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生きる気がない人しか入れない店 ―あやかし食堂・本日の献立は後悔―  作者: 妙原奇天


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第5話 「皿係から給仕へ」

その店に入れるのは、

死にたいと思ったことがある人間だけだ。


少なくとも、そういう人間にしか、

あの暖簾は見えない。


 


 米袋は、思っていたより重かった。


 袋の角が肩に食い込む。腕の内側が張る。息がすぐに上がる。駅前の明かりは明るいのに、路地へ入ると急に暗い。暗さが体に貼り付いて、重さを増す気がした。


 俺は歩きながら、何度も袋の位置をずらした。ずらすたびに肩が痛い。痛いのは嫌いじゃない。嫌いじゃないという言い方も変だ。痛みは現実だからだ。現実は痛い。痛いなら、今ここにいる。


 路地の奥の暖色が見える。見えた瞬間、息がさらに浅くなる。浅くなるのは恐さじゃない、と自分に言い聞かせた。恐いと言うと、理由ができる。理由ができると、帰れる。帰れると、明日が来る。明日が来るのが怖いから、俺はここへ来ている。


 暖簾をくぐる。店の匂いが鼻に入る。今日は汁物の匂いじゃない。米の匂いでもない。洗剤の匂いと、鉄の匂いと、少し焦げた匂い。台所の匂いだ。


「遅い」


 店主が言った。短い。俺の足音が止まったのと同時に言われた気がした。


「重いんだよ」


 俺は言い返した。言い返すと、息が漏れる。漏れた息が店の空気に混ざる。混ざると戻らない、と昨日言われたのを思い出して、口を閉じた。


 店主は俺の肩の米袋を見た。見ただけで、すぐに目を戻す。目を戻して、包丁を動かす。


「置いとけ」


 俺は少し笑いそうになった。運んだ。息を切らした。肩が痛い。痛いのに、置いとけで終わる。終わるのがこの店らしい。


 俺は米袋を床に下ろした。床に置くと、重さが手から離れる。離れた重さが少しだけ惜しい。惜しいと思う自分が嫌だ。嫌だと思うのに、足先が軽くなる。軽くなると、空白が戻ってくる。


 店主は俺に何も言わない。褒めない。労わらない。気にも留めないふりをする。ふりをするのが上手い。上手いと、優しさの入り口がない。


 俺は袖口を嗅いだ。匂いがまだいる。怒りの汁物の匂い。薄くなった気もする。でも消えていない。消えていないことが、ここへ来た理由を否定する。


「消えない」


 俺が言うと、店主はまな板の上で野菜を切りながら言った。


「消す場所じゃない」


 また言われた。言われるたびに、俺の逃げ道が細くなる。細くなる逃げ道に安心する自分がいる。


 暖簾が揺れた。


 


 客が入ってきた。


 若い女性。二十代くらい。髪はきれいに整っているのに、前髪だけ少し乱れている。コートの袖口が濡れている。雨じゃない。手を洗ったあと、拭かずに出てきたみたいな濡れ方だ。


「こんばんは」


 女性は丁寧に言った。声の高さは普通。普通なのに、言葉の間が少しだけ空く。空く間が、言葉を探している間に見えた。


 店主が言った。


「食うか」


「……はい」


 女性は席に座った。座ったとき、膝が少しだけ内側に入る。足の置き場が決まらない。決まらない足は、心も決まってない足だ。


「何が食いたい」


 店主が訊く。


 女性は口を開いて、閉じた。閉じた口の端が少しだけ引きつる。引きつるのは困っているからだ。困っているのに、困っていると言わない。


「わかりません」


 女性が言った。声が小さくなる。小さくなると、店内の包丁の音が大きく聞こえる。


「……何を食べたいか、わからないんです」


 店主が黙る。黙ると、こちらが自分で続きを言いたくなる。言いたくなる沈黙は、責める沈黙じゃない。待つ沈黙でもない。ただ、置いていく沈黙だ。


 女性は視線を落とした。落とした視線の先で、指先が膝の上で絡む。絡んだ指がほどけない。ほどけない指は、何かを掴んでいる。掴んでいるものが見えない。


 俺は黙って皿を拭いていた。皿は乾いている。乾いている皿を拭く手が滑る。滑ると、手の力が抜ける。抜けると、思考が入り込む。入り込んだ思考が、女性の言葉に触る。


 わからない。


 俺もよくわからない。何が嫌なのか。何が欲しいのか。何をすれば戻るのか。戻るって何なのか。わからないまま、ここへ来ている。


 店主が俺を見た。見たのは顔じゃない。手だ。皿を拭く手。俺の指先が止まるのを待っているみたいな目だった。


「おい」


 店主が言った。


「聞け」


「俺が?」


「お前が」


 俺は皿を置いた。置くと、手の中の動きが止まる。止まると、心拍が聞こえる。聞こえる心拍がうるさい。


 俺は女性のほうへ向き直った。向き直ると、視線が合う。合った視線に温度がないわけじゃない。むしろ熱がある。でも熱がまとまっていない。まとまっていない熱は、どこにも向かえない。


「えっと」


 俺は言って、口の中が乾いた。乾いた口で丁寧な言葉を探すと、すぐに嘘になる気がした。嘘になるのが怖い。怖いと決めたくない。決めたくないまま、俺は訊いた。


「今」


 言葉が止まる。止まると、女性の目が少しだけ揺れる。揺れが期待なのか警戒なのか分からない。


「今、いちばん嫌な気持ちは?」


 俺はそう聞いてしまった。


 聞いてしまった瞬間、自分の言い方が下手だと思った。嫌な気持ち。雑だ。雑なのに、雑だから刺さる。刺さったのが分かったのか、女性は瞬きを一度だけ大きくした。


 女性は口を開こうとして、閉じた。閉じた口の中で、舌が動くのが見えた気がした。言葉を出す前に、飲み込んでいる。


「……わかりません」


 女性が言った。さっきと同じ言葉なのに、声が少しだけ掠れている。掠れは喉の奥の震えだ。震えは感情の形だ。


「わかりませんけど」


 女性の指先が、膝の上で一度ほどけた。ほどけた指が、今度は自分の手首を握る。握る手が少し白い。


「……きっと、私」


 女性はそこで止まった。止まって、唾を飲み込む。喉が動く。喉が動いたあと、息が短く漏れる。


「希望って言われるのが、嫌なんだと思います」


 希望。言葉が出た瞬間、店の空気が少しだけ硬くなった。硬くなるのは俺の背筋だ。背筋が冷える。冷えるのに、目が離せない。


 女性は続けた。


「何がしたいの、って聞かれるのも」


 言葉の端が揺れる。揺れるのに、泣かない。泣かない代わりに、肩が少しだけ上がる。上がる肩は息を止める肩だ。


「わかんないって言うと」


 女性は笑おうとして、笑えなかった。笑えない口元が、少しだけ歪む。


「怒られるんです。怒られないように、答えを用意しなきゃいけない。でも、用意した答えは、私のじゃない」


 俺は何も言えなかった。言えないまま、喉が詰まる。詰まるのは共鳴だ。共鳴を優しさにしないほうがいい。この店では、優しさは混ざる。


 店主が背後で言った。


「薄くしろ」


 誰に言ったのか、最初分からなかった。次に、俺じゃなく店主自身に言っているのが分かった。鍋の中に何かを足す音。水だ。水の音がする。


 店主が器を出した。煮込みの匂いが立つ。でも強くない。強くないのに、鼻が反応する。反応する匂いは、胃を刺激する匂いだ。刺激は生きている合図だ。


「後悔煮込み」


 店主が言った。


 煮込み、という言葉が重いはずなのに、匂いが薄い。薄い煮込み。薄いという矛盾が、この店のやり方だと分かってきて、俺は少しだけ気持ちが悪くなった。


 女性が器を見た。湯気が細い。細い湯気が、消えそうで消えない。消えそうで消えないものほど、しつこい。


 女性は匙を持った。手の動きが少しだけ遅い。遅いのは迷っているからだ。迷っているのに、口へ運ぶ。運ぶと決めている。決められるものがあるうちは、まだ空白じゃない。


 女性が一口食べた。


 目が一度だけ瞬いた。瞬きが長い。長い瞬きは、味を待つ瞬きだ。待って、来たのか来てないのか分からない顔をする。


「薄い」


 女性が言った。文句じゃない。事実の確認。


 店主が言った。


「薄いのが効く」


「薬みたい」


 女性がぽつりと言った。


 店主は否定しない。肯定もしない。器を置く音だけが返事みたいに響く。


 女性は二口目を食べた。二口目のあと、肩が少しだけ落ちた。落ちた肩が、泣いた肩じゃない。力を抜いただけの肩だ。抜けた力の分だけ、息が入る。


 女性の指先が、膝の上でゆっくりほどけた。ほどけた指が、今度は器の縁に触れる。触れる指が、少し温かい。温かさは体温だ。体温が戻るのが、俺には怖かった。怖いのに、同時に羨ましい。


「……効くんだ」


 俺は思わず言った。声に出た。出た声が、自分の耳に当たって、少し遅れて意味になる。


 薄味でも効く。強く殴らなくても、人は揺れる。揺れるのは、心じゃなく体だ。体が揺れると、言葉が遅れてついてくる。


 女性は最後まで食べた。泣かない。笑わない。けれど、帰り際の頭の下げ方が少しだけ軽い。軽いのに、背中はまだ細い。細い背中が、無理をやめた背中じゃなく、無理の仕方を変えただけの背中に見えた。


「ありがとうございました」


 女性が言った。


 店主は言った。


「混ぜるな」


 女性は一瞬だけ足を止めた。止めたけれど、振り返らない。振り返らずに暖簾をくぐる。暖簾が揺れる。揺れが、今夜は少しだけ長い。


 


 客が出て、店内が静かになった。静かになっても包丁の音がある。包丁の音はいつも通りだ。いつも通りの音が、今日は少しだけ遠く感じる。遠いと、俺の胸の薄い場所が近くなる。


 俺は器を洗いながら、さっきの言葉を反芻した。


 希望が嫌。答えを用意する。用意した答えは自分のじゃない。


 俺も、用意した答えで生きている。大丈夫。平気。問題ない。そう言えば終わる。終わるから言う。言うと、俺の中の何かが薄くなる。薄くなると、空白が増える。増えた空白に、匂いが入り込む。


 俺は洗い終えた器を伏せて、ふっと口を開いた。


「今日の献立」


 言葉が自然に出た。出た瞬間、背筋が冷えた。冷えると、手のひらが汗ばむ。汗ばむ手が布巾を握り直す。


「後悔でよかったんですか」


 言い終えたあと、店内の空気が止まった。止まったのは包丁の音だ。店主の手が止まった。


 店主がゆっくり目を上げた。


 視線が俺の顔に刺さる。刺さる視線は温度がないわけじゃない。温度があるのに、熱じゃない。熱じゃない温度は怖い。


「お前」


 店主が言った。


「店の言葉を使ったな」


 俺は息を吸った。吸った空気が喉で詰まる。詰まると、言葉が出ない。出ないのに、心臓が早い。早い心臓が、体の内側でうるさい。


「……たまたま」


 俺は言った。たまたま、と言うと逃げられる気がした。逃げたいのに、逃げられないのが分かっている。


 店主は短く言った。


「取り込まれる」


 取り込まれる。その言葉は説明じゃない。予告だ。予告は現実になる。現実になると、匂いみたいに戻らない。


 暖簾が、誰も触っていないのに揺れた。


 俺はその揺れを見ながら、今夜の自分の口の中に残っている言葉の味を確かめた。薄い。薄いのに、剥がれない。

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