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生きる気がない人しか入れない店 ―あやかし食堂・本日の献立は後悔―  作者: 妙原奇天


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第7話 「怒りは、料理する側に回った瞬間に凶器になる」

その店に入れるのは、

死にたいと思ったことがある人間だけだ。


少なくとも、そういう人間にしか、

あの暖簾は見えない。


 


 昼休みの給湯室は、狭いくせに声がよく響く。


 紙コップにコーヒーを注ぐ音がして、砂糖を落とす音がして、誰かが笑った。笑いは軽い。軽い笑いは、誰かを軽くする。


「真白ってさ、なんかいつも無だよね」


 後ろから言われた。悪意の匂いはしない。言い方も柔らかい。だから余計に逃げ場がない。悪意じゃないなら怒れない。怒れないなら、俺が悪いみたいになる。


 俺は紙コップを持ったまま振り返った。同期の男が、半笑いで肩をすくめている。周りの二人も笑っていた。笑っているだけ。笑うだけなら、責められない。


「無ってどういう」


 声は出た。出たのに、自分の声が遠い。


「いや、なんかさ。何言っても刺さらなそう。いい意味で」


 いい意味で、という逃げ道が付け足される。逃げ道が付け足されると、俺の足場が消える。足場が消えると、心の奥が冷える。冷えるのは一瞬で、すぐに何も感じなくなる。感じなくなるまでの間の冷えがいちばん嫌だ。


「刺さるよ」


 俺は言った。言ってから、自分で変だと思った。刺さる。そんな言葉をここで使うのは、店のせいだ。店の言葉が日常に混ざっている。


「え、まじ? ごめん」


 男は笑って手を上げた。謝り方が軽い。軽い謝り方は、謝ってないのと同じだ。謝り方が軽いと、許すしかない。許すしかないと、怒りの置き場がなくなる。


 俺は笑った。笑う練習。頬の筋肉が動いて、口角が上がる。上がると、周りは安心する。安心されると、俺は透明になる。


 透明になったまま席へ戻った。キーボードを叩く音が規則的で、心が少し落ち着く。落ち着くと、腹の奥の冷えが見える。見える冷えが、ゆっくり熱に変わりそうになる。


 熱になる前に、俺はそれを押し込んだ。押し込むと胃が痛む。痛みは現実だ。現実があるのは助かる。助かると思うことが、また腹の奥を冷やす。


 午後の打ち合わせで、上司が資料のミスを指摘した。指摘は正しい。正しい指摘は、反論できない。俺は謝った。謝る言葉は自然に出る。自然に出るほど、俺の中の何かが削れる。


「真白、最近ぼんやりしてる?」


 上司が言った。心配の形をしている。心配の形は、刃の形をしていることもある。


「すみません」


 俺は言った。すみませんの音だけが口から出た。意味は薄い。意味が薄いのに、言わないと終わらない。


 終わって、夜になった。帰り道の街は明るい。明るいのに、俺の足元だけが影になっている気がした。影の中を歩くと、目の奥が乾く。乾きが喉へ落ちる。


 昼の笑いが、まだ耳の奥で鳴っている。鳴っている笑いの音に、腹の奥の熱が反応する。反応して、少しだけ息が荒くなる。荒くなった息を、俺はゆっくり吐いた。


 吐いても、熱は消えない。


 


 路地の入口で立ち止まった。


 誰も見ていない。見ていないのに、見られている気がする。自分の中の何かが、俺を見ている。見ている目が、怒りの目だと気づくと、喉が乾いた。


 暖簾が見えた。見えた瞬間、あの言葉が頭に浮かぶ。


 その店に入れるのは、死にたいと思ったことがある人間だけだ。


 死にたい。そう思ったことがある。あるから見える。見えるから入る。入るから、また思う。循環ができている。循環ができているのに、誰も止めない。


 暖簾の文字が、今日は熱を持って見えた。文字の形が、湯気の向こうで揺れているみたいに滲む。読もうとすると、喉が渇く。渇きが先に来る。渇きが先に来るのは、欲しがっているからだ。


 本日:汁物。


 読めた瞬間、舌の裏がざらついた。ざらつきは唾を呼ぶのに、唾が出ない。出ない唾の代わりに、心臓が少し早く打つ。


 俺は自分が、怒りの汁を欲しがっていることに気づいた。


 欲しがっている自分が、怖い。


 暖簾をくぐった。


 


 店主は鍋を火にかけていた。火の音は聞こえない。聞こえないのに、熱だけが伝わる。熱は形がない。形がない熱が、じわじわ近づく。


「来たな」


 店主が言った。視線は鍋のまま。


「昼、嫌なことあった?」


 俺が言うと、自分で驚いた。聞き方が雑だ。雑な聞き方をするほど、俺の中の苛立ちが外に出たがっている。


「嫌なことは、誰にでもある」


 店主が言った。短い返事。短い返事は、会話を終わらせる返事だ。


「そうじゃなくて」


 俺は言った。言いかけて止まった。止まると喉が詰まる。喉が詰まると、昼の笑いが戻る。


 店主が初めてこっちを見た。目が静かだ。静かな目は怖い。静かな目は、止めない目だ。


「飲むか」


 店主が言った。問いは簡単なのに、喉が乾いた。


「俺は」


 俺は言いかけて、言葉が詰まった。詰まった瞬間、店主が視線を外した。


「客だ」


 店主が言った。入口の方へ顎をしゃくる。俺も振り返った。


 


 若い男が入ってきた。二十代前半くらい。服はきちんとしている。髪も整っている。体の線が少し硬い。硬いのは緊張か、我慢か。


 男は何も言わずに席へ座った。座る動きがゆっくりだ。ゆっくり座るのは、体が言うことを聞かないときの動きだ。


 手が震えていた。震えは小さい。小さい震えは隠せる。隠せるのに隠していない。隠せない震えなのかもしれない。震えは怒りの出口がないときに出る。


「怒りを持ち込んだか」


 店主が言った。声は淡々としている。淡々としている声に、男の肩が少しだけ跳ねた。


「怒りじゃないです」


 男は丁寧に言った。丁寧なのに、語尾が硬い。硬い語尾は、歯を食いしばっている証拠だ。


「怒りじゃないなら、何だ」


 店主が言う。


 男は一瞬だけ目を逸らした。逸らした目が、壁の一点に止まる。止まる目は逃げている目だ。逃げているのは、怒りからだ。


「……わかりません」


 男は言った。わかりません、という言い方が上手すぎる。上手すぎる言葉は、習慣だ。習慣は誰かに作られる。作られた習慣は、怒りを飲み込むための習慣だ。


 俺は息を吸った。吸った息が喉をこする。こすれる感覚が痛い。痛いのに、言葉を出したくなる。出したくなるのは、俺も同じだからだ。


 店主が俺に言った。


「聞け」


 短い命令。命令の短さが、逃げ道を消す。俺は椅子を引いて、男の前に立った。立つと膝が少しだけ震えた。震えは怒りに触れている震えだ。


「……何を」


「注文だ」


 店主が言った。


 注文。ここでは、料理の種類じゃない。感情の種類だ。俺は男の手元を見た。握った指が白い。白い指は力が入っている。力が入っているのに、何も言わない。


 俺は言葉を探した。探すほど、喉が乾く。乾くほど、昼の自分が刺さる。刺さると、腹の奥が熱くなる。


「いちばん」


 俺は言った。


「いちばん、言えなかった言葉は?」


 言った瞬間、自分の胸が刺された。俺にもある。言えなかった言葉。言えない言葉。言ったら壊れるから言わない言葉。言わないまま溜めて、胃に落として、内臓に残る言葉。


 男は唇を噛んだ。噛む動きが強い。強い噛み方は、声を止めるための噛み方だ。止めるほど、声は出たがる。


 店主が一瞬だけ俺を見た。視線が上がる。上がった視線が、すぐ鍋に戻る。戻る速さが、人間の癖だった。


 男は小さく息を吐いた。吐いた息が震えている。震えが喉に残る。


「……やめてください」


 男が言った。丁寧語じゃない。初めて崩れた。崩れた言葉は本音だ。


「何を」


 俺が聞くと、男は首を振った。振り方が雑だ。雑な振り方は、我慢が切れかけている。


「なんで、俺ばっかり」


 男は言って、そこで止まった。止まって、口を閉じた。閉じた口が薄く震える。震えが言葉を押し上げる。押し上げた言葉が、舌の上で固まる。


 俺は何も言えなかった。言えないのは、同じ形の言葉が俺にもあるからだ。


 店主が言った。


「濃いのがいいか」


 男が顔を上げた。上げた顔が、困惑と警戒の間にある。間にある表情は、まだ信じていない表情だ。


「濃いって」


「怒りは薄いと残る」


 店主が言った。残る、という言葉が耳に刺さる。残る怒り。昼の笑いの残り。残りが、俺の胃の奥で熱になっている。


 店主が器を出した。器は深い。深い器は汁を受け止める。受け止める器が、凶器にも見える。凶器は手に持てる形だ。形があると怖い。


 鍋の蓋が開く。湯気が立つ。湯気が目に沁みる。沁みるのに、涙は出ない。ただ目が熱くなる。熱くなる目で、俺は男を見た。


 男の喉が上下した。唾を飲み込もうとしている。飲み込めない。飲み込めない喉は乾く。


 店主が器を男の前に置いた。


「飲め」


 男は両手で器を持った。持ち方が丁寧だ。丁寧なのに指先が白い。白い指が熱い器に触れる。触れると痛いはずなのに、男は離さない。離さないのが執着に似ている。


 男は口をつけた。


 最初の一口で、男の呼吸が変わった。浅かった呼吸が、急に荒くなる。荒くなると、胸が上下する。上下の幅が大きい。大きい上下は、何かが外に出たがっている。


 男は器を置いた。置く音が少し大きい。音が店内に響く。響いた音に、俺の肩が少しだけ緊張する。緊張は怒りに触れている緊張だ。


「……っ」


 男の喉が鳴った。鳴った喉が、言葉を吐き出そうとしている。吐き出すのに、声が小さい。小さい声のまま、しかし止まらない。


「やめろって」


 男が言った。声が出た。大声じゃない。店内を揺らすほどでもない。なのに、その声がすべてを押しのけるみたいに響いた。


「俺に」


 男は続けた。息が荒い。荒い息で言葉を繋ぐ。繋いでしまうと止められない。


「俺にだけ、全部押しつけるなって言ってんだよ」


 言った瞬間、男の肩が落ちた。落ちた肩は、支えていたものを手放した肩だ。手放したのに、男の目は空っぽじゃない。空っぽじゃない目が、逆に怖い。怒りが出た後の空は、冷える。冷える空は、何かが入る。


 男は器をもう一口飲んだ。飲むたびに喉が震える。震えが声の形になる。形になる声が、さっきの言葉を繰り返す。


「やめろ」


 男は言った。繰り返すと、言葉が自分のものになる。自分のものになった言葉は、初めて自分を守る。


 俺はそれを見て、救われた気がした。救われた気がした瞬間、怖さが来た。救われたと感じるのは、俺がそれを欲しがっているからだ。俺も怒りを外に出したい。外に出したら、何かが変わる気がする。変わるのが怖い。怖いのに、欲しい。


 店主が言った。


「出たな」


 男は頷いた。頷いたのに、笑わない。笑わないまま、息を整えようとしている。整えようとして、整えられない。整えられない呼吸が、現実だ。


 男が最後に器を飲み干した。飲み干して、しばらく動かなかった。動かない時間が長い。長い沈黙は、出口の先を見ている沈黙だ。


 男は立ち上がった。立ち上がるとき、膝が一瞬だけ揺れた。揺れが小さい。小さい揺れでも、俺には見えた。見えた揺れが、俺の胸を少しだけ熱くした。


「ありがとうございました」


 男は丁寧語に戻った。戻ったのが少し悲しい。悲しいと言いたくない。言いたくないから、ただ喉が詰まった。


 男が暖簾をくぐった。暖簾が揺れる。揺れが短い。短い揺れの後、店内が静かになった。


 静かになると、俺の中の熱が浮かび上がる。浮かび上がる熱が、居場所を探す。探して、見つからない。見つからない熱は、凶器になる。


 


 俺は流しへ向かった。皿を洗う。洗う音が一定だ。一定の音を聞きながら、器の残り香が鼻に入る。香りが熱い。熱い香りが、舌を乾かす。


 俺は振り返って店主を見た。


「俺にも」


 言葉が出た。出たのに、喉がすぐ乾いた。


「それを」


 俺は言った。言った瞬間、自分で分かった。俺は怒りの汁物を欲しがっている。欲しがっているのは、怒りを外に出したいからじゃない。外に出して、空にしたいからだ。空にしたいのは、楽になりたいからだ。楽になりたいのは、ずるい。


 店主は俺を見た。視線が止まる。止まる視線が、俺の手元の震えを見ている気がした。


「飲めば楽になると思うなら飲め」


 店主は言った。止めない。止めない言葉が、残酷だった。止めないのは中立だ。中立は刃になる。


「……」


 俺は器を受け取った。器は熱い。熱い器が手のひらに刺さる。刺さる熱が、俺の中の熱とぶつかる。ぶつかると、手が震えた。震えは隠せない。隠せない震えが、俺の恥を浮かび上がらせる。


 器を口へ運ぼうとして、止まった。


 止まったのは怖いからじゃない。飲んだら、出てしまうからだ。出たら、戻らない。戻らないのが怖い。怖いのに、欲しい。欲しいのに、怖い。


 店主は何も言わなかった。何も言わないのに、鍋の火が静かに燃えている。燃えている火が、俺の中の怒りを煽る。煽られる怒りが、言葉を探す。探して、昼のあの言葉に辿り着く。


 無だよね。


 いい意味で。


 俺は器を置いた。置いた音が小さい。小さい音が、店内でやけに響いた。


「飲めないのか」


 店主が言った。問い方が淡々としている。淡々としているから、俺の喉が詰まる。


「飲んだら」


 俺は言いかけて止まった。止まるとまた乾く。乾きが増す。


「飲んだら、俺、何言うかわからない」


 それだけ言えた。言えた瞬間、肩が少しだけ落ちた。落ちたのに楽にはならない。楽にならないのが現実だ。


 店主は短く言った。


「それが怒りだ」


 言い切りが短い。短い言い切りが、俺の腹の奥を熱くした。熱くしたまま、店主は背を向けた。背中が揺れない。揺れない背中が、俺を置いていく。


 俺は皿を洗った。水は冷たい。冷たい水で、熱が消えると思った。消えない。熱は内臓に残る。残る熱が、どこにも行けない。


 


 帰り道、コンビニの前で同僚に会った。軽い会話が始まる。軽い会話が、昼の続きみたいで胃が痛い。


「真白、さっきの件だけど」


 同僚が笑って言った。笑いの端が、少しだけ歪んで見えた。歪んで見えたのは俺のせいだ。俺の目が熱を持っているからだ。


「無って言ったの、悪かったって」


 同僚は言った。悪かったって言いながら笑っている。笑っているから、悪いと思ってない。悪いと思ってないから、また言う。言うのを止めたい。止めたいのに、止める言葉が出ない。


 俺は一度、息を吸った。吸った息が喉を擦る。喉が乾いている。乾いている喉に、汁物の湯気が蘇る。蘇る湯気が、俺の舌を熱くする。


「……」


 言い返しそうになった。言い返す言葉は見つかった。見つかった瞬間、胃が痛んだ。痛みが、俺を止めた。止めた痛みが、俺の中へ怒りを押し戻す。


 押し戻した瞬間、内臓がぎゅっと縮む。縮んだ内臓に、熱が溜まる。溜まった熱が、行き場を失う。失った熱が、凶器になる。


 俺は笑った。笑う練習。笑うだけで終わる。終わらせるために笑う。


「うん、大丈夫」


 口が勝手に言った。言ってしまった後、腹の奥が冷えた。冷えたのに、熱も残っている。冷えと熱が一緒にいる。混ざっているのに、混ぜるなと店主は言う。


 俺は歩き出した。歩きながら、胃の痛みが強くなった。痛みは怒りの居場所だ。居場所が内臓だと、いつか破れる。


 袖口に、汁物の匂いが残っている気がした。


 誰もいない路地の奥で、暖簾が揺れた気がした。

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