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生きる気がない人しか入れない店 ―あやかし食堂・本日の献立は後悔―  作者: 妙原奇天


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8/12

第8話 「空白は、楽じゃない。選べなくなる」

その店に入れるのは、

死にたいと思ったことがある人間だけだ。


少なくとも、そういう人間にしか、

あの暖簾は見えない。


 


 昼は、選択肢で殴ってくる。


 コンビニの棚の前に立つと、弁当が並んでいる。ラベルが色で分かれていて、味が書いてあって、温めますかと訊かれる準備まで整っている。整っているのに、俺の指は動かない。動かない指が、ポケットの中で小さく丸まる。


 選ぶという行為が、痛い。


 痛いのが腹じゃなくて胸の奥に来るから、たぶん痛みの場所が間違ってる。胸の奥が痛いと、息が浅くなる。浅い息で棚を見続けると、目が乾く。乾いた目で見ているのは弁当じゃなくて、決められない自分だ。


「温めますか」


 店員の声がした。俺は頷いた。頷いたのは、温めるかどうかを決めたからじゃない。早くこの場を終わらせたかっただけだ。終わらせたいのは、恥ずかしいからだ。選べないのは恥ずかしい。恥ずかしいという言葉を自分に使いたくない。使いたくないのに、使ってしまう。


 会計を済ませて、袋を受け取る。袋が軽い。軽い袋が、俺の手首にぶら下がる。その軽さがやけに不安になる。俺の昼はいつも、何かが軽すぎる。


 職場に戻って、デスクに座る。画面が光って、通知が鳴る。鳴る音は一定だ。一定の音は助かる。助かるはずなのに、今日は助からない。画面の文章が、意味じゃなくて形に見える。文字の形だけが並んで、内容が入ってこない。


 隣の席の人が笑った。笑い声が、昨日より少し高い。高い笑い声は、空気を明るくする。明るい空気の中で、俺は暗いまま座っている。暗いまま座っている自分が、急に浮く。浮いた瞬間、腹の奥が冷える。


 冷えるのが、怒りに似ていると気づいて、すぐ目を逸らした。


 怒りの置き場がない。置き場がない怒りは、胃に落ちる。胃に落ちた怒りは、内臓を重くする。重くなった内臓を抱えたまま、俺はまた選択を迫られる。


「これ、真白さんが確認お願いできますか」


 資料が回ってくる。確認という言葉が、選択に似ている。どこを見て、何を直して、いつ返すか。細かい決め事の集まり。それが仕事だと分かっているのに、今日は全部が刺さる。


「はい」


 返事はした。返事は選べる。返事だけは反射で出る。反射で出る返事は、俺の中身と繋がっていない。繋がっていない返事が、どんどん積み重なる。積み重なると、俺は自分の言葉が分からなくなる。


 昼休み、鏡の前でネクタイを直した。直しながら、ネクタイの色が急にわからなくなった。わからなくなったのは色じゃない。俺が、何を好きで何を嫌いか、わからなくなった。


 わからないことが増えるほど、選ぶことが痛くなる。


 痛いから、選ばない。


 選ばないから、全部が他人に決まる。


 他人に決まる人生を、俺はどこかで望んでいる。望んでいるのが怖い。怖いと思うことすら、今日は選べない。


 夕方、上司が声をかけてきた。


「大丈夫? 顔色悪いよ」


 心配の形をした言葉だ。心配の形は、優しさにも刃にもなる。刃かもしれないと思った瞬間、俺の中の何かが縮む。縮んだあと、笑う練習が始まる。


「平気です」


 平気という言葉が口から出た。平気の中身が空っぽだと自分で分かる。分かるのに、引き返せない。引き返せないから、平気は平気のまま確定する。


 確定した瞬間、胸の奥が白くなる。


 白い。


 白いと言葉にしたら、あの飯が浮かんだ。味がしない飯じゃない。味が来ない飯。空白飯。空白が胃に貼り付く、と店主は言った。


 俺は、貼り付いてほしいと思ってしまった。


 その瞬間だけ、選べた。


 夜になって、駅のホームに立つ。人の流れが一定で、列ができて、電車が来る。ここでは選ばなくても前に進む。前に進むのは簡単だ。簡単な流れに身を任せていると、気が楽になる。楽になるのが、怖い。楽はいつも、後から代償を連れてくる。


 ホームの端の黄色い線が目に入った。黄色い線の手前に立っている自分が、急に信用できなくなった。信用できない自分を、俺は監視する。監視すると疲れる。疲れると、空白が欲しくなる。


 路地の入口が見えたのは、たぶん偶然じゃない。


 見えた瞬間、喉が乾いた。乾いた喉の奥に、汁物の熱が残っている気がした。あの怒りの汁は飲めなかった。飲めなかったことが、今は悔しい。悔しいという言葉が出てくるのが、さらに悔しい。


 俺は自分で自分を押すみたいにして、路地へ入った。


 


 暖簾の文字は、いつも通り揺れていた。揺れているのに、今日は白い気配がする。文字の黒が薄いわけじゃない。白が、その奥から滲んでいる。


 読もうとすると、喉が詰まった。詰まるのに、目は離せない。


 本日:白。


 読めた瞬間、舌の裏がざらついた。ざらつきが唾を呼ぶ。唾が出ない。出ない代わりに、腹の奥がすうっと冷える。冷えるのに、心臓が少し早く打つ。


 俺は暖簾をくぐった。


 店内はいつもと同じだった。カウンター、数席、湯気、包丁の音。音が少ない。少ない音が、俺の中の雑音を浮かび上がらせる。


 店主は米を研いでいた。水の中で米が白く渦を巻く。白い渦が、目に刺さる。刺さる白が、俺の胸の白と重なる。


 店主は顔を上げない。


「皿係」


 そう呼ばれた。あだ名は簡単だ。簡単だから、俺はそこに入れる。真白という名前より、皿係の方が生きやすい。生きやすいと思った瞬間、喉が乾いた。


「……」


 俺は言葉を探した。探しているうちに、口が勝手に動きそうになる。


 白いの、ありますか。


 言いそうになって、噛んだ。噛むと歯が痛い。痛いと現実が戻る。戻る現実が、また辛い。


 店主が言った。


「何か言いかけたな」


 顔は上げないのに、分かる。分かるのが嫌だ。嫌なのに、嬉しいみたいな気持ちも混ざる。混ざるなと言われたのに、混ざる。


「別に」


 俺は言った。別にの中身はない。ないのに、別にと言うと会話が止まる。止まってほしかった。


 店主は水を切って、ザルを置いた。置く音が静かだ。静かな音に、俺の呼吸が大きく聞こえる。


「白が欲しいなら、早い」


 店主が言った。


 俺の背筋が冷えた。冷えるのに、胸の奥が少し軽くなる。軽くなるのが怖い。軽くなるのは、欲しいと認められたからだ。


「欲しいって」


 俺は言い返そうとして、止まった。止まると喉が詰まる。詰まる喉が、白い飯の匂いを想像する。


「言葉にするな」


 店主が短く言った。「混ざる」


 俺は黙った。黙るのは得意だ。得意だから、黙ると自分が消える。消えると楽だ。楽が欲しい。


 暖簾が揺れた。客が来る。


 


 入ってきたのは、明るい人だった。


 明るい服、明るい声。年は俺と同じくらいか少し上。髪は軽く巻かれていて、笑うと頬が上がる。上がる頬が、疲れているのに明るいときの上がり方だった。


「こんばんはー。ここ、開いてます?」


 軽い。軽い言葉は場を和ませる。和ませる言葉が、本人を守る。


 店主が言った。


「開いてる」


 短い。短い返事に、客は笑った。


「やった。なんか、こういう店、落ち着くんですよね。隠れ家っていうか」


 言いながら席に座る。座り方が丁寧だ。丁寧なのに、肩が少し落ちている。落ちている肩は疲れの肩だ。疲れは隠せない。隠せない疲れを、明るさで覆っている。


 俺は水を出した。コップが冷たい。冷たいコップを置くと、客は「ありがとう」と言った。そのありがとうの速度が速い。速いありがとうは、相手に考えさせないためのありがとうだ。


 店主が客を見て言った。


「何を食う」


「うーん」


 客は笑った。笑いながら、目が少し泳ぐ。泳ぐ目が、選べない目だった。


「なんでもいいです。おまかせで」


 なんでもいい、は便利な言葉だ。便利な言葉は、自分を守る。守るために言っているのが分かると、胸の奥が痛む。痛むのは俺も同じだからだ。


 店主は言った。


「なんでもいいは、いちばん困る」


「え、そうなんですか。じゃあ、えっと」


 客は笑いながら、指先でメニューがあるはずの空気をなぞった。メニューはない。ないのに、あるふりをする仕草が出る。仕草は習慣だ。習慣は疲れだ。


「最近、何も感じなくて。だから、何でもいいかなって」


 客は軽く言った。軽く言ったのに、言ったあと唾を飲み込んだ。飲み込み方が硬い。硬い飲み込みは、言ってはいけないことを言ったときの飲み込みだ。


 俺は客の指先を見た。爪の先が少し欠けている。欠けは、何かを掴んで離さなかった欠けだ。掴んでいたのが何かは分からない。分からないまま、欠けだけが残っている。


 店主が言った。


「空白を頼むなら、代わりに何かを捨てる」


 客は笑った。


「捨てたいです。もう、いろいろ」


 いろいろ、という言葉が軽い。軽い言葉で重いものを隠す。隠すと、本人が見えなくなる。見えなくなるのが空白だ。


 俺の喉が乾いた。乾いたのは羨ましいからだ。羨ましいと思ってしまう自分が、嫌だ。


 店主は俺に言った。


「聞け」


 まただ。俺は客の方を向いた。客は笑っている。笑っているのに、目だけ乾いている。乾いた目が、俺の乾いた喉と繋がる。


「……今」


 俺は言葉を探した。探すと喉が詰まる。詰まると、腹の奥が冷える。


「今、いちばん避けたいのは、何ですか」


 言った。言った瞬間、自分に刺さった。避けたいのは、選ぶこと。選んだ責任。責任という形の痛み。


 客は「うーん」と言って笑った。その笑いが、少し遅れた。遅れた笑いは、本音が先に出てしまったときの笑いだ。


「選ぶこと、かな」


 客は言った。軽く言ったつもりなのに、言葉の最後が少し震えた。震えが喉に残る。


「何を食べるかも、何を着るかも、誰に返事するかも。全部、面倒で」


 面倒という言葉が、疲れを隠している。隠しきれていない。客の肩が少しだけ上がって、すぐ落ちた。上がって落ちる肩は、息をこらえた肩だ。


 店主が言った。


「白だな」


 白、という言葉が店内に落ちた。落ちた瞬間、俺の胸の奥が白くなる。白くなるのに、熱も残っている。残っている熱が、今は居場所を失う。


 店主が飯を盛った。白い飯が器に山になる。山になる白が、凶器みたいに見える。凶器は手に持てる。白い飯は口に入る。入ると、何が起きる。


 客は箸を取った。箸の持ち方は綺麗だ。綺麗な持ち方は、人前でちゃんとしていた人の持ち方だ。ちゃんとしていた人ほど、空白を欲しがることがある。欲しがる理由は、ちゃんとしすぎた疲れだ。


 客が一口食べた。


 咀嚼の動きが少し遅い。遅い咀嚼は、味を探している咀嚼だ。探しても味が来ない。来ない味の代わりに、何かが貼り付く。


 客は笑った。


「……うわ。楽」


 楽、という言葉は軽い。軽いのに、俺の胃が痛んだ。痛むのは、羨ましいからだ。羨ましいと思ってしまうのが、また痛い。


「すごい。なんか、考えなくていい感じ」


 客は続けて食べる。食べる速度が少し速くなる。速くなるのは、効いているからだ。効いているときの人は、もう少し欲しがる。欲しがるほど、何かが削れる。


 店主は何も言わない。止めない。止めないのが、この店だ。


 客は飯を半分くらい食べたところで、急にスマホを取り出した。画面を見て、指を動かす。動かして、止まる。


「あ、そうだ。今日、友達から連絡来てたんだ」


 客は言った。言い方が軽い。軽いのに、目が画面から離れない。離れない目は、そこに大事なものがある目だ。


「返事しないと」


 客は言った。言ったのに、指が止まる。止まる指が、空白に沈む。沈むと選べない。選べないと、動かない。


「……あとでいいや」


 客は笑ってスマホを伏せた。伏せたスマホが、テーブルに小さく音を立てる。その音がやけに大きい。大きい音が、捨てたものの輪郭を作る。


 店主が小さく言った。


「ほら、捨てた」


 客は笑った。


「捨てたって、何をですか」


「今、返事する理由」


 店主が言う。理由、という言葉が刺さる。俺は昼に、返事だけをしていた。返事する理由は考えていなかった。考えない返事は空白だ。空白は楽だ。楽は、奪う。


 客は「へえ」と言った。へえの温度が薄い。薄い温度のへえは、驚きじゃない。驚く力が落ちている。


 俺の中で何かがざわついた。ざわつきは、止めたいざわつきだ。止めたいのに、止める言葉が出てこない。


「……それ」


 俺は言った。言った瞬間、客がこちらを見た。見た目が明るい。明るい目の中に、疲れが沈んでいる。沈んでいる疲れが、俺と同じ形をしている気がした。


「それ、やめた方が」


 俺は言った。言った瞬間、喉が乾いた。乾きが強い。乾きが、俺の言葉を薄くする。薄くなるのに、言ってしまった。


 客は笑った。


「えー。でも、楽だから」


 楽だから、という理由が簡単すぎる。簡単な理由は、止まらない。止まらない理由が、人生を削る。


「楽って、いいじゃないですか」


 客は続ける。明るい声。明るい声が、暗い本音を押し込める。押し込めると、空白が増える。


 店主が言った。


「止めたいなら、代わりを出せ」


 俺は店主を見た。店主の手が、ほんの少し止まった。止まって、また動いた。止まり方が微細すぎる。微細だから、人間の癖に見える。癖が出るのは、何かが刺さっているときだ。


「代わりって何ですか」


 俺が言うと、店主は短く返した。


「選べ」


 選べ。刺さる。刺さるのに、俺は選べない。


 客は飯を食べ続けている。食べるたびに、目の焦点が少し遠くなる。遠くなる目は、今ここから離れていく目だ。離れていくのに、笑っている。笑っているのが、怖い。


 客が箸を置いた。器は空になっていた。空になった器が白い。白い器が、空白そのものだ。


「ごちそうさまでした」


 客は丁寧に言った。丁寧なのに、声が少し薄い。薄い声が、ここにいるのかいないのか分からなくする。


 客は立ち上がって、財布を出した。出した財布が手から滑った。床に落ちる。落ちた音がした。音がしたのに、客はすぐに拾わない。


 拾わないことが、ありえないくらい怖かった。


「落ちてます」


 俺が言うと、客は「あ、ほんとだ」と笑って、ゆっくり拾った。ゆっくり拾う動作が、まるで自分のものじゃないみたいだった。


「大丈夫です」


 客は言った。大丈夫の中身が薄い。薄い大丈夫は、危ない。


 店主が言った。


「金はいらない」


「え、いいんですか」


「皿を洗え」


 店主は客に言った。客は少し笑って、エプロンを受け取った。受け取った手が、妙に素直だった。素直すぎるのが空白の怖さだ。抵抗が消える。抵抗が消えると、選択が消える。


 客は皿を洗った。洗う手つきが丁寧だ。丁寧なのに、目が空いている。空いている目で、流しの中を見ている。見ているのに、見ていない。


 俺は隣で手を動かした。水の冷たさが、指に刺さる。刺さる冷たさが現実だ。現実があると少し安心する。安心してしまう自分が、また羨ましくなる。羨ましさが、客に向く。客が空白を得たから羨ましい。羨ましいと思った瞬間、俺は自分が醜いと感じる。醜いという言葉も使いたくない。使いたくないのに、使ってしまう。


 客が皿を拭き終えて、暖簾の方へ向かった。暖簾が揺れる。揺れが短い。短い揺れの後、客は振り返って笑った。


「また来てもいいですか」


 明るい声。明るい声が、薄くなっている。薄い明るさは、蛍光灯みたいだ。明るいのに温度がない。


 店主は言った。


「見えたらな」


 客は頷いた。頷きが軽い。軽い頷きが、恐ろしい。


 客が出ていった。出ていった後、店内が静かになった。静かになると、俺の中のざわつきが大きくなる。大きくなるざわつきが、止めたいのか欲しいのか分からない。


「……あれ、あの人」


 俺は言った。言いながら、言葉が足りない。足りないのは説明だ。説明するための言葉が、今は見つからない。


「選べなくなってた」


 俺は言った。やっと出た言葉。出たのに、喉が乾く。


 店主は米袋を閉じながら言った。


「空白は、楽じゃない。選べなくなる」


 言い方が淡々としている。淡々としているから、余計に刺さる。刺さるのは、俺も同じ道に立っているからだ。


「でも」


 俺は言った。言葉が詰まる。詰まって、喉が痛い。


「でも、あの人、楽だって言ってた」


 店主は手を止めない。


「楽って言えるのは、まだ残ってるからだ」


「何が」


 俺が訊くと、店主はやっと顔を上げた。目が静かだ。静かな目が、俺の胸の白を見ている気がした。


「怖さ」


 店主が言った。


 怖さ、という言葉が落ちる。落ちた怖さが、俺の中で転がる。転がる怖さが、胃に落ちる。落ちた瞬間、胃が痛んだ。


「止めた方がいいって言ったの、優しさか」


 店主が言う。問いが刃だ。刃は簡単に刺さる。


「わかんない」


 俺は言った。わかんないの中身が、今日は本当だ。


「怖かっただけかもしれない」


 俺が言うと、店主は少しだけ笑った。笑ったのに温度がない。温度がない笑いは、肯定でも否定でもない。


「混ざってる」


 店主が言った。


「止めたいのと、欲しいのが」


 俺は息を止めた。止めた息が胸を痛くする。痛いのに、否定できない。


 店主は言った。


「欲しいなら飲めばいい。止めたいなら、止めればいい」


「止められないから困ってる」


 俺は言った。言った瞬間、声が少し強くなった。強くなった声が、自分で怖い。怖いのに、少しだけ気持ちいい。気持ちいいのが、さらに怖い。


 店主は言った。


「技術がない」


「技術って何」


 俺が聞くと、店主は短く返した。


「分ける」


 分ける。混ぜるな。分けろ。


「分けるって、どうやって」


 俺が言うと、店主は流しの方を見た。流しには皿が積まれている。皿は種類ごとに分ける。割れ物、油物、汚れが強いもの。順番を考える。考えるのは技術だ。考えると、選ぶ。


「台所だ」


 店主が言った。


「切り分けができない奴は、全部腐らせる」


 腐る、という言葉が鼻に残った。腐った匂いが想像できる。想像できる腐りが、俺の胸の白に染みる。


「俺は」


 俺は言いかけて止まった。止まるとまた乾く。乾きが、白い飯の匂いを呼ぶ。


 言いかけたのは、白いのが欲しい、だった。


 言わなかった。言わなかったのに、店主は分かっている顔をした。分かっている顔はしない。店主はいつも、顔を動かさない。ただ、指先が少し止まった。それだけで分かる。


「お前」


 店主が言った。


「白を欲しがるなら、先に覚えろ」


「何を」


 俺は言った。声が小さい。小さい声は頼っている声だ。


「混ぜるな。分けろ」


 店主はそれだけ言った。繰り返し。短い反復。反復が核になる。


 俺は皿を洗った。洗っていると、水が手の甲を流れる。流れる水が冷たい。冷たい水が、白い飯の白さを薄くする。薄くなっても、白は消えない。


 帰るとき、暖簾が揺れた。揺れの向こうが暗い。暗いのに、白い気配がある。白い気配が、俺を引く。引かれるのが怖い。怖いのに、足が止まらない。


 路地を出ると、街の光が眩しかった。眩しさが目に刺さる。刺さる眩しさの中で、俺は昼の弁当棚を思い出した。選べなかった棚。選べない痛み。痛みを消すために白を食べる。白を食べると選べなくなる。選べなくなると痛みが消える。痛みが消えると、俺は俺じゃなくなる。


 それでも、楽が欲しい。


 袖口に、白い飯の匂いが残っている気がした。匂いはない。ないのに、ある。あると感じるのが、侵食だ。


 スマホが震えた。通知。誰かのメッセージ。画面を見る。返事を選ぶ。選ぶのが痛い。痛いから、閉じる。


 閉じた指先が、少し震えた。


 俺はその震えを見て、まだ怖さが残っていると知った。残っている怖さが、今日の俺の最後の抵抗だった。


 路地の奥で、暖簾がもう一度揺れた気がした。

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