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生きる気がない人しか入れない店 ―あやかし食堂・本日の献立は後悔―  作者: 妙原奇天


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第4話 「空白飯(プロトタイプ)」

その店に入れるのは、

死にたいと思ったことがある人間だけだ。


少なくとも、そういう人間にしか、

あの暖簾は見えない。


 


 昼のミスは、派手じゃなかった。


 派手じゃないから、余計に痛い。会議で資料を投影したとき、ページが一枚ずれていた。数字の列が、別の月のものになっていた。誰かが気づいて、指摘して、俺はその場で謝った。


「ごめんなさい。差し替えます」


 声はちゃんと出た。頭もちゃんと動いた。キーボードを叩いて、ファイルを開いて、正しいページに戻した。戻したあと、会議は何事もなかったみたいに進んだ。


 進んだのに、俺の中だけが一拍遅れて止まった。


 止まった拍が、体の内側に残る。残ったまま、また動く。動くときに、どこが動いているのか分からない。身体は動く。口も動く。謝る。頷く。メモを取る。全部ができる。できるのに、感覚が追いつかない。


 休憩時間、同僚が近づいてきた。


「大丈夫? 最近、ちょっと疲れてない?」


 心配の言葉は柔らかい。柔らかいのに、耳に入ると硬い。硬いのは言葉じゃなくて、俺の内側だ。


「大丈夫」


 俺は反射で答えた。大丈夫と言うことが、社会に混ざるための合図になっている。合図を出すと、相手は引く。引いてくれる。引いてくれると助かる。


 助かるのに、胸の奥が薄いまま残る。薄い場所が、心配されることを重く感じている。重いのは、ありがたさじゃない。責任だ。心配を受け取ったら、返さなきゃいけない。返せる自信がないと、受け取るのが怖い。


 昼休みの食堂の匂いが、今日はやけに濃かった。揚げ物、味噌汁、消毒液、誰かの香水。混ざった匂いが喉の奥に貼り付く。貼り付くと、息が浅くなる。


 昨日の汁物の匂いも、そこに混ざっている気がした。


 夕方、会社のトイレで手を洗った。石鹸の匂い。水の冷たさ。手のひらの感覚が戻る。戻った感覚で、袖口を嗅いだ。


 まだ残っている。


 気のせいだと思った。気のせいだと思っても、鼻の奥が熱くなる。熱くなるのは気のせいじゃない。身体は嘘をつかない顔をする。嘘をつかない顔のまま、俺を追い詰める。


 帰宅して、風呂に入った。熱い湯で体を温める。シャンプーを洗い流す。石鹸で腕をこする。何度もこする。肌が少し赤くなる。赤くなると、現実の痛みになる。現実の痛みは、理由が分かるから怖くない。


 タオルで拭いて、また袖口を嗅いだ。


 匂いがいる。


 いる、という言い方が一番近い。残っているじゃなく、いる。布の繊維の間に、湯気の匂いが居座っている。匂いの中に、あの女性の喉の震えが混ざっている気がする。混ざっていると思った瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。


 逃げ場がない。


 匂いを消すために、俺は外に出た。夜の空気に晒せば飛ぶ。そう思って、駅前まで歩いた。コンビニの前の明かり。車の音。誰かの笑い声。現実の音がうるさいほど、匂いが薄くなる気がした。


 気がしただけだった。


 路地へ向かう足を止められなかった。止める理由がない。止める気力もない。消すために、あそこへ行く。矛盾しているのに、その矛盾が今日は正しい気がした。


 暖簾が見えた。


 俺は暖簾をくぐった。


 


「消しに来た顔だな」


 店主が言った。俺の顔を見る前に、俺の袖を見る。視線がそこに落ちる。落ちた視線が、すぐに逸れる。逸れるのに、言葉だけが刺す。


「匂いが」


 俺は言った。言うと喉が乾く。乾きは店の中で強くなる。強くなる乾きが、ここに来た理由を正直にする。


「風呂入っても落ちない気がして」


 店主は包丁を動かしながら言った。


「消す場所じゃない」


「でも、現実に残って」


「残る」


 短い言い切り。否定じゃない。肯定でもない。ただ置いた。置かれた言葉が、俺の胸の薄い場所に沈む。


「だったら、どうすればいい」


 俺は訊いた。訊いてから、しまったと思う。答えを出す場所じゃない、と言われたのを思い出したからだ。


 店主は俺を見ないまま言った。


「混ぜるな」


 またその言葉。混ぜるな。昨日のキーホルダー。今日の匂い。混ざったのは俺のほうだ。


「混ぜないために来た」


 俺が言うと、店主は包丁を止めた。止めた指先が一瞬だけ震えたように見えた。震えたのは俺の目かもしれない。分からない。分からないまま、刃がまな板に置かれる。


「混ぜないために来たなら」


 店主が言う。


「もう遅い」


 遅い、と言われた瞬間、背中が冷えた。冷えは怖さだと決めたくない。決めたくないのに、指先が冷える。冷える指先が、カウンターの縁を掴む。


 暖簾が揺れた。


 


 客が入ってきた。


 若い男だった。二十代前半くらい。コートはきちんとしている。髪も整っている。靴も汚れていない。礼儀正しい人の外側だ。外側は丁寧なのに、目が乾いている。


 目が乾いている、というのは涙がないという意味じゃない。視線に温度がない。焦点が合っているのに、何も見ていないみたいな目だ。


「こんばんは」


 男は丁寧に頭を下げた。丁寧さが過不足ない。過不足ない丁寧さは、感情が入る余地がない。


「食うか」


 店主が言った。


「はい」


 男は迷いなく座った。座る動きも滑らかだ。滑らかすぎて、何かが抜け落ちているように見える。


「何か、おすすめを」


 男が言う。


 おすすめ、という言葉がこの店で浮く。浮くのに、男はそれを言う。言葉の選び方が現実のままだ。現実の言葉がここへ入ってきて、店の空気が少しだけ軋んだ。


「困ってるか」


 店主が訊く。


「困ってません」


 男はすぐに答えた。


「何も感じないだけです」


 何も感じない。言い方が淡々としている。淡々としているから、重い。重いのに、男の声は軽い。音の軽さが、内容の重さを逆に目立たせる。


「何も感じないのに、ここに来たのか」


 俺が口を出した。口を出した瞬間、喉が乾く。乾いた喉で言葉を出すと、声が掠れる。掠れた声が自分のものじゃないみたいに聞こえる。


 男は俺のほうを見た。視線がちゃんと合う。合うのに、温度がない。温度がない目に見られると、こちらの体温が奪われる気がする。


「来てもいいと聞いたので」


 男が言った。


「死にたいと思ったことがある人間だけが入れると」


 店主が何も言わない。否定もしない。肯定もしない。その沈黙が、この店の答えだ。


「僕は」


 男が言った。


「死にたいと思ったことがあります。でも、困ってません」


 困ってない、と言い切る口元が少しだけ硬い。硬い口元は、言い切ることで自分を支えるときの形だ。支えているのに、支える棒が細い。


「何を食う」


 店主が訊く。


「何でも」


 男は言った。何でも、という言い方も丁寧だ。丁寧な何でもは、受け身の形をしている。選ばない。選べない。選ぶ理由がない。


 店主が米を出した。


 白い飯。湯気がほとんど立っていない。炊きたての匂いがしない。匂いがしないから、逆に鼻が探す。探すほど、何も来ない。


 来ないのに、白さだけがある。


 器も白い。陶器の白。光を跳ね返す白。白いものが重なると、影が薄くなる。影が薄くなると、輪郭が曖昧になる。


「空白飯」


 店主が言った。


 名前が妙に素直だ。素直すぎて、背中が冷える。冷えるのに、目が離せない。


「味がしないんですか」


 男が訊いた。


 店主が首を振る。


「味が来ない」


 来ない。俺はその言い方が嫌だった。嫌なのに、嫌だと言う言葉が出ない。言葉が出ないと、喉が乾く。


 男が箸を持った。箸の持ち方もきれいだ。きれいな箸の持ち方で、白い飯を口に運ぶ。運ぶ動きが丁寧すぎて、儀式みたいに見える。


 男は口を閉じた。咀嚼する。咀嚼の動きが少ない。少ないのに、ちゃんと噛んでいる。噛んでいるのに、顔が動かない。


 男は飲み込んだ。


「……何も変わらない」


 男が言った。声の調子が同じ。上がらない。下がらない。心拍の変化がない声。


 店主が言った。


「変わらないのが、それだ」


 男はもう一口食べた。二口目も、同じ顔。同じ速度。同じ咀嚼。同じ飲み込み。


「これでいいです」


 男が言う。


「何も、困ってないので」


 困ってない、という言葉が繰り返されるたびに、俺の胃の奥が痛んだ。痛むのは怒りじゃない。恐さだ。恐いと決めたくないのに、身体が先に決める。


 白い飯を食べて、何も変わらない。それを良いと言う。良いと言い切れる。言い切れるだけの空白がある。


 店主が言った。


「空白は、胃に貼り付く」


 貼り付く。想像すると胃が重くなる。重くなると、息が浅くなる。浅い息で吸う空気が、白い飯の白さに染まる気がする。


「貼り付いたら、どうなる」


 俺が訊いた。訊いてしまった。訊いた瞬間に、答えが怖くなる。怖くなると、指先が冷える。冷えた指先がカウンターの縁をなぞる。


「剥がれない」


 店主が言った。


 剥がれない、と言い切られたとき、男は少しだけ頷いた。頷きが静かだ。静かな頷きは同意に見える。同意が、俺には理解できない。


「それ、地獄じゃないですか」


 俺は口にした。口にした瞬間、喉が詰まる。詰まるのは言葉の重さだ。重さに耐えられなくて、声が少し掠れる。


 店主が俺を見た。初めて、真正面から見られた気がした。見られると、逃げ場がなくなる。逃げ場がなくなると、胸の薄い場所が熱くなる。


「地獄は」


 店主が言った。


「意味がある苦しみだ」


 言い方は淡々としている。淡々としているから、名言になりきらない。なりきらない分、刺さる。


「空白は意味がない」


 意味がない。意味がないと言われると、言葉が落ちる場所がない。落ちる場所がない言葉は、宙に浮いて、そのまま喉に戻ってくる。戻ってきた言葉が詰まる。


 俺は何も言えなくなった。


 男は白い飯を最後まで食べた。食べ終わっても、顔が変わらない。変わらない顔で、きちんと頭を下げた。


「ありがとうございました」


 店主は返事をしない。男はそれでも礼を言って立ち上がる。立ち上がる動きに迷いがない。迷いがないのに、足音が軽い。軽い足音は、地面に根がない音だ。


 男が暖簾をくぐる直前、店主が言った。


「戻るな」


 男は立ち止まらなかった。立ち止まらないまま、外へ消えた。消える背中が薄い。薄い背中が、現実へ溶ける。


 店内に湯気がない。今日は湯気が少ない。湯気が少ないのに、喉が乾く。乾くのは匂いのせいじゃない。白い飯の白さのせいだ。白いものは音も匂いも吸う。吸ったあとに何も返さない。


 店主が言った。


「怖くなったか」


 俺は頷けなかった。頷くと、自分の中の何かが決定する気がした。決定すると、逃げ道がなくなる。逃げ道がないのは、この店の中だけで十分だ。


「……あの人」


 俺は言いかけて、言葉を変えた。


「何も困ってないって言ってた」


「言う」


 店主が言った。


「困ってないって言えるうちは、まだ混ざってない」


 混ざってない。混ざる、という言葉がここでまた出る。俺は袖口の匂いを思い出した。怒りの汁物の匂い。現実に滲んだ匂い。


「混ざったら」


 俺が訊く。


「何が起きる」


 店主は少しだけ間を置いた。間が長くない。長くないのに、俺の胃が勝手に縮む。縮む胃が答えを待っている。


「おまえみたいになる」


 店主が言った。


 俺は息を止めた。止めた息が胸に溜まって、喉に上がってくる。上がってくると、咳をしそうになる。咳をすると弱く見える。弱いのは事実なのに、弱いと見せるのが嫌だ。嫌だという自尊心だけがまだ残っている。


 店主は棚から米袋を出した。ずし、と小さな音。袋の角が硬い。紙の擦れる音。現実の音。


 店主が米袋をカウンターに置いた。


「明日から運べ」


 俺は米袋を見た。袋の白が、さっきの飯の白に似ている。似ているから、胃がまた痛む。


「なんで俺が」


 俺は言った。言い方が強い。強く言うと、反論できる人みたいに見える。見えるだけでいい。中身は追いついてない。


 店主が言った。


「お前、空白の匂いがする」


 匂い。俺は袖口を無意識に引っ張った。風呂に入っても落ちなかった匂い。消したくて来た匂い。消えるはずのない匂い。


「ふざけんな」


 声が少し震えた。震えが怒りの形を借りている。借りているだけで、俺の怒りの行き先はまだない。


 店主は米袋を押しやらない。押しやらないまま、短く言った。


「拒否できるなら、ここに来てない」


 言い返そうとして、言葉が見つからなかった。見つからないのは、正論だからじゃない。俺の中に、来てしまう理由があるからだ。理由を言語化したら、そこに名前がつく。名前がつくと、逃げられなくなる。


 俺は米袋に手を伸ばした。持つと重い。重いものは現実だ。現実の重さが、俺の指先に痛いほど入ってくる。


 店主が言った。


「明日、遅れるな」


 遅れるな。仕事みたいな命令。仕事みたいな命令が、この店の中で出ると、現実と混ざる。混ざると戻らない。


 俺は米袋を抱えたまま、暖簾を見た。


 暖簾が揺れている。揺れ方が、外の風じゃない。誰かがくぐった揺れに似ている。似ているのに、そこには誰もいない。


 白い飯の白さが、目の奥に残っている。


 それが、明日になっても残る気がした。

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