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生きる気がない人しか入れない店 ―あやかし食堂・本日の献立は後悔―  作者: 妙原奇天


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6/12

第6話 「執着の代償は、遅れて届く」

その店に入れるのは、

死にたいと思ったことがある人間だけだ。


少なくとも、そういう人間にしか、

あの暖簾は見えない。


 


 昼の会議は、音だけが残った。


 上司の声、隣の席の咳払い、椅子の脚が床を擦る音。言葉はちゃんと日本語のはずなのに、意味が薄い。意味の部分だけが抜け落ちて、耳に届くのは振動だけみたいだった。


 俺はノートにペンを走らせた。走らせている動きが、自分がそこにいる証拠になる。証拠がないと、透明になりそうだった。透明になったら、誰にも迷惑をかけない。迷惑をかけないのは楽だ。楽なのに、楽だと思うことが怖い。


「真白、これお願いできる?」


 同僚が紙を差し出した。紙の端が少し曲がっている。曲がっている端が、指先に引っかかる。引っかかる感覚だけがやけに鮮明だ。


「うん」


 俺は返事をした。返事の声が、少し遅れて自分の耳に入る。自分の声なのに、他人の声みたいに聞こえる瞬間がある。そういう瞬間が増えている。


 紙の内容に目を通す。文章は読める。読めるのに、何を書けばいいのかが分からない。分からないから、書くべき形だけを先に作る。形式。形式は便利だ。形式に当てはめれば、何も考えなくていい。考えなくていいと、頭の中が白くなる。


 白くなる。


 白くなると、あの飯の白さが浮かぶ。味が来ない白さ。白い器。影の薄い白。あれが胃に貼り付く、と店主は言った。貼り付く、という言葉の感触だけが残っている。


 会話が途切れた瞬間、俺の頭の中も途切れた。途切れた拍子に、ふっと思ってしまった。


 自分の人生、誰のものだっけ。


 思った瞬間、息が止まった。止まった息が胸に溜まって、喉へ上がってくる。上がってくる息を、無理に飲み込んで、俺は画面に視線を戻した。


 そんなことを考えるな。考えると、どこにも行けなくなる。行けないなら、今日をやり過ごせ。今日をやり過ごせば、明日が来る。明日が来たら、また今日をやり過ごす。


 やり過ごす、という言葉が、油みたいに心に広がる。べたつく。べたつきが嫌で、俺は手を洗いに行った。水は冷たい。冷たいと、現実が戻る。現実は冷たい方がいい。熱いと、何かが溶け出して混ざる気がする。


 手を拭きながら袖口を嗅いだ。


 匂いは、まだいる。


 怒りの汁物の匂いは薄くなった。でも消えない。消えない匂いが、俺の生活の端に小さく刺さっている。刺さっているのに、誰にも見えない。見えない刺は、自分の内側だけをじわじわ削る。


 夜になって、駅前の明かりを抜けて路地へ向かった。向かう足が自分のものじゃないみたいだった。止めればいい。止められる。止められるのに、止める理由がない。理由がないから、止まらない。


 暖簾が見えた。


 見えた時点で、もう遅い気がした。


 


 路地は濡れていた。昼間に降った雨の名残り。薄い水たまりが街灯を反射している。反射はきれいなのに、きれいだからこそ嘘みたいだ。嘘みたいなものは、触ると冷たい。冷たさが皮膚から入って、背中へ回る。


 暖簾の文字が、前回と違った。


 違うのは分かるのに、読もうとすると喉が詰まる。詰まる感覚が先に来て、声が出なくなる。声を出そうとしてないのに、喉が拒否する。拒否されると、身体がここで線を引いているのが分かる。


 俺は一歩踏み出して、息を吐いた。吐いた息が白くならない。白くならない息を見て、また頭の中が白くなる。白くなると、暖簾の文字が少しだけ近づく。


 本日のおすすめ:執着。


 読めた瞬間、胃の奥がひやっとした。寒さじゃない。冷や汗の冷えだ。俺は口の中が乾くのを感じた。乾きはいつもある。でも今日は、乾きが濃い。


 執着。


 第二話の客が食べた料理。名前が出てこなくなった、と笑っていた男。軽口で店に入り、映えるだのなんだの言っていた男。あの男の笑顔が、ふっと脳裏に浮かんだ。


 俺は暖簾をくぐった。


 


 店主は包丁を研いでいた。研ぐ音が一定だ。一定の音は心を落ち着かせる。落ち着くと、怖さが見える。見える怖さは、言い訳ができない。


「来たか」


 店主が言った。視線は俺の顔じゃない。喉のあたりを一瞬だけ見た。乾きが見えるのかと思って、俺は唾を飲み込んだ。唾が足りない。舌がざらつく。


「今日、文字が」


 俺は言いかけて、やめた。やめた瞬間、店主が言った。


「執着だろ」


 俺は頷いた。頷くと首が痛い。痛いのは重さを運んだせいかもしれない。重さの痛みがあると、まだ助かる。助かると思う自分が、また嫌になる。


「嫌な予感がする」


 俺が言うと、店主は包丁を置いた。


「予感があるなら、逃げろ」


「逃げられるなら来てない」


 俺の口から出た言葉に、自分で少し驚いた。店主の言い方を真似している。真似したくて真似したわけじゃないのに、口が勝手に覚えている。


 店主が目を上げた。目の動きが止まる。止まる視線が俺に刺さる。


「取り込まれてるな」


 俺は返事をしなかった。しなかったというより、できなかった。喉が詰まる。詰まる喉に、暖簾の文字が貼り付く。


 暖簾が揺れた。


 


「こんばんはー」


 軽い声。軽いのに、少し遅れて入ってきたみたいに聞こえた。俺は振り返った。


 男だった。第二話の客。会社員風の服装。髪は整っている。靴もきれい。手は震えていない。代わりに、笑顔が固い。固い笑顔は、貼り付けた笑顔だ。貼り付けた笑顔は剥がすと痛い。


「お、皿係じゃん」


 男が俺を見て言った。あだ名で呼ばれると、ここが現実に侵食している気がする。現実の人間関係がこの店に混ざると、戻らない。


「……また来たんだ」


 俺が言うと、男は笑った。笑ったのに目が笑っていない。目が乾いている。乾いている目は、焦点が定まっているのに落ち着かない。


「うん。成功したからさ」


 成功。男は前も同じ言葉を使った。名前が出てこなくなったのを、成功だと言った。成功という言葉が、喉の奥に刺さる。刺さるのは嫉妬かと思ったが、違った。嫌悪に近い。嫌悪もまた、温度がある。


「名前、相変わらず出ないんだよね」


 男は楽しげに言った。楽しげに言いながら、指先でスマホをいじる。画面の光が男の頬に当たる。頬の筋肉が少しだけ引きつっている。


「でもさ、困ってる」


 困ってる、という言葉が出た瞬間、男の笑顔が一段硬くなった。硬くなっても笑顔の形を保っている。形だけを保つのが上手い。


「何が」


 店主が言った。声は淡々としている。淡々としているから、男の声の軽さが浮く。


「連絡先」


 男が言った。


「連絡先ってさ、名前で覚えるじゃん。名前が出ないとさ、全部同じに見えるんだよね」


 同じに見える。男の言い方は軽い。でも目が落ち着かない。落ち着かない目が、画面の中の文字を追っている。追っているのに、追えない。


「ほら」


 男はスマホを俺に見せた。画面には連絡先の一覧が並んでいる。並んでいるはずなのに、俺の目にはただの記号の列に見えた。見えたのは名前じゃない。名前の形をしたラベルだ。ラベルが意味を失うと、ただの文字になる。


「これ、全部、誰だっけってなる」


 男は笑った。笑った瞬間、喉が鳴った。鳴った喉は乾いている。乾きは嘘をつかない。


「仕事でさ、誰に連絡したらいいのか分かんなくなる。名前が出ないって、便利なはずだったんだけどね」


「便利」


 店主が繰り返した。繰り返し方が、男を責めているみたいに聞こえる。責めているのに、感情はない。感情がない責めは逃げ場がない。


「便利だよ」


 男は言い張った。言い張るとき、声が少し上ずる。上ずった声が、店の天井に当たって落ちてくる。


「だって、忘れたい相手だったし。名前が出ないのは最高。最高なんだよ。最高なんだけど……」


 男はそこで止まった。止まった瞬間、俺は男の指先が少し震えたのを見た。震えは一瞬だった。すぐに握り込む。握り込むと震えが見えなくなる。


「思い出もさ」


 男が続けた。


「思い出って、名前で整理するじゃん。あの人と行った場所、とか。あの人にもらったもの、とか。名前がないと、全部、ただの出来事になる」


 ただの出来事。


 その言葉が、俺の胸の薄いところに落ちた。落ちて、沈む。沈むと、白くなる。白くなると、空白飯の白が浮かぶ。


「ただの出来事になったら、楽になると思ったんだよね」


 男は笑って言った。笑いが短い。短い笑いは、息が続かない笑いだ。


「でもさ、楽にならない。なんか、怒りだけ残る。なんでだろ。名前がないのにさ」


 怒りだけ残る。俺は男の言葉を聞きながら、袖口の匂いを思い出した。怒りの汁物の匂い。怒りは匂いになる。匂いは残る。残ると、現実に滲む。


 男の怒りは、どこに滲んでいるんだろう。


「名前が消えたなら」


 店主が言った。


「執着が形を変えただけだ」


 男の笑顔が揺れた。揺れたのに、笑顔を保とうとする。保とうとするほど、頬が引きつる。


「形を変えるって、どういう」


「執着は、欲しいじゃない」


 店主は淡々と言った。


「離せないだ」


 離せない。言い切りが短い。短い言い切りは刃になる。刃が男の胸に刺さるのが、見えなくても分かった。男の喉が一度だけ動いた。唾を飲み込んだ。飲み込んでも、乾きは消えない。


「離せないって、だって、もう離したじゃん。名前が出ないんだよ?」


 男は苛立ったように言った。苛立ちの言葉が軽い。軽い苛立ちは、余計に怖い。


「離したつもりになっただけだ」


 店主は言った。


 男は笑った。笑いが出た。出た笑いが、泣き笑いに近い音だった。泣き笑いなのに涙は出ない。涙が出ない泣き笑いは、喉の奥を痛める。


「じゃあ、どうしたらいいんだよ。戻してよ。名前、戻して」


 男が言った。頼み方が軽口に似ている。似ているのに、声の底が硬い。硬い底は本音だ。


 俺は口を挟みたくなった。挟みたくなる。挟みたくなるのは正義感じゃない。自分が楽になりたいだけだ。楽になりたいから、誰かを救う言葉が欲しい。言葉が欲しいと、言葉で救えると思ってしまう。


「店主」


 俺は言いかけた。


 店主が俺を見ずに言った。


「口を挟むなら皿を洗え」


 ぴしゃり、と言われたわけじゃない。声の音量は同じ。言葉が短いだけだ。短い言葉は、逃げ道を奪う。


「お前は医者じゃない」


 店主が続けた。医者じゃない。分かっている。分かっているのに、言われると胸が熱くなる。熱くなるのは恥だ。恥は怒りに変わりやすい。怒りに変わると、匂いになる。


 俺は何も言わずに立ち上がって、流しへ向かった。皿を手に取る。水を出す。水の音が現実の音だ。現実の音にしがみつくみたいに、俺は皿を洗った。


 背中の方で、男の声がした。


「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」


「食え」


 店主が言った。


「戻せない。代わりに焼く」


 焼く。執着焼き。男が前に食べた料理。名前が出ない料理。俺は皿を洗いながら、背中に冷えが走るのを感じた。冷えは水の冷たさじゃない。言葉の冷えだ。


 


 店主が鉄板を出した。鉄板の上に油を引く音。じゅっと音がする。音がするのに匂いが強くない。匂いが強くないのに、喉が乾く。乾きは先に来る。


「同じ?」


 男が言った。


「同じでも、焼き方が違う」


 店主の声は平坦だ。平坦な声が、台所の熱と合わない。合わないから、この店は異常に見える。


 店主は何かを鉄板に落とした。肉か、野菜か、分からない。見えたのは焦げ色だけだった。焦げ色が濃い。濃い焦げ色は苦い匂いを呼ぶ。苦い匂いが鼻の奥を刺す。刺すと、舌が乾く。


 俺は皿を洗いながら振り返った。見てはいけない気がして、見てしまう。


 店主が皿に盛りつけた。前より焦げが強い。焦げが強いと、口の中に残る。残るものは剥がれない。剥がれないものが執着に似ている。


「執着焼き」


 店主が言った。言い方は同じなのに、料理が違う。違うのに、名前は同じ。名前が同じだと、余計に怖い。名前はラベルだ。ラベルの中身が変わっても、ラベルは変わらない。


 男が箸を持った。箸の持ち方が少し乱れている。乱れているのは焦っているからだ。焦っているのに、笑顔を作ろうとする。作れない笑顔が頬に貼り付く。


「いただきます」


 男は言った。丁寧さが残っている。残っている丁寧さが、現実の癖だ。


 男が一口食べた。


 噛んだ瞬間、男の眉が少しだけ寄った。寄った眉は痛みの眉だ。痛みなのに、声を出さない。声を出さないのは我慢だ。我慢は執着だ。


「……苦」


 男は言いかけて、飲み込んだ。飲み込むと喉が動く。喉が動いたあと、男の目が一度だけ泳いだ。泳ぐ目は、逃げ場を探す目だ。


「戻らない?」


 男が店主を見て訊いた。問い方が幼い。幼い問い方は追い詰められた人の問い方だ。


「戻らない」


 店主は言った。


 男は二口目を食べた。二口目のあと、箸が止まった。止まった箸が、皿の上で微かに震える。震えが目に見える震えだ。見える震えは、隠せない。


「……わかる」


 男がぽつりと言った。


 声が小さくなった。小さくなった声が本音の形になる。


「俺が、何にしがみついてたか」


 男はそこで止まった。止まって、舌で口の中を確かめるみたいに、ゆっくり息を吐いた。吐いた息が短い。短い息は胸が詰まっている。


「相手じゃない」


 男が言った。


「相手に縋る、俺だ」


 言った瞬間、男の喉が一度だけ鳴った。鳴った喉は震えを飲み込んだ喉だ。涙は出ない。涙が出ないのに喉が震える。震えは、理解してしまった痛みだ。


 俺は皿を洗う手を止めそうになった。止めたら、男の言葉が俺の中に入ってくる。入ってくると混ざる。混ざると戻らない。


 だから俺は手を動かし続けた。スポンジが皿の表面を擦る。擦る音が一定だ。一定の音にしがみつく。しがみつくと、息が少しだけ戻る。


 男が三口目を食べた。三口目のあと、男は箸を置いた。置いた箸が、皿の縁に当たって小さな音を立てた。音が、やけに響いた。


「俺さ」


 男が言った。


「名前が出ないのに、番号は押せるんだよ。連絡できるんだよ」


 番号。数字。数字は意味を持たない形だ。形だけのものは空白に似ている。


「なのに、押さない。押したら、何かが戻る気がして。戻ったら、また縋る気がして」


 男は笑った。笑ったのに、口の端だけが上がる。目は笑ってない。目は乾いている。乾いている目が、少しだけ濡れたようにも見えた。濡れたのは光の反射かもしれない。反射でもいい。反射でも、濡れに見えたことが俺には重い。


「執着ってさ」


 男は言って、首を振った。


「相手に迷惑かけないようにって思ってるつもりだった。でも、迷惑かけないようにって思ってるのも、結局、俺がいい人でいたいだけだったんだな」


 いい人でいたい。俺の胸が少しだけ熱くなった。熱くなったのは刺されたからだ。刺されたのに、刺されたと言いたくない。言いたくないから、黙る。


 店主が言った。


「欠損は優しさじゃない」


 男は頷いた。頷きが遅い。遅い頷きは、受け入れるまで時間がかかる頷きだ。


「優しさじゃないよね」


 男は笑って言った。


「優しさなら、もっと楽だった」


 楽。楽という言葉が、俺の昼の空白と繋がる。繋がると、胃が冷える。冷える胃が、白くなる。


 男は立ち上がった。立ち上がるとき、膝が少しだけ震えた。震えは体が反応している証拠だ。証拠があるうちは、まだ生きている。


「ありがとう」


 男が言った。ありがとう、という言葉がここで出るのが怖い。ありがとうは救いの言葉だ。救いの言葉が、この店に似合わない。


 店主は言った。


「混ぜるな」


 男は一瞬だけ立ち止まって、それから笑った。笑い方が前より少しだけ弱い。弱い笑いは、強がりが剥がれた笑いだ。


「混ぜないよ。たぶん」


 男はそう言って暖簾をくぐった。暖簾が揺れる。揺れが短い。短い揺れのあと、店の中が静かになる。


 


 男が出ていって、俺は流しの前に立ったまま動けなくなった。水は出しっぱなしだった。出しっぱなしの水が指先を冷やす。冷やしてくれるのに、冷えが足りない。足りない冷えの代わりに、胸が熱い。


 店主が言った。


「皿、割るな」


 俺は手元を見た。皿を握る力が強くなっていた。強く握ると割れる。割れると現実の音がする。音がすると、また誰かが気づく。気づかれるのが怖い。怖いのに、気づかれたい自分がいる。矛盾が胸の中で擦れる。


「これで」


 俺は言った。声が掠れた。乾いている。


「これで、救ったつもりですか」


 言った瞬間、自分で嫌になった。救う。救ったつもり。正義の言葉だ。正義の言葉は気持ちがいい。気持ちがいい言葉は、楽になるための言葉だ。楽になりたいのは俺だ。


 店主は俺を見なかった。見ないまま、鍋の蓋を閉めた。蓋が当たる音が硬い。硬い音は返事みたいだった。


「救ってない」


 店主が言った。


 否定が短い。短い否定は逃げ道を作らない。


「救ったと思うのは」


 店主は続けた。


「お前が楽になりたいからだ」


 楽になりたい。言われた瞬間、喉の奥が詰まった。詰まると、言い返せない。言い返せないのは図星だからじゃない。図星だと認めたくないからだ。


 俺は皿を洗う手を動かした。動かさないと、言葉が胸に留まり続ける。留まり続けると、焦げの味みたいに剥がれない。


 水の中で指がふやけていく。皮膚が柔らかくなって、皺が増える。増えた皺の中に洗剤が入る。洗剤の匂いが鼻に上がる。生活の匂い。生活の匂いは、現実だ。現実に戻れる気がする。


 戻れる気がしただけだった。


 皿を拭く布巾が湿っている。湿っている布巾は、何かを吸い込んだ布巾だ。吸い込んだものが洗剤なのか、匂いなのか、言葉なのか分からない。分からないまま、俺は拭いた。


 店主は何も言わなかった。何も言わないのに、店の空気が俺を押す。押されると、息が浅くなる。浅い息で吸う空気が、執着という文字の形に見える。


 俺は口を閉じた。閉じた口の中が乾く。乾きが増す。乾きが増すと、舌がざらつく。ざらつく舌で、さっき男が言った言葉を思い出す。


 名前が出ないのに番号は押せる。押さない。戻ったら縋る気がする。


 縋る。縋る、という言葉が舌に引っかかる。引っかかると、俺は自分に問いかけたくなる。


 俺は何に縋っているんだろう。


 答えを出す場所じゃない。店主はそう言った。答えを出さない場所で、答えを探す。探す行為が縋りだ。縋りは執着だ。


 俺は布巾を絞った。水が落ちる。落ちる水が細い線になる。線が蛇口の下で揺れる。揺れる線が、暖簾の揺れに見えた。


 暖簾が、今、誰も触っていないのに微かに揺れた気がした。


 俺は見ないふりをした。見たら、混ざる。混ざると戻らない。


 


 店を出た。路地の空気は冷たい。冷たいのに、胸の熱が引かない。引かない熱が、皮膚の内側をざわつかせる。


 街に出ると、現実の匂いがした。コンビニの揚げ物。排気ガス。誰かの香水。現実は混ざっている。混ざっているのに、みんな平気な顔をして歩いている。平気な顔ができるのが、普通の人だ。普通の人の普通が、俺には遠い。


 駅へ向かう途中、背後から声がかかった。


「真白くん?」


 会社の同僚の声だった。夜勤の帰りか、飲み会の帰りか。分からない。分からないのに、声は知っている声だ。知っている声が、現実へ引き戻す。


 俺は振り返った。相手の顔が見えた。見えた瞬間、返事をするための言葉を探した。


「おつかれ」


 言おうとして、口が開いた。


 音が出なかった。


 出そうとして、舌が動く。動くのに、単語が出ない。単語の形だけが喉の奥で滑る。滑って、落ちない。落ちない言葉が、喉を塞ぐ。


「……」


 俺は息を吐いた。吐いた息が短い。短い息のまま、もう一度言おうとする。


「……あれ」


 やっと出たのは、そんな声だった。自分の声が自分の耳に入って、ぞっとした。ぞっとするのは寒さじゃない。欠けた感覚への恐さだ。


 同僚は首を傾げた。


「大丈夫? 疲れてる?」


 心配の言葉が、今日は刺さらなかった。刺さらなかった代わりに、口の中が乾いた。乾いた口で、俺はなんとか笑おうとした。笑う練習。昼にしていた練習。


 笑いの形だけが、頬に乗った。


 その瞬間、俺は自分の口が怖くなった。言葉が抜ける。名前じゃない。普通の言葉が抜ける。


 店の欠損が、遅れて届く。


 そう思った瞬間、袖口の匂いがまた濃くなった気がした。

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