、見ろ」


 カウンターの端に、薄い冊子みたいなものが置かれた。表紙は汚れていない。新品でもない。汚れがないのに古い。そういう紙の手触りがある。触る前から分かる。


 俺はそれを見た。タイトルも何もない。罫線だけが細く引かれていて、文字が並んでいる。


 帳簿だった。


 料理名の横に、短い言葉が添えてある。短い言葉は、説明じゃない。断定だ。切り捨てだ。


 後悔煮込み。薄味。代償:睡眠が浅くなる。

 怒りの汁物。濃い。代償:声が出にくくなる。

 執着焼き。代償:名前が抜ける。

 空白飯。代償:選べなくなる。

 ほかにも、知らない料理があった。知らないのに、読める。読めると、胃が重くなる。


 俺の指先が冷えた。冷えるのは、ここでよく起きる反応だ。冷えると、頭が澄む。澄むと、怒りが出る。


「……これ」


 言葉が短くしか出ない。短い言葉は、俺の怒りをそのまま載せる。


「客に、言ってないですよね」


 店主はようやく顔を上げた。目は薄い色をしているのに、光を反射しない。反射しない目は、見ているのか見ていないのか分からない。


「言う必要がない」


「必要あります」


 俺は言った。言った瞬間、喉が痛んだ。痛む喉は、声を張った証拠だ。証拠が残るのが嫌だ。嫌なのに残る。


「取引なんだろ」


 店主が言った。声は低い。低い声は、客に向ける声じゃない。俺に向ける声だ。


「取引なら、条件を明示するのが普通だ」


「普通を持ち込むな」


 店主が言う。


「ここは台所だ。注文の前に、客は自分で量を決めてる」


「決めてない人もいる」


 店主は小さく鼻で笑った。


「知ってる。知って来る。知らないふりをするだけだ」


 知らないふり。

 その言葉が、胸の奥に落ちた。落ちると、底で響く。俺も、知らないふりをしている。自分の代償に。自分の欠損に。


「でも」


 俺は言った。


「俺が、あの客に執着焼きを出したとき」


 店主の目が少しだけ細くなる。怒っているのか、考えているのか分からない。分からないまま、俺の背中が汗ばむ。


「名前が消えるって、俺は説明してない」


「説明したかったか」


 店主が訊いた。


 説明したかった。言えば止められる気がした。言えば、自分が正しい側に立てる気がした。正しい側に立てれば、怖さが減る。怖さが減れば、ここに居られる。


 俺は黙った。


 黙ると、店主が答えを置いた。


「説明は免罪符だ」


 免罪符。

 言葉が刺さる。刺さると、口の中が乾く。


「言っておけば、俺は悪くない。そう思えるだろ」


 店主が言う。

 俺は反論したかった。反論の言葉が出ない。出ない代わりに、腹の奥が冷える。冷えるのは怒りだ。怒りは声にすると凶器になる。第七話で見た。見たのに、自分の怒りはまだ扱えない。


「……じゃあ、どうすればいいんですか」


 俺は言った。

 頼っているみたいに聞こえるのが嫌で、言い方が硬くなる。硬くなると、余計に頼っているみたいだ。


 店主は答えなかった。答えないのが、この店のやり方だ。答えないかわりに、暖簾が揺れた。


 客が来る。


 


 客は、最初から席に座った。座る動きが迷いなくて、だからこそ怖い。迷いがない人は、もう決めている。


 若い女性だった。二十代の終わりか三十代の初め。化粧は薄い。髪はきれいにまとめている。仕事帰りの匂いがした。電車の匂い。ビルの空調の匂い。人の中で擦れた匂い。


 手は、震えていなかった。震えない手が、膝の上で静かに重なっている。静かさは、決意の静かさだ。


 店主が言った。


「何を食う」


 女性は、目を逸らさなかった。逸らさない目は、まっすぐで、まっすぐな目は痛い。


「執着を焼いてください」


 言い方が端的だった。端的な言い方は、余計なものを削っている。削っている人は、切り落としたくないものを隠している。


 俺の喉がまた乾いた。乾きが早い。早い乾きは、焦りの乾きだ。


 店主は、淡々と訊いた。


「代償は」


 女性が答える。


「知ってます。名前が出なくなる」


 俺は思わず口を挟んだ。


「それでも、いいんですか」


 自分の声が少し高かった。高い声は、揺れている声だ。揺れているのは俺の方だ。


 女性は俺を見た。目が冷たいわけじゃない。疲れている。疲れた目は、優しさと残酷さが同居する。


「いいです」


 女性は言った。


「名前が出ない方が、助かるので」


 助かる。

 その言葉が、さっきの「免罪符」とぶつかる。助かるという言葉は、救いの言葉だ。救いが欲しいと言っているのに、救いの形が欠損だ。矛盾が、矛盾のまま成立している。これがこの店だ。


「理由は」


 俺が訊きかけた瞬間、店主が短く言った。


「聞くな」


 俺は口を閉じた。閉じると、舌が歯に当たる。自分の口の中が狭い。


 店主は女性に向けて言う。


「焼く」


 それだけで、取引が成立したみたいだった。成立してしまうのが怖い。怖いのに、止める言葉がない。


 俺は帳簿を見た。見たくて見たわけじゃない。視線が勝手に行く。執着焼き。代償:名前が抜ける。抜ける、という言い方が軽い。軽い言い方は残酷だ。軽いから、読む手が止まらない。


 店主が調理に入った。鉄板の上で油が温まる音がする。音は現実の音と同じだ。現実と同じ音が、異界の取引を進める。そこが気持ち悪い。


 女性は深呼吸した。深呼吸の仕方が上手い。上手い深呼吸は、何度も練習している深呼吸だ。練習の回数が見えると、そこに積み上がった夜が想像できる。想像してはいけない。混ざるから。


 店主が皿を出した。焼き目がついている。香ばしい匂いが立つ。香ばしさは食欲を刺激する匂いなのに、ここでは喉を刺す匂いだ。刺す匂いは、飲み込めない言葉に似ている。


「どうぞ」


 店主が言う。

 女性は箸を取った。箸先がぶれない。ぶれない箸は、覚悟の箸だ。


 食べる前に、女性はもう一度深呼吸した。

 その深呼吸が、誓約みたいに見えた。誓約を結んでから、食べる。宗教みたいだ。でも、店主は救いを拒む。救いがない宗教。取引だけの宗教。


 女性は一口食べた。


 すぐには何も起きなかった。

 すぐに起きないのが、この店の嫌らしさだ。効くなら効いてくれた方が分かりやすい。分かりやすい方が楽だ。楽を求めると、空白に近づく。俺は楽を求めている。


 女性が二口目を食べた。

 三口目。

 喉が動く。喉が動くと、食べ物が体に入る。入った瞬間、女性の眉がほんの少しだけ動いた。動きが小さい。小さい動きが、代償の始まりを示している。


 女性は箸を置いた。


 席を立った。

 立ち方も迷いがない。迷いがないまま、俺の方を一度見た。


「大丈夫です」


 言われていないのに、言う。

 大丈夫という言葉が、誰のための言葉か分からない。たぶん俺のためだ。俺が動揺しているのが見えている。


 俺の胸が少しだけ痛んだ。痛むのが遅い。遅い痛みは、感情が薄れている証拠だ。薄れるのが怖い。


 女性が暖簾の方へ歩いた。

 歩きながら、ふと振り返った。


「すみません」


 女性が言った。


「もし……また、来たら」


 言いかけて、止まった。止まった瞬間、口の形だけが残る。残った口の形は、言いたかった言葉の形だ。


「……あの人のこと、どう呼べばいいですか」


 あの人。

 名前が抜ける。抜けると、呼び方がなくなる。呼び方がなくなると、関係が宙に浮く。宙に浮いた関係は、執着の正体に近い。


 女性の目が揺れた。揺れは涙じゃない。焦点が定まらない揺れだ。揺れ方が、怖い。


 店主が言った。


「呼ぶな」


 女性は息を吸った。

 吸って、吐いた。

 吐いた息が少し白い。店の外は寒いのに、店内は暖かい。白い息が見えるのは、熱と冷えが混ざっているからだ。


 女性は頷いた。

 頷きは小さい。小さい頷きは、自分に言い聞かせる頷きだ。


 女性が暖簾をくぐった。

 外の空気が一瞬入って、すぐ消えた。消えると、店内は静かになる。静かになると、俺の中の音が大きくなる。


 


「今の」


 俺は言った。声が掠れている。掠れた声は情けない。情けないと感じるのが、また自己罰だ。


「それで、いいんですか」


 店主は皿を下げた。皿を下げる動きは、いつも通りだった。いつも通りの動きが、この店の残酷さを支える。


「いいか悪いかは知らない」


 店主が言う。


「ここは台所だ」


 またそれだ。台所。

 言葉が反復されると、呪文になる。呪文は逃げ道を塞ぐ。


「でも、取引だって言うなら」


 俺は言った。

 言葉が出る。出るのは怒りだ。怒りが出ると、胸が熱くなる。熱くなると、喉が乾く。乾きが回る。


「取引の内容を、客が全部理解してるとは思えない」


 店主がこちらを見る。目は動かない。動かない目は、俺の言葉を切り分けている。


「理解してる」


「してないです。さっきの人だって」


 俺は言いかけて、止まった。

 止まったのは、理由を言いそうになったからだ。理由を言えば、女性の事情を勝手に推測することになる。推測は混ざる。混ざるのは禁物だ。


 店主が言った。


「お前は、説明したいんだろ」


 俺は黙る。

 黙ると、店主が続ける。


「説明したら、お前が楽になる」


「楽になるためじゃない」


 反射で言った。反射は正直だ。正直が、時々嘘より怖い。


 店主は言った。


「救うって言葉は、救う側の快感だ」


 快感。

 快感という言葉が、嫌に具体だ。俺の胸のどこかがチクリとした。チクリは痛みじゃなくて、認めたくない当たりだ。


「じゃあ、何もしないのが正しいんですか」


 俺は言った。

 正しいという言葉を口にした瞬間、自分の口が汚れた気がした。正しさを求めるのは、免罪符を求めるのと似ている。


 店主は皿を洗い始めた。水音が響く。水音は現実の音だ。現実の音が、答えの代わりになる。


「正しさは知らない」


 店主が言う。


「ここは台所だ」


 また台所。

 言葉が積み上がって、壁になる。壁の向こうに、店主の過去があるのかもしれない。過去に触れたいと思う瞬間がある。触れたいのは、店主を人間にしたいからだ。人間にすれば、怖さが減る。怖さが減れば、ここに居られる。


 俺は気づく。

 俺は、ここに居たいと思っている。

 その事実が、口の中を苦くした。


「じゃあ、俺は何をすればいい」


 俺は言った。

 言ってから、言い方が子どもみたいだと気づいた。気づくと、すぐ自己罰が湧く。湧くのに、今日は少しだけ抑えられる。


 店主が水を止めた。


「分けろ」


 短い。短い言葉は命令だ。


「事実と願望と自己罰。お前は今日も混ぜた」


 俺は言い返したかった。混ぜてない。混ぜないようにしている。でも、混ぜた。正義と恐怖を混ぜた。説明と免罪符を混ぜた。混ぜたのに、混ぜたことを認めたくない。


 店主は続けた。


「客の選択を奪うな」


 奪う。

 言葉が重い。重い言葉は、俺の手首を掴む。さっきの女性の「いいです」は、選択だった。欠損を引き受ける選択。俺が説明したら、その選択は揺れたかもしれない。揺れたら、女性はここに来られなかったかもしれない。来られなかったら、女性は別の形で壊れたかもしれない。


 そんな推測は意味がない。意味がない推測は、ただ俺を楽にするだけだ。


 俺は黙って皿を洗った。

 水が指の間を流れる。洗剤の匂いが強い。強い匂いは現実だ。現実の匂いで、俺は呼吸を整えた。


 整えながら、カウンターの端に置かれた帳簿を見てしまう。

 見ない方がいいのに、見てしまう。見てしまうのは、知りたいからだ。知れば、怖さが減る。怖さが減れば、ここに居られる。居られるために、俺は知りたい。


 帳簿には、料理と代償が並んでいる。

 体系化された残酷さ。

 残酷さが体系になると、倫理っぽく見える。倫理っぽく見えると、正しいかもしれないと思えてしまう。思えてしまうのが、危険だ。


 店主が言った。


「それ」


 顎で帳簿を示す。


「見て、どう思った」


 俺は正直に答えたくなかった。正直は弱い。弱い正直は、ここでは料理の材料にされる。


「……怖いです」


 結局、言った。

 怖いという感情語を使うのは、なるべく避けたい。避けたいのに、口が選んだ。選んだことが、少しだけ嬉しい。空白じゃない。


 店主は頷かなかった。

 否定もしない。


「怖いのは、お前が救いを欲しがるからだ」


 救いを欲しがる。

 俺は反論したかった。俺は救いなんて欲しくない。ただ、正しいことをしたいだけだ。そう言いかけて、止まった。正しいことをしたい。つまり免罪符が欲しい。つまり救いが欲しい。言葉を切り分けると、逃げられない。


「救いは」


 店主が言う。


「一番危険だ」


 その言い方が、妙に静かだった。

 静かだから、刃だった。


 


 帰り道、喉が乾いたままだった。

 夜風は冷たいのに、口の中は熱い。熱いのは怒りの熱だ。怒りを吐き出せないまま、体の中で煮えている。


 家に着いて鍵を回すと、玄関の空気が少し湿っていた。

 湿りは、雨の湿りじゃない。湯気の湿りだ。鼻の奥に、味噌とも違う匂いが残っている。


 部屋の電気をつける前に、俺は立ち止まった。

 暗い部屋の中に、何かがいる気配はない。でも、椅子の位置が少しだけ違う気がした。違うのは気のせいかもしれない。気のせいにしたい。でも、床の上に、薄い水の輪がある。水の輪は、湯気が冷えた跡みたいだった。


 俺は指で輪の縁を触った。

 冷たい。

 冷たいのに、匂いがする。

 店の匂いだ。焦げと洗剤と、煮込んだものの匂い。


 心臓が少し速くなった。

 速くなると、体が現実を認め始める。認めたくないのに、認めるしかない。


 境界が滲んでいる。

 匂いが残るだけじゃない。湿りが残る。物が動く。現実側が、店の影響を受け始めている。


 俺は窓を開けた。

 冷たい空気が入ってくる。

 冷たい空気は、少しだけ匂いを薄める。薄めても消えない。消えない匂いが、ここが逃げ場じゃなくなっていることを示す。


 そのまま、何も食べずに風呂に入った。

 湯で温まると、逆に匂いが立つ気がした。立つ匂いは、皮膚の奥に染みているみたいだった。洗っても落ちない汚れ。汚れじゃない。取引の痕。


 ベッドに倒れ込んでも、眠りは浅かった。

 浅い眠りの底で、帳簿の文字が並んだ。料理名と代償。短い言葉が、脳の壁に貼り付く。剥がせない。


 明け方、ようやく少し眠った。


 


 翌日。

 昼の現実は、相変わらず薄い。薄い現実は、音だけが先にある。会話が内容にならない。内容にならないのに、返事だけはできる。反射の返事。


 職場の休憩室で、同僚が缶コーヒーを開けた。プルタブの音が乾いている。乾いた音は、昨日の帳簿の紙を撫でる音に似ていた。


「そういえばさ」


 同僚が言った。

 軽い声。軽い声は、深刻を隠すためじゃない。ただの日常だ。


「変な路地、知ってる?」


 俺の指先が止まった。

 止まるのは、まだ混ざっていない証拠だ。止まると、体が先に警戒する。


「路地?」


 自分の声が掠れた。掠れた声は平静を装えていない。


「夜だけ、妙に暖かい光が見えるんだよね。昨日さ、帰り道で見えた。なんか、あったかい色でさ」


 同僚は笑いながら言う。笑いが、冗談の笑いだ。冗談で済む話として語られているのが、逆に怖い。


「気のせいじゃない?」


 俺は言った。

 言いながら、自分がいちばん気のせいにしたいのは俺だと思った。


「気のせいかな。でも、あそこ、いつも暗いのにさ。昨日だけ、なんか」


 同僚が首を傾げる。

 俺の喉が乾く。乾くと、帳簿の文字が浮かぶ。境界侵食。危険。現実巻き込み。


 俺は笑う練習をした。

 口角を上げる。上げると頬が引きつる。引きつるのが自分でも分かる。分かるのに、止められない。


「へえ」


 それだけ言った。

 それ以上言えば、混ざる。混ざれば戻らない。店主の言葉が、今日だけははっきり頭に残っている。


 同僚が続けた。


「今度、見に行ってみようかな。写真撮ったら映えるかも」


 映え。

 第2話の客が言っていた言葉が、耳の奥で鳴った。軽口は、危うさを隠す。現実側の軽口は、境界を踏み抜く。


 俺は缶コーヒーを握り直した。

 金属が冷たい。冷たいのに、手の中が汗ばむ。汗は、生きている汗だ。生きているから、怖い。


 店は、救済機関じゃない。

 取引所だ。

 感情処理の台所だ。


 そして今、その台所の湯気が、俺の部屋だけじゃなく、他人の現実にも滲み始めている。


 机の上で、同僚のスマホが震えた。通知音が鳴る。鳴る音は、いつも通りの音だ。いつも通りの音が、今日だけやけに遠く聞こえた。


 俺の中で、二文字がまた黒く残った。


 代償。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ